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第十六個体観測録  作者: 黒瀬 量衡


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第十一話 腐れの筋

 朝の水は、小柄なオークが運んできた。


「みず」


 木椀を置く声は、もう私の耳に馴染み始めていた。


 それが怖かった。


 私は椀を取らず、しばらく見つめていた。


 水。

 火。

 腐れ。

 待て。

 痛い。


 昨日まで、それらは私の言葉だった。


 王国で生まれ、学術院で帳に刻み、交易路で荷札を読むために使っていた、私の側の音だった。


 けれど今は、オークの喉から出る。


 小柄なオークは私が椀を取らないので、少し首を傾げた。


「みず」


 もう一度、鳴く。


 私はようやく椀を取った。


「……水」


 小さく返してしまった。


 小柄なオークは、喉の奥で短く鳴いた。

 笑ったのかもしれない。

 ただの音かもしれない。


 分からない。


 けれど、私はその違いを見分けようとしている。


 それもまた怖かった。


     *


 幕屋の外には、大きなオークの気配がなかった。


 いつもなら、少し離れたところに座り、私の方を見ないふりをしながら見ている。

 あるいは、若い雄が近づかぬよう、火場と幕屋の間に立つ。


 だが、その朝、彼はさらに遠かった。


 火場の向こう。

 水桶の置き場の先。

 肩傷の雌が湯を運ぶ場所より、まだ少し向こう。


 距離を取っている。


 私はそう思った。


 昨夜の水音を思い出した。


 私の名。

 灰と湯の匂い。

 幕屋の前で落ちた「待て」の声。


 私は椀を持つ指に力を込めた。


 見てはならない。


 思い出してはならない。


 王国へ出すべからず。


 そう刻んだはずのことが、荷帳の外へにじみ出てくる。


 大きなオークが、こちらを見た。


 目が合いそうになり、私は先に伏せた。


 伏せたことが、また苦しかった。


 彼は何も言わなかった。


 ただ、少し離れたまま、火場の方へ顔を戻した。


     *


 その日の広場には、落ち着かない匂いがあった。


 腐れではない。


 少なくとも、ゴブリンの腐れとは違う。


 ゴブリンの腐れは、湿った穴の奥のような臭いがする。

 腐った肉と、汚れた水と、古い血を混ぜたような、鼻の奥に残る臭い。


 今日のそれは、もっと薄かった。


 けれど、いやな筋を引いていた。


 見張りに出ていた若い雄が、森の外れから戻ってきた。


 手には枝を持っている。


 その枝の先に、布が引っかかっていた。


 大きなオークが低く吠えた。


「まて」


 若い雄は止まった。


 枝を差し出す前に、肩傷の雌が横から湯桶を置く。

 小柄なオークが灰を持ってくる。

 火を見る雌が、火のそばに新しい枝を並べる。


 私が教えた言葉が、群れの中で動いている。


「くされ」


 大きなオークがそう言った。


 若い雄は枝を地面に置き、自分の手を嗅ごうとした。


 その瞬間、大きなオークの声が落ちた。


「まて」


 若い雄は動きを止めた。


 その一瞬に、私は背筋が冷えた。


 もしこの声がなければ、彼は布を掴み、嗅ぎ、舐め、あるいは歯で確かめていただろう。


 腐れであっても。

 血であっても。

 人のものであっても。


 オークは、そういうものだ。


 そう思った瞬間、私は自分がこの数日で何を忘れかけていたかを知った。


     *


 布は、女物だった。


 そう断じるには小さすぎる。


 ただの端切れかもしれない。


 だが、染めの色が違った。

 粗い麻ではなく、薄く染めた布。

 端には、細い糸で花のような模様が入っていた。


 隊商の荷布ではない。

 作業布でもない。

 オークたちが巣材にするような厚布でもない。


 人の身につける布だ。


 それも、おそらく女のもの。


 私は荷帳を開いた。


 鉄筆を持つ手が、わずかに震える。


 ――森外れより布片一つ。

 ――薄染め。花様の糸あり。

 ――荷布にあらず。衣の端か。

 ――ゴブリンの腐れにあらず。

 ――されど、汚れあり。

 ――大個体、若い雄に触れさせず。

 ――湯、灰、火を呼ぶ。


 書きながら、私は布から目を離せなかった。


 枝の先にかかった小さな布。


 それだけなのに、森の向こうに人の気配があった。


 私と同じ側のもの。


 城壁の内にいたかもしれない誰か。

 交易路を歩いていたかもしれない誰か。

 名を持っていたはずの誰か。


 その誰かの布が、オークの森の外れから戻ってきた。


     *


 大きなオークは、布を直接触らなかった。


 枝を使い、灰をまぶし、湯で濡らした別の枝で押さえる。


 火へ投げるのかと思ったが、すぐには焼かなかった。


 彼は布を嗅いだ。


 顔を近づけすぎない。

 鼻をわずかに動かすだけ。


 その目が細くなった。


 次に、森の方を見た。


 若い雄たちの空気が変わる。


 それは、狩りの前の熱に似ていた。


 肩傷の雌が、低く唸る。


 小柄なオークが、私のそばへ一歩寄った。


 守ろうとしたのか。

 ただ、火場から押し出されただけか。


 分からない。


 だが、その一歩を私は見てしまった。


 この小柄なオーク。

 肩傷の雌。

 火を見る雌。


 私は、もう彼らを一つの群れとしてだけ見ていない。


 見分けている。


 水を運ぶ者。

 火を見る者。

 傷を洗う者。

 言葉を真似る者。


 そのことが、朝には少しだけ私を落ち着かせていた。


 今は違う。


 見分けられることと、安全であることは同じではない。


 彼らは皆、オークだ。


     *


 大きなオークが地面に線を引いた。


 火場。

 水場。

 幕屋。

 森の外れ。


 次に、枝を持ってきた若い雄を指す。

 さらに、別の見張りを二体。

 肩傷の雌。

 火を見る雌。


 最後に、私を指した。


 そして、地面に線を引き、私の前で枝を横に置いた。


「まて」


 私は、その意味を理解した。


 来るな。


 ここから先へ出るな。


 森へは入るな。


 私は思わず立ち上がりかけた。


「私も見る」


 声が出た。


 大きなオークが、こちらを見た。


 私の言葉のすべては通じていない。


 だが、私が行こうとしていることは伝わった。


 彼は首を横に振った。


 低く、強く言う。


「まて」


 私は杖を握った。


 なぜ止めるのか。


 私は記録する者だ。

 見なければ書けない。

 書かなければ、何が起きているのか分からない。


 だが、彼の目には別のものがあった。


 怒りではない。


 命令だけでもない。


 森の向こうにあるものを、私から隠そうとしている。


 いや。


 私を、森の向こうにあるものから遠ざけようとしている。


 私は言葉を探した。


「人の……布」


 私は布を指した。


「人。女。いるか」


 大きなオークの顔が動いた。


 分かったのか。

 分からなかったのか。


 彼は布を見た。


 森を見た。


 それから、私を見た。


「まて」


 同じ言葉。


 けれど、今度のそれは、私だけへ向けられていた。


     *


 彼らは森へ入った。


 若い雄が二体。

 肩傷の雌。

 火を見る雌。

 そして、大きなオーク。


 私は幕屋の前に残された。


 小柄なオークが、私のそばにいた。


 いつも水を運ぶ者だ。


 彼は、私が動こうとすると、短く鳴く。


「まて」


 私は笑いそうになった。


 いや、泣きそうになったのかもしれない。


 私が渡した言葉で、私は止められている。


 私は荷帳を膝に置いた。


 森の中から、枝の折れる音がする。


 遠い。


 低い吠え声。

 短い指図。

 草を踏む重い足音。


 その合間に、何か別の音がした。


 人の声ではない。


 獣の声でもない。


 細く、切れた息のようなもの。


 私は顔を上げた。


 小柄なオークも、同じ方を見た。


 彼の喉が鳴る。


「く……され」


 私は息を呑んだ。


 腐れ。


 けれど、ゴブリンの腐れとは違う。


 森の奥から来るそれは、血と泥と獣の巣の臭いだった。


     *


 待つ時間は長かった。


 私は何度も立とうとした。


 そのたび、小柄なオークが前に出る。


「まて」


 彼の声は弱い。


 大きなオークのように、群れを止める力はない。


 それでも、私は止まった。


 小柄なオークの目が、こちらを見ていたからだ。


 恐ろしい獣の目ではない。


 いや、恐ろしい獣の目であることに変わりはない。


 けれど、その奥に、私の知る音がある。


 水。

 待て。

 痛い。


 私はこの数日で、この者を見分けるようになっていた。


 だからこそ、怖い。


 私は彼を見分けている。


 しかし、もしこの者が成長し、若い雄となり、群れの熱に飲まれた時、私をどう見るのか。


 水を渡す相手としてか。

 守るべき幕屋の者としてか。

 それとも、雌としてか。


 私は荷帳に刻んだ。


 ――小柄な者、私を止む。

 ――私の語にて、私を止む。

 ――私は彼を見分け始めたり。

 ――されど、彼もまたオークなり。

 ――見分けること、安全を意味せず。


 そこで鉄筆が止まった。


 この先を書いてはならない気がした。


 だが、書いた。


 ――大個体の制止なかりせば、私は何として数えられるものか。


     *


 森の奥から、若い雄が戻ってきた。


 手ぶらだった。


 だが、その顔と腕に泥がついている。


 ゴブリンの汚れではない。


 獣の巣を掻いた泥だ。


 彼は火場の近くで止まり、大きな声で鳴いた。


「くされ」


 火を見る雌がすぐに枝を持つ。

 肩傷の雌が続いて戻る。

 彼女は片手で何かを持っていた。


 細い輪。


 木か、骨か。


 近づいて分かった。


 髪飾りだった。


 粗末だが、人の細工だ。

 曲がり、泥に汚れ、片側が折れている。


 私は椀を落としそうになった。


 小柄なオークが、私の前に出た。


「まて」


 その声が、今は遠かった。


 髪飾り。


 女物の布。

 細い息。

 森の奥の腐れ。

 ゴブリンではない汚れ。


 それらが、一つの線になる。


 腐れの筋。


 森の中に、何かが引きずられていった跡がある。


 人の女が。


 私はそう思った。


 思ってしまった。


     *


 大きなオークが最後に戻ってきた。


 彼の腕には、何もない。


 だが、顔が違っていた。


 水場の夜に見せる苦しげな顔ではない。


 群れを叱る時の顔でもない。


 もっと固い。


 火を前に、腐れた布を焼く時の顔に似ていた。


 けれど、それより冷たい。


 彼は私の前まで来なかった。


 少し離れた場所で止まる。


 そして、地面に枝で印を描いた。


 丸い巣の形。

 そこから伸びる線。

 森の奥。

 大きな足跡の印。


 オーク。


 だが、この群れではない。


 彼は自分の胸を叩かなかった。

 若い雄たちを指さなかった。


 代わりに、森の奥を指し、鼻に皺を寄せた。


「くされ」


 私は首を横に振った。


「ゴブリン?」


 大きなオークは、低く唸った。


 そして、はっきりと言った。


「オーク」


 私は息を止めた。


 彼が自分たちを指す時、そんなふうには言わない。


 胸を叩く。

 群れを示す。

 務めを示す。


 けれど今は違った。


 森の奥を指し、腐れと同じ声で言った。


「オーク」


 私はその時、初めて理解した。


 この森には、彼らとは別のオークがいる。


 水を分けない。

 火を分けない。

 腐れを避けない。

 傷病者を分けない。


 ただ、獣の巣として生きるオークが。


     *


 私は荷帳を開いた。


 書かなければならない。


 手は冷えていた。


 ――森外れに布片あり。

 ――女物の衣の端か。

 ――さらに髪飾り一つ。泥と汚れあり。

 ――ゴブリンの腐れにあらず。

 ――大個体、森奥を指し「オーク」と言う。

 ――自群にあらず。

 ――別の野群か。

 ――水、火、汚れ、傷を分けぬ群れか。

 ――人の女、そこへ引かれしものか。


 最後の一行を刻む時、鉄筆の先が震えた。


 人の女。


 その言葉を、私は自分から遠ざけるように書いた。


 だが遠ざからない。


 私は人の女だ。


 城壁の外で死んだことにされたかもしれない、王国の女だ。


 もし大きなオークが私を拾わなかったら。


 もし拾ったのが、森の奥の野群だったら。


 私は今、どこにいたのか。


 私は荷帳を閉じた。


 答えは、まだ見ていない。


 けれど、森の奥から伸びる腐れの筋が、すでに私の足元まで届いている気がした。


     *


 夕暮れ前、大きなオークは見張りを増やした。


 幕屋の周りにも、火場にも、水場にも。


 若い雄たちは落ち着かない。


 森の奥へ行きたがる者もいる。

 逆に、火場から離れようとしない者もいる。


 肩傷の雌は、私の幕屋から少し離れたところに座った。


 彼女は私を見ていた。


 私は彼女を見返した。


 肩の傷は、もうほとんど塞がっている。

 彼女は森の外れで雄と消え、翌朝には水を運び、湯を持ち、傷病者の布を替えていた。


 彼女は壊れていない。


 なぜか。


 オークだからだ。


 同じ雄、同じ身、同じ群れの理を持つ雌だからだ。


 では、人間の女は。


 私は肩傷の雌から目を逸らした。


 その先に、大きなオークがいた。


 彼は私を見ていない。


 見ないようにしている。


 けれど、私の幕屋と森の奥の間に立っている。


 まるで、線のように。


 私はまた荷帳を開いた。


 ――肩傷の雌、損なわれず。

 ――森外れの雌雄もまた、翌朝務めに戻る。

 ――これは彼女らがオークの雌なるゆえか。

 ――人間の女、同じ扱いを受ければ耐え得るか。

 ――大個体、幕屋と森奥の間に立つ。

 ――その意味、いよいよ重し。

 ――王国へ出すべからず。


 書き終えた時、森の奥で何かが鳴いた。


 獣の声ではなかった。


 人の声でもなかった。


 声になり損ねた、細い息。


 大きなオークの肩が動いた。


 若い雄たちが一斉に森を見る。


 私は荷帳を抱きしめた。


 腐れの筋の先に、何かがいる。


 人であったかもしれないものが。


 そして明日、私はそれを見るのだと分かった。

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