第二十四話 水を見られぬ朝
朝、水場を見られなかった。
水は、ただの水である。
喉を潤す。
血を落とす。
土を流す。
腐れを遠ざける。
この群れにおいて、水は恐れるものではなく、分けるためのものだった。
そう、私は何度も書いてきた。
それなのに、その朝、私は水面を見られなかった。
水場へ近づけば、昨夜のことを思い出す。
水の音。
暗い面。
そこに映ったもの。
王国の帳には書けぬもの。
それらが、朝の光の中でもまだ消えなかった。
私は公式の帳を開いた。
書くべきことはある。
水場周辺の足場。
乾いた布の置き場。
怪我をした個体への水の使い方。
赤い筋の退き方。
いずれも観測に値する。
だが、筆先が水場の方へ向くたび、指が止まった。
水を見れば、私は観測者でなくなる。
そう思った。
それでいて、見ぬこともできなかった。
見なければ、記録にならぬ。
見れば、秘匿になる。
私は、しばらく帳の上に手を置いたまま、動けずにいた。
*
ゴードンは、すでに動いていた。
夜の水場にいた獣ではない。
朝の群れを動かす長である。
彼は火場を見た。
濡れた布を分けた。
水を汲む個体へ、手で向きを示した。
小柄なオークが、空の木椀を抱えて走ろうとした。
ゴードンは短く声を出した。
「まて」
小柄なオークは止まった。
止まったまま、木椀を見た。
水場を見た。
それから、私を見た。
「アリア。みず」
私は少し遅れて頷いた。
「水」
声は出た。
だが、私は水面を見なかった。
小柄なオークは、それに気づいたのか、気づかなかったのか、首を傾げた。
そして、木椀を両手で持ち直した。
走らない。
歩く。
水をこぼさぬように。
それは、昨日までより少しだけ上手くなっていた。
ただの小さい個体ではない。
待てを聞き、持ち直し、水をこぼさぬよう歩く個体である。
私はそう記した。
書けば、少しだけ息が戻った。
*
若い雄は、肩を押さえながら枝を運んでいた。
重い枝には手を伸ばさない。
昨夜までに覚えたらしい。
すこし。
まだ。
その二つの音が、若い雄の動きを縛り、守っている。
以前なら、力を示すために大きなものを持とうとした。
今は、持たぬことも覚え始めている。
ゴードンはそれを見て、短く頷いた。
「よい」
若い雄は、不満そうに鼻を鳴らした。
だが、枝は置かなかった。
小さい枝を運んだ。
よい、と言われたことを嫌がってはいない。
若い、と呼ばれることほどには。
私は帳へ書いた。
――若い雄、なお若いと呼ばるるを好まず。
――されど、すこし、まだ、よい、の三音に従う。
――肩の傷、無理せず。
書いてから、私はゴードンの前腕を見た。
昨夜の赤い筋が、そこにある。
ある。
だが、昨日の夜に見た時より薄いように見えた。
浅い傷である。
獣の身である。
朝の光のせいかもしれない。
濡れた毛のせいかもしれない。
私の見誤りかもしれない。
それでも、私は見た。
見てしまった。
筆先が止まる。
公式の帳へ、どこまで書くべきか。
赤い筋。
退きが早い。
理由、不明。
その程度なら書ける。
だが、何と比べるのか。
何が、いつ、彼の身へ入ったのか。
それは書けない。
私は息を浅くして、短く記した。
――ゴードン前腕の赤き筋、昨日より薄く見ゆ。
――浅傷ゆえか、個体差か、定め難し。
――後日なお見るべし。
それ以上は書かなかった。
*
火を見る雌は、火場の近くに座っていた。
立つのが、少し遅い。
腹へ手を置く仕草が、また見えた。
私は目を細める。
肥えか。
腫れか。
子か。
まだ、定められない。
定めてはならない。
けれど、見ぬふりもできない。
ゴードンは太い枝ではなく、細い枝を彼女の側へ寄せた。
火を見る雌は、それを受け取った。
「火」
彼女が言う。
それから、少し迷って、腹に触れた。
「まだ」
私は指を止めた。
ゴードンも止まった。
まだ。
その音が、火を見る雌の口から出た。
それが何を指すのか、定め難い。
重い枝を持つには、まだ。
火を大きくするには、まだ。
腹の中に何かがあると定めるには、まだ。
あるいは、本人にも分からぬ身の違和を、ただ覚えた音で囲ったのか。
ゴードンは彼女の手元を見た。
腹を見た。
それから、細い枝をさらに半分に折った。
「すこし」
火を見る雌は、折られた枝を受け取った。
「すこし」
私は書いた。
――火を見る雌、腹へ手を置き、まだと言う。
――子とは書かず。
――されど、見ぬふりもせず。
昨日と同じ行のようで、違う。
音が増えた。
彼女自身の口から、まだが出た。
腹もまた、群れの言葉の中へ入ろうとしている。
*
水場側の雌は、腕を濡れた布で押さえていた。
傷の退きは、若い雄の肩より早い。
これは昨日も見た。
今日も、なおそう見える。
だが、私は水場の方を見られない。
傷を見る。
布を見る。
腕を見る。
水面だけを避ける。
それは、観測として正しくない。
分かっている。
分かっていて、できなかった。
ゴードンが彼女のそばへ木椀を置いた。
水の入った木椀。
その横に、乾いた布。
私は、それを見た瞬間、胸の奥が沈んだ。
それは、昨夜、私の手が届くところにあったものと同じだった。
水。
乾いた布。
濡れたまま困らぬためのもの。
喉を渇かせぬためのもの。
清めのあとに要るもの。
今、それが水場側の雌のそばにも置かれている。
よいことだ。
怪我をした個体には、水が要る。
乾いた布が要る。
傷を悪くせぬためには、濡れたままにしてはならない。
これは正しい。
疑う余地はない。
それなのに、私は一瞬だけ、こう思った。
最初に置かれたのは、私の手の届くところだった。
その思いは、すぐに消した。
消した、と思った。
だが、消したはずのものが、帳の余白に黒く残った気がした。
私は公式の帳へは、こう書いた。
――水場側の雌、腕の傷、退き早し。
――木椀の水、乾きし布、側に置かる。
――濡れたままにせず。
――良き作法なり。
良き作法。
そう書けば、それは善いことになる。
実際、善いことだった。
私が胸の奥に沈めたものは、書かない。
*
肩傷の雌が、水場側の雌を見ていた。
彼女は重い桶へ手を伸ばそうとした水場側の雌を、前に一度止めている。
今日も、同じように近くにいる。
言葉は多くない。
だが、立つ場所が変わった。
水場側の雌が無理をする前に、届く場所に立つ。
ゴードンの指示だけではない。
雌同士で、動きを見ている。
肩傷の雌が、水場側の雌の腕を指した。
「まだ」
水場側の雌は、少し不満そうに鼻を鳴らした。
それでも、桶を持たなかった。
かわりに、木椀を持つ。
すこし。
まだ。
水。
布。
それらが、傷を持つ個体の周りに集まり始めている。
私は、それを共同体の芽として記録すべきである。
そうするべきである。
だから書いた。
――雌同士、傷ある者を見張る。
――まだ、すこし、水、布、傷のまわりに集まる。
――ゴードンのみならず、雌もまた止める。
――作法、個体を越えつつあり。
そこまで書いて、私はまた水場を見なかった。
*
小柄なオークが戻ってきた。
木椀の水は、半分ほど残っている。
全部はこぼしていない。
彼はそれを私に見せた。
「アリア。よい?」
私は水面を見ないようにして、椀の縁を見た。
「よい」
小柄なオークは、嬉しそうに肩を揺らした。
「うれしい」
自分で言った。
私は少し笑った。
その笑いは、朝の水場で初めて楽に出た。
小柄なオークは、次に水場側の雌の方へ椀を持っていこうとした。
途中で止まり、振り返る。
「まだ?」
私は、答えに迷った。
この場合のまだは、走るな、という意味か。
水をこぼすな、という意味か。
傷ある雌へ渡すまで待て、という意味か。
どれも違わない。
私は言った。
「まて。すこし」
小柄なオークは頷いた。
「まて。すこし」
そして、歩いた。
小さい。
だが、小さいままではなくなりつつある。
言葉が、身体を変える。
身体が変われば、役が変わる。
役が変われば、名が変わる。
名が変われば、群れはもう、ただの群れではない。
私はそこまで考えて、筆を止めた。
この考えは、まだ早い。
まだ。
この音は、私にも要る。
*
日が上がるにつれ、水場の明るさは増した。
私はとうとう、一度だけ水面を見た。
何も映っていなかった。
いや、映っていた。
空。
木。
私の輪郭。
それだけである。
昨夜のものは、どこにもない。
水は、すでに流れている。
岩も、朝の岩に戻っている。
だが、私は知っている。
水で流れたから、なかったことになるわけではない。
布で拭ったから、帳から消えるわけではない。
公式の帳に書かぬから、観測されなかったことになるわけではない。
私は水面から目をそらした。
そして、帳へ書いた。
――水場を見るに、朝の水はただの水なり。
――されど、見る者の内により、ただの水ならざることあり。
この行は、公式の帳には向かない。
私はしばらく見つめてから、線を引いた。
消したわけではない。
読めなくしただけだ。
読めなくしても、私には読める。
*
その日の公的記録には、次のように残す。
――水場脇、苔の多き岩あり。
――一部削られ、足場良し。
――水入り木椀、乾きし布、傷ある個体の側へ置かれ始む。
――濡れし布と乾きし布、分ける必要あり。
――灰は汚れを落とすに用う。
――傷の熱ある場所には、乱暴に擦るべからず。
――水を含ませ、待ちてほどくべし。
――若い雄、肩を庇い、軽き枝を運ぶ。
――火を見る雌、腹へ手を置き、まだと言う。
――子とは定めず。
――水場側の雌、腕の退き早し。
――小柄なオーク、水をこぼさず運ぶこと少し上達。
――語、身体を変えつつあり。
ここまでなら、公的である。
研究官補の帳として、まだ差し出せる。
だが、その余白に、私は別の筆圧を残してしまった。
水を見られぬ朝。
その一行だけは、公式の帳から外した。
秘匿に移す。
王国へ出すべからず。
それでも、私は今日も記録した。
記録するかぎり、私はまだ観測者である。
そう思いたかった。
しかし、水場に置かれた木椀と乾いた布が、他の雌のそばへ移っていくのを見た時、私は知った。
昨夜、私のために置かれたものは、朝には群れの作法になり始めていた。
よいことだ。
良き作法である。
だからこそ、私はそれを止めない。
止める理由など、どこにもない。
ただ、胸の奥で、黒いものが静かに沈んだ。
最初に置かれたのは、私だった。
そのことだけは、誰にも渡さない。
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