第二十五話 伏せた羊皮紙
羊皮紙を伏せた。
それだけのことに、ひどく力が要った。
薄く焦げた端。
水で波打った面。
私の震えた字。
そこに書いたものは、公務調査帳には移せない。
王立学術院へ出すべき観測ではない。
辺境度量衡監査官補として整えるべき報告でもない。
王国へ出すべからず。
そう記した紙を、私はもう一枚の乾いた羊皮紙で覆った。
その上から、細い革紐をかける。
結び目を作る指が、まだ少し震えていた。
外で、ゴードンの声がした。
「まて」
若い雄を止める声である。
水場の音より低い。
火場のざわめきより遠い。
小屋の壁越しにも、腹の底へ響く。
私は目を閉じた。
あの声は、私を守る音である。
若い雄を止める音である。
水と腐れを分ける音である。
そして、昨夜のゴードン自身を止めた音でもある。
私は伏せた羊皮紙へ、もう一度だけ目を落とした。
この紙の中で、私は王国の女ではなかった。
私は観測者であろうとした。
だが、書いたものは観測だけではない。
恐れ。
誇り。
忌避。
蓋。
痕。
印。
どれも、公務調査帳へは移せない。
私は深く息を吸い、公務調査帳を開いた。
こちらには、書けることだけを書く。
――朝、水場周辺に若い雄の接近あり。
――大個体、「まて」「近い」「だめ」にて制す。
――水場、火場、帳置き場の分け、続く。
――「まだ」の音、私と大個体の間にて用いられる。
――その音が何を示すか、まだ整わず。
――王国へ出す時も、断じず置くべし。
まだ整わず。
その言葉で、私は逃げた。
断じなければ、まだ王国へ出せる。
仮と書けば、まだ観測でいられる。
断じず置けば、まだ私自身を裁かずに済む。
まだ。
私は、またその音に頼っている。
だが、公務調査帳だけでは足りない。
王国へ出す記録。
王国へ出さぬ記録。
その二つに分けるだけでは、もう足りない。
もし帰還できたなら、私は上席監査官へ説明しなければならない。
何を見たのか。
何を断じられるのか。
何を、まだ断じてはならないのか。
そして、何を伏せるべきなのか。
日々の断片を、そのまま差し出すわけにはいかない。
水。
火。
布。
灰。
腐れ。
傷。
若い雄。
制止の音。
荷の分け。
食うものと残すもの。
私が見たものは、すでに多すぎる。
そのすべてを一つの帳へ入れれば、王国は誤って読む。
危険だけを読むかもしれない。
穢れだけを読むかもしれない。
あるいは、利用できるものだけを読むかもしれない。
だから、分けなければならない。
観測事項。
危険事項。
未確認事項。
提出を保留すべき事項。
私自身の心身に関わるため、通常報告に置いてはならぬ事項。
それらを分け、報告の形へ整える控えが要る。
私は公務調査帳の端へ、小さく印を付けた。
今はまだ、題を付けるだけでよい。
書き始めるのは、もう少し後でもよい。
だが、題だけは要る。
帰還後提出予定報告書控。
そう書きかけて、筆先が止まった。
帰還後。
その二字が、あまりに遠かった。
私は本当に帰還するのか。
帰還した時、私はまだ王立学術院の研究官補として扱われるのか。
上席監査官は、私の報告を読むのか。
それとも、私自身を穢れた証拠として読むのか。
分からない。
だからこそ、控えが要る。
私は、書きかけの題を消さなかった。
*
小屋の入口に影が落ちた。
顔を上げると、ゴードンが立っていた。
大きな身が、入口をほとんど塞いでいる。
外の光がその肩と腕に切られ、室内がいっそう暗くなった。
彼はすぐには入ってこなかった。
いつものように、こちらを見てから、少し間を置く。
入ってよいか。
近づいてよいか。
帳に触れてよいか。
言葉にはならないが、問いの形がそこにある。
私は喉を鳴らした。
「よい」
ゴードンは一歩入った。
だが、いつもより動きが硬い。
足を運ぶたび、腰のあたりがわずかに遅れる。
肩に力が入り、太い腕が一度、腰に巻いた革帯の前へ行きかけて止まる。
私は見てしまった。
見てはならぬ場所ではない。
だが、見たと書いてはならぬ場所である。
昨夜、水で清めた時、私は知った。
擦れていた。
皮が赤くなり、水に触れるたび、彼はわずかに息を止めた。
今朝は、そこに小さく乾いたものができ始めているはずである。
かさぶた。
その言葉が胸の奥へ落ちた。
私だけが傷つくのではない。
私が求めれば、彼にも痕が残る。
私が止まらなければ、彼の身にも痛みが残る。
昨夜まで、私は自分が壊されることばかり恐れていた。
だが今は違う。
私もまた、ゴードンを傷つけ得る。
その事実は、不思議なほど重かった。
「痛い?」
私は声を出していた。
ゴードンの耳が動く。
彼は一瞬、首を傾けた。
それから、私がどこを気にしているかを悟ったのか、目を逸らした。
大きな手が、革帯の前へ行きかける。
だが、すぐに止まった。
私も止めた。
私は目を伏せた。
彼の革帯の前へ伸びかけた視線を、自分で切った。
「だめ」
私は、自分の目を指し、それから首を横に振った。
次に、自分の手を胸元へ引き戻す。
「だめ。まだ」
言葉として足りているかは分からない。
けれど、ゴードンは見ていた。
私は彼の痛む場所を指ささず、ただ水場の方を指し、次に彼を指し、それから首を横に振った。
「痛い。まだ」
それだけを、ゆっくり言った。
ゴードンは、低く息を吐いた。
「まだ」
彼も言った。
その音は、不格好で、少し濁っていた。
だが、確かに同じ方を向いていた。
私は頷いた。
彼を遠ざける音。
彼を守る音。
私を守る音。
そして、いずれ越えるかもしれぬ線を、今日だけは守る音。
ゴードンはしばらく私を見ていた。
それから、小さく言った。
「よい」
その「よい」は、私に向けた許しではなかった。
待つことを、よいとする音だった。
私は、ようやく息を吐いた。
*
小屋の外で、何かが倒れる音がした。
続いて、小柄なオークの甲高い声。
若い雄の唸り。
木の実が転がる音。
ゴードンの肩が、分かりやすく落ちた。
私は思わず、口元を押さえた。
彼は私を見て、少しだけ眉を寄せた。
笑うな、と言いたいのかもしれない。
だが、その顔もまた、どこか困っている。
外へ出ると、案の定、木の実の袋がひっくり返っていた。
小柄なオークが両手に実を抱えている。
若い雄がそれを奪おうとしている。
水場側の雌が、火の近くに濡れた布を置こうとしている。
ゴードンは、すぐに声を上げた。
「まて」
小柄なオークが止まる。
「残す」
若い雄が不満げに唸る。
「食うな。すこし」
ゴードンは袋を指し、片手で半分ほどを示した。
小柄なオークは、真似をして袋の口を両手で持った。
今度は全部ではなく、少しだけ別の籠へ移す。
少し。
できた。
私は息を呑んだ。
小柄なオークは、嬉しそうに鼻を鳴らした。
そして、誇らしげに言った。
「すこし」
音は歪んでいる。
だが、場には合っている。
すべてではない。
全部でもない。
禁じるのでもない。
少しだけ移す。
すこし。
ゴードンは、短く頷いた。
「よい」
小柄なオークは、さらに嬉しそうにした。
その横で、若い雄が木の実を一つ口へ入れようとした。
ゴードンが睨む。
「食うな」
若い雄は不満げに唸った。
ゴードンは、もう一度、木の実を指した。
「まだ」
次に、荷を指し、火場を指し、若い雄の胸を軽く叩く。
先に動け。
今は食うな。
後に残る。
言葉にはなっていない。
だが、若い雄は木の実を戻した。
私は、その場で動けなくなった。
まだ、が広がっている。
昨夜、私とゴードンの間に置かれた音。
越えぬための音。
壊さぬための音。
その音が、今、木の実の前で使われている。
今は取らない。
今は食わない。
すべてを禁じるのではない。
まだ。
私は、ひどく恥ずかしくなった。
あの音が群れの中へ出ていく。
私の身の奥で燃えていた音が、木の実と荷の間に置かれている。
だが、それこそが言葉なのかもしれない。
私一人の恥であっても、群れの中では作法になる。
私とゴードンの境で生まれた音であっても、荷や火や水を分ける音になる。
観測者としての私は、それを書かねばならない。
女としての私は、書きたくない。
*
水場側の雌が、濡れた布を抱えていた。
その雌は、腕に傷を持つ雌である。
以前よりも、傷の熱は退いているように見える。
雌は布を火へ近づけようとして、熱さに顔をしかめた。
ゴードンが言う。
「火、近い。だめ」
雌は布を下げた。
それから、妙に得意げに言った。
「まだ」
私は思わず、顔を上げた。
雌は火を指し、布を指し、もう一度言った。
「まだ」
火へ近すぎる。
今は近づけない。
乾かすには、まだ。
何を示すかは粗い。
けれど、通じている。
ゴードンは少し驚いたように雌を見た。
それから、短く頷いた。
「よい」
雌は喉を鳴らした。
その音に、私は胸の奥がざらついた。
昨夜、私だけのものだと思いたかった音が、群れの雌の口から出た。
いや。
そう思った自分に、さらに驚いた。
音は、私のものではない。
ゴードンのものでもない。
水や火と同じく、使われれば広がる。
それでも、胸の奥の黒いものは言った。
その「まだ」は、私たちの「まだ」とは違う。
木の実の「まだ」。
火に近づく布の「まだ」。
荷の前の「まだ」。
それらは、群れの作法である。
けれど、昨夜の「まだ」は違う。
名を呼び、身を重ね、痕を受け、それでも越えなかった音。
あれは、私とゴードンだけのものだ。
そう思ってしまった。
また蓋である。
忌避を覆うための、黒い蓋。
私は目を伏せた。
ゴードンが、私を見ている気配がした。
彼は何も言わない。
私も何も言わない。
そのかわり、彼は少しだけ私から離れた。
そして、革帯の前をかばうように、ゆっくり身を移した。
痛むのだ。
私は、胸の奥を掴まれたようになった。
近づきたい。
触れたい。
確かめたい。
けれど、触れてはならない。
彼の痛みを知る前の私は、触れられぬことを、自分を守るためだと思っただろう。
今は違う。
彼を守るためにも、触れてはならない。
そのことが、奇妙に胸を締めつけた。
*
私は小屋へ戻り、公務調査帳を開いた。
先ほどの続きに、細く書く。
――「すこし」、木の実を分ける時に用いられる。
――「まだ」、今は取らぬもの、今は近づけぬものに対して用いられる。
――同じ音、私と大個体の間にも置かれる。
――されど、その重さ同じからず。
――王国へ出す時、なお分けるべし。
その重さ同じからず。
それなら書ける。
昨夜の重さは書けない。
けれど、同じ音が場によって違う重さを持つことは書ける。
私は筆を止めた。
外では、ゴードンがまた誰かを制している。
「踏むな」
少しして、
「残す」
また少しして、
「だめ」
彼は痛むはずなのに、群れを戻している。
そのことが、私の中の何かを変えた。
私は、ただ待たされているのではない。
私だけが、壊されぬために守られているのでもない。
私も待つ側になった。
彼の傷が落ち着くまで。
かさぶたが剥がれぬように。
水がしみぬように。
私の欲で、彼をまた痛ませぬように。
まだ。
今度の「まだ」は、私が彼へ置く音だった。
その時、入口に影が落ちた。
ゴードンである。
彼は中へ入らず、外からこちらを見た。
私は帳を閉じずに、顔だけ上げる。
「痛い?」
もう一度、問うた。
彼は少し考えたあと、短く答えた。
「すこし」
嘘である。
たぶん、すこしではない。
だが彼は、そう言った。
私は首を横に振った。
「すこし、ちがう」
ゴードンは眉を寄せた。
私は、自分の胸を指した。
次に彼の革帯の前を指しかけ、途中で手を止めた。
指さすことさえ、してはならぬ気がした。
「痛い。見る、だめ」
そこで言葉に詰まった。
見ない。
触れない。
待つ。
王国語なら、いくつも言葉はある。
だが、彼に届く音は少ない。
私は自分の手を胸元へ引き戻し、首を横に振った。
「だめ。まだ」
ゴードンは黙って聞いていた。
「痛い。まだ」
私が言うと、彼は深く息を吐いた。
その息は、安堵にも似ていた。
彼は私を壊さぬために待っていた。
今度は、私が彼を傷つけぬために待つ。
そのことを、彼は理解したのだと思う。
ゴードンは、短く言った。
「よい」
それから、自分の胸を叩き、私を見た。
「まて」
私は頷いた。
「まて」
彼はまた、私を見た。
今度は、彼自身の胸を叩くのではなく、私の帳を指した。
「帳」
私は帳へ目を落とす。
ゴードンは、指先を宙で動かした。
まるで筆を持つ真似をするように。
書け。
そう言われたのだと、私は理解した。
だが、彼の口からその音は出なかった。
まだ、その音は彼のものではない。
私は、笑いそうになり、泣きそうにもなった。
王国のどの男が、オークにこんなことを身振りで示される女を想像できるだろう。
獣の身を持つ大個体が、私に帳へ向かえと示す。
自ら痛みを抱えたまま、若い雄を制し、火と水を分け、私に記録を続けさせる。
これを、王国は何と呼ぶのだろう。
穢れ。
狂気。
獣に慣らされた女。
きっと、そう呼ぶ。
だが私は、今、そのどれでも足りないと思った。
*
私は帳を開き直した。
公務調査帳ではなく、先ほど伏せた秘匿別紙でもない。
補助羊皮紙を一枚取る。
王国へ出せるかどうか、まだ分からぬ紙である。
そこへ記す。
――「まだ」は、禁ではない。
――「まだ」は、後を残す音なり。
――木の実、火、布、荷、傷、欲、いずれにも置かれる。
――すべてを拒むにあらず。
――いま越えぬため、後を残す音なり。
筆を止める。
外では、ゴードンが立っている。
彼は入ってこない。
私も呼ばない。
唇の線は、まだ越えていない。
誰も決めたわけではない。
言葉にしたわけでもない。
だが、二人とも知っている。
そこにも、まだ越えぬ線がある。
手で触れる。
目で見る。
名を呼ぶ。
息を聞く。
それでも、唇の線はまだ置かれている。
それは、傷とは別の「まだ」である。
王国へ出すべからず。
私はその一文を書かず、胸の内へ沈めた。
だが、胸の内へ沈めるだけでは足りないものもある。
水や火の分け。
荷の分け。
音の分け。
若い雄の制止。
傷ある雌の回復。
私が見たことのうち、王国へ出せるもの。
王国へ出せぬもの。
出せるかどうか、まだ決めてはならぬもの。
それらは、いつか誰かへ説明しなければならない。
私は補助羊皮紙の下に、もう一枚を重ねた。
少し厚い紙である。
火から遠ざけ、湿りからも遠ざけていたものだ。
そこへ、今度こそ題を書く。
帰還後提出予定報告書控。
字は小さかった。
だが、消さなかった。
その下へ、さらに項目を並べる。
要旨。
経緯。
観測事項。
危険事項。
未確認事項。
提出保留事項。
所見。
今後の確認事項。
項目だけで、胸が冷えた。
これは秘匿ではない。
けれど、公務調査帳そのものでもない。
日々の断片を、上席監査官へ示すために整える紙である。
私が帰還できたなら。
私がまだ、王立学術院所属の辺境度量衡監査官補として扱われるなら。
私の言葉が、ただ穢れた女の弁明として捨てられないなら。
この紙が要る。
私は最初の行を書いた。
――城壁外遭難後、未分類オーク群に保護される。
次の行で止まった。
保護。
その語は正しいのか。
捕獲ではない。
拉致でもない。
救命だけでもない。
保護。
私はその語の横に、小さく書き添えた。
――仮。
また仮である。
また、まだである。
それでも、今はそれでよい。
断じれば、嘘になる。
伏せれば、何も残らない。
仮として置く。
まだとして置く。
それが、今の私にできるもっとも正しい手順だった。
*
ゴードンが外で言う。
「まて」
また、若い雄を制している。
私は筆を持ち直した。
記す。
今、私にできることは、それである。
彼の傷に触れぬこと。
己の黒い蓋を見失わぬこと。
公務の帳と秘匿の紙を分けること。
帰還後、上席監査官へ出すための控えを、今のうちに整え始めること。
そして、「まだ」という音が、群れの中でどのように変わっていくかを記すこと。
私は最後に、今日の観測として一行を加えた。
――第十六個体は、欲を消すものにあらず。
――欲の後に、水を置き、灰を置き、隔てを置き、なお後を残すものなり。
筆先を離した。
外の光は、少し高くなっていた。
水場の音は遠い。
それでも、私はまだ水面を見られない。
だが、帳は見られる。
ならば、今日も記す。
王国へ出せることを。
王国へ出せぬことを。
王国へ出す形に、いつか整えねばならぬことを。
そして、その間で生きている、まだという音を。




