第14話 北の部屋
梅雨の晴れ間の土曜は、洗濯物と用事で出来ている。
律の用事は、煮物の配達だった。多めに作ったから、と渡された袋は今日も一人前の重さを遥かに超えていて、律はそれを提げて路地を歩いた。頭上の葉桜はもう立派な青葉で、浅い水たまりだけが昨日の雨の名残を留めている。
別館の庭では、光が打ち水をしていた。
手押しポンプの音が二度、三度。桶から柄杓で、土の乾いた場所へ順番に水を撒いていく。晴れ間の打ち水は手際がよくて、庭の土が縞模様に濃く染まっていった。塀の上を、三毛猫が一度だけ通る。光の頭の上を素通りして、本館の方角へ向かっていた。ご飯の時間なのだろう。
「こんにちは。お煮物でーす」
「え、お荷物じゃなくて?」
「そ。一さんから」
「ふふ。ありがと。……この重さ、四人前はあるね」
「一さんの『少し』やからな。もう諦めるしかないわ」
光は笑って袋を受け取ると、ふと思い出したように言った。
「あ、そうだ。ちょっと見てほしいものがあるんだけど」
通り土間から上がって、北側の廊下へ回る。昼の廊下は明るく、突き当たりの戸まで見通せた。開かずの間に近づくときでも、光の足取りはもう乱れなかった。
光が足を止めたのは、開かずの間の手前だった。
北側の、真ん中の、空き部屋の前。
廊下の板の上に、荷物がひとつ置いてあった。
古い革のトランクだった。角が丸く擦れていて、持ち手には飴色の艶がある。名札も伝票もなく、紐や鍵もかかっていない。ただ、戸の正面にまっすぐ置かれていた。
「今朝、廊下の雑巾がけをしようとしたら、あったんだ」
「管理会社から連絡は?」
「ないよ。電話したら、追って案内しますって。すごく普通の声だった」
すごく普通、という言葉に、律は小さく息を吐いた。前触れなく立つ札。妙に正確な家賃。拍子抜けするほど普通の、電話の声。この並びなら、去年の夏から何度も見てきた。
「……なに、その顔」
「うちに人が増える前は、だいたいこうなんよ」
「そうなんだ」
光は目を丸くして、トランクを見直した。
律はしゃがんで、トランクを眺めた。触りはしなかった。革の艶の奥深くに、廊下の窓の光が小さく映り込んでいる。長く使われて、長く仕舞われて、また出てきた鞄のように見えた。
鼻の奥は静かで、焦げも雨もまだ何も香らない。それなのに、鼻の奥が自然と構え始めているのが分かった。
「……増えるの?」
「増えるんやろなあ」
「そっか」
光はトランクと空き部屋の戸を見やり、少しだけ笑った。
「じゃあ、囲炉裏の日のお椀、増やしておかないとね」
その言い方があまりにも自然だったので、律も笑ってしまった。
帰り道、律は路地の途中で一度だけ振り返った。低い瓦屋根と青葉、そして打ち水が乾きかけた縞模様。観る家に、八人。行う家に、一人と、名前のない鞄がひとつ。
——世界は今日も、巻き戻らない。




