19 葛藤
自分は、公爵家の息子として生まれた。
――エリル・グランローゼ。それが自分の誠の名だ。
自分は公爵家の長男として育てられ、何事もそつなくこなし、将来を期待されていた。次期公爵家の当主だと、皆からそんな眼差しを向けられていた。
しかし。
あの日を境にそれは変わった。
「何事だ、これは……」
部屋に戻ると、そこで人が死んでいた。
第一発見者は自分だった。
だから、疑われても仕方がなかった。
それからだ。家族に冷遇されるようになったのは。
逃げて骨折して帰ってきた自分に、母は頭を抱えて悲鳴を上げていた。
どうしてどうしてどうしてどうして。
――私の子どもは役立たずなの。
役立たず。
生まれて初めていわれた言葉だった。
それ以来、自分は家にいるのも怖くて窮屈になった。人が死んだ部屋から出れば、皆恐怖で怯え、自分に近寄ろうとしなくなった。
目の前が真っ暗になった。
居場所をなくした自分は、『公爵家』の身分を捨て、王宮へと逃げた。
侍女として働くことにしたのだ。
仮に男の姿のままでいれば、身分がバレかねないと思った。女の姿で性別ごと変えたら、第二の人生を歩めると思った。あの家から逃げられると思った。
でも、間違っていた。
「兄さん」
弟の存在を、自分は完全に忘れていた。最も厄介なのは、両親ではなく弟であること。
彼は、一瞬で自分を兄だと見抜いた。髪も瞳の色も変えたのに、何故バレたのか。
『家族だから』と、彼は言った。
家族?
――何が家族だ。
自分を避けて、散々自分を傷つけてきたくせに。
とことん、薄っぺらい家族だな。
もう、他人のことなんか信じない。誰のことも頼らない。
そう、思っていた。
――あの日までは。
「離しなさい。今からあの男を一発殴りに行くの。どうしてエラじゃなくわたしを選んだのか、理由を聞くためにねッ!」
舞踏会の夜、王子に求婚されぱたりと倒れたその少女に、エリルはただ呆然とした。
なんて無鉄砲な少女なのだろうと思った。
これまでも貴族の娘の世話をしてきたが、しかし、彼女はどの令嬢とも違っていた。
とにかく、行動が読めないのだ。
初めて、他人を面白いと思った。
それまでは皆、自分のことしか考えない、平気で人を不幸にするものだと思っていた。
でも、彼女は違っていた。
だから少し、期待をしたのだと思う。
自分を見てほしいと思うようになった。
必要ないと言われて、お荷物だと思われて、ただ逃げていた。
変わってみたいと思った。
泣き崩れる彼女を見て、傍にいたいと思った。
大切にしたいと、思ってしまった。
――だから、甘えていた。
いつか彼女のそばから離れなければならないこと、自分は彼女の隣にいるべきではないこと。
男であること。
忘れていた。
欲張ったから、罰が下ったのだ。
――だから、バレてしまった。
――すべてが壊れる音がした。
「――え?」
アナスタシアは目を疑った。
咄嗟には理解できなかった。
「……アナスタシア様」
でも確かにその声は、エレノアのものだ。
……つまり、どういうことだ?
「え、と、……あなたは、」
メイド服に身を包むその少年――黒髪に赤い瞳のその人物は、呆然とこちらに目を向けている。
ここはエレノアの部屋のはずだが、彼は一体……。
「あの、エレノアは」
――わかっている。
エレノアなんて、最初からいなかったことくらい。
「どこにいますか? ちょっと話が――」
「姫様」
どくんと、心臓が大きく脈打つ。
そっと顔を上げる。
「――お話が、あります」
ごくりと息を呑んだ。
覚悟はしていた。だからここに来た。
まさか、ここまで堂々と来られるとは思っていなかったけれど。
***
嫌な予感がした。
最近の彼女を見ていて、何かやらかすだろうとは思っていた。近頃の彼女の婚約者に対するあの視線は、本物で間違いなかったらしい。
――エレノアは男だ。
数々の貴族と顔を合わせてきた彼にとって、女性と会うこともそれなりにあった。しかし、初めてエレノアを目にした時から、謎の違和感を抱いていた。
舞踏会でダンスを踊る時、エスコートをする際に必ず相手の手を握る。女性の手と男性の手の違い、それは見ればすぐにわかる。女性の手は細く華奢だが、業務をこなす際に目にしたエレノアの手は、それらとはまったく違っていた。
あれは、間違いなく男性の手だ。
おまけに、エレノアは肩幅が広く声も少し低かった。第一印象から、少し変だとは感じていた。
それも、ようやく牙を剥いた。
あろうことか、国の王子である自分の婚約者に手を出したのだ。
これで耐えろという方が無理な話だ。あくまで彼はアナスタシアの侍女だ、そう易々と手を出せるわけがない。……そう思っていた自分を、今では憎らしく思う。
最初に彼の行動に変化があったのは、アナスタシアが悪夢にうなされて苦しんでいると聞かされた時である。
あの時はまだ出会ってまもなく、まだ自分の気持ちを自覚していなかった。だから、彼自身の気持ちの変化にも全く気がつかなかったのだ。
しかし、あの時慌てて駆けてきたエレノアの表情は、ひどく、……。
ただの、主に仕える侍女の顔ではなかったように感じる。気のせいであったと願いたい。自分の思い違いだったと。
それが確信へと変わったのは、アナスタシアの元を訪れようとしたある日の午後のことだった。
白百合の宮へと向かう途中、アナスタシアが突然廊下で倒れた。驚いてそちらへ向かおうとした時。
いつの間にか、彼女の隣には、自分ではなくエレノアがいた。
一体どこから湧いて出たのだろう。どこから自分の視界に入り込んできた?
そうして、婚約者を抱きしめるエレノアを、自分はただ見つめていた。特に何も考えなかった。そうする余裕すらなかった。
でも、今思えば、その時から自分はエレノアのことを嫌っていた。いや、もしかすれば、それよりも前だったのかもしれない。
嫌い、といっても、見ただけで嫌気が差すとか、顔も合わせたくないとか、そういうものではない。ただ、自分の婚約者と仲良くしているのを見たくないだけ。
アナスタシアが、王子の婚約者であること。
彼自身も、それをわかっているだろうに。それなのに堂々と手を出すから、気に入らない。そういうことだと思う。
……自分もとことん、真っ黒になったものだ。
昔は、ここまで何かを欲しがることなんてなかったのに。
どうして、……
「フレデリック殿下!」
突然名を呼ばれ、フレデリックはびくりとして顔を上げる。何を考えていたのか、すっかり忘れてしまった。
「あ、ああ」
「大丈夫ですか。何度お声がけしても返事がないので」
「悪い。考え事をしていた」
ケイトの声にも気づかないほど、自分はそんなことを考えていたのか。
任務に支障が出るほど。
「あ、そうでした。先日から頼まれていた、――エレノアの件ですが」
「……何かわかったか」
エレノアがアナスタシアに接触した際、ケイトに彼女について調べてほしいと頼んでいた。素性がわからなければ、手の出しようがない。
「はい。それが、彼女はグランローゼ公爵家の長男だそうで」
やはりそうだったか。
フレデリックは、ケイトから紙の束を受け取り目を通す。資料には、事細かにエレノアについての情報が書かれている。
「本名はエリル・グランローゼ。公爵家の長男でしたが、過去のある事件をきっかけに、家族とは疎遠になっていました」
「ある事件?」
「ええ。……何でも、殺人事件だとか」
再度、資料に目を通す。
……なるほど。
少しずつ、見えてきた。
***
「わたしは、……いえ、僕は、あなたをずっと騙していました」
一人称が変わった。声も低くなった。
目の色が変わった。
「やむを得ない事情があり、名前も性別も変えて、侍女として生きてました。本来なら、僕はあなたの傍にいるべきではないのに」
アナスタシアは、ただ、静かに彼の言葉を聞いた。
どんな理由があったにせよ、自分が世話になったことに変わりはない。だから、自分は何も追求せずに話を聞かなければならなかった。もちろん、自分の意思で。
「本当は、ほとぼりが冷めたら帰らなければならないと思っていました。長い間女として生きることは不可能だし、周りにも迷惑がかかるとわかっていました。それなのに、いつの間にかこんなところまで……」
普通なら、普通の人なら、おそらく彼に向かって手をあげていたことだろう。怒声を浴びせていたことだろう。しかし、生憎自分は『普通』ではない。
だから、知らないうちに、本人も気づかないうちに『普通でない』ことをする時がある。
「……わたしには、あなたを責める資格はない」
「……え」
「わたしも、あなたと同じなの」
自分も、彼と同じように、騙し続けていることがある。
「普通じゃないのに、普通みたいに振る舞って。言いたくても、言えないことがあるの。まあ言ったところで、信じてもらえるとは思ってないんだけどね」
自分だって、まだすべてを理解しているわけじゃない。思い出せないこともたくさんある。
自分のこと、家族のこと、前世のこと。
「他人に話せないことも、そりゃあるもの。……今までどおりにあなたと接するのは、今は無理かもしれないけど、わたしも努力する。――友達だからね」
綺麗事だというのもわかっている。けれど、これ以外に、今の彼にかけられる言葉が見つからない。
自分も同じであること、友達であること。それしか、今の自分は伝えられる言葉がなかった。
「あ、いや、ごめんね軽々しく友達とか……そうよね、あなたもわたしを友達と思ってるかわからないのにね」
おそらく、自分は『彼自身』と『友達になりたい』のだと思う。
初めての友達を作る時みたいな、そんな気持ち。
「つまりわたしが言いたいのはね、人にはそれぞれ言えない秘密みたいなのもあるわけで、ある意味仕方がないことだと思うの。わたしも実際そうだし、その秘密をわざわざ自分から話そうとすることなんてないんじゃないかな。打ち解けた相手なら別かもしれないけど」
「打ち解けた相手……」
なら僕は、あなたに『打ち解けている』ということなのでしょうか。
そう口から出そうになって、慌てて止めた。
……そういうことは、軽々しく言うべきでない。
ただでさえ、今は心が揺れるのに。
「……でも、殿下は僕のことをお許しになるでしょうか」
彼女は自分を許すといった。優しさに甘えて、自分の正体を明かすこともせず、ずっと騙し続けていた自分を、彼女は責めなかった。
『秘密は人それぞれにあるものだから』と、そう言って。
エリルは目頭が熱くなるのを感じた。泣くべきなのは自分じゃない。泣いていいのは自分じゃないのに、思わず泣きそうになる。
「え、ど、どうしたの!?」
自分の腕に、彼女の手が触れる。エリルはハッとして腕を振り払った。アナスタシアは驚いた様子で自分を見る。
「さ、触らないでください」
んぐ、と喉が締め付けられる。こんなこと、本当は言いたくない。
「僕は、……あなたをずっと騙していました。あなたはただ、僕に同情しているだけです。だから僕を許せるんです」
エリルは両腕で身体を覆う。数歩彼女から距離を取る。
「僕は罰を受けるべきなんです。皆さんを長い間騙していたのに、許されるべきじゃないんです。だから、許すとか、……友達だなんて言わないでください」
柄にもなく涙が溢れた。本当は、こんな自分……彼女には、彼女だけには見られたくなかった。
「僕は、これ以上あなたの傍にはいられません」
なんて身勝手なんだろうと思った。好きで彼女の傍にいたのに、自分から離れようとするなんて。いくら彼女でも、不快に思ったはずだ。
しかし、……もしそれでも彼女が自分を責めないというのなら。
――僕はもう二度とあなたに会うことはないでしょう。
『それでいい』
「わ、わたしは――」
その先の言葉は、聞くことができなかった。
パリンと、背後の窓ガラスが音を立てた。
同時に、激しい痛みが襲う。エリルは薄れ行く意識の中、口元を押さえる少女の顔を見た。それと。
――一瞬、弟の姿を見た気がした。




