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第十六個体観測録  作者: 黒瀬 量衡


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3/8

第三話 森側の地図

 逃げるなら、今しかない。


 三日目の朝も、私はそう考えた。


 考えるだけなら、幾度でもできる。

 けれど、身体は動かなかった。


 右足首はまだ熱を持っている。少し力を入れるだけで、骨の奥に針を刺されたような痛みが走った。肋の痛みも、肩の痛みも残っている。走るどころか、幕屋の入口まで這うことすら怪しい。


 それでも、考えずにはいられなかった。


 逃げなければならない。


 私は王立学術院の研究官補だ。

 辺境度量衡監査官補だ。

 オークの幕屋で、湯を飲み、布にくるまれ、蝋板へ記録を刻んでいる場合ではない。


 だが、幕屋の外にはオークがいる。

 森にはゴブリンがいる。

 道には、もう私の隊商はいない。


 そして、城壁の中には人間社会がある。


 そのどれが一番恐ろしいのか、私には分からなくなっていた。


     *


 この数日で、私は少しずつ、この群れの音を聞き分けるようになった。


 水を煮る音。

 木を割る音。

 重い足が土を踏む音。

 傷ついた者が低く唸る音。

 火に汚れた布をくべる時の、湿った煙の音。


 そして、別の音もあった。


 群れが熱を持つ音だ。


 夜だけではない。


 昼でも起きる。狩りから戻った後。血の匂いがまだ残っている時。食い終えた後。若い雄が雌の後を追い、雌が牙を剥き、別の雄がそれを見て肩を揺らす。


 私はそのたびに、幕屋の奥で息を殺した。


 見まいとしても、布越しに声は聞こえる。


 低く吠える雄の声。

 それに応じる雌の声。

 湿った土を蹴る音。

 何か重いものが草を押し倒す気配。


 そして、匂い。


 火の煙。

 獣の汗。

 濡れた土。

 押し潰された草の青臭さ。

 その奥に、血とも腐れとも違う、生臭い体液の匂いが混じっていた。


 私は、その意味を理解してしまった。


 幕屋の外で何が起きているのか、見なくても分かる。

 耳で分かる。

 鼻で分かる。

 喉の奥に絡む臭気で分かる。


 これは人間の夜の営みではない。

 婚姻でも、床入りでも、情でもない。


 十五文化圏のどこにも属さない、野生の群れの行いだ。


 王国の者たちは、オークを猿と呼ぶ。

 害獣と呼ぶ。

 駆除目録に載せる。


 その猿たちが、幕屋一枚の向こうで吠え、土を蹴り、濃い獣の匂いを漂わせている。


 では、私は何なのか。


 王立学術院の研究官補か。

 辺境度量衡監査官補か。

 それとも、怪我をして逃げられない、人間の雌か。


 いつ、あの匂いの中へ引きずり出されるのか。


 そう思った瞬間、息がうまく吸えなくなった。


 だが、この群れでは、そこへ必ず別のものが割り込む。


 低い一声。


 あの大きな個体の声だった。


 その声が飛ぶと、若い雄は牙を収める。雌から離れ、汚れた布の山へ戻る。ある者は水場へ向かい、ある者は見張りに回される。


 欲がないのではない。


 欲より先に、指図がある。

 血の熱より先に、汚れを分ける作法がある。


 ただし、それは欲を消すものではなかった。


 作業が終わり、汚れた布が焼かれ、死骸が火へ運ばれ、水の桶が別の場所へ移されると、群れの外れからまた低い吠え声が上がる。


 私はそのたびに、布を握りしめた。


 この群れは、獣であることをやめたのではない。

 獣のまま、時と場所を分けられている。


 そして、その声が届かなくなった時、私を守るものは何もない。


 私は震える手で、蝋板に刻んだ。


 ――雌雄の吠え声、昼夜を問わず。

 ――幕屋外に獣臭、汗、体液臭あり。

 ――幕屋近くでは大個体の指図あり。

 ――作業中、傷病者の側、汚れ処理の場では停止。

 ――作業後、遠方にて群れの熱あり。

 ――欲を消すにあらず。時と場所を分けるものか。

 ――私自身も対象となる恐れあり。


 最後の一行を刻んだ時、鉄筆の先が蝋を深くえぐった。


 私はその跡を見つめた。


 書いてしまった。


 王国へ出せるはずのない記録が、また一つ増えた。


     *


 私は、持ち物を何度も確かめていた。


 革鞄。

 蝋板、一枚。端が欠けている。

 鉄筆。曲がってはいない。

 羊皮紙、六枚。うち二枚は泥で端が使えない。

 封蝋、小片。

 監査官補の印章。無事。

 調査帳。濡れているが、読める頁もある。


 インク壺はない。羽根ペンもない。

 正式な清書はできない。


 それでも、蝋板と鉄筆がある。

 書ける。


 その事実に、また少しだけ息ができた。


 私は調査帳を開いた。


 乾ききっていない頁が、指に貼りつく。書かれた文字は一部滲んでいたが、北門から三里までの升の差、商会の荷目録、通行料、同行者の名は残っていた。


 下級書記の少年の名もある。


 トマス。


 彼は、生きているのだろうか。


 私はその名の上で指を止めた。


 思い出したくないのに、泥の中で振り返った顔が浮かんだ。背後から跳んだゴブリン。横から飛んだ斧。倒れる身体。荷車。馬の叫び。


 私は、彼を助けられなかった。


 それを記録すべきだと思った。


 けれど、蝋板に刻む手は動かなかった。


 死者の記録は、王国へ戻る者が書く。

 戻れない者が書いたところで、誰に届くのか。


 幕屋の外で、足音が近づいた。


 私は反射的に蝋板を胸に抱えた。


 入口の布が持ち上がる。


 入ってきたのは、いつもの体格の小さなオークだった。手に、木の皿を持っている。皿の上には、潰した根菜のようなものと、黒く焼いた肉片が少し乗っていた。


 私は息を詰めた。


 肉。


 何の肉だ。


 人か。

 馬か。

 ゴブリンか。

 それとも森の獣か。


 考えた瞬間、吐き気が来た。


 小さなオークは、私の様子を見て、皿を少し離れた場所に置いた。それから肉片だけを取り、別の小皿へ移した。私に根菜の皿を近づけ、肉の皿は自分の側へ引いた。


 食え、という身振り。


 肉は食わせない。

 根だけを食わせる。


 私の顔を読んだのか。

 それとも、弱った者には重い肉を避けるという作法が、この群れにあるのか。


 私は答えを持たなかった。


 根菜は、粗く潰されていた。塩気が少しある。土臭い。だが、腐ってはいない。


 私は警戒しながら、一口だけ食べた。


 胃が、動いた。


 空腹だった。


 自分が空腹であることに気づいた瞬間、私はまた泣きそうになった。


 城壁の外で、人間社会から落ちたはずだった。

 それなのに、身体はまだ食べ物を欲しがる。


 生きようとしている。


 私の意思とは関係なく。


 小さなオークは、私が飲み込み終えるのを見て、短く声を出した。


 意味は分からない。

 だが、急かす声ではなかった。


 彼は私の足首を見ようとした。


 私は皿を落としかけた。


「触らないで」


 声が震えた。


 小さなオークは動きを止めた。

 そして、幕屋の外へ声を投げた。


 すぐに、あの低い声が返ってきた。


 布の向こうに、大きな影が落ちる。


 名を持たぬ大きなオークだった。


 彼は中へ入らなかった。入口のところで膝をつくように身を低くし、こちらを見た。そうしなければ、幕屋の布を引き裂いてしまいそうだった。


 彼の視線が、私の足首へ向いた。


 それだけで、身体がこわばる。


 森の泥の中で見上げた牙。

 鉄筆の先を押し下げた指。

 私を持ち上げた腕。


 私は布を握った。


「来ないで」


 彼は止まったままだった。


 止まったまま、私を見ていた。


 その目が、一度だけ、私の顔から胸元へ落ちた。


 粗い布。

 身体に合わせて巻いただけの覆い。

 人間の衣ではない。

 隠しているようで、隠しきれていないもの。


 私は、血が引くのを感じた。


 彼はすぐに目を逸らした。


 太い指が、幕屋の柱を掴む。

 木が小さく軋んだ。


 牙のある口元がわずかに開き、低い息が漏れる。


 外の若い雄たちが雌を追う時と同じ熱が、そこにある。


 私は、そう悟ってしまった。


 この大きな個体も、オークなのだ。


 私を洗わせ、湯を飲ませ、若い雄を遠ざけているこの個体も。

 水を煮させ、汚れた布を焼かせ、傷ついた者を分けているこの個体も。


 やはり、オークなのだ。


 彼は腰の荷帯の前を、わずかに私から背けた。

 まるで、そこに現れた何かを見せまいとするように。


 私は息を止めた。


 恐怖で、喉が鳴らなかった。


 彼は、私に近づかなかった。


 ただ、短く唸り、自分の胸を拳で一度だけ叩いた。


 止まれ。


 その声は、群れに向けたものではなかった。

 自分自身に向けたもののように、私には聞こえた。


 彼は、私を守っているのか。


 それとも、私から自分自身を遠ざけているのか。


 どちらにせよ、私の身体は、彼にとって何かを呼び起こしている。


 その事実に、膝の奥が冷たくなった。


 大きなオークは、ゆっくりと自分の足首を指さした。次に、私の足首を指さす。さらに両手を開き、何かを結ぶような身振りをした。


 添え木。

 動かさぬようにする。

 傷めた足を、これ以上悪くしないための作法。


 そういう意味だと、遅れて分かった。


 彼は、私の足を治そうとしている。


 あるいは、逃げられないようにするためかもしれない。


 どちらもあり得た。


 小さなオークが、木片と布を見せた。布は煮た湯に通したのか、まだわずかに湿り、湯気の名残があった。


 汚れた布ではない。


 私は歯を食いしばった。


 触れられたくない。

 だが、足は痛い。

 このままでは逃げられない。

 逃げられないなら、せめて歩けるようにならなければならない。


 私は小さくうなずいた。


 自分がオークにうなずいたことに、すぐ気づいた。


 胸の奥が冷えた。


 小さなオークは、ゆっくり近づいてきた。

 私が身を引くたびに止まり、また少し進む。


 その動きは、獣に餌をやる時のそれに似ていた。


 私は人間だ。


 そう言いたかった。


 だが、声にはならなかった。


 足首に触れられた瞬間、身体が跳ねた。


 小さなオークは強い力で押さえつけなかった。腫れたところを避け、木片を当て、布を巻く。巻き方は荒い。人間の施療師ほど器用ではない。だが、無茶ではなかった。


 痛い。


 けれど、折られてはいない。

 壊されてはいない。


 処置が終わると、小さなオークは離れた。入口の大きなオークが短く声を出す。小さなオークは木皿を持って出て行った。


 私は足首を見た。


 木片と布で固定されている。

 結び目は大きく、不格好だ。だが、動かすと痛みが少し減った。


 私は蝋板に手を伸ばした。


 書かずにはいられなかった。


 ――右足首、腫れあり。

 ――木片と布にて固定。

 ――力任せではない。痛み、やや減る。

 ――大個体、幕屋内に入らず。

 ――私を見て、目を逸らす。

 ――自身を制する様子あり。


 そこまで刻んで、鉄筆が止まる。


 私は何を書いているのか。


 オークに触れられたことを。

 オークに足を巻かれたことを。

 オークの手が、壊すためではなく、治すために動いたことを。


 そして、その大きなオークが、私を見て何かを堪えていたことを。


 そんな記録を、王国へ出せるはずがない。


 私は蝋板の端を削ろうとした。


 だが、削れなかった。


     *


 昼なのか、夕なのか、幕屋の中では分かりにくい。


 ただ、外の光が少し傾き、火の匂いが強くなった頃、大きなオークが再び姿を見せた。


 彼は、今度は一人だった。


 手には、細い枝を数本持っている。


 私は身構えた。


 彼は入口の外、私から少し離れた地面に枝を置いた。


 一本を立てる。

 その周りに小石を並べる。

 少し離れたところに、別の石を積む。


 私は最初、何をしているのか分からなかった。


 彼は太い指で地面に線を引いた。


 曲がった線。

 森の中を走る獣道のような線。


 その片側に、小石をいくつか置く。

 それから、鼻先を動かすようにして、何かを嗅ぐ身振りをした。


 人間の匂い。


 そういう意味だと、なぜか分かった。


 次に、彼は枝を横に寝かせ、二つ並べた。

 荷車の轍か。

 馬の足跡か。


 彼はそこを指さし、次に私を指さした。


 私たちの道。


 隊商が通った道。


 胸が詰まった。


 その道を行けば、城塞都市へ戻れるかもしれない。

 王国へ。学術院へ。人間の側へ。


 私はそう思った。


 だが、大きなオークは、その線の途中に黒く焼けた枝を置いた。


 それから、低く唸った。


 ゴブリン。


 腐れ。


 彼はその場所を何度も指し、首を横に振るような仕草をした。


 次に、別の方角へ石をいくつか置いた。

 石は大きく、ばらばらで、荒い。


 彼は自分の胸を叩き、それからその石の群れを指した。

 牙を剥き、腕を振る。

 敵。


 他のオークか。

 野生の群れか。

 あるいは、もっと大きな獣か。


 私は唇を噛んだ。


 彼が描いているのは、帰り道ではなかった。


 城塞都市への地図ではない。

 王国へ続く道でもない。

 人間の土地を知る者の図ではない。


 森側の地図だ。


 水場。

 獣道。

 人間の匂いが来る線。

 ゴブリンの腐れがある場所。

 他のオークか獣の縄張り。

 この群れの届く場所と、届かない場所。


 私の世界では、道とは町と町を結ぶものだった。

 税と通行料を取り、荷を運び、升と秤を揃えるための線だった。


 けれど、この個体にとって、道は違う。


 匂いが流れる線。

 荷が流れる線。

 危険が来る線。

 獣とゴブリンと人間が、たまたま同じ土を踏む場所。


 私は、初めて彼が城壁を知らないのだと悟った。


 彼は私を、城塞都市へ返すつもりなのではない。

 そこを知らないのだ。


 彼が知っているのは、ここから先へ一人で出れば死ぬ、ということだけだった。


 大きなオークは、私を指さした。

 次に、人間の匂いが来る線を指さした。

 そして、黒く焼けた枝を指した。


 低く唸る。


 行けば、腐れに当たる。

 そう言っているように見えた。


 さらに、荒い石の群れを指す。

 牙を剥く。


 行けば、別の群れに当たる。

 そう言っているように見えた。


 私は声を出せなかった。


 帰る道はある。

 けれど、彼はそこを帰る道とは呼ばない。


 彼にとってそれは、危険な線だ。


 そして今の私には、その線を一人で越える力がない。


 私は唇を動かした。


「……城壁は、どちら」


 彼は答えなかった。


 当然だった。

 言葉が通じないのではない。


 たぶん、彼の中にその場所がないのだ。


 王国。

 城塞都市。

 学術院。

 監査官補。


 それらは、私を私として数えていた言葉だった。


 だが、彼の地図にはない。


 あるのは、匂いと水と火と腐れと敵だけ。


 私はその事実に、背筋が冷えた。


 十五文化圏の外へ落ちるとは、こういうことなのか。


 私の名も、官職も、印章も、帰るべき城壁も、ここでは線にならない。


 大きなオークは、私の沈黙をどう受け取ったのか、地面の線の一部を手で消した。


 消されたのは、人間の匂いが来る道だった。


 私は思わず身を乗り出した。


「待って」


 声が出た。


 彼は動きを止めた。


 私は自分でも、なぜ止めたのか分からなかった。


 帰りたい。

 帰らなければならない。

 帰れば、すべてが元に戻るはずだ。


 嘘だ。


 元には戻らない。


 私はもう、森の泥の中で失った。

 人間社会に戻る前から、戻る資格を失っている。


 それでも、地面に描かれた人間の道が消されるのを見て、胸が詰まった。


 大きなオークは、少しだけ首を傾けた。


 その仕草が、人間の疑問に似ていた。


 私は怖くなった。


 似ていると思ってしまった自分が、怖かった。


 私は蝋板を引き寄せた。


 書く。


 書けば、感情ではなくなる。

 恐怖も、屈辱も、混乱も、記録にすれば少しだけ距離ができる。


 ――大個体、地面に森の図を描く。

 ――人間の道を、匂いと荷の線として示す。

 ――城壁、王国、町の概念を示さず。

 ――ゴブリンの腐れ、他オークまたは大型獣の縄張りあり。

 ――当該個体、人間の道を帰路としてではなく危険線として認識するものか。


 私はそこで止まった。


 「助ける意図あり」とは書けなかった。

 「返還の意図あり」とも書けなかった。


 その言葉は、まだ大きすぎる。


 だから、こう刻んだ。


 ――私を、まだ道へ出していない。


 書いた瞬間、その意味が分からなくなった。


 守っているのか。

 閉じ込めているのか。

 怪我人としてか。

 荷としてか。

 雌としてか。


 それとも、十五文化圏の外側で、別の数え方をされているのか。


 大きなオークは、しばらく私を見ていた。


 そして、ゆっくりと立ち上がる。


 幕屋を出ていく直前、彼は一度だけ振り返った。


 牙のある顔。

 獣の顎。

 大型猿の目。


 だが、その目の奥には、命じる者の静けさがあった。


 私は蝋板を抱えたまま、声を出さずに息を吐いた。


 帰る道は、ある。


 けれどそれは、王国の道ではなかった。

 森の中に引かれた、死地と死地の間の細い線だった。


 そのことを、私はこの日、初めて知った。

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