第八話 名を持たぬもの
その朝、私は自分の名を聞いた。
いや、名に似た音だった。
「……あ、り」
幕屋の外から聞こえた低い声を、私はしばらく忘れられなかった。
王国で私の名を呼ぶ者は多くない。
学術院では、たいてい「アリア研究官補」と呼ばれる。
父母の家では、もっと短く呼ばれた。
隊商の中では、「書き役の娘」か「王都の小役人」と呼ばれた。
けれど、昨夜の声はそのどれとも違った。
獣の喉が、私の名を拾おうとしていた。
私の名を、森の中へ持ち込もうとしていた。
そのことが、朝になっても胸の奥に残っていた。
私は荷帳を開いた。
秘匿観測録の頁ではない。
王国へ出す記録でもない。
その間にある、まだ置き所の定まらぬ余白に、私は小さく刻んだ。
――大個体、夜半に私の名を真似る。
――音、なお崩れる。されど私を呼ぶ意あり。
――名を覚えるものか。
――名は、呼ばれる者のみならず、呼ぶ者にも結ぶものか。
――王国へ出すべきか、定め難し。
最後の一行を書いて、私は手を止めた。
王国へ出すべきか。
私はまだ、そう迷っている。
ゴブリンの腐れ。
水を火に通すこと。
汚れを分けること。
務めで群れを数えること。
それらは、言葉を選べば王国へ出せるかもしれない。
だが、私の名を覚えようとするオークのことは、どう書けばよいのか。
害獣目録に、名を呼ぶ獣の欄はない。
*
昼前、大きなオークが幕屋の前へ来た。
近づきすぎない。
昨夜と同じように、布のすぐ前で止まる。
彼は片手に木椀を持っていた。
もう一方の手には、小さな石を三つ握っている。
私の前に椀を置く。
湯だった。
苦い根の匂いがする。
火を通した水の匂い。
私は椀を受け取った。
大きなオークは、私の口元を見ていた。
その目が、恐ろしい。
獲物を見る目ではない。
傷を見る目でもない。
私が言葉を出すのを待っている目だ。
私は、椀を両手で包んだまま言った。
「水」
彼は少しだけ顔を傾けた。
「み……ず」
昨日より、少し近い。
私は喉の奥が詰まるのを感じた。
「火」
私は火場を指さした。
大きなオークは、私の指の先を見る。
赤い炭の残る火場を見て、低く音を出した。
「ひ」
短い音。
それだけだった。
「火」
「ひ」
彼はもう一度言った。
その音は、獣の喉から出たとは思えないほど細かった。
私は荷帳へ手を伸ばしかけた。
書きたい。
けれど、目の前で彼はまだ私を見ている。
私は次に、灰のついた汚れ布を指さした。
昨日、ゴブリンの腐れを拭った布だ。
火で焼かれ、端だけが黒く残っている。
「腐れ」
言ってから、少し迷った。
これは王国の施療女が使う言葉でもある。
民の間では、もっと広く、悪い臭い、傷の熱、死体の汁、呪いのようなものまで含めて使われる。
大きなオークは、布を見た。
鼻を歪めた。
牙が少し見えた。
「く……さ」
違う。
だが、近い。
臭いもの。
腐ったもの。
近づけてはならないもの。
彼の中では、それらが同じ場所にあるのかもしれない。
私は首を横へ振った。
「腐れ」
彼は、低く唸った。
「く、さ……れ」
不格好だった。
けれど、分かろうとしている。
私は背筋が冷えた。
水。
火。
腐れ。
この三つを覚えるだけで、彼の群れはさらに変わるかもしれない。
いや、すでに彼は分けている。
私の言葉がなくとも、水を分け、火を使い、腐れを避けている。
では、言葉は何をするのか。
私は椀の湯を見下ろした。
言葉は、結ぶ。
水場と椀を結ぶ。
火と湯を結ぶ。
腐れと焼くべき布を結ぶ。
そして、私と彼を結ぶ。
それが怖かった。
*
その時、椀を運んできた小柄なオークが、私と大きなオークを交互に見た。
彼は木椀を指さし、喉の奥で短く鳴いた。
「……み」
私は目を上げた。
大きなオークが、小柄なオークを見る。
「みず」
低く、言い直す。
小柄なオークは、椀を見た。
水場を見た。
それから、もう一度、喉を鳴らした。
「み……ず」
音は崩れていた。
けれど、今度は大きなオークだけではなかった。
私が渡した音が、群れの中で使われようとしている。
私は背筋が冷えた。
これは、ただの真似ではない。
水を指す印が、群れへ移り始めている。
小柄なオークは、意味が分かったのかどうか分からない顔で、木椀を見ていた。
だが、彼はその椀を私の前へ置く時、もう一度だけ小さく鳴いた。
「みず」
私は荷帳を開きかけた。
だが、大きなオークがまだ見ている。
今書けば、彼に見られる。
読めるはずがない。
それでも、見られたくなかった。
なぜなら、これは王国へ出せないことだと、もう分かっていたからだ。
*
私は枝を取り、地面に短い線を引いた。
彼の近くに小石を一つ置く。
次に、少し離れた場所に別の石を置く。
近づく。
離れる。
私は自分の胸を指し、近い石へ指を動かした。
「来る」
大きなオークは、石を見た。
私は次に、手のひらを前へ出した。
「待て」
王国の犬に向けるような言い方になったことに気づき、すぐに頬が熱くなった。
彼は犬ではない。
だが、人でもない。
私は何を教えているのだろう。
大きなオークは、私の手のひらをじっと見ていた。
そして、ゆっくり自分の動きを止めた。
待っている。
私は小さく息を吸った。
「待て」
「……ま、て」
彼は言った。
低く、重く、ぎこちない音だった。
それでも、言った。
私は、手のひらを下ろした。
大きなオークはまだ動かない。
私が動くまで待っている。
そのことに、かえって胸が苦しくなった。
命じたのは私なのに。
私は小さく首を振った。
「来る」
今度は、近い石を指した。
大きなオークは一歩だけ動いた。
そこで止まった。
近づきすぎない。
私の目を見ている。
また待っている。
私は、自分が何をしているのか分からなくなった。
私は彼に言葉を教えている。
けれど、同時に、彼に私の恐れの形を教えている。
どこまで来てよいか。
どこで止まるべきか。
どの音が水で、どの音が火で、どの音が腐れで、どの音が私の名なのか。
私は、彼に自分の周りの線を教えている。
それは身を守るための線だ。
けれど、線を引くためには、相手をその線の外側に立たせなければならない。
彼が線を覚えれば覚えるほど、彼はただの獣ではなくなる。
それが、いっそう恐ろしかった。
*
肩傷の雌が、水桶を抱えて通りかかった。
彼女は足を止めた。
私と大きなオークの間に置かれた石。
地面の線。
私の手。
大きなオークの止まった足。
それらを見て、低く喉を鳴らした。
笑ったのかもしれない。
オークの笑いなど、私には分からない。
肩の布はまだ残っている。
だが、昨日よりさらに動きが軽い。
彼女は大きなオークへ近づきかけた。
大きなオークは、短く声を出した。
肩傷の雌は止まる。
大きなオークは水桶を指す。
次に、傷病者の囲いを指す。
肩傷の雌は不満げに牙を見せた。
だが、すぐ水桶を持ち直し、囲いの方へ歩いていく。
その途中で、彼女は水桶を軽く揺らした。
水の音がした。
小柄なオークが、彼女へ向けて短く鳴いた。
「みず」
肩傷の雌は振り向いた。
その声を聞き、鼻を鳴らす。
そして、少し低い声で、同じように鳴いた。
「み……ず」
私は荷帳を握りしめた。
もう移っている。
完全ではない。
人の言葉とは呼べない。
けれど、水を指す音が、群れの中で二体目、三体目へ渡った。
大きなオークだけの異常ではない。
群れが、音を拾い始めている。
私は胸の奥で、何かが冷えていくのを感じた。
*
私は自分の胸を指した。
「アリア」
大きなオークは、私を見た。
「……あ、り」
昨日より少し近い。
私は息を止めた。
「アリア」
「……あ、り、あ」
音は崩れていた。
けれど、最後まで届いた。
私の名が、獣の喉から出た。
私は椀を落としかけた。
こぼれた湯が指にかかり、熱さで我に返る。
大きなオークが一歩動きかけた。
私は反射的に手を出した。
「待て」
彼は止まった。
本当に、止まった。
私はそのまま、動けなくなった。
名を呼ばれた恐ろしさよりも、止まったことの方が恐ろしかった。
彼は、私の言葉を聞いた。
私が引いた線を、守った。
王国の兵ですら、命じられても止まらぬ者はいる。
酒に酔った護衛は、女の拒む声を聞かぬこともある。
隊商の荒くれ者は、弱った者の線を踏むことを楽しむことすらある。
だが、この大型猿は止まった。
それは、安心ではなかった。
もっと深いところで、私を揺らした。
私は、ゆっくり手を下ろした。
彼はまだ動かない。
「……アリア」
もう一度、彼は言った。
今度は少しだけ、はっきりしていた。
私の中で、何かが音を立てずに崩れた。
王国へ戻れば、この声をどう説明するのか。
害獣が私の名を呼んだ、と?
私はそれを恐れた、と?
それとも、恐れながら、返事をしたかった、と?
私は口を閉じた。
返事をしてはならない。
返事をすれば、この名は王国の帳から離れてしまう。
*
私は話を逸らすように、彼の胸を指した。
大きなオークの胸。
毛に覆われ、傷があり、灰の匂いが残る胸。
私は彼を指して、ゆっくり言った。
「名」
彼は分からない顔をした。
私は自分の胸を指す。
「アリア」
次に、彼の胸を指す。
「名」
もう一度。
「アリア」
私。
「名」
あなた。
私は、そこまで考えて息を呑んだ。
あなた。
今、私は心の中でそう呼んだ。
大個体ではなく。
第十六個体ではなく。
害獣でもなく。
あなた。
私はその言葉を口に出さなかった。
出してはならないと思った。
大きなオークは、私の指を見ていた。
それから、自分の胸を見下ろす。
大きな手で、胸を一度叩いた。
鈍い音がした。
彼は喉を鳴らした。
短い音。
群れに向ける号令のような、名とは違う音。
私は首を横へ振った。
「名」
彼はもう一度、胸を叩いた。
次に、広場を指した。
水を運ぶ者。
火を見る者。
見張り。
傷病者の囲い。
最後に、自分の胸を叩く。
私は、しばらく意味が分からなかった。
やがて、少しずつ分かってきた。
彼は自分の名を示しているのではない。
自分の務めを示している。
群れを動かす者。
水を分ける者。
火を分ける者。
腐れを避ける者。
若い雄を止める者。
傷病者を分ける者。
彼に、王国の帳に載るような名はない。
少なくとも、私に渡せる名はない。
彼は自分を、名ではなく務めで示している。
私は胸の奥が重くなった。
名を持たぬもの。
そう思った。
けれど、本当に名がないのか。
それとも、私がまだ聞き取れないだけなのか。
その差も分からない。
大きなオークは、私を見ていた。
私は小さく言った。
「第十六個体」
もちろん、彼には分からない。
王国の学術院の言葉だ。
私が勝手に結んだ仮の紐だ。
それでも、私はそう言うしかなかった。
「第十六個体」
大きなオークは、私の口元を見ていた。
真似ようとはしなかった。
その長すぎる言葉は、彼の喉にはまだ入らないのだろう。
私は、なぜか安堵した。
この名もどきだけは、まだ私の中に留まっている。
*
夕方、広場の外れで小さな騒ぎがあった。
若い雄が一体、食べ物の置き場へ近づきすぎた。
肉の匂いに釣られたのかもしれない。
あるいは、ただ腹が空いていただけかもしれない。
見張りの一体が唸る。
若い雄が牙を見せる。
その気配に、他のオークたちが顔を上げた。
私は幕屋の近くで荷帳を抱えていた。
大きなオークは、火場の横にいた。
彼が振り向く。
若い雄が一歩、食べ物へ出る。
大きなオークが声を出すより早く、私は言ってしまった。
「待て」
声は小さかった。
けれど、近くにいた小柄なオークが私を見た。
若い雄も、一瞬こちらを見た。
意味が通じたわけではない。
だが、大きなオークがこちらを見た。
そして、低く、はっきり言った。
「まて」
若い雄が止まった。
今度は、私の声ではない。
大きなオークの声だ。
彼が私から拾った音を、群れへ投げた。
その瞬間、広場のざわめきが止まった。
若い雄は牙を引っ込めた。
見張りは食べ物の前に立ち直る。
小柄なオークが、別の根菜を持って若い雄の方へ押し出した。
争いは起きなかった。
大きなオークは、私を見た。
私は荷帳を握りしめた。
言葉が、群れの中へ入った。
私の言葉が。
私はぞっとした。
水。
火。
腐れ。
待て。
それらはただの音ではない。
務めを動かす音になる。
群れを止める音になる。
私は、王国へ出せないものをまた増やしてしまった。
荷帳を開く手が震えた。
――私の語、大個体を通じ群れへ渡る。
――待て、の語により若い雄止まる。
――水の語、小柄なオーク、肩傷の雌へも移る。
――大個体、音を拾うのみならず、務めに用いる。
――危険。言葉、群れの決まりに加わるものか。
――王国へ出すべからず。
書き終えた後、私は自分の文字を見つめた。
また、出すべからず。
秘匿観測録の頁は、私の手を離れて増えていくようだった。
*
夜、私は眠れなかった。
外では、いつものように火が小さく鳴っている。
遠くで、雌雄の声がした。
短く、低く、森の外れへ流れていく声。
私は布の内側で目を閉じた。
考えない。
水場の音を探してはならない。
大きな背を思い出してはならない。
私の名を呼んだ声を、思い返してはならない。
そう思うほど、耳が澄んでいく。
幕屋の外に、足音が来た。
重い。
大きなオークだ。
彼は入口の前で止まった。
入ってこない。
ただ、そこにいる。
私は息を潜めた。
布の向こうで、低い声がした。
「……アリア」
今度は、はっきりしていた。
私は目を開けた。
返事をしてはならない。
そう思った。
けれど、声が喉まで上がってきた。
はい。
ここにいる。
私はまだいる。
そう返したかった。
私は唇を噛んだ。
布の向こうの影は動かない。
しばらくして、もう一度声がした。
「まて」
私は息を止めた。
待て。
それは、私が教えた言葉だ。
けれど、今は誰に向けたのか分からなかった。
外の若い雄へか。
自分自身へか。
それとも、私へか。
待て。
帰るな。
出るな。
近づくな。
返事をするな。
どれにも聞こえた。
やがて、足音が遠ざかった。
水場の方へ向かったのか。
見張りへ戻ったのか。
火場へ行ったのか。
私は分からなかった。
ただ、胸の奥に彼の声だけが残った。
アリア。
待て。
私の名と、私の教えた言葉。
その二つが、同じ夜の中に置かれた。
私は荷帳を開いた。
手探りで鉄筆を探し、秘匿観測録の頁へ向かう。
そこに、私は刻んだ。
――大個体、私の名を呼ぶ。
――アリア、の音ほぼ成る。
――待て、の語を夜に発す。誰へ向けたものか定め難し。
――私は返事せず。されど、返したき思いあり。
――名を呼ばれること、恐ろし。
――名を呼ばれぬことも、恐ろし。
最後に、もう一行。
――大個体、名を持たず。されど、私の名を持ち始む。
私は鉄筆を置いた。
外では火が鳴っている。
遠くの森では、まだ何かが吠えている。
私は布の内側で、声を殺して息を吐いた。
このままでは、私はいつか返事をしてしまう。
その予感だけが、夜の中で静かに育っていた。




