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第十六個体観測録  作者: 黒瀬 量衡


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第二十三話 まだという音

 朝、私は寒くなかった。


 それが、まずおかしかった。


 森の朝は冷える。


 火が落ちれば、背の薄い布などすぐ湿り、指先はこわばり、傷の周りには鈍い熱が残る。


 だが、その朝、私は目を覚ましてしばらく、自分の身が軽いことに気づかなかった。


 気づいてから、怖くなった。


 足首の痛みが遠い。


 擦れた傷の熱が、思ったより静かだった。


 腹の奥に残っていた冷えも、薄くなっている。


 月の血は、もう過ぎた。


 来なかったのではない。


 来た。


 来て、過ぎた。


 だが、過ぎた後の身が、街にいた頃と違う。


 湯。


 食べ物。


 乾いた寝床。


 休み。


 王国へ出す帳には、そう記せばよい。


 そう記すしかない。


 私は紐綴じの調査帳を開き、筆を持った。


 だが、筆先はしばらく動かなかった。


 昨夜のことは、王国へ出す帳には書けない。


 水場。


 名。


 手。


 痕。


 まだ、という音。


 それらは、王国の紙の上へ置けば、記録ではなく罪になる。


 私は息を吸い、公式の帳へ短く書いた。


 ――夜、休む。


 ――朝、身の冷え少なし。


 ――足の痛み、昨日より遠し。


 ――月の血、過ぎたり。


 ――理由、湯と食と休みによるものと記す。


 最後の一行だけ、筆が震えた。


 理由を記したのではない。


 理由を書けないことを、別の言葉で覆っただけだ。


     *


 火場へ出ると、小柄なオークがこちらを見つけた。


 彼は胸を叩いた。


「ちいさい」


 そして、私を指す。


「アリア」


「はい。アリアです」


 小柄なオークは満足そうに喉を鳴らし、次に吊るし台の方を指した。


「ゴードン」


 その音を聞いただけで、私は手の中の帳を強く握った。


 反応してはならない。


 名は、ただの名である。


 そう思おうとした。


 けれど、夜の水場で呼ばれた同じ音が、朝の火場で聞こえると、まるで別のもののように身へ触れた。


 小柄なオークは、さらに得意げに言った。


「まだ」


 私は顔を上げた。


「……まだ?」


「まだ」


 彼は自分の胸を叩いた。


 私は首を振った。


「違います。あなたの名ではありません」


「ちがう」


「そう。違う」


 小柄なオークは不満そうに鼻を鳴らした。


 名ではない音を、自分の名にしたがる。


 昨日の「いや」と同じだ。


 群れは、耳に残った音を胸へ入れたがる。


 私は石を拾った。


 一つを彼の前へ置く。


「小さい」


 次に、彼の足元の湿った皮を指した。


 狼の皮である。まだ乾ききっていない。


 小柄なオークは、それを持ち上げようとしていたらしい。


 私は首を振る。


「まだ」


 彼は皮を見る。


 私を見る。


「まだ」


「はい。まだ」


 私は手を横へ振る。


「今は、しない。あとで」


 あとで、という音はまだ難しい。


 だから私は、乾いた皮を指してから、湿った皮を指した。


「乾く。まだ」


 小柄なオークは、湿った皮を置いた。


 不満そうだったが、置いた。


 だが、昨日なら抱えたまま走っていただろう。


 今日は置いた。


 小柄な者は、ただ小さいだけではなくなっている。


 言葉を聞き、少し待つことができた。


 私は帳へ記す。


 ――まだ。


 ――名にあらず。


 ――だめにもあらず。


 ――今は越えぬ、今は触れぬ、今は用いぬための音。


 ――まてに似るが、まてよりも後を含む。


 ――小柄なる者、湿りし皮を置く。


 ――昨日より、待つこと少し可。


     *


 ゴードンは、水場の近くにいた。


 見張りではない。


 水桶の置き場を直している。


 大きい桶を奥へ。


 小さい桶を手前へ。


 傷のある者が、重い桶を持たぬようにするためだろう。


 水場側の雌が、軽い桶を運んでいた。


 腕の傷は、まだ残っている。


 けれど、腫れは昨日より引いているように見えた。


 若い雄の肩は、まだ動きが重い。


 同じ日に負った傷。


 同じほどに見えた傷。


 だが、水場側の雌は、すでに軽い桶を持てる。


 若い雄は、まだ荷を持つたび肩をかばう。


 私は、すぐには書かない。


 見間違いかもしれない。


 傷の深さを私が誤ったのかもしれない。


 務めの違いかもしれない。


 だが、見る。


 見ることをやめれば、私はただ群れの中で震える女になる。


 それは、まだ嫌だった。


 私は帳に小さく記す。


 ――水場側の雌、腕の熱、昨日より退く。


 ――若い雄、肩の動きなお重し。


 ――差あり。


 ――一つなら偶然。二つなら徴。三つなら記すべきもの。


 ――なお見るべし。


 書き終えたとき、ゴードンがこちらを見た。


「アリア」


 水場の音が、一瞬遠くなった。


 彼は近づきかけた。


 だが、止まった。


 私との間に、腕二つ分ほどの距離が残る。


 昨日までなら、それを私は安心と記したかもしれない。


 今日の私は、それを別のものとして見た。


 近づかないのではない。


 近づきすぎぬようにしている。


「ゴードン」


 私が呼ぶと、彼の胸がわずかに上下した。


 彼は私の足を見た。


 傷を見ている。


 それから、低く言った。


「アリア、いたい?」


 私は少し迷った。


 痛い、と言えば近づいてくるだろう。


 痛くない、と言えば嘘になる。


 私は足首を動かした。


 昨日より、動く。


「すこし」


 ゴードンは頷いた。


「すこし」


 そして、手を伸ばしかける。


 止まる。


「よい?」


 私は息を止めた。


 昨日の夜を思い出す。


 いや。


 よい。


 すこし。


 まだ。


 それらの音が、朝の水場で別の意味を持ち直す。


 私は頷いた。


「よい」


 ゴードンの手が、私の足首に触れた。


 ただ傷を確かめるだけの手だった。


 それでも、私の身は反応した。


 愚かだと思う。


 恐ろしいとも思う。


 だが、その手はすぐに離れた。


 彼は足首を軽く見ただけで、布を巻き直した。


 強くもなく、緩くもなく。


 その手つきは、昨夜と同じ手であり、まったく別の務めの手でもあった。


 私は、そこに救われた。


 同じ手が、私を乱しもする。


 同じ手が、私を支えもする。


 どちらかだけではない。


 だから私は、余計に逃げられない。


     *


 火場で、火を見る雌が湿った枝を燃え盛る火へ入れようとしていた。


 煙が出る。


 ゴードンが振り向く。


「まて」


 火を見る雌は止まる。


 だが、枝は捨てない。


 ゴードンは湿った枝を指す。


「まだ」


 火を見る雌は、枝を見た。


 乾いた枝を見る。


 火を見る。


「まだ」


 彼女は枝を脇へ置いた。


 以前なら、ゴードンは「ひ、だめ」と言っただろう。


 だが、これは駄目ではない。


 乾けば、燃やせる。


 今は、まだ。


 火を見る雌が、置いた枝のそばで立ち上がろうとした。


 昨日より、少し遅い。


 片手が腹へ行く。


 一度ではない。


 身体を起こす途中で、もう一度、腹の前へ添えられた。


 私は見た。


 昨日、見間違いかもしれないとして置いたものが、今朝もそこにある。


 腹は、わずかに前へ張って見える。


 肥え。


 腫れ。


 子。


 そのどれかは、まだ定められない。


 だが、ただの腹、とも書きにくくなっている。


 私は自分の腹に手を触れかけ、止めた。


 私の腹には、まだ何も記すべきものはない。


 そう書けるはずだった。


 けれど、いつかこの身にも、同じように「まだ」と書く日が来るのかもしれない。


 野の生き物の種で。


 人でないものを腹に宿すかもしれない身として。


 私は筆を握り直した。


 公式の帳には、まだそこまで書かない。


 私は小さく記す。


 ――火を見る雌、立つ時、腹へ手を添う。


 ――昨日に続き、本日も同じしぐさあり。


 ――腹、わずかに張る。


 ――肥えか。腫れか。子か。


 ――子、と書くにはまだ早し。


 ――されど、ただの腹とも書き難し。


 ――後日、必ず見るべし。


 まては、動きを止める音。


 だめは、してはならぬ線。


 いやは、内より出る拒み。


 すこしは、すべてではなく一部を許す音。


 そして、まだは、今は越えぬための音。


 それは、火場にも、水場にも、傷にも、荷にも使える。


 そして、おそらく、腹にも。


 そこまで思って、私は筆を止めた。


 公式の帳には、続きは書かない。


     *


 若い雄が、小さく分けられた荷を運んでいた。


 昨日よりは素直に見える。


 だが、吊るし台の近くで、大きい荷へ手を伸ばす。


 ゴードンが低く言う。


「まだ」


 若い雄は不満げに唸った。


「いや」


 ゴードンはしばらく若い雄を見た。


 そして、大きい荷を指す。


「まだ」


 小さい荷を指す。


「すこし」


 若い雄は鼻を鳴らした。


 それでも、小さい荷を持った。


 数歩進み、肩をかばいながらも運ぶ。


 ゴードンが言う。


「よい」


 若い雄は、勝ったような負けたような顔をした。


 若い雄は、「若い」と呼ばれることを嫌がった。


 だが、まだ大きい荷を持てない。


 力はある。


 意地もある。


 けれど、力を使える身へ戻るには、まだ時が要る。


 私は帳へ記す。


 ――若い雄、いやと言う。


 ――ゴードン、まだを返す。


 ――だめにあらず。


 ――傷癒えれば可なるもの。


 ――まだは、未来を残す音なり。


 ――若い雄、若いまま見られることを嫌うか。


 ――されど、肩まだ重し。


 未来を残す音。


 そう書いてから、私は自分の字を見つめた。


 昨夜の「まだ」も、そうだったのか。


 拒みではない。


 終わりでもない。


 未来を残すための音。


 だからこそ怖い。


 未来が残っているということは、いつか越える日が来るかもしれないということでもある。


     *


 昼近く、ゴードンは水場の石の上に、私の落とした布を置いていた。


 私は一瞬、息が止まった。


 王国の布。


 昨夜、畳まずに落としたもの。


 それが、泥を落とされ、乾かされていた。


 ゴードンはそれを私へ差し出さなかった。


 近づきすぎない。


 ただ、石の上へ置いた。


 私が取れる場所へ。


 私は、しばらく動けなかった。


 布を拾わなかったこと。


 畳まなかったこと。


 王国の手順を捨てたこと。


 それを彼は見ていた。


 そして今、布を乾かしている。


 責めず。


 問いもせず。


 ただ、使えるように戻している。


 私は近づき、布を手に取った。


 乾いている。


 かすかに灰の匂いがした。


 清めたのだ。


 私は喉の奥が詰まった。


「ゴードン」


 彼は振り向く。


 私は言うべき言葉を探した。


 ありがとう。


 王国語ならそう言う。


 だが、この群れに、その音はまだない。


 私は胸に手を当てた。


「うれしい」


 ゴードンはじっと見た。


 意味を探している。


 私は布を握り、もう一度言った。


「うれしい」


 彼は低く繰り返した。


「アリア、うれしい」


「はい」


 私は頷いた。


 彼は、少しだけ息を吐いた。


 笑ったのかもしれない。


 オークの顔で、それを見分けることはまだ難しい。


 だが、私はそう思った。


     *


 午後、私は傷病者の区画へ行った。


 肩傷の雌がいた。


 彼女は以前よりずっと普通に動いている。


 水場側の雌も、軽い桶を運んでいる。


 若い雄は、まだ肩をかばう。


 雄だから遅いのか。


 雌だから早いのか。


 傷の差か。


 務めの差か。


 答えは出さない。


 だが、私自身の身もまた、おかしかった。


 足の痛みは遠い。


 冷えも少ない。


 頭も、思ったより澄んでいる。


 昨夜眠れなかったはずなのに。


 私はそこまで考えて、帳を閉じた。


 公式の帳に書ける線を越えそうだった。


 これは、まだ書かない。


 いや、違う。


 これは、そこには書けない。


     *


 夕方、小柄なオークが湿った皮の前に座っていた。


 彼はそれを触り、私を見る。


「まだ」


「はい。まだ」


 彼は不満そうに喉を鳴らす。


「いや」


「いや、ですか」


「いや」


 私は少し笑った。


 笑ってから、胸が痛んだ。


 群れは、言葉を覚えている。


 命令だけではない。


 拒み。


 喜び。


 少し。


 まだ。


 小柄な者は、昨日より多くの音を並べる。


 水桶も、以前より長く持つ。


 まだ小さい。


 だが、ただ小さいだけではなくなっている。


 若い雄も、若いと呼ばれることを嫌がる。


 まだ若い。


 だが、若いままではいたくないのだろう。


 それらを持った群れは、昨日より扱いづらい。


 だが、昨日より、ただの獣として数えづらい。


 私は帳へ記した。


 ――言葉、群れを従順にするのみにあらず。


 ――時に、拒みを生む。


 ――時に、待つことを生む。


 ――時に、己の欲を言わせる。


 ――小柄なる者、音の数増す。


 ――若い雄、若いを嫌う。


 ――未だ成りきらぬものも、日ごと変わる。


 ――これを危うしと見るべきか、秩序の芽と見るべきか、定め難し。


     *


 夜が近づくと、水場の音が大きく聞こえ始めた。


 昼間と同じ水音のはずだった。


 それなのに、夜が近づくと違って聞こえる。


 私は帳を閉じた。


 秘匿の頁は、別に隠してある。


 そこには、昨夜のことがある。


 王国へ出すべからず。


 そう書いた頁。


 だが、王国へ出せぬからといって、無かったことにはならない。


 むしろ、出せぬものほど、身に残る。


 ゴードンが近くに立った。


 距離を置いて。


 私を見ている。


「アリア」


「ゴードン」


 私は返す。


 それだけで、夜の水場が戻ってくる。


 ゴードンは胸に手を当てた。


 そして、低く言った。


「まだ」


 私は息を止めた。


 誰に向けた音か、また分からなかった。


 私へか。


 彼自身へか。


 水場へか。


 昨夜へか。


 これからへか。


 火を見る雌の腹へ、まだ名を置くなという音にも聞こえた。


 若い雄へ、まだ大きい荷を持つなという音にも聞こえた。


 小柄な者へ、まだ名を急ぐなという音にも聞こえた。


 そして、私へ。


 まだ、腹のことを考えるな。


 まだ、ゴードンの子を宿す身として記すな。


 まだ、王国の女であった自分を捨てきるな。


 そう言われたようにも聞こえた。


 私は、同じ音を返した。


「まだ」


 その音は、拒みではない。


 許しでもない。


 終わりでもない。


 未来を残すための堤である。


 私は帳を開き、公式の頁の端へ一行だけ書いた。


 ――まだ、という音を得る。


 ――これは、禁ずる音にあらず。


 ――越えぬことで、後を残す音なり。


 そこまで書いて、筆を止めた。


 本当は、もう一行あった。


 ――昨夜、私はその音に救われたり。


 だが、それは書かなかった。


 それは秘匿の頁にのみ置くべきものだった。


     *


 火場では、火を見る雌が湿った枝を脇へ置いていた。


 その手が、また腹の前を通る。


 若い雄は、小さい荷を抱えて眠っている。


 小柄なオークは、湿った皮の前で「まだ」と寝言のように呟いていた。


 水場側の雌は、軽い桶をそばに置いている。


 肩傷の雌は、水場側の雌が重い桶へ手を伸ばさぬよう、近くに座っている。


 群れは、まだ名を持ち始めたばかりだ。


 まだ、己の拒みを知り始めたばかりだ。


 まだ、すこしという間を覚え始めたばかりだ。


 まだ、腹の中にあるかもしれぬものへ、名を置くには早い。


 そして私もまた、まだ戻る道を完全には失っていないと、自分に言い聞かせている。


 だが、城壁の内側へ戻る私と、ここで帳を書く私は、もう同じではない。


 私は最後に、秘匿ではない帳へこう記した。


 ――まだ。


 ――この音、群れを止めるだけにあらず。


 ――獣と秩序の間に、一夜分の橋を架ける音なり。


 ――橋は、渡らぬためにも、渡るためにもある。


 少し迷い、さらに小さく足した。


 ――腹もまた、まだと記す。


 ――子とは書かず。


 ――されど、見ぬふりもせず。

この話に続く秘匿別紙があります。


『第十六個体観測録 秘匿別紙』

秘匿別紙 六 水面の獣

https://novel18.syosetu.com/n7604mh/6/


※秘匿別紙はR18作品です。18歳未満の方は閲覧できません。

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