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第十六個体観測録  作者: 黒瀬 量衡


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第一話 城壁の外へ

 世界には十五の文化圏がある。


 王国学術院は、そう定めていた。


 人間、エルフ、ドワーフ、ラミア、獣人、龍人――名はそれぞれ異なれど、言葉を持ち、法を持ち、升を持ち、婚姻と交易の慣わしを持つ者たち。


 互いに争い、蔑み、騙し合うことはある。

 それでも、彼らは文化圏であった。


 だが、オークはそこに含まれない。


 オークは文化ではない。

 法でもない。

 交易相手でもない。


 森に群れる大型の害獣。人を攫い、荷を奪い、女を巣へ引きずり込み、男を労働か餌へ落とす猿の群れ。王国の獣害目録には、彼らはそう記されている。


 私はその記述を疑ったことがなかった。


 少なくとも、城壁の外へ出るまでは。


     *


 私が城塞都市ヴァレンの北門を出たのは、麦刈り月の六日目、朝課の鐘が鳴り終えた直後だった。


 任務は、オークの調査ではない。


 王立学術院所属、辺境度量衡監査官補。

 それが、その時の私――アリアに与えられていた肩書きである。


 聞こえは立派だが、やることは泥臭い。


 城塞都市の外側にある交易路、荷捌き場、森沿いの市、関所、商人宿、そして王国の役人が見て見ぬふりをしている闇市において、実際に使われている升、秤、歩幅、荷車の容量、通行料、関銭、銀貨の重さを記録する。


 王都の机の上では、一袋は一袋であり、一壺は一壺である。

 だが辺境では違う。


 同じ麦一袋でも、街道沿いの市では乾いた麦、森縁の宿では湿った麦、川向こうの商人は虫食い分を差し引いた麦として扱う。塩は壺の大きさで値が変わり、干し肉は紐の長さで数えられ、鉄釘は百本と称しながら八十七本しか入っていない。


 嘘だ。


 だが、ただの嘘ではない。

 土地の湿気、盗賊の危険、荷車の軋み、関所役人への賄い、森の獣への供え物。そうしたものが、商人たちの嘘を形作っている。


 私はそれを記録するために、城壁の外へ出た。


 腰の革鞄には、王国から預かった羊皮紙が十二枚。蝋板が二枚。鉄筆。羽根ペン。小さなインク壺。封蝋。監査官補の印章。紐綴じの調査帳。


 羊皮紙は高価だ。

 王国へ提出する正式な記録には使えるが、現地で見聞きしたことを何でも書きつけるには足りない。だから私は、まず蝋板に記し、夜に羊皮紙へ清書するつもりだった。


 同行者は、私一人ではない。


 商会の荷馬車が三台。馭者が二人。荷運び人が四人。下級書記が一人。現地の言葉を少し話せる通訳が一人。案内人が一人。


 そして、日雇いの護衛が六人。


 彼らは冒険者ギルドから雇われた者たちだった。


 騎士はいなかった。


 王国の正式な兵を連れていけば、辺境の商人たちは帳簿を隠す。異種族相手の取引を見せまいとし、升をすり替え、税逃れの荷を森へ流す。だから護衛は、銀貨で雇える冒険者たちで足りるとされた。


 彼らはよく笑い、よく飲み、よく剣を見せびらかした。


 弱くはないのだろう。

 少なくとも、街道の盗賊や痩せた魔獣を相手にする程度には。


 だが、足並みはなかった。


 革鎧の留め具はずれ、血の乾いた布を巻いたままの腕で干し肉をつまみ、泥のついた短剣でパンを切る。彼らの匂いは、汗と酒と古い傷の匂いだった。


「研究官殿は、森の奥まで入ったことがあるのか」


 髭面の護衛がそう尋ねた。


「命じられた道筋には含まれています」


「そういう答えをする奴は、たいてい初めてだ」


 周囲が笑った。


 私は反論しなかった。

 反論しても、森は近づいてくる。


 城壁の石影は、やがて背後で小さくなった。整えられた道は土の道へ変わり、畑は途切れ、放牧地は低い灌木に飲まれた。木々の影が荷車の上へ落ち、風が湿り、鳥の声が増えた。


 私は蝋板に鉄筆を走らせた。


 ――北門より三里。商会升と王国公定升に差あり。麦袋一つにつき、およそ一割弱。商人は「湿り分」と称す。


 嘘を記すのは、嫌いではない。


 嘘は、土地の形を映す。

 王国法が届かぬ場所では、升も秤も、道と雨と剣の数によって歪む。


 私は、その歪みを測るために来た。


 そう思っていた。


 森が静かになるまでは。


     *


 最初に異変に気づいたのは、案内人だった。


 彼は前方の道を見つめ、片手を上げた。


「止まれ」


 馭者が手綱を引いた。荷馬が鼻を鳴らす。


「どうした」


 護衛の一人が面倒そうに言った。


「鳥がいない」


「鳥くらい、どこかへ飛ぶだろ」


「違う。全部いない」


 私は顔を上げた。


 言われて初めて気づいた。

 森の音が消えている。


 荷車の軋み。馬の蹄。革紐の鳴る音。護衛の舌打ち。

 人間の出す音だけが、やけに大きく聞こえた。


 案内人が、低く言った。


「戻るぞ」


 その瞬間、右手の茂みが裂けた。


 飛び出してきたのは、小さな影だった。


 子供ほどの背丈。曲がった手足。泥と糞にまみれた皮膚。裂けた口。欠けた歯。目だけがぎらぎらと光っている。


 ゴブリン。


 講義では何度も聞いた名だった。


 小鬼。群れで動く。噛み傷に注意。腐れを運ぶ。死骸は焼くべし。

 王立学術院の写本には、そう書かれていた。


 だが、写本には臭いがない。


 腐った肉と、溜めた尿と、膿んだ傷と、濡れた獣毛を一つの袋に詰め、夏の日に放置したような臭いが、森から押し寄せた。


「ゴブリンだ!」


 誰かが叫んだ。


 そこから先は、崩れるように早かった。


 護衛たちは剣を抜いた。

 だが、同じ方を向かなかった。


 ひとりは荷馬を守ろうとし、ひとりは前へ出て、ひとりは荷車の陰に下がり、ひとりは銀貨に見合わぬ危険だと悟った顔で逃げ道を探した。


 それぞれは戦おうとしていた。

 しかし、まとまりはなかった。


 ゴブリンはその隙間へ入り込んだ。


 短い悲鳴。

 馬の嘶き。

 荷箱の割れる音。

 誰かが転び、誰かがその上を踏んだ。


 下級書記の少年が、私を振り返った。


「アリア様!」


 彼の背後に、小さな影が跳んだ。


 私は声を出そうとした。

 出なかった。


 横から斧が飛び、ゴブリンを叩き落とした。少年は泥の中へ倒れ、荷車の車輪が跳ね、馬が暴れた。


 次の瞬間、私の身体は道の外へ弾き飛ばされていた。


 地面に肩から落ちた。息が詰まる。蝋板が手から離れた。鞄の留め具が外れ、羊皮紙の角が泥を吸った。


 私は起き上がろうとした。


 足首に、鋭い痛みが走った。


 森の奥から、また影が出た。


 一匹ではない。

 三匹。五匹。もっと。


 小さな手に、錆びた刃物や骨の棒を持っている。口から涎を垂らし、鼻を鳴らし、こちらを見ていた。


 私は鉄筆を握った。


 細い鉄筆。文字を削るための道具。

 武器になるはずもない。


 それでも握った。


 その時、森の奥で、別の音がした。


 重い足音だった。


 人間ではない。

 馬でもない。

 ゴブリンの軽い足取りでもない。


 湿った地面が、何か大きなものの重みを受け止めて沈む音。


 ゴブリンたちが、一斉に振り向いた。


 低い唸り声が響いた。


 次の瞬間、森の影から太い腕が伸びた。


 その腕は、ゴブリンの一匹を掴み、地面へ叩きつけた。怒りに任せて潰したのではない。動きを止め、逃げ道を塞ぎ、確実に仕留めるための動きだった。


 私は、呼吸を忘れた。


 オークだった。


 図版で見たものより大きい。

 村の怪談で語られるものより、ずっと静かだった。


 体毛と泥に覆われた巨体。牙の覗く顎。人間の倍ほどもある肩幅。短く太い首。丸太のような腕。


 それは確かに、王国が大型猿と呼ぶに足る姿だった。


 だが、目の前の一体は、ただ膨れた肉の塊ではなかった。


 肩も胸も腕も、何度も荷を運び、土を掘り、木を倒し、戦ってきた者のように締まっていた。脂と汚れで膨れた野生の猿ではない。恐ろしいほど大きな獣の身体に、鍛えた兵の密度が宿っている。


 その腰と肩には、革紐や荷帯のようなものが括り付けられていた。


 服ではない。

 装いでもない。

 身分を示す飾りでもない。


 道具を吊り、身体を守り、何かを運ぶためだけの、ひどく実用的な備えだった。


 だからこそ、不気味だった。


 猿のはずなのに。

 駆除されるべき害獣のはずなのに。

 その身体には、働く者の筋と、戦う者の備えがあった。


 彼の後ろから、さらに数体のオークが現れた。


 私は鉄筆を握ったまま、目を見開いた。


 彼らは奪い合わなかった。

 勝手に飛び出さなかった。

 咆えながら突っ込むこともしなかった。


 ひとつの手振りで左右に分かれ、ゴブリンの逃げ道を塞ぎ、森の窪地へ追い込んでいく。


 指図が行き届いていた。


 その事実が、恐怖より先に私の胸を打った。


 あり得ない。


 護衛たちは散った。

 人間の言葉が通じる者たちは、恐怖と銀貨の秤が傾いた瞬間にほどけた。


 なのに、王国が大型猿と分類するこの者たちは、声も少なく、手順を持って動いている。


 中心にいたひときわ大きなオークが、短く何かを命じた。


 言葉は分からない。

 だが、命令であることは分かった。


 別のオークが、ゴブリンの死骸を素手で掴もうとした仲間を止めた。枝を使って死骸を寄せる。汚れた布をまとめる。火をつける。


 焼いている。


 触れずに、分けて、焼いている。


 私はその光景を理解できなかった。


 オークが、腐れを避けている。

 オークが、汚れを分けている。


 そんなことを、猿の群れがするはずがない。


 その時、中心の大きなオークが、こちらを見た。


 私の身体が凍った。


 彼の目が、私を捉えた。


 私は後ずさろうとした。足首の痛みで、泥の中に倒れ込む。


 終わった。


 その言葉だけが、胸の奥に落ちた。


 人間社会では、オークに攫われた者は戻らない。

 戻ったとしても、戻った者として扱われない。


 女は巣へ。

 男は労働か餌へ。

 弱い者は群れの資源へ。


 そう教えられてきた。

 そう記録されてきた。

 そう信じてきた。


 ゴブリンから逃れた先にオークがいる。

 それは救いではない。


 より大きな終わりだ。


「来ないで」


 私は言った。


 声は震えていた。

 命令にも、祈りにもならなかった。


 オークは止まらなかった。


 一歩。

 また一歩。


 重い足音が、私の周囲から人間の世界を消していく。


 彼は鼻を動かした。


 血の匂いか。

 泥の匂いか。

 恐怖の匂いか。


 あるいは、私が女であることを嗅ぎ取ったのか。


 膝の内側が、ふいに温かくなった。


 最初は、泥水だと思った。

 転んだ拍子に、濡れた土が衣の下へ入り込んだのだと。


 だが違う。


 気づいた瞬間、喉が鳴った。

 声ではなかった。泣き声でもなかった。


 王立学術院の研究官補。

 監査官補の印章を預かる者。

 十五文化圏の度量衡を記録する者。


 その私が、森の泥の中で、猿に見下ろされながら、自分の身体すら保てなくなっていた。


 恥より先に、理解が来た。


 私はもう、人間の側には立っていない。


 私は鉄筆を向けた。


 彼はそれを見た。

 そして、私の手から鉄筆を奪うのではなく、ゆっくりと、その先を自分の指で押し下げた。


 力はあった。

 だが、折らなかった。


 私は混乱した。


 次の瞬間、彼の腕が伸び、私の身体は持ち上げられた。


 悲鳴が出た。


 私は暴れた。肩を打ち、足首に痛みが走り、視界が涙で滲んだ。だが、彼の腕は揺れなかった。獲物を抱える腕ではない。荷を運ぶ腕でもない。壊れやすいものを、乱暴に扱わぬようにしている腕だった。


 それが、なおさら恐ろしかった。


 鞄から羊皮紙が一枚、泥の上に落ちた。


 王国から預かった白い羊皮紙。

 私が、王国へ持ち帰るはずだった正式な記録。


 その端に、私の血が滲んでいく。


 私はそれを見ていた。


 私の文字ではない。

 私の署名でもない。

 王国印章もない。


 けれど、それが私の最初の記録だった。


 城壁の外で、私は一度死んだ。


 そして、まだ名を持たぬそのオークの腕の中で、私は十五の文化圏の外側へ運ばれていった。

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