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第十六個体観測録  作者: 黒瀬 量衡


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第九話 言葉の芽

 翌朝、私は水の音で目を覚ました。


 水場の音ではない。


 幕屋の前に置かれた木椀の中で、湯が揺れた音だった。


 私は布の内側から、そっと外を見た。


 小柄なオークがいた。


 いつものように、木椀を地面に置いている。

 けれど、置いただけではなかった。


 彼は木椀を指さし、喉の奥で短く鳴いた。


「み……ず」


 私は息を止めた。


 大きなオークはいない。


 幕屋の前にいるのは、小柄なオークだけだ。


 それなのに、彼はその音を使った。


 水。


 昨日、私が渡した音。


 大きなオークが拾い、小柄なオークが真似た音。


 それが、朝の木椀とともに、私の前へ置かれていた。


 私はしばらく動けなかった。


 小柄なオークは、私が椀を取らないのを不思議に思ったのか、もう一度、椀を指した。


「みず」


 昨日より、少しだけはっきりしている。


 私は手を伸ばした。


 椀は温かかった。


 火を通した水。

 苦い根の匂い。

 腹を刺す腐れの味はない。


 私は椀を受け取り、小さく言った。


「水」


 小柄なオークは、私の口元を見た。


 そして、誇るように喉を鳴らした。


 それが笑いなのか、満足なのか、私には分からない。


 ただ、彼は自分の務めを果たしたように見えた。


 水を運ぶ。


 水と告げる。


 それだけのことだ。


 けれど、その「それだけ」が、私には恐ろしかった。


 私は荷帳を引き寄せた。


 まだ手が震えている。


 ――朝、小柄なオーク、私へ湯を持参。

 ――水の語を用いる。

 ――大個体を介さず。

 ――水の音、群れの務めへ移りしものか。


 書いてから、私は椀を見た。


 水は水である。


 王国でも、森でも、オークの群れでも、それは変わらない。


 だが、その水を指す音が変わる。

 そして、音が務めを連れて動き出す。


 水を運ぶ者が、水を水と呼ぶ。


 それだけで、ただの群れではなくなっていく。


     *


 広場へ出ると、朝の務めはすでに始まっていた。


 小柄なオークに支えられ、私は木の根元へ座らされた。

 右足首の痛みはまだ残っている。けれど、初めて外へ出た日よりは、少しだけ地面が近く感じられた。


 水を運ぶ者が二体。

 火を見る者が一体。

 傷病者の囲いで布を替える者が二体。

 見張りに立つ者が三体。


 大きなオークは広場の中央にいた。


 石を置き、務めを数えている。


 そのそばで、肩傷の雌が水桶を持っていた。


 彼女の肩の布は、さらに小さくなっている。

 傷そのものは残っている。

 けれど、歩き方はもう傷病者のそれではない。


 彼女は水桶を地面に置いた。


 小柄なオークが、その桶を指して鳴いた。


「みず」


 肩傷の雌は、鼻を鳴らした。


 それから、少し低い声で返した。


「みず」


 私は荷帳を握った。


 二体の間で、音が渡った。


 大きなオークはそれを聞いていた。


 止めない。


 むしろ、短く喉を鳴らし、桶を水場の方へ押すように手を動かした。


 肩傷の雌は桶を持ち上げ、水場へ向かった。


 その背に、小柄なオークがまた言った。


「みず」


 今度は、桶そのものを指しているのか、水場を指しているのか、務めを指しているのか分からなかった。


 けれど、音はそこにあった。


 私は刻んだ。


 ――水の語、小柄な者より肩傷の雌へ渡る。

 ――桶、水場、飲み水、いずれを指すか定め難し。

 ――されど、音により水の務め動く。

 ――言葉の芽か。


 言葉の芽。


 書いた瞬間、胸の奥が冷えた。


 芽は、放っておけば伸びる。


 根を張る。


 土を割る。


 私は、何をこの群れに植えてしまったのだろう。


     *


 火場では、別の音が生まれていた。


 若い雄が、湿った枝を火の近くへ投げようとした。

 火を見る雌が牙を剥き、短く唸る。


 大きなオークが振り向いた。


 だが、その前に、火を見る雌が炭を指して鳴いた。


「ひ」


 若い雄は止まらなかった。


 意味が通じていないのか。

 それとも、火の熱より食べ物の匂いに気を取られているのか。


 火を見る雌はもう一度、強く鳴いた。


「ひ」


 大きなオークが、低く同じ音を出した。


「ひ」


 若い雄が止まった。


 大きなオークは、湿った枝を指す。

 次に、乾いた枝を指す。

 それから火を指し、首を横へ振る。


 湿ったものを火へ入れるな。


 そういう意味らしい。


 若い雄は不満げに牙を見せたが、湿った枝を戻し、乾いた枝を拾った。


 火を見る雌が、鼻を鳴らした。


 そのあとで、彼女はもう一度、火を指して言った。


「ひ」


 私は指先が冷たくなるのを感じた。


 火。


 昨日、大きなオークが覚えた音。


 今、火を見る雌が使った。


 まだ短い。

 人の言葉とは言えない。

 だが、火を指す印として、群れの中に置かれた。


 私は荷帳に刻む。


 ――火の語、火場の雌に移る。

 ――湿り枝を止める際に用いる。

 ――大個体の声を受け、若い雄止まる。

 ――音、物のみならず、してはならぬ務めにも結ぶものか。


 私はそこで手を止めた。


 水は、運ぶもの。

 火は、扱いを誤れば危ないもの。

 腐れは、近づけてはならないもの。

 待ては、動きを止めるもの。


 音が、物だけでなく、動きにも結びつき始めている。


 それはもう、ただの鳴き声ではないのではないか。


 私は顔を上げた。


 大きなオークは、火場の雌へ何か短く声をかけていた。

 火場の雌は牙を見せ、すぐに乾いた枝を選り分け始める。


 叱られたのではない。


 務めを続けている。


 私はまた荷帳へ目を落とした。


 ――群れ、音により務めを改む。

 ――第十六個体一体の怪異に留まらず。


 そこまで刻んで、私は鉄筆を止めた。


 刻んだ字を見て、少し震えた。


 第十六個体一体の怪異に留まらず。


 書いてしまった。


     *


 昼近く、傷病者の囲いで声が上がった。


 腕を傷つけていた雄だ。


 布を替えられる時、いつもより強く暴れた。

 傷が開いたのかもしれない。

 あるいは、赤い熱がまだ深く残っているのかもしれない。


 肩傷の雌が、彼の腕を押さえた。


 小柄なオークが湯の桶を持ってくる。


 雄は牙を剥いた。


 大きなオークが近づく。


 私は思わず立ち上がろうとして、足首の痛みに顔をしかめた。


 その時、雄が低く吠えた。


 痛みの声だった。


 私は、思わず言ってしまった。


「痛い」


 自分でも驚いた。


 なぜ言ったのか分からない。


 傷を見たからか。

 それとも、痛みの声に、人の言葉を当ててしまったのか。


 大きなオークがこちらを見た。


 私は自分の右足首を指した。


「痛い」


 次に、雄の腕を指した。


「痛い」


 大きなオークは、私の指の動きを見た。


 それから、傷ついた雄を見る。


「い……た」


 音は崩れていた。


 私は首を横へ振り、もう一度言った。


「痛い」


「い、たい」


 大きなオークが言った。


 傷ついた雄は意味を理解していないだろう。

 だが、その声を聞いて、少しだけ動きを止めた。


 大きなオークは雄の腕を指し、低く言った。


「いたい」


 次に、肩傷の雌へ目を向ける。

 布を指す。

 湯を指す。

 傷を指す。


 肩傷の雌は雄の腕を押さえ直した。


 今度は、押さえる力が少し変わったように見えた。


 ただ押し伏せるのではなく、傷を避けるように。


 私は息を呑んだ。


 痛い。


 それは、物の名ではない。


 水でも火でもない。

 布でも肉でもない。


 身体の中に起きるもの。

 他の者には見えないもの。


 それを、彼は音として拾った。


 私は荷帳を開いた。


 ――痛い、の語を渡す。

 ――大個体、傷と結ぶ。

 ――肩傷の雌、押さえ方を改むように見ゆ。

 ――音、見えぬ痛みにも及ぶものか。

 ――危うし。されど、用に立つ。


 危うし。されど、用に立つ。


 その二つを並べた瞬間、胸が詰まった。


 私は王国の研究官補だ。


 用に立つなら、記録する。

 危ういなら、隠す。


 では、用に立ち、なお危ういものはどうするのか。


 私には分からなかった。


     *


 午後、広場の外れで腐れの処理があった。


 昨日持ち帰られた黒い布の残り。

 ゴブリンに触れた枝。

 汚れた革紐。


 それらを火へ運ぶため、若い雄が枝でつまんでいた。


 だが、その一体が、布を直接掴もうとした。


 私は声を上げかけた。


 その前に、大きなオークが低く吠えた。


「くされ」


 若い雄が手を引いた。


 火場の雌も顔を上げる。

 小柄なオークが、枝を持って走る。

 肩傷の雌が、水桶を遠ざける。


 くされ。


 その音が出た瞬間、広場の中で動きが変わった。


 近づく者が離れる。

 枝を持つ者が前へ出る。

 水を持つ者は別の場所へ退く。

 火を見る者が炭をかき、炎を起こす。


 腐れは、ただの悪い臭いではなくなった。


 触れるな。

 分けろ。

 焼け。


 その三つを連れて動く音になった。


 私は身震いした。


 昨日まで、腐れを避けていたのは、大きなオークの指図によってだった。


 今日、その指図には音がある。


 そして、その音を聞いて、群れが動く。


 私は荷帳に刻んだ。


 ――腐れ、の語、大個体より発せらる。

 ――若い雄、直接触れんとし止まる。

 ――枝、水、火の務め、音により分かれる。

 ――腐れの語、触るな、分けよ、焼け、を伴うものか。

 ――群れ、音により穢れを避け始む。


 そこまで書いて、私は唇を噛んだ。


 これは、王国へ出せるか。


 出せば、どうなる。


 王国の施療院は、この語を欲しがるかもしれない。

 軍陣の者は、この分け方を学びたがるかもしれない。

 学術院は、私にもっと詳しく書けと言うかもしれない。


 だが、そのためには、この群れを知られなければならない。


 大きなオークを知られなければならない。


 水を煮る害獣。

 腐れを分ける大型猿。

 言葉を拾うオークの群れ。


 王国は、それを放っておくだろうか。


 私は答えを知っていた。


 放っておかない。


 捕らえるか。

 焼くか。

 利用するか。


 どれであっても、私の書いたものが道になる。


 私は荷帳を閉じかけた。


 けれど、閉じられなかった。


 書かなければ、なかったことになる。


 書けば、いつか誰かが知る。


 どちらも罪だった。


     *


 夕方、大きなオークは私の前に石を置いた。


 一つ。

 二つ。

 三つ。

 四つ。


 次に、それぞれの石を指しながら言った。


「みず」


 一つ目。


「ひ」


 二つ目。


「くされ」


 三つ目。


「まて」


 四つ目。


 私は息を止めた。


 彼は覚えている。


 ただ真似ているだけではない。


 石と音を結んでいる。

 それぞれの音に、別の務めを持たせている。


 私は、思わず五つ目の石を置いた。


 大きなオークがそれを見る。


 私は自分の胸を指した。


「アリア」


 大きなオークは、私を見た。


「アリア」


 今度は、ほとんど崩れていなかった。


 胸の奥が、きゅっと締まった。


 私はすぐに視線を逸らした。


 五つ目の石。


 水。

 火。

 腐れ。

 待て。

 アリア。


 私は、物や務めと並べて、自分の名を置いてしまった。


 何をしているのか。


 私は慌てて、その石を払いのけようとした。


 大きなオークの手が動いた。


 止めたわけではない。


 ただ、その石の横に、もう一つ小さな石を置いた。


 私は彼を見た。


 意味が分からなかった。


 彼は自分の胸を叩いた。


 大きな音。


 次に、私の石の横へ置いた小石を指す。


 そしてまた、自分の胸を叩く。


 名ではない。


 まだ名ではない。


 けれど、彼は自分を、私の隣に置いた。


 石で。


 音のない石で。


 私は手を伸ばし、その小石を見た。


 名前を聞こうとして、喉が詰まった。


 彼は自分の名を持たない。

 私へ渡せる名がない。


 それでも、私の名の横に、自分を置く。


 私は荷帳を開けなかった。


 書けば、あまりにも明らかになってしまうからだ。


 私は石を見つめた。


 大きなオークは、何も言わなかった。


 火場の方から、肩傷の雌の声がした。


「ひ」


 その声に、大きなオークは顔を上げ、すぐ立ち上がった。


 石は地面に残された。


 水。

 火。

 腐れ。

 待て。

 アリア。

 そして、名を持たぬ大きな石。


 私はその並びを、いつまでも見ていた。


     *


 夜になると、広場の声は少しずつ低くなった。


 務めが終わる者。

 見張りへ出る者。

 火のそばで丸くなる者。

 森の外れへ向かう雌雄。


 肩傷の雌の姿も、火場の外れにあった。


 若い雄が近づく。


 彼女は水桶を置き、大きなオークの方を見た。


 大きなオークは、幕屋から離れた森の方を指した。


 それだけだった。


 肩傷の雌と若い雄は、森の外れへ歩いていく。


 私は目を逸らした。


 しばらくすれば、声が聞こえるだろう。


 この群れでは、それは禁じられていない。


 ただ、場所を分ける。


 時を分ける。


 幕屋から遠ざける。


 水場から遠ざける。


 私はその決まりをもう知っている。


 知りたくなかったのに、知っている。


 そして、耳は別の音を探していた。


 水場の音。


 大きなオークが自分の熱を逃がす音。


 私は布を握った。


 行ってはならない。


 見てはならない。


 あの背を、もう一度見てはならない。


 そう思うほど、耳が澄んだ。


 外で、低い足音がした。


 幕屋の入口では止まらなかった。


 少し離れて、水場の方へ向かう。


 私は目を閉じた。


 水が揺れる音が、遠くで聞こえた気がした。


 実際に聞こえたのか。

 私の中に残っている音が、勝手に鳴ったのか。


 分からなかった。


 私は荷帳を開いた。


 秘匿観測録の頁ではない。

 王国へ出す記録でもない。


 また、その間の余白。


 私はそこへ、ゆっくり刻んだ。


 ――水。火。腐れ。待て。痛い。

 ――五つの音、群れの中に芽を出す。

 ――大個体一体の怪異にあらず。

 ――小柄な者、肩傷の雌、火を見る雌、若い雄にも音の影あり。

 ――音は物を指すに留まらず、務めを動かす。

 ――群れそのもの、変わり始むものか。

 ――王国へ出すべからず。


 最後の一行を書いたあと、私は鉄筆を置けなかった。


 まだ、書きたいことがあった。


 けれど、それは言葉のことではない。


 水場のことだった。


 私は目を閉じた。


 遠くで、水がまた揺れた。


 私は行かなかった。


 行かなかった。


 けれど、行かなかったことを記録する手が、震えていた。


 ――水場へ行かず。

 ――されど、耳は水音を探す。

 ――これもまた、王国へ出すべからず。


 私は荷帳を閉じた。


 外では、誰かが低く鳴いた。


「みず」


 それはもう、私だけの言葉ではなかった。

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