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第十六個体観測録  作者: 黒瀬 量衡


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第二話 清めの幕屋

 目を覚ました時、最初に思ったのは、死後の世界にしては寒い、ということだった。


 次に、臭いがしないと思った。


 血の臭いも、糞尿の臭いも、腐った肉の臭いも、思っていたほどにはない。


 それが、何より恐ろしかった。


 オークの巣とは、もっと酷い場所であるはずだった。

 泥と腐肉と汚物が積み重なり、人の骨が転がり、攫われた者の泣き声が闇の中で腐っていく場所。私はそう教えられてきた。


 けれど、私が横たえられていた場所には、乾いた草と、湯気の名残と、灰の匂いがあった。


 私は薄く目を開けた。


 木の骨組みに、粗い布が掛けられている。幕屋、というにはあまりに無骨だった。だが、巣ではない。少なくとも、獣が寝転ぶ穴ではなかった。


 地面には乾いた草が敷かれ、その上に毛の少ない獣皮が重ねられていた。湿っていない。泥もない。私の身体の下には、折れた枝も石もなかった。


 右足首が痛む。


 息を吸うと、肋のあたりも痛んだ。

 肩にも鈍い痛みが残っている。


 生きている。


 その事実が、安堵ではなく、次の恐怖を呼んだ。


 生きているということは、まだ終わっていないということだ。


 私は身を起こそうとした。


 衣が、違っていた。


 王立学術院の外套ではない。

 調査用の上衣でもない。

 泥と血と、自分の恥で汚したはずの衣ではない。


 粗いが乾いた布が、私の身体に巻かれていた。胸元と腰に、紐が通されている。人間の衣ほど整ってはいない。けれど、寒さを避け、肌を覆うには足りる。


 誰かが、私を洗った。


 その理解が来た瞬間、胃が縮んだ。


 森の泥の中で、自分の身体すら保てなくなった私を。

 猿に見下ろされ、抱え上げられ、抵抗もできなかった私を。


 誰かが、洗った。


 私は喉を押さえた。吐き気は来たが、吐くものがなかった。


 屈辱より先に、恐怖があった。

 恐怖より遅れて、羞恥が来た。

 その後に、奇妙な疑問が残った。


 なぜ、私は汚れたまま放り出されていないのか。


 オークは、攫った者を洗うものなのか。

 いや、そんな記録はない。王国の獣害目録にも、隊商の証言にも、村の怪談にもない。


 オークは人を巣へ引きずり込む。

 汚す。

 使う。

 捨てる。


 清める、などという語は、オークに結びつかない。


 幕屋の外で、低い声がした。


 私は息を止めた。


 声は一つではない。

 何体ものオークがいる。


 だが、怒鳴り声ではなかった。喚き声でも、争う声でもない。短く、低く、切るような声。それに応じて、重い足音が動く。


 私は布の隙間から外を覗いた。


 そこは、オークの巣ではなかった。


 少なくとも、私が知っている言葉でいう巣ではなかった。


 森を切り開いた小さな広場。

 その周囲に、木と土で作られた粗末な囲い。

 片側には火があり、大きな土器のようなものが掛けられていた。中の水が、白い湯気を上げている。


 水を、煮ている。


 私は目を細めた。


 別の場所では、汚れた布が棒で寄せられ、火の中へ投げ込まれていた。素手では触れていない。血のついた布も、泥まみれの紐も、腐れの染みた草も、一つの山に集めて燃やしている。


 さらに奥には、低い柵で仕切られた場所があった。そこには、傷ついたオークが数体、横たわっている。別のオークが、その傷を見ていた。濡らした布で拭い、何かを塗り、汚れた布をすぐ横の桶へ落とす。


 病む者を、分けている。


 私は理解できなかった。


 修道院の施療院なら、まだ分かる。

 軍陣の施療所でも、聞いたことはある。

 だが、ここは森の中だ。相手はオークだ。大型猿だ。文化圏にも数えられない、駆除対象の群れだ。


 なのに、彼らは腐れを避けている。

 汚れたものを分けている。

 水を煮ている。


 広場の端では、森から戻ってきた数体のオークが、何かを引きずっていた。


 ゴブリンの死骸だった。


 泥と血にまみれたそれを、彼らは直接手で掴んでいない。枝を使い、蔓を巻き、できるだけ身体から離して運んでいる。運び終えると、死骸の触れた草を剥がし、汚れた布や枝と一緒に火の方へ寄せた。


 彼らは、人間の道を襲った後の群れには見えなかった。


 むしろ、森の奥から腐れを追ってきて、そのままこの外れまで出てきたように見えた。


 私たちの隊商が通った道は、彼らにとって街道ではないのかもしれない。

 王国へ続く道でも、城塞都市へ戻る道でもない。


 ただ、森の外から人間の匂いと、荷と、危険が流れてくる細い線。


 そう考えた時、私は初めて気づいた。


 この群れは、人間の世界へ出てきたのではない。

 森の腐れを追っているうちに、私たちの道へ出たのだ。


 その近くで、若い成獣らしい雄のオークが、戻ってきた雌の匂いを嗅いだ。


 私は身を強張らせた。


 獣害目録に書かれていた。

 隊商の生き残りも、震えながら語っていた。


 オークは夜だけに交わるものではない。

 狩りの後、血を浴びた後、食った後、群れが騒いだ後。昼であろうと、夕であろうと、熱に任せて雌を追う。そこに婚姻も、床入りも、祈りもない。ただ、猿の群れの本能があるだけだと。


 若い雄は、牙を剥いた。

 肩を揺らし、雌へ向かって一歩踏み出す。


 私は、息を止めた。


 次に起きることを、見たくなかった。

 そして、見たくないと思った瞬間、別の恐怖が胸に落ちた。


 この群れにとって、私は何なのか。


 王立学術院の研究官ではない。

 監査官補でもない。

 十五文化圏の度量衡を記録する者でもない。


 森で拾われた、怪我をした人間の雌。


 その事実が、冷たい手のように喉を締めた。


 だが、若い雄は動きを止めた。


 広場の中央で、あの大きな個体が短く声を発したからだ。


 低い一声だった。


 それだけで、若い雄は牙を収めた。雌から離れ、汚れた布の山へ戻る。別のオークが枝で死骸を寄せ、火の方へ運ぶ。


 私は、思わず布を握りしめた。


 欲より先に、指図がある。

 血の熱より先に、汚れを分ける作法がある。


 そんな群れを、私は知らない。


 ただし、欲が消えているわけではなかった。


 死骸が火へ運ばれ、汚れた布が焼かれ、水の桶が別の場所へ移された後、広場の外れでまた低い吠え声が上がった。


 雄の声。

 雌の声。

 湿った土を蹴る音。

 重い身体が草を押し倒す気配。


 私は布の内側で身を固くした。


 ここは人間の宿ではない。

 修道院の施療院でもない。

 文化圏の中にあるどんな寝所でもない。


 この群れは、獣であることをやめたのではない。

 獣のまま、時と場所を分けられているのだ。


 そして、その分ける声が途切れた時、私を守るものは何もない。


 私は自分の胸元を見下ろした。


 巻かれた布は、荒く、縫い目もない。ただ裂いた布を身体に合わせて括っただけのものだ。けれど、乾いていた。嫌な臭いがない。


 私の髪にも、泥は固まっていなかった。

 指で触れると、まだ湿っている。水を通されたのだ。


 私は震えた。


 獣に洗われた。


 そう思えば、吐き気がする。


 だが同時に、王都の施療院でも、ここまで丁寧に泥を落とされるとは限らない、という考えが頭をよぎった。


 私はその考えを、すぐに押し潰した。


 認めてはならない。

 比べてはならない。


 オークの巣と、王国の施療院を。


 その時、幕屋の入口が持ち上がった。


 私は反射的に後ずさろうとした。足首に痛みが走り、息が詰まる。


 入ってきたのは、体格の小さなオークだった。


 小さい、といっても人間の男よりは大きい。だが、森で私を抱え上げたあの個体ではない。体毛は粗く、顎は張り、牙が見える。だが、野生の図版で見るような泥と糞尿の塊ではなかった。


 腰に、革紐が括られている。そこに小さな骨片や、木のへらのようなものが吊られていた。衣ではない。飾りでもない。手を使うための道具を、身体に結び付けているだけだ。


 そのオークは、私を見て、短く声を出した。


 意味は分からない。


 私は身を固くした。


 オークは近づいてきた。手には木の椀を持っている。中には湯気の立つ液体が入っていた。


 毒か。

 薬か。

 それとも、私を従わせるための何かなのか。


 私は顔を背けた。


 オークは椀を押しつけてこなかった。私の近くに置き、数歩下がった。


 そして、幕屋の外へ向かって声を出した。


 返事があった。


 低い声。


 あの大きな個体の声だ、と身体が先に分かった。


 幕屋の入口に、影が落ちた。


 私は息を止めた。


 昨日、私を抱え上げたオークが、そこにいた。


 立っているだけで、幕屋の布が狭く見える。

 体毛と泥の残る巨体。牙の覗く顎。短く太い首。肩から胸にかけて、獣というより、岩を動かすために作られたような筋がある。


 その腰と肩には、革紐と荷帯が括られていた。

 道具を吊るため。物を運ぶため。身体を守るため。

 服ではない。装いではない。


 猿の身体に、兵の備えだけが結び付けられている。


 私は布を握りしめた。


「来ないで」


 声はかすれていた。


 彼は止まった。


 止まった。


 その事実に、私はまた混乱した。


 オークが、人間の言葉を理解したのか。

 それとも、私の声の怯えを読んだのか。


 彼は幕屋の入口から、それ以上入ってこなかった。


 片手を上げ、短く何かを言った。


 体格の小さなオークが、私の近くに置いた椀を指さした。次に、自分の口元を指さす。飲め、ということらしい。


 私は椀を見た。


 薄い湯だった。


 水ではない。

 何かの草か、根を煮出している。苦い匂いがする。だが、腐った匂いはなかった。


 水を、そのまま飲ませない。

 煮た水を、飲ませようとしている。


 私は喉の渇きを自覚した。


 唇が割れている。口の中が乾いている。頭が重い。


 飲みたい。


 そう思った瞬間、別の恐怖が来た。


 オークの差し出すものを飲むのか。

 猿の群れの水を。


 私は王立学術院の研究官補だ。

 十五文化圏の度量衡を記録する者だ。

 オークの餌を口にする者ではない。


 けれど、喉は焼けるように乾いていた。


 私は椀を取った。


 手が震える。

 中の湯が揺れ、少しこぼれて指にかかった。


 熱い。


 その熱さが、妙に現実だった。


 私は一口だけ飲んだ。


 苦い。

 土臭い。

 だが、腹の底を刺すような腐れの味はない。


 身体が、勝手に次の一口を欲しがった。


 私は泣きそうになった。


 なぜだ。


 なぜ、オークの幕屋で飲む湯に、私は安堵しているのか。


 あの大きなオークは、私が飲むのを見届けると、足元に何かを置いた。


 革鞄だった。


 私の鞄。


 泥は拭われていた。完全ではない。革の縫い目には土が残っている。だが、蓋は閉じられ、紐は結び直されていた。


 私は手を伸ばした。


 鞄の中には、蝋板が一枚。欠けている。

 鉄筆。曲がってはいない。

 羊皮紙。数は少ない。端が泥に汚れたものもある。


 インク壺はなかった。割れたのだろう。


 私は鞄を胸に抱いた。


 この時、初めて涙が落ちた。


 命が助かったからではない。

 恐怖が解けたからでもない。


 私がまだ記録できるからだった。


 そのことに気づいて、私は自分が嫌になった。


 オークの幕屋で、洗われ、衣を替えられ、湯を飲まされ、なお私は記録の心配をしている。


 研究官だからか。

 それとも、壊れ始めているからか。


 あの大きなオークは、私の涙を見ても近づかなかった。


 ただ、こちらを見ていた。


 その目が、獣のそれだけではないように見えた。

 私はそう思ってしまった。


 思ってしまったことが、恐ろしかった。


 私は蝋板を取り出した。


 手はまだ震えている。

 鉄筆の先が、蝋の上を滑る。


 書くな。

 今は逃げることを考えろ。

 そう思った。


 だが、逃げ道はない。

 足は痛む。

 外にはオークがいる。

 森にはゴブリンがいる。

 そして人間社会では、私はもう死んだ者かもしれない。


 ならば、書くしかない。


 私は蝋板に、短く刻んだ。


 ――王暦二百三十一年、麦刈り月。

 ――森中にて、獣害目録に合わぬオーク群を観測。

 ――水を煮る。汚れたものを焼く。病む者を分ける。

 ――腐れを避ける作法あり。

 ――ゴブリンの死骸、枝と蔓にて運ぶ。

 ――人間の道を知るにあらず。匂いと荷と危険の線として見るものか。

 ――狩り帰りの熱あり。

 ――汚れ処理中は大個体の指図により停止。

 ――作業後、遠方にて雌雄の吠え声あり。

 ――欲を消すにあらず。時と場所を分けるものか。


 そこまで刻んで、手が止まった。


 最後に一行を足す。


 ――私を、殺していない。


 その一行を見た瞬間、胸の奥が冷えた。


 救われた、とは書けなかった。

 助けられた、とも書けなかった。


 殺していない。


 今の私に書ける真実は、それだけだった。


 幕屋の入口で、名を持たぬオークが静かにこちらを見ていた。


 私は彼から目を逸らし、蝋板を抱え込んだ。


 世界には十五の文化圏がある。

 王国学術院は、そう定めていた。


 だが、私の前にいるこれは、そのどれにも入らない。


 文化ではないはずのものが、火を使い、水を煮て、腐れを分け、私を殺さずにいる。


 獣であることをやめたのではない。

 獣のまま、獣の熱を持ったまま、時と場所を分けている。


 私はまだ、その意味を知らなかった。

 知らないまま、記録を始めてしまった。

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