第四話 水場の音
夜になると、群れの音が変わる。
昼のあいだ、広場には務めの音があった。
水を運ぶ足音。
枝を折る音。
火に湿った布を投げ込む音。
傷ついた者が低く唸る声。
大きな個体が短く命じる声。
けれど夜になると、それとは違う音が混じる。
遠くの森の外れで、低い吠え声が上がった。
それに応じるように、別の声が重なる。
草が押し倒される音。
土を蹴る音。
喉の奥で鳴る、獣の熱。
私は幕屋の中で、膝を抱えた。
分かりたくなかった。
だが、分かってしまう。
あれは争いではない。
狩りでもない。
傷の痛みに呻いているのでもない。
雌雄の声だ。
ここは王国の宿ではない。
施療院でもない。
教会の庇護所でもない。
オークの群れの中なのだ。
昼の間、水を運び、汚れた布を焼き、傷病者を分けていた者たちが、夜になると獣として吠える。
それは矛盾していないのだろう。
むしろ、人間の私が勝手に矛盾だと思っているだけなのかもしれない。
私は蝋板を手元へ寄せた。
火の明かりは弱い。
それでも、鉄筆の先で刻むことはできる。
――夜間、森の外れにて雌雄の吠え声あり。
――本群、雌雄の行いを禁ずるにあらず。
――幕屋、傷病者区画、水場、火場より遠ざけるのみか。
――欲を消すにあらず。時と場を分けるものか。
そこまで書いて、私は手を止めた。
幕屋の外で、重い足音がした。
若い雄の声が近い。
私は息を殺した。
入口の布越しに、大きな影が動く。
低い声。
それだけで、近づいていた気配が遠ざかった。
若い雄が不満げに喉を鳴らす。
だが、逆らわない。
足音は水桶の方へ向かった。
私は布を握りしめた。
大きな個体が、幕屋の入口近くに立っている。
見張っているのか。
守っているのか。
それとも、私をここに閉じているのか。
どれも同じ形に見えた。
*
しばらくして、入口の布がわずかに揺れた。
私は身を固くした。
大きな個体が、そこにいた。
彼は中へ入らなかった。
ただ、布の外側に立ち、低く息をしている。
火の明かりが、布越しに彼の影を揺らした。
大きい。
何度見ても、そう思う。
腕も、肩も、首も、王国のどの兵士より太い。
毛に覆われた輪郭は、人ではない。
大型の猿。
害獣。
駆除目録に載るもの。
それなのに、彼は入ってこない。
布一枚を隔てて、立っているだけだ。
私は、自分の呼吸が荒くなっていることに気づいた。
彼は私を襲っていない。
それは事実だ。
だが、襲わない理由が分からない。
人間を食わないからか。
私に価値があるからか。
あるいは、今はまだ、その時ではないからか。
外の森で、また雌雄の声が上がった。
私は肩を震わせた。
その時、布の向こうの影がわずかに動いた。
彼は、森の方を見たのだろう。
それから、私の幕屋の方へ向き直った。
低い唸り。
自分に向けた声のように聞こえた。
私は鉄筆を握りしめた。
――大個体、幕屋入口に留まる。
――若い雄を遠ざける。
――されど自身も内へ入らず。
――私を守るものか。私より自身を遠ざけるものか。判別できず。
最後の一行を刻む手が震えた。
判別できず。
その言葉ばかりが増えていく。
*
夜半、喉が渇いた。
幕屋の中の木椀は空だった。
入口近くにいた小さなオークは、膝を抱えるように丸くなって眠っている。
起こせばよかったのかもしれない。
だが、声を出すのが怖かった。
外の大きな個体は、もう入口にはいなかった。
いつの間にか気配が消えている。
私は杖を手に取った。
一人で出てはならない。
それは分かっていた。
けれど、喉の渇きは、眠りより強かった。
私は入口の布を少しだけ持ち上げた。
外は暗い。
火場の火だけが赤く残っている。
水場の方から、かすかに水音が聞こえた。
私は数歩だけ進んだ。
右足首が痛む。
杖が土を押す。
息が喉に引っかかる。
その時、水場の方で、低い唸りがした。
私は止まった。
水を汲む音ではない。
桶を動かす音でもない。
布を洗う音でもない。
重い息。
押し殺したような声。
水面を荒く揺らす音。
私は、見てはいけないものから目を逸らした。
見なかったことにした。
けれど、理解だけは、目を逸らしても残った。
あの大きな個体も、同じなのだ。
森の外れで吠える若い雄たちと同じものを持っている。
雌へ寄る群れの熱と同じものを持っている。
ただ、それを幕屋へ持ち込まない。
私の前でしない。
私の近くでしない。
水場へ離れる。
自分の熱を、そこで捨てて戻ってくる。
喉の渇きが消えた。
私は後ずさった。
杖の先が枝を踏んだ。
小さな音だった。
水場の音が止まった。
私は息を止めた。
振り向かれる。
そう思った。
だが、彼は振り向かなかった。
ただ、長い沈黙があった。
その沈黙の中に、来るな、という声があった気がした。
私は逃げるように幕屋へ戻った。
布の内側へ入り、膝を抱えた。
心臓が痛いほど鳴っていた。
見ていない。
私は見ていない。
そう思おうとした。
だが、見なかったことにしたものほど、身体の奥に残る。
*
しばらくして、大きな個体が戻ってきた。
入口の外で、足音が止まった。
水の匂いがした。
濡れた毛の匂い。
灰の匂い。
冷えた土の匂い。
彼は中へ入らなかった。
私は布の内側で、息を殺していた。
彼もまた、何も言わなかった。
言葉がないからではない。
言わないのだと、私は思った。
その沈黙が、何より恐ろしかった。
欲なきにあらず。
欲を持ったまま、止まっている。
私に向かうものを、私から遠ざけている。
それは、守りなのか。
それとも、いつか破れる薄い壁なのか。
分からない。
私は蝋板を引き寄せた。
手が震えて、鉄筆の先が何度も滑った。
――大個体、夜間に水場へ離れる。
――戻りし時、腕と胸濡れ、灰の匂いあり。
――若い雄らを幕屋より遠ざける。
――同時に、自身も幕屋内へ入らず。
――欲なきにあらず。自ら遠ざかるものか。
――大個体、私を襲わぬは、欲なきゆえにあらず。自らを制するゆえか。
――水場にて見聞きせしこと、王国へ出すべからず。
最後の一行を刻んだ時、鉄筆が止まった。
私は今、何を書いたのだろう。
王国へ出すべからず。
その言葉を、私はまた書いている。
私は研究官補だ。
見たものを記録する者だ。
見たものを王国へ持ち帰るために、森へ入った。
それなのに、私は書いたものを王国の目から隠そうとしている。
隠さなければ、私が壊れるからだ。
*
朝になっても、私は彼の顔を見られなかった。
大きな個体は、いつも通り広場を歩いていた。
水を運ぶ者へ声をかける。
火場の湿った布を指す。
若い雄が幕屋へ近づきすぎると、低い声で戻す。
傷病者の囲いにいる個体の布を替えさせる。
何も変わっていない。
変わってしまったのは、私の方だけだ。
私は木の根元に座らされ、湯を渡された。
湯気が上がる。
苦い根の匂い。
火を通した水の匂い。
大きな個体が、少し離れた場所から私を見ていた。
私は木椀へ目を落とした。
彼が近づけば怖い。
けれど、近づかないことも怖い。
近づかない理由を、私は少し知ってしまったからだ。
彼は私を守っているのか。
私から自分を遠ざけているのか。
その二つは、同じ形をしている。
私は湯を飲んだ。
喉を通る熱が、昨夜の水音を思い出させた。
私は顔をしかめた。
大きな個体が一歩動きかける。
私は反射的に身を固くした。
彼は止まった。
本当に止まった。
そして、ゆっくりと一歩下がった。
胸の奥が冷えた。
彼は、私が怯えたことを分かっている。
分かって、下がった。
獣が、私の恐怖を見て、距離を取った。
それが恐ろしかった。
ただ襲われるより、ずっと理解できなかった。
*
その日の昼、私は荷帳の余白を見ていた。
王国へ出せる記録。
王国へ出せない記録。
まだ線は引いていない。
けれど、私の中ではもう分かれている。
水を煮ること。
汚れた布を焼くこと。
傷病者を分けること。
これは書けるかもしれない。
だが、夜の水場のことは書けない。
彼が若い雄を遠ざけたこと。
自分も幕屋へ入らなかったこと。
水場で、自分の熱を遠ざけていたこと。
私がそれを理解してしまったこと。
これは書けない。
書けば、王国はどう読むだろう。
オークに攫われた女が、大型猿の欲を観察した。
その欲が自分へ向いていることを知りながら、生きて戻った。
しかも、その個体をただの害獣として書かなかった。
それだけで、私は終わる。
研究官補ではなくなる。
証言者ではなくなる。
汚れた者になる。
私は鉄筆を握った。
それでも、書かずにはいられない。
書かなければ、昨夜のことがただの恐怖になる。
書けば、恐怖は記録になる。
私は小さく刻んだ。
――恐るべきは、獣の欲にあらず。
――欲を持ちながら、なお止まることなり。
その一文を見て、私はしばらく動けなかった。
私は今、害獣を庇っているのか。
違う。
そう思いたかった。
私はただ、見たものを書いているだけだ。
だが、その「見たもの」が、王国で誰も疑わぬ決まりを裏切っている。
*
夕方、森の外れでまた雌雄の声がした。
私はもう、何の音か分かっている。
幕屋の入口には、大きな個体がいた。
若い雄を遠ざける。
水場へ近づく者を止める。
傷病者の囲いを見回る。
それから、彼自身も幕屋へ入らない。
私は布の隙間から、その背を見た。
大きな背。
毛に覆われた肩。
革紐と荷帯。
道具を吊るすだけの、身を飾らない備え。
衣ではない。
身分でもない。
誇りでもない。
ただ、務めのための装具。
彼は振り向かない。
振り向けば、私が見ていることに気づいただろう。
私は布を戻した。
見てはいけないものは、昨夜だけで十分だった。
荷帳の隠した余白に、私は最後の記録を足した。
――第十六個体。
――群れの獣性を消さず。
――されど、水場、火場、傷病者、幕屋を分ける。
――自身の熱をも、幕屋より遠ざける。
――この制止、いつまで保つか不明。
――危険。
危険。
それは、彼が欲を持つからではない。
欲を持ちながら、止まっているからだ。
止まれるものは、いつか止まれなくなるかもしれない。
止まれないものより、その方がずっと恐ろしい。
私は蝋板を伏せた。
外で、水の音がした。
私は目を閉じた。
昨夜のことは、王国へ出さない。
けれど、私の中から消えることもない。
その夜から、私は理解した。
名を持たぬ大きなオークは、私を襲わないのではない。
襲わないようにしているのだ。




