第二話 清めの幕屋
目を覚ました時、最初に思ったのは、死後の世界にしては寒い、ということだった。
次に、臭いがしないと思った。
血の臭いも、糞尿の臭いも、腐った肉の臭いも、思っていたほどにはない。
それが、何より恐ろしかった。
オークの巣とは、もっと酷い場所であるはずだった。
泥と腐肉と汚物が積み重なり、人の骨が転がり、攫われた者の泣き声が闇の中で腐っていく場所。私はそう教えられてきた。
けれど、私が横たえられていた場所には、乾いた草と、湯気の名残と、灰の匂いがあった。
私は薄く目を開けた。
木の骨組みに、粗い布が掛けられている。幕屋、というにはあまりに無骨だった。だが、巣ではない。少なくとも、獣が寝転ぶ穴ではなかった。
地面には乾いた草が敷かれ、その上に毛の少ない獣皮が重ねられていた。湿っていない。泥もない。私の身体の下には、折れた枝も石もなかった。
右足首が痛む。
息を吸うと、肋のあたりも痛んだ。
肩にも鈍い痛みが残っている。
生きている。
その事実が、安堵ではなく、次の恐怖を呼んだ。
生きているということは、まだ終わっていないということだ。
私は身を起こそうとした。
衣が、違っていた。
王立学術院の外套ではない。
調査用の上衣でもない。
泥と血と、自分の恥で汚したはずの衣ではない。
粗いが乾いた布が、私の身体に巻かれていた。胸元と腰に、紐が通されている。人間の衣ほど整ってはいない。けれど、寒さを避け、肌を覆うには足りる。
誰かが、私を洗った。
その理解が来た瞬間、胃が縮んだ。
森の泥の中で、自分の身体すら保てなくなった私を。
猿に見下ろされ、抱え上げられ、抵抗もできなかった私を。
誰かが、洗った。
私は喉を押さえた。吐き気は来たが、吐くものがなかった。
屈辱より先に、恐怖があった。
恐怖より遅れて、羞恥が来た。
その後に、奇妙な疑問が残った。
なぜ、私は汚れたまま放り出されていないのか。
オークは、攫った者を洗うものなのか。
いや、そんな記録はない。王国の獣害目録にも、隊商の証言にも、村の怪談にもない。
オークは人を巣へ引きずり込む。
汚す。
使う。
捨てる。
清める、などという語は、オークに結びつかない。
幕屋の外で、低い声がした。
私は息を止めた。
声は一つではない。
何体ものオークがいる。
だが、怒鳴り声ではなかった。喚き声でも、争う声でもない。短く、低く、切るような声。それに応じて、重い足音が動く。
私は布の隙間から外を覗いた。
そこは、オークの巣ではなかった。
少なくとも、私が知っている言葉でいう巣ではなかった。
森を切り開いた小さな広場。
その周囲に、木と土で作られた粗末な囲い。
片側には火があり、大きな土器のようなものが掛けられていた。中の水が、白い湯気を上げている。
水を、煮ている。
私は目を細めた。
別の場所では、汚れた布が棒で寄せられ、火の中へ投げ込まれていた。素手では触れていない。血のついた布も、泥まみれの紐も、腐れの染みた草も、一つの山に集めて燃やしている。
さらに奥には、低い柵で仕切られた場所があった。そこには、傷ついたオークが数体、横たわっている。別のオークが、その傷を見ていた。濡らした布で拭い、何かを塗り、汚れた布をすぐ横の桶へ落とす。
病む者を、分けている。
私は理解できなかった。
修道院の施療院なら、まだ分かる。
軍陣の施療所でも、聞いたことはある。
だが、ここは森の中だ。相手はオークだ。大型猿だ。文化圏にも数えられない、駆除対象の群れだ。
なのに、彼らは腐れを避けている。
汚れたものを分けている。
水を煮ている。
広場の端では、森から戻ってきた数体のオークが、何かを引きずっていた。
ゴブリンの死骸だった。
泥と血にまみれたそれを、彼らは直接手で掴んでいない。枝を使い、蔓を巻き、できるだけ身体から離して運んでいる。運び終えると、死骸の触れた草を剥がし、汚れた布や枝と一緒に火の方へ寄せた。
彼らは、人間の道を襲った後の群れには見えなかった。
むしろ、森の奥から腐れを追ってきて、そのままこの外れまで出てきたように見えた。
私たちの隊商が通った道は、彼らにとって街道ではないのかもしれない。
王国へ続く道でも、城塞都市へ戻る道でもない。
ただ、森の外から人間の匂いと、荷と、危険が流れてくる細い線。
そう考えた時、私は初めて気づいた。
この群れは、人間の世界へ出てきたのではない。
森の腐れを追っているうちに、私たちの道へ出たのだ。
その近くで、若い成獣らしい雄のオークが、戻ってきた雌の匂いを嗅いだ。
私は身を強張らせた。
獣害目録に書かれていた。
隊商の生き残りも、震えながら語っていた。
オークは夜だけに交わるものではない。
狩りの後、血を浴びた後、食った後、群れが騒いだ後。昼であろうと、夕であろうと、熱に任せて雌を追う。そこに婚姻も、床入りも、祈りもない。ただ、猿の群れの本能があるだけだと。
若い雄は、牙を剥いた。
肩を揺らし、雌へ向かって一歩踏み出す。
私は、息を止めた。
次に起きることを、見たくなかった。
そして、見たくないと思った瞬間、別の恐怖が胸に落ちた。
この群れにとって、私は何なのか。
王立学術院の研究官ではない。
監査官補でもない。
十五文化圏の度量衡を記録する者でもない。
森で拾われた、怪我をした人間の雌。
その事実が、冷たい手のように喉を締めた。
だが、若い雄は動きを止めた。
広場の中央で、あの大きな個体が短く声を発したからだ。
低い一声だった。
それだけで、若い雄は牙を収めた。雌から離れ、汚れた布の山へ戻る。別のオークが枝で死骸を寄せ、火の方へ運ぶ。
私は、思わず布を握りしめた。
欲より先に、指図がある。
血の熱より先に、汚れを分ける作法がある。
そんな群れを、私は知らない。
ただし、欲が消えているわけではなかった。
死骸が火へ運ばれ、汚れた布が焼かれ、水の桶が別の場所へ移された後、広場の外れでまた低い吠え声が上がった。
雄の声。
雌の声。
湿った土を蹴る音。
重い身体が草を押し倒す気配。
私は布の内側で身を固くした。
ここは人間の宿ではない。
修道院の施療院でもない。
文化圏の中にあるどんな寝所でもない。
この群れは、獣であることをやめたのではない。
獣のまま、時と場所を分けられているのだ。
そして、その分ける声が途切れた時、私を守るものは何もない。
私は自分の胸元を見下ろした。
巻かれた布は、荒く、縫い目もない。ただ裂いた布を身体に合わせて括っただけのものだ。けれど、乾いていた。嫌な臭いがない。
私の髪にも、泥は固まっていなかった。
指で触れると、まだ湿っている。水を通されたのだ。
私は震えた。
獣に洗われた。
そう思えば、吐き気がする。
だが同時に、王都の施療院でも、ここまで丁寧に泥を落とされるとは限らない、という考えが頭をよぎった。
私はその考えを、すぐに押し潰した。
認めてはならない。
比べてはならない。
オークの巣と、王国の施療院を。
その時、幕屋の入口が持ち上がった。
私は反射的に後ずさろうとした。足首に痛みが走り、息が詰まる。
入ってきたのは、体格の小さなオークだった。
小さい、といっても人間の男よりは大きい。だが、森で私を抱え上げたあの個体ではない。体毛は粗く、顎は張り、牙が見える。だが、野生の図版で見るような泥と糞尿の塊ではなかった。
腰に、革紐が括られている。そこに小さな骨片や、木のへらのようなものが吊られていた。衣ではない。飾りでもない。手を使うための道具を、身体に結び付けているだけだ。
そのオークは、私を見て、短く声を出した。
意味は分からない。
私は身を固くした。
オークは近づいてきた。手には木の椀を持っている。中には湯気の立つ液体が入っていた。
毒か。
薬か。
それとも、私を従わせるための何かなのか。
私は顔を背けた。
オークは椀を押しつけてこなかった。私の近くに置き、数歩下がった。
そして、幕屋の外へ向かって声を出した。
返事があった。
低い声。
あの大きな個体の声だ、と身体が先に分かった。
幕屋の入口に、影が落ちた。
私は息を止めた。
昨日、私を抱え上げたオークが、そこにいた。
立っているだけで、幕屋の布が狭く見える。
体毛と泥の残る巨体。牙の覗く顎。短く太い首。肩から胸にかけて、獣というより、岩を動かすために作られたような筋がある。
その腰と肩には、革紐と荷帯が括られていた。
道具を吊るため。物を運ぶため。身体を守るため。
服ではない。装いではない。
猿の身体に、兵の備えだけが結び付けられている。
私は布を握りしめた。
「来ないで」
声はかすれていた。
彼は止まった。
止まった。
その事実に、私はまた混乱した。
オークが、人間の言葉を理解したのか。
それとも、私の声の怯えを読んだのか。
彼は幕屋の入口から、それ以上入ってこなかった。
片手を上げ、短く何かを言った。
体格の小さなオークが、私の近くに置いた椀を指さした。次に、自分の口元を指さす。飲め、ということらしい。
私は椀を見た。
薄い湯だった。
水ではない。
何かの草か、根を煮出している。苦い匂いがする。だが、腐った匂いはなかった。
水を、そのまま飲ませない。
煮た水を、飲ませようとしている。
私は喉の渇きを自覚した。
唇が割れている。口の中が乾いている。頭が重い。
飲みたい。
そう思った瞬間、別の恐怖が来た。
オークの差し出すものを飲むのか。
猿の群れの水を。
私は王立学術院の研究官補だ。
十五文化圏の度量衡を記録する者だ。
オークの餌を口にする者ではない。
けれど、喉は焼けるように乾いていた。
私は椀を取った。
手が震える。
中の湯が揺れ、少しこぼれて指にかかった。
熱い。
その熱さが、妙に現実だった。
私は一口だけ飲んだ。
苦い。
土臭い。
だが、腹の底を刺すような腐れの味はない。
身体が、勝手に次の一口を欲しがった。
私は泣きそうになった。
なぜだ。
なぜ、オークの幕屋で飲む湯に、私は安堵しているのか。
あの大きなオークは、私が飲むのを見届けると、足元に何かを置いた。
革鞄だった。
私の鞄。
泥は拭われていた。完全ではない。革の縫い目には土が残っている。だが、蓋は閉じられ、紐は結び直されていた。
私は手を伸ばした。
鞄の中には、蝋板が一枚。欠けている。
鉄筆。曲がってはいない。
羊皮紙。数は少ない。端が泥に汚れたものもある。
インク壺はなかった。割れたのだろう。
私は鞄を胸に抱いた。
この時、初めて涙が落ちた。
命が助かったからではない。
恐怖が解けたからでもない。
私がまだ記録できるからだった。
そのことに気づいて、私は自分が嫌になった。
オークの幕屋で、洗われ、衣を替えられ、湯を飲まされ、なお私は記録の心配をしている。
研究官だからか。
それとも、壊れ始めているからか。
あの大きなオークは、私の涙を見ても近づかなかった。
ただ、こちらを見ていた。
その目が、獣のそれだけではないように見えた。
私はそう思ってしまった。
思ってしまったことが、恐ろしかった。
私は蝋板を取り出した。
手はまだ震えている。
鉄筆の先が、蝋の上を滑る。
書くな。
今は逃げることを考えろ。
そう思った。
だが、逃げ道はない。
足は痛む。
外にはオークがいる。
森にはゴブリンがいる。
そして人間社会では、私はもう死んだ者かもしれない。
ならば、書くしかない。
私は蝋板に、短く刻んだ。
――王暦二百三十一年、麦刈り月。
――森中にて、獣害目録に合わぬオーク群を観測。
――水を煮る。汚れたものを焼く。病む者を分ける。
――腐れを避ける作法あり。
――ゴブリンの死骸、枝と蔓にて運ぶ。
――人間の道を知るにあらず。匂いと荷と危険の線として見るものか。
――狩り帰りの熱あり。
――汚れ処理中は大個体の指図により停止。
――作業後、遠方にて雌雄の吠え声あり。
――欲を消すにあらず。時と場所を分けるものか。
そこまで刻んで、手が止まった。
最後に一行を足す。
――私を、殺していない。
その一行を見た瞬間、胸の奥が冷えた。
救われた、とは書けなかった。
助けられた、とも書けなかった。
殺していない。
今の私に書ける真実は、それだけだった。
幕屋の入口で、名を持たぬオークが静かにこちらを見ていた。
私は彼から目を逸らし、蝋板を抱え込んだ。
世界には十五の文化圏がある。
王国学術院は、そう定めていた。
だが、私の前にいるこれは、そのどれにも入らない。
文化ではないはずのものが、火を使い、水を煮て、腐れを分け、私を殺さずにいる。
獣であることをやめたのではない。
獣のまま、獣の熱を持ったまま、時と場所を分けている。
私はまだ、その意味を知らなかった。
知らないまま、記録を始めてしまった。




