第三話 森側の地図
逃げるなら、今しかない。
三日目の朝も、私はそう考えた。
考えるだけなら、幾度でもできる。
けれど、身体は動かなかった。
右足首はまだ熱を持っている。少し力を入れるだけで、骨の奥に針を刺されたような痛みが走った。肋の痛みも、肩の痛みも残っている。走るどころか、幕屋の入口まで這うことすら怪しい。
それでも、考えずにはいられなかった。
逃げなければならない。
私は王立学術院の研究官補だ。
辺境度量衡監査官補だ。
オークの幕屋で、湯を飲み、布にくるまれ、蝋板へ記録を刻んでいる場合ではない。
だが、幕屋の外にはオークがいる。
森にはゴブリンがいる。
道には、もう私の隊商はいない。
そして、城壁の中には人間社会がある。
そのどれが一番恐ろしいのか、私には分からなくなっていた。
*
この数日で、私は少しずつ、この群れの音を聞き分けるようになった。
水を煮る音。
木を割る音。
重い足が土を踏む音。
傷ついた者が低く唸る音。
火に汚れた布をくべる時の、湿った煙の音。
そして、別の音もあった。
群れが熱を持つ音だ。
夜だけではない。
昼でも起きる。狩りから戻った後。血の匂いがまだ残っている時。食い終えた後。若い雄が雌の後を追い、雌が牙を剥き、別の雄がそれを見て肩を揺らす。
私はそのたびに、幕屋の奥で息を殺した。
見まいとしても、布越しに声は聞こえる。
低く吠える雄の声。
それに応じる雌の声。
湿った土を蹴る音。
何か重いものが草を押し倒す気配。
そして、匂い。
火の煙。
獣の汗。
濡れた土。
押し潰された草の青臭さ。
その奥に、血とも腐れとも違う、生臭い体液の匂いが混じっていた。
私は、その意味を理解してしまった。
幕屋の外で何が起きているのか、見なくても分かる。
耳で分かる。
鼻で分かる。
喉の奥に絡む臭気で分かる。
これは人間の夜の営みではない。
婚姻でも、床入りでも、情でもない。
十五文化圏のどこにも属さない、野生の群れの行いだ。
王国の者たちは、オークを猿と呼ぶ。
害獣と呼ぶ。
駆除目録に載せる。
その猿たちが、幕屋一枚の向こうで吠え、土を蹴り、濃い獣の匂いを漂わせている。
では、私は何なのか。
王立学術院の研究官補か。
辺境度量衡監査官補か。
それとも、怪我をして逃げられない、人間の雌か。
いつ、あの匂いの中へ引きずり出されるのか。
そう思った瞬間、息がうまく吸えなくなった。
だが、この群れでは、そこへ必ず別のものが割り込む。
低い一声。
あの大きな個体の声だった。
その声が飛ぶと、若い雄は牙を収める。雌から離れ、汚れた布の山へ戻る。ある者は水場へ向かい、ある者は見張りに回される。
欲がないのではない。
欲より先に、指図がある。
血の熱より先に、汚れを分ける作法がある。
ただし、それは欲を消すものではなかった。
作業が終わり、汚れた布が焼かれ、死骸が火へ運ばれ、水の桶が別の場所へ移されると、群れの外れからまた低い吠え声が上がる。
私はそのたびに、布を握りしめた。
この群れは、獣であることをやめたのではない。
獣のまま、時と場所を分けられている。
そして、その声が届かなくなった時、私を守るものは何もない。
私は震える手で、蝋板に刻んだ。
――雌雄の吠え声、昼夜を問わず。
――幕屋外に獣臭、汗、体液臭あり。
――幕屋近くでは大個体の指図あり。
――作業中、傷病者の側、汚れ処理の場では停止。
――作業後、遠方にて群れの熱あり。
――欲を消すにあらず。時と場所を分けるものか。
――私自身も対象となる恐れあり。
最後の一行を刻んだ時、鉄筆の先が蝋を深くえぐった。
私はその跡を見つめた。
書いてしまった。
王国へ出せるはずのない記録が、また一つ増えた。
*
私は、持ち物を何度も確かめていた。
革鞄。
蝋板、一枚。端が欠けている。
鉄筆。曲がってはいない。
羊皮紙、六枚。うち二枚は泥で端が使えない。
封蝋、小片。
監査官補の印章。無事。
調査帳。濡れているが、読める頁もある。
インク壺はない。羽根ペンもない。
正式な清書はできない。
それでも、蝋板と鉄筆がある。
書ける。
その事実に、また少しだけ息ができた。
私は調査帳を開いた。
乾ききっていない頁が、指に貼りつく。書かれた文字は一部滲んでいたが、北門から三里までの升の差、商会の荷目録、通行料、同行者の名は残っていた。
下級書記の少年の名もある。
トマス。
彼は、生きているのだろうか。
私はその名の上で指を止めた。
思い出したくないのに、泥の中で振り返った顔が浮かんだ。背後から跳んだゴブリン。横から飛んだ斧。倒れる身体。荷車。馬の叫び。
私は、彼を助けられなかった。
それを記録すべきだと思った。
けれど、蝋板に刻む手は動かなかった。
死者の記録は、王国へ戻る者が書く。
戻れない者が書いたところで、誰に届くのか。
幕屋の外で、足音が近づいた。
私は反射的に蝋板を胸に抱えた。
入口の布が持ち上がる。
入ってきたのは、いつもの体格の小さなオークだった。手に、木の皿を持っている。皿の上には、潰した根菜のようなものと、黒く焼いた肉片が少し乗っていた。
私は息を詰めた。
肉。
何の肉だ。
人か。
馬か。
ゴブリンか。
それとも森の獣か。
考えた瞬間、吐き気が来た。
小さなオークは、私の様子を見て、皿を少し離れた場所に置いた。それから肉片だけを取り、別の小皿へ移した。私に根菜の皿を近づけ、肉の皿は自分の側へ引いた。
食え、という身振り。
肉は食わせない。
根だけを食わせる。
私の顔を読んだのか。
それとも、弱った者には重い肉を避けるという作法が、この群れにあるのか。
私は答えを持たなかった。
根菜は、粗く潰されていた。塩気が少しある。土臭い。だが、腐ってはいない。
私は警戒しながら、一口だけ食べた。
胃が、動いた。
空腹だった。
自分が空腹であることに気づいた瞬間、私はまた泣きそうになった。
城壁の外で、人間社会から落ちたはずだった。
それなのに、身体はまだ食べ物を欲しがる。
生きようとしている。
私の意思とは関係なく。
小さなオークは、私が飲み込み終えるのを見て、短く声を出した。
意味は分からない。
だが、急かす声ではなかった。
彼は私の足首を見ようとした。
私は皿を落としかけた。
「触らないで」
声が震えた。
小さなオークは動きを止めた。
そして、幕屋の外へ声を投げた。
すぐに、あの低い声が返ってきた。
布の向こうに、大きな影が落ちる。
名を持たぬ大きなオークだった。
彼は中へ入らなかった。入口のところで膝をつくように身を低くし、こちらを見た。そうしなければ、幕屋の布を引き裂いてしまいそうだった。
彼の視線が、私の足首へ向いた。
それだけで、身体がこわばる。
森の泥の中で見上げた牙。
鉄筆の先を押し下げた指。
私を持ち上げた腕。
私は布を握った。
「来ないで」
彼は止まったままだった。
止まったまま、私を見ていた。
その目が、一度だけ、私の顔から胸元へ落ちた。
粗い布。
身体に合わせて巻いただけの覆い。
人間の衣ではない。
隠しているようで、隠しきれていないもの。
私は、血が引くのを感じた。
彼はすぐに目を逸らした。
太い指が、幕屋の柱を掴む。
木が小さく軋んだ。
牙のある口元がわずかに開き、低い息が漏れる。
外の若い雄たちが雌を追う時と同じ熱が、そこにある。
私は、そう悟ってしまった。
この大きな個体も、オークなのだ。
私を洗わせ、湯を飲ませ、若い雄を遠ざけているこの個体も。
水を煮させ、汚れた布を焼かせ、傷ついた者を分けているこの個体も。
やはり、オークなのだ。
彼は腰の荷帯の前を、わずかに私から背けた。
まるで、そこに現れた何かを見せまいとするように。
私は息を止めた。
恐怖で、喉が鳴らなかった。
彼は、私に近づかなかった。
ただ、短く唸り、自分の胸を拳で一度だけ叩いた。
止まれ。
その声は、群れに向けたものではなかった。
自分自身に向けたもののように、私には聞こえた。
彼は、私を守っているのか。
それとも、私から自分自身を遠ざけているのか。
どちらにせよ、私の身体は、彼にとって何かを呼び起こしている。
その事実に、膝の奥が冷たくなった。
大きなオークは、ゆっくりと自分の足首を指さした。次に、私の足首を指さす。さらに両手を開き、何かを結ぶような身振りをした。
添え木。
動かさぬようにする。
傷めた足を、これ以上悪くしないための作法。
そういう意味だと、遅れて分かった。
彼は、私の足を治そうとしている。
あるいは、逃げられないようにするためかもしれない。
どちらもあり得た。
小さなオークが、木片と布を見せた。布は煮た湯に通したのか、まだわずかに湿り、湯気の名残があった。
汚れた布ではない。
私は歯を食いしばった。
触れられたくない。
だが、足は痛い。
このままでは逃げられない。
逃げられないなら、せめて歩けるようにならなければならない。
私は小さくうなずいた。
自分がオークにうなずいたことに、すぐ気づいた。
胸の奥が冷えた。
小さなオークは、ゆっくり近づいてきた。
私が身を引くたびに止まり、また少し進む。
その動きは、獣に餌をやる時のそれに似ていた。
私は人間だ。
そう言いたかった。
だが、声にはならなかった。
足首に触れられた瞬間、身体が跳ねた。
小さなオークは強い力で押さえつけなかった。腫れたところを避け、木片を当て、布を巻く。巻き方は荒い。人間の施療師ほど器用ではない。だが、無茶ではなかった。
痛い。
けれど、折られてはいない。
壊されてはいない。
処置が終わると、小さなオークは離れた。入口の大きなオークが短く声を出す。小さなオークは木皿を持って出て行った。
私は足首を見た。
木片と布で固定されている。
結び目は大きく、不格好だ。だが、動かすと痛みが少し減った。
私は蝋板に手を伸ばした。
書かずにはいられなかった。
――右足首、腫れあり。
――木片と布にて固定。
――力任せではない。痛み、やや減る。
――大個体、幕屋内に入らず。
――私を見て、目を逸らす。
――自身を制する様子あり。
そこまで刻んで、鉄筆が止まる。
私は何を書いているのか。
オークに触れられたことを。
オークに足を巻かれたことを。
オークの手が、壊すためではなく、治すために動いたことを。
そして、その大きなオークが、私を見て何かを堪えていたことを。
そんな記録を、王国へ出せるはずがない。
私は蝋板の端を削ろうとした。
だが、削れなかった。
*
昼なのか、夕なのか、幕屋の中では分かりにくい。
ただ、外の光が少し傾き、火の匂いが強くなった頃、大きなオークが再び姿を見せた。
彼は、今度は一人だった。
手には、細い枝を数本持っている。
私は身構えた。
彼は入口の外、私から少し離れた地面に枝を置いた。
一本を立てる。
その周りに小石を並べる。
少し離れたところに、別の石を積む。
私は最初、何をしているのか分からなかった。
彼は太い指で地面に線を引いた。
曲がった線。
森の中を走る獣道のような線。
その片側に、小石をいくつか置く。
それから、鼻先を動かすようにして、何かを嗅ぐ身振りをした。
人間の匂い。
そういう意味だと、なぜか分かった。
次に、彼は枝を横に寝かせ、二つ並べた。
荷車の轍か。
馬の足跡か。
彼はそこを指さし、次に私を指さした。
私たちの道。
隊商が通った道。
胸が詰まった。
その道を行けば、城塞都市へ戻れるかもしれない。
王国へ。学術院へ。人間の側へ。
私はそう思った。
だが、大きなオークは、その線の途中に黒く焼けた枝を置いた。
それから、低く唸った。
ゴブリン。
腐れ。
彼はその場所を何度も指し、首を横に振るような仕草をした。
次に、別の方角へ石をいくつか置いた。
石は大きく、ばらばらで、荒い。
彼は自分の胸を叩き、それからその石の群れを指した。
牙を剥き、腕を振る。
敵。
他のオークか。
野生の群れか。
あるいは、もっと大きな獣か。
私は唇を噛んだ。
彼が描いているのは、帰り道ではなかった。
城塞都市への地図ではない。
王国へ続く道でもない。
人間の土地を知る者の図ではない。
森側の地図だ。
水場。
獣道。
人間の匂いが来る線。
ゴブリンの腐れがある場所。
他のオークか獣の縄張り。
この群れの届く場所と、届かない場所。
私の世界では、道とは町と町を結ぶものだった。
税と通行料を取り、荷を運び、升と秤を揃えるための線だった。
けれど、この個体にとって、道は違う。
匂いが流れる線。
荷が流れる線。
危険が来る線。
獣とゴブリンと人間が、たまたま同じ土を踏む場所。
私は、初めて彼が城壁を知らないのだと悟った。
彼は私を、城塞都市へ返すつもりなのではない。
そこを知らないのだ。
彼が知っているのは、ここから先へ一人で出れば死ぬ、ということだけだった。
大きなオークは、私を指さした。
次に、人間の匂いが来る線を指さした。
そして、黒く焼けた枝を指した。
低く唸る。
行けば、腐れに当たる。
そう言っているように見えた。
さらに、荒い石の群れを指す。
牙を剥く。
行けば、別の群れに当たる。
そう言っているように見えた。
私は声を出せなかった。
帰る道はある。
けれど、彼はそこを帰る道とは呼ばない。
彼にとってそれは、危険な線だ。
そして今の私には、その線を一人で越える力がない。
私は唇を動かした。
「……城壁は、どちら」
彼は答えなかった。
当然だった。
言葉が通じないのではない。
たぶん、彼の中にその場所がないのだ。
王国。
城塞都市。
学術院。
監査官補。
それらは、私を私として数えていた言葉だった。
だが、彼の地図にはない。
あるのは、匂いと水と火と腐れと敵だけ。
私はその事実に、背筋が冷えた。
十五文化圏の外へ落ちるとは、こういうことなのか。
私の名も、官職も、印章も、帰るべき城壁も、ここでは線にならない。
大きなオークは、私の沈黙をどう受け取ったのか、地面の線の一部を手で消した。
消されたのは、人間の匂いが来る道だった。
私は思わず身を乗り出した。
「待って」
声が出た。
彼は動きを止めた。
私は自分でも、なぜ止めたのか分からなかった。
帰りたい。
帰らなければならない。
帰れば、すべてが元に戻るはずだ。
嘘だ。
元には戻らない。
私はもう、森の泥の中で失った。
人間社会に戻る前から、戻る資格を失っている。
それでも、地面に描かれた人間の道が消されるのを見て、胸が詰まった。
大きなオークは、少しだけ首を傾けた。
その仕草が、人間の疑問に似ていた。
私は怖くなった。
似ていると思ってしまった自分が、怖かった。
私は蝋板を引き寄せた。
書く。
書けば、感情ではなくなる。
恐怖も、屈辱も、混乱も、記録にすれば少しだけ距離ができる。
――大個体、地面に森の図を描く。
――人間の道を、匂いと荷の線として示す。
――城壁、王国、町の概念を示さず。
――ゴブリンの腐れ、他オークまたは大型獣の縄張りあり。
――当該個体、人間の道を帰路としてではなく危険線として認識するものか。
私はそこで止まった。
「助ける意図あり」とは書けなかった。
「返還の意図あり」とも書けなかった。
その言葉は、まだ大きすぎる。
だから、こう刻んだ。
――私を、まだ道へ出していない。
書いた瞬間、その意味が分からなくなった。
守っているのか。
閉じ込めているのか。
怪我人としてか。
荷としてか。
雌としてか。
それとも、十五文化圏の外側で、別の数え方をされているのか。
大きなオークは、しばらく私を見ていた。
そして、ゆっくりと立ち上がる。
幕屋を出ていく直前、彼は一度だけ振り返った。
牙のある顔。
獣の顎。
大型猿の目。
だが、その目の奥には、命じる者の静けさがあった。
私は蝋板を抱えたまま、声を出さずに息を吐いた。
帰る道は、ある。
けれどそれは、王国の道ではなかった。
森の中に引かれた、死地と死地の間の細い線だった。
そのことを、私はこの日、初めて知った。




