第一話 城壁の外へ
世界には十五の文化圏がある。
王国学術院は、そう定めていた。
人間、エルフ、ドワーフ、ラミア、獣人、龍人――名はそれぞれ異なれど、言葉を持ち、法を持ち、升を持ち、婚姻と交易の慣わしを持つ者たち。
互いに争い、蔑み、騙し合うことはある。
それでも、彼らは文化圏であった。
だが、オークはそこに含まれない。
オークは文化ではない。
法でもない。
交易相手でもない。
森に群れる大型の害獣。人を攫い、荷を奪い、女を巣へ引きずり込み、男を労働か餌へ落とす猿の群れ。王国の獣害目録には、彼らはそう記されている。
私はその記述を疑ったことがなかった。
少なくとも、城壁の外へ出るまでは。
*
私が城塞都市ヴァレンの北門を出たのは、麦刈り月の六日目、朝課の鐘が鳴り終えた直後だった。
任務は、オークの調査ではない。
王立学術院所属、辺境度量衡監査官補。
それが、その時の私――アリアに与えられていた肩書きである。
聞こえは立派だが、やることは泥臭い。
城塞都市の外側にある交易路、荷捌き場、森沿いの市、関所、商人宿、そして王国の役人が見て見ぬふりをしている闇市において、実際に使われている升、秤、歩幅、荷車の容量、通行料、関銭、銀貨の重さを記録する。
王都の机の上では、一袋は一袋であり、一壺は一壺である。
だが辺境では違う。
同じ麦一袋でも、街道沿いの市では乾いた麦、森縁の宿では湿った麦、川向こうの商人は虫食い分を差し引いた麦として扱う。塩は壺の大きさで値が変わり、干し肉は紐の長さで数えられ、鉄釘は百本と称しながら八十七本しか入っていない。
嘘だ。
だが、ただの嘘ではない。
土地の湿気、盗賊の危険、荷車の軋み、関所役人への賄い、森の獣への供え物。そうしたものが、商人たちの嘘を形作っている。
私はそれを記録するために、城壁の外へ出た。
腰の革鞄には、王国から預かった羊皮紙が十二枚。蝋板が二枚。鉄筆。羽根ペン。小さなインク壺。封蝋。監査官補の印章。紐綴じの調査帳。
羊皮紙は高価だ。
王国へ提出する正式な記録には使えるが、現地で見聞きしたことを何でも書きつけるには足りない。だから私は、まず蝋板に記し、夜に羊皮紙へ清書するつもりだった。
同行者は、私一人ではない。
商会の荷馬車が三台。馭者が二人。荷運び人が四人。下級書記が一人。現地の言葉を少し話せる通訳が一人。案内人が一人。
そして、日雇いの護衛が六人。
彼らは冒険者ギルドから雇われた者たちだった。
騎士はいなかった。
王国の正式な兵を連れていけば、辺境の商人たちは帳簿を隠す。異種族相手の取引を見せまいとし、升をすり替え、税逃れの荷を森へ流す。だから護衛は、銀貨で雇える冒険者たちで足りるとされた。
彼らはよく笑い、よく飲み、よく剣を見せびらかした。
弱くはないのだろう。
少なくとも、街道の盗賊や痩せた魔獣を相手にする程度には。
だが、足並みはなかった。
革鎧の留め具はずれ、血の乾いた布を巻いたままの腕で干し肉をつまみ、泥のついた短剣でパンを切る。彼らの匂いは、汗と酒と古い傷の匂いだった。
「研究官殿は、森の奥まで入ったことがあるのか」
髭面の護衛がそう尋ねた。
「命じられた道筋には含まれています」
「そういう答えをする奴は、たいてい初めてだ」
周囲が笑った。
私は反論しなかった。
反論しても、森は近づいてくる。
城壁の石影は、やがて背後で小さくなった。整えられた道は土の道へ変わり、畑は途切れ、放牧地は低い灌木に飲まれた。木々の影が荷車の上へ落ち、風が湿り、鳥の声が増えた。
私は蝋板に鉄筆を走らせた。
――北門より三里。商会升と王国公定升に差あり。麦袋一つにつき、およそ一割弱。商人は「湿り分」と称す。
嘘を記すのは、嫌いではない。
嘘は、土地の形を映す。
王国法が届かぬ場所では、升も秤も、道と雨と剣の数によって歪む。
私は、その歪みを測るために来た。
そう思っていた。
森が静かになるまでは。
*
最初に異変に気づいたのは、案内人だった。
彼は前方の道を見つめ、片手を上げた。
「止まれ」
馭者が手綱を引いた。荷馬が鼻を鳴らす。
「どうした」
護衛の一人が面倒そうに言った。
「鳥がいない」
「鳥くらい、どこかへ飛ぶだろ」
「違う。全部いない」
私は顔を上げた。
言われて初めて気づいた。
森の音が消えている。
荷車の軋み。馬の蹄。革紐の鳴る音。護衛の舌打ち。
人間の出す音だけが、やけに大きく聞こえた。
案内人が、低く言った。
「戻るぞ」
その瞬間、右手の茂みが裂けた。
飛び出してきたのは、小さな影だった。
子供ほどの背丈。曲がった手足。泥と糞にまみれた皮膚。裂けた口。欠けた歯。目だけがぎらぎらと光っている。
ゴブリン。
講義では何度も聞いた名だった。
小鬼。群れで動く。噛み傷に注意。腐れを運ぶ。死骸は焼くべし。
王立学術院の写本には、そう書かれていた。
だが、写本には臭いがない。
腐った肉と、溜めた尿と、膿んだ傷と、濡れた獣毛を一つの袋に詰め、夏の日に放置したような臭いが、森から押し寄せた。
「ゴブリンだ!」
誰かが叫んだ。
そこから先は、崩れるように早かった。
護衛たちは剣を抜いた。
だが、同じ方を向かなかった。
ひとりは荷馬を守ろうとし、ひとりは前へ出て、ひとりは荷車の陰に下がり、ひとりは銀貨に見合わぬ危険だと悟った顔で逃げ道を探した。
それぞれは戦おうとしていた。
しかし、まとまりはなかった。
ゴブリンはその隙間へ入り込んだ。
短い悲鳴。
馬の嘶き。
荷箱の割れる音。
誰かが転び、誰かがその上を踏んだ。
下級書記の少年が、私を振り返った。
「アリア様!」
彼の背後に、小さな影が跳んだ。
私は声を出そうとした。
出なかった。
横から斧が飛び、ゴブリンを叩き落とした。少年は泥の中へ倒れ、荷車の車輪が跳ね、馬が暴れた。
次の瞬間、私の身体は道の外へ弾き飛ばされていた。
地面に肩から落ちた。息が詰まる。蝋板が手から離れた。鞄の留め具が外れ、羊皮紙の角が泥を吸った。
私は起き上がろうとした。
足首に、鋭い痛みが走った。
森の奥から、また影が出た。
一匹ではない。
三匹。五匹。もっと。
小さな手に、錆びた刃物や骨の棒を持っている。口から涎を垂らし、鼻を鳴らし、こちらを見ていた。
私は鉄筆を握った。
細い鉄筆。文字を削るための道具。
武器になるはずもない。
それでも握った。
その時、森の奥で、別の音がした。
重い足音だった。
人間ではない。
馬でもない。
ゴブリンの軽い足取りでもない。
湿った地面が、何か大きなものの重みを受け止めて沈む音。
ゴブリンたちが、一斉に振り向いた。
低い唸り声が響いた。
次の瞬間、森の影から太い腕が伸びた。
その腕は、ゴブリンの一匹を掴み、地面へ叩きつけた。怒りに任せて潰したのではない。動きを止め、逃げ道を塞ぎ、確実に仕留めるための動きだった。
私は、呼吸を忘れた。
オークだった。
図版で見たものより大きい。
村の怪談で語られるものより、ずっと静かだった。
体毛と泥に覆われた巨体。牙の覗く顎。人間の倍ほどもある肩幅。短く太い首。丸太のような腕。
それは確かに、王国が大型猿と呼ぶに足る姿だった。
だが、目の前の一体は、ただ膨れた肉の塊ではなかった。
肩も胸も腕も、何度も荷を運び、土を掘り、木を倒し、戦ってきた者のように締まっていた。脂と汚れで膨れた野生の猿ではない。恐ろしいほど大きな獣の身体に、鍛えた兵の密度が宿っている。
その腰と肩には、革紐や荷帯のようなものが括り付けられていた。
服ではない。
装いでもない。
身分を示す飾りでもない。
道具を吊り、身体を守り、何かを運ぶためだけの、ひどく実用的な備えだった。
だからこそ、不気味だった。
猿のはずなのに。
駆除されるべき害獣のはずなのに。
その身体には、働く者の筋と、戦う者の備えがあった。
彼の後ろから、さらに数体のオークが現れた。
私は鉄筆を握ったまま、目を見開いた。
彼らは奪い合わなかった。
勝手に飛び出さなかった。
咆えながら突っ込むこともしなかった。
ひとつの手振りで左右に分かれ、ゴブリンの逃げ道を塞ぎ、森の窪地へ追い込んでいく。
指図が行き届いていた。
その事実が、恐怖より先に私の胸を打った。
あり得ない。
護衛たちは散った。
人間の言葉が通じる者たちは、恐怖と銀貨の秤が傾いた瞬間にほどけた。
なのに、王国が大型猿と分類するこの者たちは、声も少なく、手順を持って動いている。
中心にいたひときわ大きなオークが、短く何かを命じた。
言葉は分からない。
だが、命令であることは分かった。
別のオークが、ゴブリンの死骸を素手で掴もうとした仲間を止めた。枝を使って死骸を寄せる。汚れた布をまとめる。火をつける。
焼いている。
触れずに、分けて、焼いている。
私はその光景を理解できなかった。
オークが、腐れを避けている。
オークが、汚れを分けている。
そんなことを、猿の群れがするはずがない。
その時、中心の大きなオークが、こちらを見た。
私の身体が凍った。
彼の目が、私を捉えた。
私は後ずさろうとした。足首の痛みで、泥の中に倒れ込む。
終わった。
その言葉だけが、胸の奥に落ちた。
人間社会では、オークに攫われた者は戻らない。
戻ったとしても、戻った者として扱われない。
女は巣へ。
男は労働か餌へ。
弱い者は群れの資源へ。
そう教えられてきた。
そう記録されてきた。
そう信じてきた。
ゴブリンから逃れた先にオークがいる。
それは救いではない。
より大きな終わりだ。
「来ないで」
私は言った。
声は震えていた。
命令にも、祈りにもならなかった。
オークは止まらなかった。
一歩。
また一歩。
重い足音が、私の周囲から人間の世界を消していく。
彼は鼻を動かした。
血の匂いか。
泥の匂いか。
恐怖の匂いか。
あるいは、私が女であることを嗅ぎ取ったのか。
膝の内側が、ふいに温かくなった。
最初は、泥水だと思った。
転んだ拍子に、濡れた土が衣の下へ入り込んだのだと。
だが違う。
気づいた瞬間、喉が鳴った。
声ではなかった。泣き声でもなかった。
王立学術院の研究官補。
監査官補の印章を預かる者。
十五文化圏の度量衡を記録する者。
その私が、森の泥の中で、猿に見下ろされながら、自分の身体すら保てなくなっていた。
恥より先に、理解が来た。
私はもう、人間の側には立っていない。
私は鉄筆を向けた。
彼はそれを見た。
そして、私の手から鉄筆を奪うのではなく、ゆっくりと、その先を自分の指で押し下げた。
力はあった。
だが、折らなかった。
私は混乱した。
次の瞬間、彼の腕が伸び、私の身体は持ち上げられた。
悲鳴が出た。
私は暴れた。肩を打ち、足首に痛みが走り、視界が涙で滲んだ。だが、彼の腕は揺れなかった。獲物を抱える腕ではない。荷を運ぶ腕でもない。壊れやすいものを、乱暴に扱わぬようにしている腕だった。
それが、なおさら恐ろしかった。
鞄から羊皮紙が一枚、泥の上に落ちた。
王国から預かった白い羊皮紙。
私が、王国へ持ち帰るはずだった正式な記録。
その端に、私の血が滲んでいく。
私はそれを見ていた。
私の文字ではない。
私の署名でもない。
王国印章もない。
けれど、それが私の最初の記録だった。
城壁の外で、私は一度死んだ。
そして、まだ名を持たぬそのオークの腕の中で、私は十五の文化圏の外側へ運ばれていった。




