第十話 水音を避ける夜
朝の広場では、音が増えていた。
「みず」
水桶を運ぶ小柄なオークが鳴く。
「ひ」
火を見る雌が、乾いた枝を選りながら短く言う。
「くされ」
汚れた布を枝でつまむ若い雄が、大きなオークの声を真似る。
「まて」
食べ物の置き場へ近づきすぎた一体に、見張りのオークが低く鳴く。
どれも、まだ人の言葉とは呼び難い。
だが、ただの吠え声でもなかった。
水を指す音。
火を指す音。
腐れを避ける音。
動きを止める音。
それらが、少しずつ群れの中に散っていた。
私は木の根元に座り、荷帳を膝に置いたまま、それを見ていた。
書かなければならない。
だが、書くほどに、私の与えた音がこの群れへ根を下ろしていく気がした。
私が渡したのは、ただの言葉ではない。
水を水として分けるための印。
火を火として扱うための印。
腐れに近づかないための印。
欲や飢えで動く足を止めるための印。
音は、務めを連れて動く。
そして、その務めは群れを変える。
私は荷帳に刻んだ。
――水、火、腐れ、待て、痛い。
――五つの音、群れの中に広がる。
――音のみならず、務めを伴う。
――第十六個体一体の怪異に留まらず。
――群れそのもの、音を持ち始むものか。
そこまで書いて、鉄筆が止まった。
音を持つ群れ。
そんなものは、王国の害獣目録には載っていない。
オークは吠える。
襲う。
奪う。
群れる。
数を増やす。
王国で教えられるのは、それだけだ。
だが、ここには「待て」で止まる若い雄がいる。
「くされ」で布を枝に替える者がいる。
「みず」と鳴いて木椀を運ぶ小柄なオークがいる。
私は顔を上げた。
大きなオークが、こちらを見ていた。
彼は、私の手元を見ていた。
読めるはずはない。
それでも、私が何かを書いていることは知っている。
私は荷帳を閉じかけた。
隠すように。
その動きに気づいたのか、大きなオークは近づかなかった。
ただ、少し離れた場所に石を置いた。
一つ。
次に、自分の胸を叩く。
それから、私の方を見た。
「アリア」
はっきりしていた。
私は、思わず息を止めた。
もう崩れていない。
私の名が、獣の喉の中で形を持ってしまった。
*
返事をしてはならない。
そう思った。
けれど、喉が動きかけた。
ここにいる。
私はここにいる。
そう言いそうになった。
私は唇を噛んだ。
大きなオークは待っていた。
私が何かを返すのを待っている。
その様子が、かえって苦しかった。
私が「待て」と言えば止まる。
私が「水」と言えば水を指す。
私が「痛い」と言えば傷を見る。
私が黙れば、彼は黙ったまま待つ。
言葉が通じるということは、心が通じることではない。
だが、何も通じないより、ずっと危うい。
私は荷帳を開き、震える手で刻んだ。
――大個体、私の名を明らかに発す。
――返事せず。
――返事せぬこと、難し。
――名を呼ばれること、恐ろし。
――名を呼び返せぬことも、恐ろし。
大きなオークは、私が書き終えるまで動かなかった。
やがて、彼は胸を叩いた。
昨日と同じだ。
自分を示す仕草。
私は彼を見た。
名を持たぬもの。
私は心の中でそう呼んだ。
けれど、その呼び方も、もうただの記録ではなくなり始めている。
大個体。
第十六個体。
名を持たぬもの。
どれも、彼を遠ざけるための言葉だった。
だが、彼が私の名を呼ぶたびに、それらは頼りなくなる。
私はまだ、彼の名を知らない。
知らないからこそ、呼ばずに済んでいる。
そのことに、私は気づいてしまった。
*
昼前、傷病者の囲いで肩傷の雌が働いていた。
彼女はもう、傷病者というより、傷病者を支える側に戻っていた。
肩の布は細くなり、裂け目の赤みも薄い。
彼女は湯の桶を運び、雄の腕を押さえ、布を替える小柄なオークへ短く鳴く。
「いたい」
私は目を上げた。
肩傷の雌が、雄の腕を指していた。
整った音ではない。
少し潰れている。
けれど、それは昨日、私が渡した言葉だった。
痛い。
目に見えぬものを指す音。
雄は低く唸っていた。
肩傷の雌は、彼の腕を押さえ直す。昨日より乱暴ではない。傷口を避けるように、布を替える小柄なオークを待っている。
私は荷帳を握った。
水や火だけではない。
痛みの音も、移り始めている。
見える物だけでなく、目に見えぬものまで。
水桶なら見える。
火なら見える。
腐れた布も見える。
だが、痛みは見えない。
それでも、声と傷と仕草を結ぶことで、彼らはその音を使い始めている。
私は刻んだ。
――痛い、の語、肩傷の雌へ移る。
――傷を押さえる際に用いる。
――目に見えぬものにも音が渡る。
――これは、ただの物の名にあらず。
書き終えて、私は顔を伏せた。
私が与えたものは、もう戻せない。
言葉は、一度渡れば、私の手を離れる。
王国の帳へ戻せないのと同じように、この群れからも取り戻せない。
*
午後、森の外れで短い騒ぎがあった。
見張りの若い雄が、遠くの藪へ向かって唸っている。
獣か。
ゴブリンか。
他のオークか。
私には分からない。
大きなオークは火場から顔を上げた。
若い雄は、今にも森へ飛び出しそうだった。
その時、小柄なオークが叫んだ。
「まて」
音は細かった。
だが、若い雄は一瞬止まった。
その止まった一瞬に、大きなオークが低く吠える。
「まて」
今度は、若い雄の足が完全に止まった。
大きなオークは森の外れを指す。
次に、見張りを二体呼ぶ。
若い雄を一体では行かせない。
見張りが増え、火場の者が枝を持ち、腐れを扱う時と同じように、森へ向かう者と広場に残る者が分かれた。
私はそれを見ていた。
「待て」は、止まるだけではなかった。
飛び出す足を止める。
一体で行くことを止める。
群れの中で、次の務めを待たせる。
音が、逸る足を止める。
それは、私が思っていたよりも大きなことだった。
若い雄の飢え。
怒り。
狩りの熱。
雌雄の熱。
ゴブリンへの恐れ。
そのすべてが止まるわけではない。
だが、一瞬止まる。
一瞬止まれば、大きなオークが務めを分けることができる。
私は荷帳に刻んだ。
――待て、の語、小柄な者も用いる。
――若い雄、一瞬止まる。
――大個体、その一瞬に務めを分ける。
――音、群れの熱を断つ刃となるものか。
刃。
そう刻んで、私は自分の言葉にぞっとした。
言葉は橋にも鎖にもなる。
昨日、私はそう書いた。
だが、刃にもなる。
ならば、私はこの群れへ刃を渡しているのか。
*
夕方、大きなオークは水場へ向かった。
まだ明るかった。
彼は水桶を見に行っただけかもしれない。
汚れた布を洗わせるためかもしれない。
火にかける水を確かめるためかもしれない。
だが、私はその背を見た瞬間、胸の奥が固まった。
水場。
あの夜の背。
岩を掴む手。
荒い息。
水の揺れ。
私は目を逸らした。
見てはならない。
まだ夕方だ。
ただ水を見に行っただけだ。
そう言い聞かせた。
けれど、身体は覚えている。
水の音を。
灰と湯の匂いを。
水場から戻った彼が、いつもより私から離れて座ることを。
私は荷帳を閉じた。
書いてはならない。
だが、書かずにはいられなかった。
――大個体、水場へ向かう。
――夕刻。務めのためと思われる。
――されど、私の耳、水音を恐る。
――水場の記録、王国へ出すべからず。
私は鉄筆を置いた。
すぐに消そうかと思った。
しかし、消せなかった。
書いたことで、私は自分が何を恐れているのかを知ってしまった。
水場そのものではない。
水場で、彼が私を遠ざけていること。
彼が欲を持ちながら止まっていること。
その止まり方を、私が知っていること。
そして、また知りたいと思ってしまうこと。
私はその最後の考えを、荷帳に書かなかった。
*
夜になると、広場の音は変わった。
昼の務めの音が引いていく。
水桶の音が少なくなる。
火を整える枝の音が静かになる。
傷病者の囲いで布を替える音も、最後の一度で終わる。
代わりに、森の外れから雌雄の声が聞こえ始める。
低い声。
喉を鳴らす音。
草を踏む足音。
短い吠え声。
私は布の内側で膝を抱えた。
この群れでは、それは禁じられていない。
もう知っている。
ただ、幕屋から遠ざけられている。
水場から遠ざけられている。
火場から、傷病者の囲いから、私から遠ざけられている。
時と場を分けている。
獣でありながら。
獣のまま。
私は目を閉じた。
考えない。
そう思った。
だが、遠くの声よりも、耳は別の音を待っていた。
重い足音。
幕屋の前に来るか。
水場へ行くか。
どちらかを、私は待っていた。
待っている自分に気づき、息が苦しくなった。
やがて、足音がした。
重い。
大きなオークだ。
足音は幕屋の前で一度止まった。
私は布を握った。
入ってくるはずはない。
分かっている。
それでも身体が固まる。
布の向こうから、低い声がした。
「アリア」
はっきりしていた。
私は返事をしなかった。
だが、喉が震えた。
声にならない返事が、胸の中で起きた。
ここにいる。
そう言いたかった。
大きなオークは、しばらくそこにいた。
次に、低く、短く言った。
「まて」
私は息を止めた。
誰へ向けたのか。
私か。
外の若い雄か。
それとも、彼自身か。
待て。
その一語が、布の向こうで重く落ちた。
そして、足音は幕屋から離れた。
水場の方へ。
私は動かなかった。
動いてはならない。
見てはならない。
あの夜と同じ道を辿ってはならない。
私は両手で布を握り、膝を抱え込んだ。
水音は、しばらく聞こえなかった。
代わりに、遠くの雌雄の声だけが続いた。
私は少しだけ息を吐いた。
このまま眠れればよい。
そう思った。
その時、水が揺れた。
遠い。
けれど、確かに聞こえた。
桶ではない。
水を汲む音でもない。
洗う音でもない。
大きな身体が、水の中で動く音。
私は目を閉じたまま、奥歯を噛んだ。
聞かない。
聞いてはならない。
だが、耳は水音を拾う。
低い息が混じった。
声にならない唸り。
苦しげな、抑えた音。
私は全身を固くした。
あの夜と同じだ。
彼はまた、水場へ熱を逃がしに行ったのだ。
幕屋へ来ないために。
私の前でしないために。
私へ向かうものを、私から遠ざけるために。
私は布に額を押しつけた。
見に行かない。
絶対に行かない。
そう心の中で何度も唱えた。
水音が一度、強く揺れた。
低い声が、夜の底で潰れた。
そして。
「……ア……リ……」
私は息を止めた。
聞こえたのか。
聞こえた気がしただけなのか。
水音と息の間に、私の名に似た音が混じった。
「アリア」とはっきり聞こえたわけではない。
けれど、あの音は、私の名の形を持っていた。
私は両手で口を押さえた。
私の名が、彼の水音の中にあった。
その事実を、私は認めたくなかった。
違う。
聞き違いだ。
遠い水音だ。
森の外れの雌雄の声だ。
夜の耳が勝手に作った音だ。
私はそう言い聞かせた。
だが、身体は信じなかった。
胸の奥が熱くなる。
腹の奥が冷える。
喉が詰まる。
恐怖。
羞恥。
そして、言葉にしてはならない別の熱。
私は膝を強く抱えた。
行かない。
見ない。
聞こえなかったことにする。
それだけを、何度も繰り返した。
*
どれほど経ったのか分からない。
水音はやんでいた。
やがて、足音が戻ってきた。
重い足音。
水場から戻る音。
幕屋の前では止まらなかった。
少し離れた場所に座ったらしい。
灰の匂いが、夜気に混じった。
湯の匂い。
濡れた毛の匂い。
火で清めた灰の匂い。
私はまだ動けなかった。
布の内側で、膝を抱えたまま、目を閉じていた。
見なかった。
私は見に行かなかった。
それなのに、見た時よりも胸の奥に残っている。
音だけで、私は知ってしまった。
彼がまた自分を遠ざけたこと。
その中に、私の名に似た音があったこと。
私がそれを、聞こえなかったことにできないこと。
私は震える手で荷帳を開いた。
鉄筆を探す指が、何度も空を掴んだ。
ようやく見つけ、余白に刻む。
――夜半、大個体、幕屋前にて私の名を呼ぶ。
――続けて「待て」の語あり。
――誰へ向けたるか定め難し。
――のち、水場へ向かう。
――水音あり。
――見に行かず。
――されど、水音の中に私の名に似た音あり。
――確かならず。されど、耳に残る。
――王国へ出すべからず。
そこまで書いて、私は鉄筆を置こうとした。
だが、置けなかった。
もう一行だけ、刻んだ。
――見ざりしもの、なお身に残る。
私は荷帳を閉じた。
この頁は、秘匿観測録に入れるべきか。
それとも、その間の余白に置くべきか。
分からなかった。
ただ一つ、分かることがある。
私は今夜、見に行かなかった。
けれど、次も行かずにいられるとは限らない。
外では火が小さく鳴っている。
遠くで、誰かが眠りの中で低く鳴いた。
「みず」
その音を聞いた時、私は目を閉じた。
私の渡した言葉が、群れに残っている。
そして、彼の声の中には、私の名が残っている。
その二つが同じ夜にあることが、どうしようもなく恐ろしかった。
この話に対応する秘匿別紙があります。
『第十六個体観測録 秘匿別紙』
秘匿別紙二 水音の残り火
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※秘匿別紙はR18作品です。18歳未満の方は閲覧できません。




