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第十六個体観測録  作者: 黒瀬 量衡


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第五話 数えるもの

 四日目の昼、私は初めて幕屋の外へ出た。


 歩いた、とは言えない。


 小柄なオークに片側を支えられ、もう片側は枝を削った杖に頼った。右足首に巻かれた布と木片は不格好で、足を置くたびに痛みが走る。


 けれど、地面を踏めた。


 それだけで、胸が詰まった。


 外の光は強かった。

 幕屋の中で見る火の明かりとは違う。森の葉を抜けて落ちる昼の光は、私の目に痛いほど白かった。


 私は目を細めた。


 広場には、オークたちがいた。


 休んでいる者。

 水を運ぶ者。

 火の番をする者。

 枝を削る者。

 傷ついた者の布を替える者。

 見張りに立つ者。


 ただ群れているのではない。


 分かれている。


 私はそのことに気づいて、息を止めた。


 王国の村なら、誰が畑へ出るか、誰が水を汲むか、誰が家畜を見るかは、家と年齢と性別でおおよそ決まる。

 商会なら、親方、番頭、荷役、護衛、書記がいる。

 教会なら、司祭、助祭、修道士、施療女がいる。

 学術院なら、博士、正研究官、研究官補、書記、写字生がいる。


 けれど、この群れには、そのどれもない。


 家名もない。

 職位もない。

 神への誓いもない。

 身分を示す衣もない。


 それなのに、彼らは分かれて動いている。


 水を運ぶ者は水場へ行く。

 汚れた布を扱う者は火の近くにいる。

 傷ついた者は囲いの中に入れられている。

 若い雄の何体かは、幕屋から離れた場所に立たされている。

 雌の数体は、根菜を潰し、乾いた草を選り分けている。


 命じる声が一つある。


 名を持たぬ大きなオーク。


 彼が短く声を出すたび、誰かが動く。

 誰かが止まる。

 誰かが別の場所へ移る。


 私は杖を握ったまま、蝋板のことを考えた。


 書かなければならない。


 けれど、立っているだけで汗が出る。

 膝が震える。

 足首の奥が熱い。


 小柄なオークが、私を木の根元まで連れていった。そこには乾いた草が敷かれ、座れるようになっていた。


 座れ、ということらしい。


 私は逆らわなかった。


 座った瞬間、右足首の痛みが少し引いた。


 そのことが悔しかった。


 私は助けられている。


 オークに。


     *


 傷病者の囲いは、広場の奥にあった。


 近づきすぎることは許されなかった。小さなオークが私の前に腕を出し、そこで止まれと示したからだ。


 私は従った。


 柵の内側には、雄と雌がいた。


 昨日、狩りから戻った時に傷を負っていた者たちだろう。腕、肩、脇腹、太腿。裂けた皮膚に濡れた布が当てられ、汚れた布はすぐ桶へ落とされる。


 雄の一体が、腕を押さえて唸っていた。

 赤い熱がまだ残っている。

 布を替えられるたび、牙を剥き、低く吠える。


 その隣で、雌の一体が立ち上がった。


 私は目を疑った。


 肩口に深い裂け目があったはずだ。


 昨日、私は幕屋の隙間から見ていた。血が流れ、毛が濡れ、彼女は片膝をついていた。


 それなのに、今は立っている。


 傷が消えたわけではない。

 裂け目はある。

 布も巻かれている。


 だが、赤みが引いていた。腫れも少ない。歩く足取りも、雄ほど重くない。


 私は、心の中で彼女を「肩傷の雌」と呼んだ。


 名ではない。

 ただ、記録するための仮の印だ。


 雌の方が丈夫なのか。


 私はそう考えた。


 だが、すぐに違和感が残った。


 傷の深さは、雄と大きく違わない。

 受けた手当ても同じように見える。

 水で拭い、布を替え、汚れたものを分ける。

 食べ物も与えられている。


 それなのに、雌の傷の引きが早い。


 私は蝋板を取り出した。


 ――傷病者区画にて、雄と雌の治りに違いあり。

 ――雄、腕傷の熱引かず。

 ――肩傷の雌、赤み早く退く。

 ――清め、食事、乾いた寝床のみでは説明し難し。


 そこまで書いて、鉄筆が止まった。


 雌の身体には、何かがある。


 そう書きかけて、私は唇を噛んだ。


 王国の施療院なら、こんな記録は残さない。

 そもそも、オークの雌をここまで見ること自体が、王国では考えられない。


 私は続きを小さく刻んだ。


 ――雌の身に、孕む身を保つ働きあるものか。

 ――王国へ出すべからず。


 書いてから、私は周囲を見た。


 誰も私の蝋板を読めない。

 そう分かっているのに、隠すように胸へ引き寄せた。


     *


 昼の終わり頃、狩りに出ていた者たちが戻ってきた。


 獲物は少ない。

 痩せた鹿のような獣が一頭。

 小さな獣が二匹。

 それから、回収された荷らしい布袋がいくつか。


 私は布袋を見て、息を詰めた。


 人間のものではない。


 編み方が違う。

 封紐の結び方が違う。

 口を留める金具に、小さな鉱山印が打たれている。


 ドワーフの隔離区ギルド。


 私はそれを知っていた。


 王国の商会が好む麻袋ではない。

 荷札に残った符号も、人間の升目ではない。金属札の端には、重さを示すらしい短い刻みが並んでいる。


 ここは、人間の街道の近くではない。


 人間だけの道ではないのだ。


 十五文化圏の外れを、荷は流れている。

 ドワーフの鉱山から、ラミアの水場都市へ。

 あるいは、もっと暗い市へ。


 その流れの端を、ゴブリンが汚し、オークが拾っている。


 荷物を奪ったのか。

 それとも、隊商の跡から拾ったのか。


 私には分からない。


 だが、オークたちは袋の中身をその場で食い散らかさなかった。


 大きなオークが声を出す。


 袋は一か所に集められた。

 濡れたものと乾いたものが分けられた。

 食べ物らしいものは火の近くへ。

 金具や刃物は別の場所へ。

 布は乾いた草の上へ広げられる。


 帳簿らしきものもあった。


 泥に濡れた、ドワーフの荷帳だった。


 全文は読めない。


 だが、鉱山印は分かる。

 金属札の端に並ぶ刻みも、重さを示すものだと知っている。

 品目らしき短い符号のいくつかは、辺境の交易記録で見たことがあった。


 鉄。

 銅。

 塩石。

 革紐。


 おそらく、その類の荷だ。


 ただし、王国の帳簿とは並びが違う。

 荷主の名より先に、重さが来る。

 代価より先に、鉱山印が来る。


 読める、とは言えない。

 けれど、何を数えようとしている帳面かは分かる。


 私は思わず身を乗り出した。


 欲しい。


 いや、違う。

 必要なのだ。


 羊皮紙は残り少ない。

 蝋板も一枚しかない。

 あの荷帳に余白があれば、書ける。

 削れば、上から記録できる。


 自分がオークの拾った荷を欲しがったことに気づき、私は顔を伏せた。


 大きなオークは、そんな私を見ていた。


 彼は荷帳を拾い上げた。


 泥を払い、濡れた頁を指でめくる。

 読めている様子はない。だが、それがただの草や肉ではないことは分かっているらしい。


 彼は荷帳を持ったまま、私の前へ来た。


 私は身を固くした。


 彼は距離を取った。

 私が逃げられないことを知っているはずなのに、それ以上近づかない。


 荷帳を地面に置く。


 その上に、石を一つ置いた。


 風でめくれないように。


 それだけだった。


 私は、息をするのを忘れていた。


 彼は、私がそれを欲しがったと分かったのか。

 それとも、私が書くものを必要としていると覚えたのか。


 私は手を伸ばした。


 荷帳は汚れていた。

 端は湿っている。

 前の持ち主の符号と刻みが、かすれて残っている。


 だが、余白があった。


 書ける。


 私は荷帳を胸に抱いた。


 まただ。


 また私は、命の次に、記録のことを考えている。


 大きなオークは、私を見ていた。


 その目に、昨夜の水音の奥にあった熱はなかった。

 あるいは、今は深く隠されていた。


 私は分からなかった。


 分からないまま、その視線から目を逸らした。


     *


 その時だった。


 肩傷の雌が、大きなオークへ近づいた。


 彼女はまだ完全には治っていない。布が肩に巻かれている。だが、足取りは強い。牙を見せ、低く喉を鳴らしながら、大きなオークの横へ寄った。


 群れの中で、いくつかの視線が向いた。


 私はそれだけで、何が起きているのか分かってしまった。


 肩傷の雌は、大きなオークの腕に自分の肩を押し当てた。


 強い体臭。

 血の匂い。

 灰の匂い。

 そして、雌の熱。


 大きなオークは、動きを止めた。


 若い雄を叱る時のような速さではなかった。

 ゴブリンの死骸を処理する時のような迷いのなさでもなかった。


 困っている。


 私は、そう思った。


 オークが困る、という表現はおかしい。

 だが、そう見えた。


 肩傷の雌はさらに寄る。

 牙を見せる。

 低く鳴く。


 群れの務めは止まっていない。

 誰もそれを常ならぬこととは思っていないようだった。


 この群れでは、それは自然なことなのだ。


 務めが終わり、汚れが分けられ、傷が洗われ、見張りが立った後。

 雌が雄へ寄る。

 雄が応じる。

 それは群れのありようなのだろう。


 だが、大きなオークは応じなかった。


 嫌ったのではない。

 叩き払ったのでもない。

 声を荒げたのでもない。


 ただ、肩傷の雌の額に大きな手を当て、ゆっくり押し戻した。


 それから、火の方を指さす。

 次に、水の桶を指さす。

 最後に、傷病者の囲いを指さした。


 務めへ戻している。


 私は息を呑んだ。


 肩傷の雌は不満げに喉を鳴らした。

 だが、怒ってはいない。少なくとも、辱められたようには見えなかった。


 大きなオークがもう一度短く声を出す。


 肩傷の雌は牙を見せたまま、肩を揺らし、やがて水桶の方へ歩いていった。


 大きなオークは、しばらくその背を見ていた。


 その横顔は、獣の顔だった。

 けれど、そこに浮かんでいたのは、欲ではなかった。


 困惑。


 それに近いものだった。


 私は蝋板を開いた。


 ――肩傷の雌、大個体へ近づく。

 ――喉を鳴らし、肩を寄せる。雌雄の誘いと思われる。

 ――大個体、拒まず。叱らず。額を押し戻す。

 ――火、水、傷病者区画を指し、務めへ戻す。

 ――群れの雌雄の熱を禁ずるにあらず。

 ――されど、大個体自身は応じず。


 私はそこで手を止めた。


 なぜ。


 その問いが浮かんだ。


 あの大きなオークは、若い雄たちを止める。

 だが、群れの雌雄の行いそのものは止めない。

 務めが終われば、遠くで吠え声が上がる。

 水場と幕屋の周りだけを分けている。


 ならば、自分が応じてもよいはずだ。


 群れの長なのだから。

 雄なのだから。

 オークなのだから。


 なのに、応じない。


 私は鉄筆を握ったまま、大きなオークを見た。


 彼は、私を見ていた。


 私と目が合った瞬間、彼は視線を逸らした。


 胸の奥が冷えた。


 肩傷の雌には困るだけなのに。


 私を見ると、彼は自分を止める。


 昨夜、見なかったことにしたものが、胸の奥でまた息をした。


 彼は欲なきにあらず。


 ただ、止まっている。


 それは、どういう違いなのか。


 私は考えたくなかった。


 だが、考えずにはいられなかった。


 彼は、群れの雌を雌として扱えないのではないか。

 いや、扱わないのか。

 あるいは、扱い方が分からないのか。


 そして、私だけは、違うのか。


 そう思った瞬間、胃の底が冷たくなった。


 私は人間だ。

 十五文化圏の内側に生まれた者だ。

 王立学術院の研究官補だ。


 なのに、この大型猿にとって、私は群れの雌とは違う何かとして見られている。


 それは安心ではなかった。


 もっと危険なことだった。


     *


 夕方、配られた食べ物は少なかった。


 根菜の潰したもの。

 薄い湯。

 小さく裂かれた肉片。


 私は肉に手を伸ばせなかった。


 小さなオークはそれを見て、肉片を自分の側へ寄せ、根菜だけを私の前へ置いた。


 それが三度目になると、私は気づいた。


 この小さなオークは、私の嫌がるものを覚えている。


 人間を覚えているのではない。

 研究官を覚えているのでもない。

 ただ、この弱った生き物が何を避けるかを、覚えている。


 群れの中で、私は何として数えられているのか。


 怪我人。

 荷。

 雌。

 記録するもの。

 大きな個体が近づけるべきでないもの。


 そのどれも、正しくないようで、どれも少しずつ正しい気がした。


 私は荷帳の余白を開いた。


 古いドワーフの刻みと符号が薄く残っている。

 鉄らしき符号。

 銅らしき符号。

 塩石を示すはずの印。

 革紐らしい短い記号。

 通行符と思われる札の跡。


 そこに、私は新しい記録を重ねる。


 ――回収荷、人間王国の商会にあらず。

 ――ドワーフ隔離区ギルドの印あり。

 ――帳の中身は読めず。されど鉱山印、重さの刻み、品目符号を認む。

 ――当地、人間道にあらず。十五文化圏の境を流れる荷の外れか。

 ――大個体、人ではなく荷を拾うものか。

 ――本群、血筋・衣・位にて数えず。

 ――水を運ぶ者、火を見る者、汚れを焼く者、傷を洗う者、見張る者あり。

 ――務めにより群れを分けるものか。

 ――大個体、雌雄の熱を禁ぜず。時と場を分ける。

 ――自身は肩傷の雌の誘いに応じず。理由知れず。

 ――私に向ける目、肩傷の雌へのものと異なる。危険。

 ――水場にて悟りしこと、王国へ出すべからず。


 危険。


 その二字を、私は強く刻みすぎた。


 荷帳の厚い羊皮が、わずかに裂けた。


 私は指でその裂け目を押さえた。


 この記録は、もう王国の帳面ではない。


 ドワーフが荷を数えた帳簿の余白に、私はオークの群れを数えている。


 鉄らしき符号の横に、水場。

 銅らしき符号の横に、傷病者区画。

 通行符らしき跡の横に、雌雄の吠え声。

 塩石の印の横に、第十六個体。


 私は何を書いているのだろう。


 分からない。


 けれど、書かなければならなかった。


     *


 夜になる前、大きなオークが見張りへ出た。


 肩傷の雌は火の近くで、水桶を動かしていた。

 肩の布は新しく替えられている。


 昼の出来事など、なかったかのように働いている。


 大きなオークも、何事もなかったように歩いている。


 だが、私は忘れられなかった。


 肩傷の雌が寄った時の、彼の困ったような沈黙。

 叱らず、傷つけず、務めへ戻した手。

 私と目が合った瞬間に逸らした視線。

 そして、昨夜の水の音。


 彼は群れを人間にしようとしているのではない。


 オークを、オークのまま生かそうとしている。


 だが、彼自身は、その群れの中でどこに立っているのか。


 雄としてか。

 長としてか。

 それとも、十五文化圏の外側にありながら、野生にも戻れない何かとしてか。


 私は答えを持たなかった。


 ただ、蝋板の端にもう一度、同じ言葉を刻んだ。


 ――第十六個体。


 それは、まだ名ではない。


 分類でもない。


 私が理解できないものに、仮に結び付けた紐だった。

関連する補完話があります。


『第十六個体観測録 秘匿別紙』

秘匿別紙一 水場の背

https://novel18.syosetu.com/n7604mh/1/


※秘匿別紙はR18作品です。18歳未満の方は閲覧できません。

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