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第十六個体観測録  作者: 黒瀬 量衡


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第六話 荷帳の余白

 ドワーフの荷帳は、王国の帳簿より重かった。


 頁に使われている羊皮が厚い。

 表紙の革も硬い。

 角には小さな金具が打たれ、泥に濡れても簡単には破れないように作られている。


 荷を運ぶだけの者の帳面ではない。


 鉱山から出る鉄や銅を、失わず、掠め取られず、遠くまで運ぶための帳面だ。


 私は朝から、その余白を見ていた。


 前の持ち主の文字は、硬く、小さい。

 王国の商人が書くような流れる筆ではない。石に刻む文字のように、角が多く、線が短い。


 帳の中身は読めない。


 だが、鉱山印は分かる。

 金属札の端に並ぶ刻みも、重さを示すものだと知っている。

 品目らしき短い符号のいくつかは、辺境の交易記録で見たことがあった。


 鉄。

 銅。

 塩石。

 革紐。


 おそらく、その類の荷だ。


 ただし、王国の帳簿とは並びが違う。

 荷主の名より先に、重さが来る。

 代価より先に、鉱山印が来る。


 読める、とは言えない。

 けれど、何を数えようとしている帳面かは分かる。


 私はその余白に、オークのことを書こうとしている。


 その事実が、奇妙に思えた。


 ドワーフが鉱山の荷を数えた頁の横に、私は大型猿の群れを数える。


 王国へ戻れば、正気を疑われるだろう。


 だが、戻れるかどうかも分からない。


 私は鉄筆を持ち、余白に小さく線を引いた。


 王国へ出す記録。

 王国へ出さぬ記録。


 そう分けようとして、手が止まった。


 まだ、私は王国へ出すつもりでいるのか。


 その問いが胸を刺した。


     *


 朝の広場では、すでに水が運ばれていた。


 水場は幕屋から離れている。

 火の場所とも、傷病者の囲いとも違う。


 もっと離れた下手には、オークたちが近づかない場所があった。枝が立てられ、石が置かれ、そこへ行く者と戻る者がはっきり分けられている。


 汚れ場だ。


 私は最初、それを見ないようにした。


 だが、見なければならないと思い直した。


 王国の村でも、家の裏や畑の端を使うことは珍しくない。

 旅の隊商なら、道端で済ませる者もいる。

 軍陣では、場所を決めなければ、すぐに臭いと病が広がる。


 この群れは、それを分けている。


 寝床。

 火。

 水。

 傷病者。

 汚れ。

 獣の皮を剥ぐ場所。

 食べ物を置く場所。


 それぞれが、同じところにない。


 ただ清いだけではない。


 置き場所に決まりがある。


 私は荷帳に刻んだ。


 ――水場、寝所より離す。

 ――汚れ場、さらに下手へ置く。

 ――火場、布と死骸を焼く場所と食物を煮る場所を分ける。

 ――傷病者、囲いに入れ、布を替える。

 ――本群、場所により穢れを分けるものか。


 書いていて、私は自分の手が早く動いていることに気づいた。


 恐怖で震える手とは違う。


 記録する手だった。


 私はまだ、研究官補なのだ。


 そう思った瞬間、なぜか泣きそうになった。


     *


 大きなオークは、朝のうちから広場を歩いていた。


 彼が声を出すと、水を運ぶ者が二体増える。

 別の一体が火の場所へ回る。

 若い雄が一体、幕屋に近づきすぎると、低い声で離される。


 叩かれるわけではない。

 牙を向けられるわけでもない。


 ただ、別の務めを与えられる。


 水を運べ。

 枝を割れ。

 見張りに立て。


 言葉は分からない。

 けれど、動きで分かる。


 この群れでは、罰より先に務めが来る。


 私は荷帳にまた線を足した。


 ――若い雄、幕屋近くより離される。

 ――叱り少なし。別務めへ回す。

 ――無用に牙を使わず。

 ――大個体、群れを力のみで動かすにあらず。


 そこまで書いて、私は顔を上げた。


 大きなオークが、こちらを見ていた。


 また見られている。


 私は身を固くした。


 彼は近づいてこなかった。

 ただ、地面に石を置いた。


 一つ。

 二つ。

 三つ。


 次に、水を運ぶオークを指さす。


 石を二つ、横へ動かす。


 私は目を細めた。


 数えている。


 彼は、群れを数えている。


 水を運ぶ者が二つ。

 火を見る者が一つ。

 見張りが三つ。

 傷病者の側に一つ。


 石は、個体そのものではない。

 務めの数だ。


 私は息を呑んだ。


 王国では、人は名で数えられる。

 家で数えられる。

 身分で数えられる。

 税で数えられる。


 だが、この群れでは、今この時に何をするかで数えられている。


 水を運ぶ口ではなく、水を運ぶ手。

 食う腹ではなく、働く務め。


 私は荷帳に刻んだ。


 ――大個体、石にて務めを数える。

 ――名にあらず。家にあらず。位にあらず。

 ――水二、火一、見張り三、傷病者側一。

 ――本群、務めにて数えるものか。


 そこまで書いて、私は別の線を引こうとした。


 だが、手が止まる。


 今、私はこの群れを「務め」で理解しようとしている。


 オークを、ただの害獣としてではなく。


 そのことに気づき、私は鉄筆を握り直した。


     *


 昼前、私は水を飲まされた。


 小柄なオークが木椀を置き、少し離れる。

 私はそれを受け取る。


 この数日で、その動きにも慣れてしまった。


 慣れたことが怖かった。


 椀の湯は、いつも少し苦い。

 何かの根か草を煮ているのだろう。腹を刺す腐れの味はない。


 私は一口飲んだ。


 大きなオークが、じっと見ている。


 まただ。


 見ている。


 けれど、近づかない。


 私が椀を下ろすと、彼は自分の胸を指さした。

 次に、私の椀を指さした。

 それから、水場の方を指さす。


 意味が分からなかった。


 彼は少し考えるように止まった。


 そして、地面に指で丸を描いた。

 丸の中に、短い線を引く。

 次に、水場を指す。

 その次に火を指す。

 最後に、私の椀を指す。


 私は、ようやく理解した。


 水場。

 火。

 椀。


 水をそのまま飲ませない。

 火を通してから飲ませる。


 彼はそれを示している。


 私は小さく言った。


「水」


 彼は動きを止めた。


「水」


 もう一度、私は言った。


 自分でもなぜそんなことをしたのか分からない。


 教えようとしたのか。

 確かめようとしたのか。

 それとも、言葉が通じないことに耐えられなくなったのか。


 大きなオークは、私の口元を見ていた。


 そして、低く、喉の奥で音を出した。


「……み」


 音は崩れていた。

 獣の喉で、人の言葉を無理に押し出したようだった。


 私は息を止めた。


 彼はもう一度、言おうとした。


「み、ず」


 あやふやだった。


 だが、確かに、私の言葉を真似た。


 背筋が冷えた。


 言葉を覚えようとしている。


 この大型猿が。


 王国の者が害獣と呼び、駆除目録に載せ、文化圏に数えないものが、私の口の形を見て、人の言葉を拾おうとしている。


 私は椀を持つ手に力を込めた。


 喜ぶべきなのか。

 恐れるべきなのか。


 分からなかった。


 私は荷帳へ視線を落とした。


 ――大個体、人語を写さんとす。

 ――水の語、崩れながら発す。

 ――獣の喉なれど、真似あり。

 ――危険。言葉は橋にも鎖にもなる。


     *


 昼の終わり、傷病者の囲いでまた布が替えられた。


 肩傷の雌は、今日は水桶を運んでいた。

 肩の布は残っているが、動きはさらに軽い。


 雄の腕は、まだ熱を持っている。

 赤みは少し引いたが、布を替えられるたびに低く唸る。


 私はその差を見ていた。


 雌の身には、孕む身を保つ働きがあるのではないか。


 昨日、私はそう書いた。


 だが、まだ早い。

 早すぎる。


 一つだけ見て定めてはならない。


 王立学術院で、最初に教えられたことだ。


 けれど、ここは学術院ではない。


 紙も足りない。

 同じ傷を同じだけ比べることもできない。

 オークの身体を王国の施療台に並べることなどできない。


 それでも、見るしかない。


 私は小さく記した。


 ――肩傷の雌、傷の引き早し。

 ――一つにて定むるべからず。

 ――されど、雄と異なる働きの疑いあり。

 ――今後も見るべし。王国へ出すべからず。


 書き終えて、私は苦く笑った。


 王国へ出せない記録ばかりが増えている。


 それはもう、研究ではなく、裏切りではないのか。


     *


 夕方、ドワーフの荷帳の古い頁をめくっていると、金属札が一枚挟まっていた。


 薄い銅札。


 端に刻みがある。

 重さを示すものだ。


 私はそれを指でなぞった。


 ドワーフの鉱斤に似た刻み。

 王国の斤とは違う。

 ラミアの薬衡とも違う。

 人間の商会では、これをそのまま使えば揉める。


 ただし、これがどの鉱山の正しい刻みかまでは分からない。


 私は本来、こうした差を調べるために森へ入った。


 ドワーフの鉱斤。

 ラミアの薬衡。

 リザードマンの河荷。

 王国の通行料。


 十五文化圏の境では、同じ袋でも重さが変わる。

 同じ塩でも、価が変わる。

 同じ道でも、通る者によって税が変わる。


 私はその混乱を記録するはずだった。


 それなのに、今、私はオークの群れの水場と寝所の距離を記録している。


 笑うべきか、泣くべきか、分からなかった。


 大きなオークが、銅札を見ていた。


 私は彼に見せた。


 彼は銅札を受け取らなかった。

 私の手から奪わない。


 ただ、顔を近づけ、匂いを嗅ぐようにして見た。


 次に、自分の手元の石を一つ置く。

 銅札の横に。


 石。

 銅札。

 荷帳。


 彼は何かを比べているようだった。


 重さか。

 数か。

 使い道か。


 彼は石を一つ増やした。


 二つ。

 三つ。


 それから、火の方を指した。

 食糧の置き場を指した。

 傷病者の囲いを指した。


 私は、彼が何を言いたいのか、すべては分からなかった。


 だが、少なくとも一つ分かった。


 彼は荷を、食べ物としてだけ見ていない。


 水を運ぶ桶。

 傷を結ぶ布。

 火を守る金具。

 刃物。

 紐。

 帳簿。


 すべてを、群れの務めに分けている。


 私は刻んだ。


 ――大個体、荷を食物のみに見ず。

 ――布は傷へ、金具は火へ、紐は荷結びへ、帳は私へ。

 ――荷を務めへ分ける。

 ――人の荷を奪うだけの獣にあらず。荷の使い道を分ける獣なり。


 最後の一文で、手が止まった。


 獣なり。


 私はそう書いた。


 だが、その前に「分ける」と書いている。


 分ける獣。


 そんな言葉を、私は今まで書いたことがなかった。


     *


 その時、肩傷の雌が近づいてきた。


 彼女は水桶を運んでいた。

 肩の布は新しく替えられている。まだ傷はある。けれど、足取りは強く、顔を上げている。


 水桶を置く。


 それから、彼女は大きなオークの横へ寄った。


 昨日よりも近い。


 肩を押し当てる。

 喉を鳴らす。

 短く牙を見せる。


 私は息を止めた。


 それは、人間の女が男へ向ける仕草ではない。


 媚びでもない。

 婚姻でもない。

 恥じらいでもない。


 群れの雌が、強い雄へ寄るだけの、生き物として自然な動きだった。


 大きなオークは、動かなかった。


 困っている。


 やはり、そう見えた。


 嫌っているわけではない。

 怒っているわけでもない。

 牙を剥いて追い払うわけでもない。


 けれど、応じない。


 彼は大きな手を上げた。


 雌の額に触れる。

 押し戻す。


 その手つきは、荒くなかった。


 次に、彼は水桶を指した。

 それから、傷病者の囲いを指した。

 最後に、火場を指した。


 務めへ戻している。


 肩傷の雌は、不満げに喉を鳴らした。

 けれど、拒まれた者の怒りではない。

 叱られた子の不服にも似ていた。


 彼女は牙を見せたまま、しばらく動かなかった。


 大きなオークが、もう一度低く声を出す。


 肩傷の雌は、ようやく水桶を持ち上げた。

 そして傷病者の囲いへ戻っていった。


 私は、荷帳を膝に置いたまま、動けなかった。


 この群れでは、雌雄の行いそのものは禁じられていない。


 夜になれば、声がする。

 広場の外れへ行く影もある。

 大きなオークは、それをすべて潰しているわけではない。


 けれど、自分だけは応じない。


 少なくとも、肩傷の雌には。


 私は小さく刻んだ。


 ――肩傷の雌、大個体へ再び近づく。

 ――喉を鳴らし、肩を寄せる。雌雄の誘いと思われる。

 ――大個体、嫌わず。怒らず。されど応じず。

 ――額を押し戻し、水、傷病者、火の務めへ戻す。

 ――群れの雌雄の熱を禁ずるにあらず。

 ――されど、大個体自身はそこへ入らず。


 そこまで書いて、私は筆を止めた。


 では、なぜ。


 なぜ私を見る時だけ、あの熱を隠そうとするのか。


 肩傷の雌には困るだけなのに。

 私には、自分を止める。


 その違いが、何より恐ろしかった。


     *


 夜が近づくと、広場の動きは変わった。


 水桶が一か所へ集められる。

 火が小さく整えられる。

 傷病者の布が最後に替えられる。

 見張りが入れ替わる。


 若い雄たちが、少しずつ落ち着きを失う。


 肩傷の雌が、火場の外れに立った。

 別の雄が近づく。

 彼女は一度だけ大きなオークの方を見た。


 大きなオークは何も言わなかった。


 ただ、幕屋から離れた森の外れを指した。


 それだけだった。


 肩傷の雌と雄は、広場の外へ歩いていった。


 私は目を逸らした。


 声は、あとで聞こえるだろう。

 匂いも、風向きによっては幕屋へ届くだろう。


 そのことに慣れたくなかった。


 大きなオークは、幕屋の入口に立っていた。


 若い雄が一体、こちらへ近づきすぎる。


 低い声。


 雄は止まり、水桶の方へ戻された。


 私は布を握った。


 この場所だけは、分けられている。


 水場。

 火場。

 汚れ場。

 傷病者の囲い。

 雌雄の熱が向かう森の外れ。

 そして、私の幕屋。


 私はこの群れの何なのか。


 務めではない。

 水を運ばない。

 火を見ない。

 傷を洗わない。

 見張りにも立てない。


 食べ物を受け取り、湯を飲み、記録するだけの弱った生き物。


 それでも、彼らは私の場所を分けている。


 大きなオークが、私を見る。


 また、目が合う。


 彼はすぐには逸らさなかった。


 だが、近づきもしなかった。


 私は荷帳を抱えたまま、声に出さずに思った。


 あなたは、私を何として数えているのか。


 その問いに答えはない。


 言葉がない。


 だが、その夜、私は荷帳の余白に、新しい見出しを書いた。


 ――秘匿観測録。


 王国へ出す記録ではない。


 私が見てしまったものを、私だけが忘れないための記録。


 その最初の頁に、私はゆっくりと刻んだ。


 ――第十六個体。

 ――水を分ける。火を分ける。汚れを分ける。務めを分ける。

 ――雌雄の熱を禁ぜず。されど、時と場を分ける。

 ――大個体、自らは雌の誘いに応じず。

 ――私に向ける目、群れの雌へ向けるものと異なる。危険。

 ――十五文化圏の外側に、分ける秩序あり。


 書き終えた時、外で低い吠え声が上がった。


 私は目を閉じた。


 ここは王国ではない。

 けれど、ただの巣でもない。


 その狭間に、私は記録を置いてしまった。

お読みいただきありがとうございます。


本編とは別に、補完連載として『第十六個体観測録 秘匿別紙』も投稿しています。

本編で伏せた記録を扱う別紙ですので、気になる方だけどうぞ。


https://novel18.syosetu.com/n7604mh/

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