第七話 帰る線
荷帳の余白に「秘匿観測録」と刻んだ翌朝、私はその文字をしばらく見つめていた。
王国へ出す記録ではない。
そう決めたはずだった。
それなのに、荷帳の別の頁には、まだ王国へ戻るための記録を書こうとしている。
どの道を通れば戻れるか。
隊商が通った道はどちらか。
城壁はどの方角か。
水場は何か所あったか。
ゴブリンに襲われた場所から、私はどれほど運ばれたのか。
戻るためには、知らなければならない。
戻れないとしても、知らなければならない。
私は乾いた枝で、地面に線を引いた。
まず、丸を描く。
城塞都市。
その外に、長い線を引く。
街道。
その先に、森を示すいくつかの曲がった線。
そして、小さな印を置いた。
私。
私はその印を指さし、自分の胸を押さえた。
「アリア」
声に出してから、しまったと思った。
名を渡してしまった。
王国では、名は帳に載る。
名は証となる。
名は身分と家と責めを結ぶ。
相手が人でなくとも、名を渡すことは、こちらの一部を渡すことに似ている。
大きなオークは、私の声を聞いていた。
彼は地面の印を見た。
次に、私を見る。
私はもう一度、自分の胸を押さえた。
「アリア」
大きなオークは、低く喉を鳴らした。
「……あ」
私は息を止めた。
「……あ、り」
言葉にはなっていない。
ただ、音を拾おうとしている。
昨日の「水」と同じだ。
獣の喉が、人の名を真似ようとしている。
私は、言わせてはならないと思った。
同時に、聞きたいとも思った。
その二つが胸の中でぶつかり、私は何も言えなかった。
彼はもう一度、試すように口を動かした。
「……あ、り……」
そこで止まった。
私の名は、まだ彼の喉には重すぎるらしい。
私は目を伏せた。
安堵したのか、落胆したのか、自分でも分からなかった。
*
私は地面の線へ指を戻した。
丸を指す。
城塞都市。
次に線をなぞる。
街道。
それから、自分を示す小さな印を、丸の方へ動かした。
「帰る」
大きなオークは、動かなかった。
「帰る」
私はもう一度言った。
胸を指し、地面の小さな印を動かす。
森の線を越え、街道の線へ。
そして、丸の中へ。
帰る。
王国へ。
城壁の内側へ。
学術院へ。
私の名が、まだ人の名として通じる場所へ。
大きなオークは、地面を見ていた。
彼は私の丸を理解していないようだった。
城壁というものを知らないのかもしれない。
あるいは、知っていても、私の描いた丸と結びつけられないのかもしれない。
彼にとって、世界は王国の地図ではない。
水場。
火場。
汚れ場。
寝所。
獲物の通る道。
ゴブリンの腐れが残る場所。
人間の匂いと荷が流れる線。
他のオークが吠える縄張り。
そういうものの集まりなのだ。
大きなオークは、私の枝を取った。
私は少し身を固くした。
彼は私の描いた丸を消さなかった。
ただ、その外側に、別の線を引いた。
曲がった線。
途切れた線。
何度も折れ、重なり、枝分かれする線。
森の道だ。
次に、彼は短い爪で地面を強く削った。
黒く湿った土が出る。
そこに、枝を突き立てた。
ゴブリン。
いや、ゴブリンの腐れ。
彼は鼻を歪め、喉の奥で低く唸った。
次に、別の場所へ石を三つ置いた。
大きな石。
小さな石。
倒れた枝。
何かの縄張り。
獣か。
野生オークか。
私は判断できなかった。
さらに彼は、私が描いた街道の線の横に、自分の指を置いた。
そこから、少し離れたところへ、また石を置く。
人間の匂いが流れる線。
だが、そこへ出れば助かるわけではない。
そう示しているのだと、私は理解した。
私は胸の奥が冷えるのを感じた。
「帰る」
私は、三度目を言った。
今度は、ほとんど祈りだった。
大きなオークは、私の足を見た。
布と木片で巻かれた右足首。
次に、地面の腐れの印を見る。
それから、森の外れの石を見る。
彼はゆっくり首を横へ振った。
人の仕草ではない。
けれど、意味は分かった。
今は、駄目だ。
私は唇を噛んだ。
拒まれた。
閉じ込められた。
そう思いたかった。
その方が、怒りやすいからだ。
だが、彼の目にあったのは、囲い込む欲ではなかった。
危ない。
そう言っている目だった。
森が危ない。
腐れが危ない。
足が危ない。
道が危ない。
そして、おそらく、私自身がもう危ない。
私はそれを認めたくなかった。
*
昼前、大きなオークは数体を連れて広場を出た。
肩傷の雌も一緒だった。
彼女はまだ肩に布を巻いている。
だが、水桶を運ぶ時と同じ強い足取りで、火場の横を抜けていった。
大きなオークは出る前に、若い雄たちへ短く声を出した。
幕屋を指す。
水場を指す。
森の外れを指す。
最後に、私を指さす。
若い雄たちは、低く喉を鳴らした。
不満なのか、承知なのか、私には分からない。
ただ、彼らは近づかなかった。
大きなオークがいなくなっても、幕屋の周りは空けられていた。
そのことが、私には奇妙に恐ろしかった。
彼がいなくても、彼の決まりが残っている。
力で押さえているだけなら、長が離れた途端に崩れるはずだ。
だが、崩れない。
若い雄は水桶を運ばされる。
小柄なオークは私の椀を替える。
火を見る者は、湿った布を別の場所へ寄せる。
傷病者の囲いでは、布が替えられる。
大きなオークの声はない。
それでも、分けられた場所は分けられたままだ。
私は荷帳を開いた。
――大個体、離れし後も務め残る。
――幕屋周辺、なお若い雄を近づけず。
――水、火、汚れ、傷病者、変わらず分ける。
――力のみの支配にあらず。決まり、群れに移るものか。
書いてから、私は「決まり」という文字を見た。
決まり。
それは文化圏にあるものだ。
村にも、商会にも、教会にも、学術院にもある。
罰があり、誓いがあり、帳があり、見届ける者がいる。
この群れには、そのどれもない。
それでも、決まりがある。
ならば、これは何なのか。
私は答えを出せなかった。
*
昼過ぎ、森の奥から声がした。
最初は鳥かと思った。
次に、獣の争う声かと思った。
だが、違った。
オークたちが一斉に顔を上げる。
火場の者が手を止める。
見張りの若い雄が、低く唸る。
ゴブリンの声だ。
私は背筋が凍った。
あの笑うような声。
喉の奥で泥を転がすような音。
隊商が崩れた夜の音。
私は膝の上の荷帳を抱え込んだ。
広場に残っていたオークたちは、慌てて散らなかった。
水桶を倒す者もいない。
火を蹴る者もいない。
見張りが二体、森の方へ出る。
別の一体が、傷病者の囲いの前に立つ。
小柄なオークが私の幕屋の入口に近づき、腕を広げた。
入れ、ということらしい。
私は逆らえなかった。
幕屋の中へ戻る。
布の内側から、外の音だけが聞こえた。
遠い吠え声。
枝の折れる音。
石を打つ音。
何かが裂ける音。
そして、短い悲鳴。
ゴブリンのものか、オークのものか、分からない。
私は荷帳を胸に押し当てた。
帰る。
そう書いたばかりなのに。
外の森には、まだあの声がある。
私が一人で歩けるはずがない。
城壁へ向かう道が分かったとしても、足がもたない。
水を火に通す場所も分からない。
腐れを避ける場所も分からない。
夜にどこで身を隠すかも分からない。
そして、もし人間の隊商に会えたとして。
彼らは私を、何として見るだろう。
オークの群れから出てきた女。
汚れた森で何日も生きていた女。
大型猿に守られていた女。
荷帳に、王国へ出せない記録を隠している女。
私は目を閉じた。
帰る線は、地面に描ける。
だが、その線を歩けるとは限らない。
*
夕方、大きなオークたちが戻ってきた。
先頭にいたのは、肩傷の雌だった。
肩の布はずれている。
新しい血がにじんでいた。
けれど、彼女は倒れていない。
その後ろに、大きなオークがいた。
彼の腕には黒い汚れがついていた。
泥ではない。
腐れだ。
鼻を刺す臭いが広場へ流れた瞬間、残っていたオークたちが動いた。
水場へ向かう者。
火場へ枝を運ぶ者。
汚れた布を持って走る者。
傷病者の囲いを広げる者。
誰も、大きなオークへすぐに寄らない。
彼自身も、広場の真ん中へは入らなかった。
火場の外側で止まる。
肩傷の雌も、その横で止められた。
小柄なオークが桶を運んでくる。
別の者が、熱い湯を持つ。
汚れた布は枝でつままれ、火の方へ運ばれる。
大きなオークは、自分の腕を水で洗わせた。
次に、灰を擦りつける。
また洗う。
それから、汚れた布を火へ投げた。
黒い煙が上がった。
私は幕屋の入口から、それを見ていた。
胸が苦しくなる。
あれは、隊商を壊したものと同じ腐れだ。
ゴブリンの残すもの。
傷に入れば熱を呼び、腹に入れば命を奪い、布に移れば広がる穢れ。
大きなオークは、それを知っている。
少なくとも、知っているように動く。
触れたものを分ける。
洗う。
焼く。
近づけない。
王国の施療院でも、ここまで徹底しない者はいる。
私は荷帳を開いた。
手が震えていた。
――大個体、ゴブリンの腐れを持ち帰る。
――広場へ直ちに入らず。火場外にて止まる。
――湯、水、灰にて洗う。
――汚れ布、枝にて持ち、火へ。
――腐れを持つ者と持たぬ者を分ける。
――本群、腐れの移りを恐れるものか。
最後の一行を刻んで、私は動けなくなった。
恐れる。
この群れは、恐れている。
ただ、泣き叫んで逃げるのではない。
恐れるから、分ける。
恐れるから、焼く。
恐れるから、近づけない。
恐れるものを、形にして扱っている。
私はそのことに、ぞっとした。
獣ならば、恐れて逃げる。
人ならば、祈り、責め、罰し、時に隠す。
この群れは、分ける。
*
洗いが終わった後、大きなオークは私の方へ来なかった。
いつもより遠くに座った。
腕の毛は濡れ、灰がまだ残っている。
肩には浅い裂け目があった。
血は出ている。
けれど、彼はそれを気にしていないように見えた。
小柄なオークが、私の前に椀を置く。
湯と、潰した根菜。
私は受け取った。
大きなオークは遠くからそれを見ていた。
私は彼の肩の傷を見た。
言葉があれば、聞けたのだろうか。
痛むのか。
腐れは入っていないのか。
なぜそこまで分けるのか。
なぜ私を帰さないのか。
言葉がない。
あるのは、地面の線だけだ。
私は椀を置き、枝を取った。
幕屋の前の土に、もう一度丸を描く。
城塞都市。
線を描く。
道。
小さな印を置く。
私。
それを丸へ動かす。
「帰る」
大きなオークは、遠くから見ていた。
彼は立ち上がらなかった。
ただ、自分の肩の傷を指した。
次に、私の足を指した。
それから、森の奥を指した。
最後に、火場で燃えている黒い布を指した。
私は言葉を失った。
傷。
足。
森。
腐れ。
帰るな、と言っているのではない。
今、出れば死ぬ。
そう言っている。
私は枝を握りしめた。
「帰る」
小さく、もう一度言った。
今度は、彼に向けたのではない。
自分に向けた。
私は帰る。
そう言わなければ、帰る私は消えてしまう気がした。
*
夜、私は眠れなかった。
外では火が小さく鳴っている。
遠くで、肩傷の雌の低い声が聞こえた。傷を洗われているのかもしれない。
若い雄たちの落ち着かない足音もある。
だが、幕屋へ近づく者はいない。
大きなオークは、またどこかにいる。
水場か。
火場か。
見張りの外れか。
私は考えないようにした。
考えないようにしたはずなのに、耳は水音を探していた。
そのことに気づき、私は布を強く握った。
駄目だ。
私は帰ることを考えなければならない。
なのに、身体のどこかが、別の音を覚え始めている。
私は荷帳を開いた。
秘匿観測録の頁ではない。
王国へ出すつもりの頁でもない。
その間にある、まだ名のない余白。
そこへ、私は書いた。
――帰る線あり。
――されど歩めず。
――足、腐れ、森、野の獣、他群のオーク、すべて障りとなる。
――大個体、戻ることを禁ずるにあらず。死地へ出すを避けるものか。
――真偽、なお定め難し。
――されど、今は一人で戻ることかなわず。
一人で戻ることかなわず。
その語を刻んだ瞬間、息が詰まった。
私は枝を落とした。
城壁の外で、私は一度死んだ。
そう思っていた。
だが本当は、まだ死にきれていない。
王国へ戻るアリア。
ここで記録するアリア。
オークの群れに守られているアリア。
ゴブリンの腐れを恐れるアリア。
水場の音を忘れられないアリア。
どれも私で、どれも王国へ戻せない。
外で、低い足音がした。
幕屋の入口の前で止まる。
大きなオークだ。
私は息を潜めた。
布の向こうに、彼の影がある。
入ってこない。
ただ、そこにいる。
若い雄を遠ざけるためか。
森の音を聞くためか。
私が逃げないようにするためか。
分からない。
分からないまま、私は荷帳を抱えた。
しばらくして、布の向こうから、低い声が聞こえた。
「……あ、り」
私は全身を固くした。
その音は、私の名に似ていた。
まだ崩れている。
まだ人の言葉ではない。
けれど、確かに、私を呼ぼうとしていた。
私は返事をしなかった。
してはならないと思った。
返事をすれば、その名はこの森の中で結び直されてしまう。
王国の帳にある名ではなく、この幕屋の中にいる弱った生き物の名として。
布の向こうの影は、しばらく動かなかった。
やがて、足音が遠ざかる。
私はその音を聞きながら、声を殺して息を吐いた。
帰れないかもしれない。
そして、帰れない理由を、私は少しずつ理解し始めている。
それは、鎖ではない。
縄でもない。
檻でもない。
腐れ。
傷。
森。
地図にない道。
そして、私の名を覚えようとする獣。
私は荷帳の余白に、最後の一行を刻んだ。
――帰る線、なおあり。
――されど、その線の上に、名を呼ぶ声あり。
私は王国から、また少し遠くなった。




