第五話 数えるもの
四日目の昼、私は初めて幕屋の外へ出た。
歩いた、とは言えない。
小柄なオークに片側を支えられ、もう片側は枝を削った杖に頼った。右足首に巻かれた布と木片は不格好で、足を置くたびに痛みが走る。
けれど、地面を踏めた。
それだけで、胸が詰まった。
外の光は強かった。
幕屋の中で見る火の明かりとは違う。森の葉を抜けて落ちる昼の光は、私の目に痛いほど白かった。
私は目を細めた。
広場には、オークたちがいた。
休んでいる者。
水を運ぶ者。
火の番をする者。
枝を削る者。
傷ついた者の布を替える者。
見張りに立つ者。
ただ群れているのではない。
分かれている。
私はそのことに気づいて、息を止めた。
王国の村なら、誰が畑へ出るか、誰が水を汲むか、誰が家畜を見るかは、家と年齢と性別でおおよそ決まる。
商会なら、親方、番頭、荷役、護衛、書記がいる。
教会なら、司祭、助祭、修道士、施療女がいる。
学術院なら、博士、正研究官、研究官補、書記、写字生がいる。
けれど、この群れには、そのどれもない。
家名もない。
職位もない。
神への誓いもない。
身分を示す衣もない。
それなのに、彼らは分かれて動いている。
水を運ぶ者は水場へ行く。
汚れた布を扱う者は火の近くにいる。
傷ついた者は囲いの中に入れられている。
若い雄の何体かは、幕屋から離れた場所に立たされている。
雌の数体は、根菜を潰し、乾いた草を選り分けている。
命じる声が一つある。
名を持たぬ大きなオーク。
彼が短く声を出すたび、誰かが動く。
誰かが止まる。
誰かが別の場所へ移る。
私は杖を握ったまま、蝋板のことを考えた。
書かなければならない。
けれど、立っているだけで汗が出る。
膝が震える。
足首の奥が熱い。
小柄なオークが、私を木の根元まで連れていった。そこには乾いた草が敷かれ、座れるようになっていた。
座れ、ということらしい。
私は逆らわなかった。
座った瞬間、右足首の痛みが少し引いた。
そのことが悔しかった。
私は助けられている。
オークに。
*
傷病者の囲いは、広場の奥にあった。
近づきすぎることは許されなかった。小さなオークが私の前に腕を出し、そこで止まれと示したからだ。
私は従った。
柵の内側には、雄と雌がいた。
昨日、狩りから戻った時に傷を負っていた者たちだろう。腕、肩、脇腹、太腿。裂けた皮膚に濡れた布が当てられ、汚れた布はすぐ桶へ落とされる。
雄の一体が、腕を押さえて唸っていた。
赤い熱がまだ残っている。
布を替えられるたび、牙を剥き、低く吠える。
その隣で、雌の一体が立ち上がった。
私は目を疑った。
肩口に深い裂け目があったはずだ。
昨日、私は幕屋の隙間から見ていた。血が流れ、毛が濡れ、彼女は片膝をついていた。
それなのに、今は立っている。
傷が消えたわけではない。
裂け目はある。
布も巻かれている。
だが、赤みが引いていた。腫れも少ない。歩く足取りも、雄ほど重くない。
私は、心の中で彼女を「肩傷の雌」と呼んだ。
名ではない。
ただ、記録するための仮の印だ。
雌の方が丈夫なのか。
私はそう考えた。
だが、すぐに違和感が残った。
傷の深さは、雄と大きく違わない。
受けた手当ても同じように見える。
水で拭い、布を替え、汚れたものを分ける。
食べ物も与えられている。
それなのに、雌の傷の引きが早い。
私は蝋板を取り出した。
――傷病者区画にて、雄と雌の治りに違いあり。
――雄、腕傷の熱引かず。
――肩傷の雌、赤み早く退く。
――清め、食事、乾いた寝床のみでは説明し難し。
そこまで書いて、鉄筆が止まった。
雌の身体には、何かがある。
そう書きかけて、私は唇を噛んだ。
王国の施療院なら、こんな記録は残さない。
そもそも、オークの雌をここまで見ること自体が、王国では考えられない。
私は続きを小さく刻んだ。
――雌の身に、孕む身を保つ働きあるものか。
――王国へ出すべからず。
書いてから、私は周囲を見た。
誰も私の蝋板を読めない。
そう分かっているのに、隠すように胸へ引き寄せた。
*
昼の終わり頃、狩りに出ていた者たちが戻ってきた。
獲物は少ない。
痩せた鹿のような獣が一頭。
小さな獣が二匹。
それから、回収された荷らしい布袋がいくつか。
私は布袋を見て、息を詰めた。
人間のものではない。
編み方が違う。
封紐の結び方が違う。
口を留める金具に、小さな鉱山印が打たれている。
ドワーフの隔離区ギルド。
私はそれを知っていた。
王国の商会が好む麻袋ではない。
荷札に残った符号も、人間の升目ではない。金属札の端には、重さを示すらしい短い刻みが並んでいる。
ここは、人間の街道の近くではない。
人間だけの道ではないのだ。
十五文化圏の外れを、荷は流れている。
ドワーフの鉱山から、ラミアの水場都市へ。
あるいは、もっと暗い市へ。
その流れの端を、ゴブリンが汚し、オークが拾っている。
荷物を奪ったのか。
それとも、隊商の跡から拾ったのか。
私には分からない。
だが、オークたちは袋の中身をその場で食い散らかさなかった。
大きなオークが声を出す。
袋は一か所に集められた。
濡れたものと乾いたものが分けられた。
食べ物らしいものは火の近くへ。
金具や刃物は別の場所へ。
布は乾いた草の上へ広げられる。
帳簿らしきものもあった。
泥に濡れた、ドワーフの荷帳だった。
全文は読めない。
だが、鉱山印は分かる。
金属札の端に並ぶ刻みも、重さを示すものだと知っている。
品目らしき短い符号のいくつかは、辺境の交易記録で見たことがあった。
鉄。
銅。
塩石。
革紐。
おそらく、その類の荷だ。
ただし、王国の帳簿とは並びが違う。
荷主の名より先に、重さが来る。
代価より先に、鉱山印が来る。
読める、とは言えない。
けれど、何を数えようとしている帳面かは分かる。
私は思わず身を乗り出した。
欲しい。
いや、違う。
必要なのだ。
羊皮紙は残り少ない。
蝋板も一枚しかない。
あの荷帳に余白があれば、書ける。
削れば、上から記録できる。
自分がオークの拾った荷を欲しがったことに気づき、私は顔を伏せた。
大きなオークは、そんな私を見ていた。
彼は荷帳を拾い上げた。
泥を払い、濡れた頁を指でめくる。
読めている様子はない。だが、それがただの草や肉ではないことは分かっているらしい。
彼は荷帳を持ったまま、私の前へ来た。
私は身を固くした。
彼は距離を取った。
私が逃げられないことを知っているはずなのに、それ以上近づかない。
荷帳を地面に置く。
その上に、石を一つ置いた。
風でめくれないように。
それだけだった。
私は、息をするのを忘れていた。
彼は、私がそれを欲しがったと分かったのか。
それとも、私が書くものを必要としていると覚えたのか。
私は手を伸ばした。
荷帳は汚れていた。
端は湿っている。
前の持ち主の符号と刻みが、かすれて残っている。
だが、余白があった。
書ける。
私は荷帳を胸に抱いた。
まただ。
また私は、命の次に、記録のことを考えている。
大きなオークは、私を見ていた。
その目に、昨夜の水音の奥にあった熱はなかった。
あるいは、今は深く隠されていた。
私は分からなかった。
分からないまま、その視線から目を逸らした。
*
その時だった。
肩傷の雌が、大きなオークへ近づいた。
彼女はまだ完全には治っていない。布が肩に巻かれている。だが、足取りは強い。牙を見せ、低く喉を鳴らしながら、大きなオークの横へ寄った。
群れの中で、いくつかの視線が向いた。
私はそれだけで、何が起きているのか分かってしまった。
肩傷の雌は、大きなオークの腕に自分の肩を押し当てた。
強い体臭。
血の匂い。
灰の匂い。
そして、雌の熱。
大きなオークは、動きを止めた。
若い雄を叱る時のような速さではなかった。
ゴブリンの死骸を処理する時のような迷いのなさでもなかった。
困っている。
私は、そう思った。
オークが困る、という表現はおかしい。
だが、そう見えた。
肩傷の雌はさらに寄る。
牙を見せる。
低く鳴く。
群れの務めは止まっていない。
誰もそれを常ならぬこととは思っていないようだった。
この群れでは、それは自然なことなのだ。
務めが終わり、汚れが分けられ、傷が洗われ、見張りが立った後。
雌が雄へ寄る。
雄が応じる。
それは群れのありようなのだろう。
だが、大きなオークは応じなかった。
嫌ったのではない。
叩き払ったのでもない。
声を荒げたのでもない。
ただ、肩傷の雌の額に大きな手を当て、ゆっくり押し戻した。
それから、火の方を指さす。
次に、水の桶を指さす。
最後に、傷病者の囲いを指さした。
務めへ戻している。
私は息を呑んだ。
肩傷の雌は不満げに喉を鳴らした。
だが、怒ってはいない。少なくとも、辱められたようには見えなかった。
大きなオークがもう一度短く声を出す。
肩傷の雌は牙を見せたまま、肩を揺らし、やがて水桶の方へ歩いていった。
大きなオークは、しばらくその背を見ていた。
その横顔は、獣の顔だった。
けれど、そこに浮かんでいたのは、欲ではなかった。
困惑。
それに近いものだった。
私は蝋板を開いた。
――肩傷の雌、大個体へ近づく。
――喉を鳴らし、肩を寄せる。雌雄の誘いと思われる。
――大個体、拒まず。叱らず。額を押し戻す。
――火、水、傷病者区画を指し、務めへ戻す。
――群れの雌雄の熱を禁ずるにあらず。
――されど、大個体自身は応じず。
私はそこで手を止めた。
なぜ。
その問いが浮かんだ。
あの大きなオークは、若い雄たちを止める。
だが、群れの雌雄の行いそのものは止めない。
務めが終われば、遠くで吠え声が上がる。
水場と幕屋の周りだけを分けている。
ならば、自分が応じてもよいはずだ。
群れの長なのだから。
雄なのだから。
オークなのだから。
なのに、応じない。
私は鉄筆を握ったまま、大きなオークを見た。
彼は、私を見ていた。
私と目が合った瞬間、彼は視線を逸らした。
胸の奥が冷えた。
肩傷の雌には困るだけなのに。
私を見ると、彼は自分を止める。
昨夜、見なかったことにしたものが、胸の奥でまた息をした。
彼は欲なきにあらず。
ただ、止まっている。
それは、どういう違いなのか。
私は考えたくなかった。
だが、考えずにはいられなかった。
彼は、群れの雌を雌として扱えないのではないか。
いや、扱わないのか。
あるいは、扱い方が分からないのか。
そして、私だけは、違うのか。
そう思った瞬間、胃の底が冷たくなった。
私は人間だ。
十五文化圏の内側に生まれた者だ。
王立学術院の研究官補だ。
なのに、この大型猿にとって、私は群れの雌とは違う何かとして見られている。
それは安心ではなかった。
もっと危険なことだった。
*
夕方、配られた食べ物は少なかった。
根菜の潰したもの。
薄い湯。
小さく裂かれた肉片。
私は肉に手を伸ばせなかった。
小さなオークはそれを見て、肉片を自分の側へ寄せ、根菜だけを私の前へ置いた。
それが三度目になると、私は気づいた。
この小さなオークは、私の嫌がるものを覚えている。
人間を覚えているのではない。
研究官を覚えているのでもない。
ただ、この弱った生き物が何を避けるかを、覚えている。
群れの中で、私は何として数えられているのか。
怪我人。
荷。
雌。
記録するもの。
大きな個体が近づけるべきでないもの。
そのどれも、正しくないようで、どれも少しずつ正しい気がした。
私は荷帳の余白を開いた。
古いドワーフの刻みと符号が薄く残っている。
鉄らしき符号。
銅らしき符号。
塩石を示すはずの印。
革紐らしい短い記号。
通行符と思われる札の跡。
そこに、私は新しい記録を重ねる。
――回収荷、人間王国の商会にあらず。
――ドワーフ隔離区ギルドの印あり。
――帳の中身は読めず。されど鉱山印、重さの刻み、品目符号を認む。
――当地、人間道にあらず。十五文化圏の境を流れる荷の外れか。
――大個体、人ではなく荷を拾うものか。
――本群、血筋・衣・位にて数えず。
――水を運ぶ者、火を見る者、汚れを焼く者、傷を洗う者、見張る者あり。
――務めにより群れを分けるものか。
――大個体、雌雄の熱を禁ぜず。時と場を分ける。
――自身は肩傷の雌の誘いに応じず。理由知れず。
――私に向ける目、肩傷の雌へのものと異なる。危険。
――水場にて悟りしこと、王国へ出すべからず。
危険。
その二字を、私は強く刻みすぎた。
荷帳の厚い羊皮が、わずかに裂けた。
私は指でその裂け目を押さえた。
この記録は、もう王国の帳面ではない。
ドワーフが荷を数えた帳簿の余白に、私はオークの群れを数えている。
鉄らしき符号の横に、水場。
銅らしき符号の横に、傷病者区画。
通行符らしき跡の横に、雌雄の吠え声。
塩石の印の横に、第十六個体。
私は何を書いているのだろう。
分からない。
けれど、書かなければならなかった。
*
夜になる前、大きなオークが見張りへ出た。
肩傷の雌は火の近くで、水桶を動かしていた。
肩の布は新しく替えられている。
昼の出来事など、なかったかのように働いている。
大きなオークも、何事もなかったように歩いている。
だが、私は忘れられなかった。
肩傷の雌が寄った時の、彼の困ったような沈黙。
叱らず、傷つけず、務めへ戻した手。
私と目が合った瞬間に逸らした視線。
そして、昨夜の水の音。
彼は群れを人間にしようとしているのではない。
オークを、オークのまま生かそうとしている。
だが、彼自身は、その群れの中でどこに立っているのか。
雄としてか。
長としてか。
それとも、十五文化圏の外側にありながら、野生にも戻れない何かとしてか。
私は答えを持たなかった。
ただ、蝋板の端にもう一度、同じ言葉を刻んだ。
――第十六個体。
それは、まだ名ではない。
分類でもない。
私が理解できないものに、仮に結び付けた紐だった。
関連する補完話があります。
『第十六個体観測録 秘匿別紙』
秘匿別紙一 水場の背
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※秘匿別紙はR18作品です。18歳未満の方は閲覧できません。




