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第十六個体観測録  作者: 黒瀬 量衡


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第二十二話 名を欲しがるもの

 名は、思ったより早く広がった。


 朝、私が水場の近くで帳を開くと、小柄なオークが、岩の陰からこちらを見ていた。


 逃げない。


 近づきもしない。


 ただ、待っている。


「アリア」


 その音は、もうかなり近かった。


 私は顔を上げる。


 小柄なオークは、胸を張るようにして、もう一度言った。


「アリア」


 そして、少し間を置いて、別の音を出す。


「ゴードン」


 私は筆を止めた。


 昨日、私が大個体へ与えた名。


 ゴードン。


 それは、大個体だけを指す音として教えたつもりだった。


 だが、群れの中に音が落ちれば、音は群れのものになる。


 小柄なオークは、得意そうに喉を鳴らした。


「アリア。ゴードン」


 それから、自分の胸を叩いた。


「……ゴードン」


「違います」


 私は思わず言った。


 小柄なオークは首を傾げた。


 私は石を三つ拾った。


 一つを自分の前へ置く。


「アリア」


 二つ目を、大個体のいる方へ置く。


「ゴードン」


 三つ目を、小柄なオークの前へ置く。


 そして、首を振った。


「ゴードン、違う」


 小柄なオークは三つ目の石を見る。


 自分の胸を叩く。


「ゴードン?」


「違う」


「ちがう」


 音だけは返る。


 意味は、まだ浅い。


 けれど、返った。


 私は帳へ記した。


 ――名、広がる。


 ――されど、音は広がりすぎる。


 ――一つの身を分けるための音なれば、他へ渡すべからず。


 ――教える要あり。


 余白が、少しずつ狭くなっている。


 昨日は名のことを書いた。


 今日は、その名が広がることを書いている。


 このまま一体ずつ記していけば、王国へ持ち帰るべき帳は、すぐに重くなる。


 それでも、書かねばならない。


 名を持ち始めたものを、ただ数だけで戻すことは、もう難しい。


     *


 大個体――ゴードンは、吊るし台のそばで若い雄を見ていた。


 狼に肩を裂かれた若い雄である。


 傷は塞がりつつある。


 だが、水場側の雌に比べれば、熱の退きは遅い。


 同じ日に負った傷。


 同じほどの深さに見えた傷。


 それなのに、差がある。


 私はまだ結論を書かない。


 だが、見る。


 見ることだけは、やめてはならない。


 若い雄は、ゴードンから渡された荷を片腕で持ち上げようとしていた。


 重すぎる。


 肩に力が入り、傷のあたりが引きつる。


 ゴードンが短く言った。


「まて」


 若い雄は不満げに唸った。


 ゴードンが荷を奪い、半分だけにした。


 若い雄はなお唸る。


 自分は弱くない、と言いたいのか。


 若い雄は、半分にされた荷を見て、ゴードンを見上げた。


 そして、喉の奥から短い音を出した。


「……いや」


 私は息を止めた。


 それは、私が教えた音ではない。


 少なくとも、命じて教えた音ではない。


 だが、群れは聞いている。


 私の声を。


 ゴードンの声を。


 小柄なオークの真似を。


 肩傷の雌や水場側の雌の息を。


 音は、命令より早く広がる。


 ゴードンは若い雄を見た。


 その手が一度、若い雄の肩へ伸びかける。


 だが、止まった。


 若い雄は、もう一度、低く言った。


「いや」


 私は、知らぬうちに立ち上がっていた。


「ゴードン」


 彼がこちらを見る。


 私は自分の胸に手を当て、首を振った。


「いや」


 次に、若い雄を指す。


「いや」


 そして、無理に肩を動かすしぐさをして、顔をしかめた。


「いたい」


 ゴードンの目が、若い雄へ戻る。


 若い雄は、まだ唸っている。


 拒んでいる。


 逆らっているのではない。


 少なくとも、ただの反抗ではない。


 肩が痛い。


 半分でも重い。


 あるいは、弱く扱われるのが嫌なのかもしれない。


 どれかは分からない。


 だが、「いや」は、内より出た音だった。


 ゴードンは、少し考えた。


 そして、荷をさらに分けた。


 片手でも運べるほど、小さくする。


 若い雄の前へ置く。


「すこし」


 私は、その音に胸を突かれた。


 ゴードンが言った。


「すこし」


 若い雄は、半分以下になった荷を見る。


 不満そうに牙を鳴らす。


 それでも、持った。


 今度は肩を大きく歪めない。


 数歩、運ぶ。


 ゴードンが頷く。


「よい」


 若い雄は、低く鳴った。


 勝ったのか、負けたのか、分からぬ顔だった。


 私は帳へ記す。


 ――いや。


 ――まてにあらず。


 ――だめにあらず。


 ――内より出る拒みの音。


 ――ゴードン、これを聞き、荷を分けたり。


 ――すこし、という音、ここに用いらる。


 ――すべてを許すにあらず。すべてを禁ずるにもあらず。


 ――間を作る音なり。


     *


 小柄なオークは、それをすべて見ていた。


 そして、自分の胸を叩いた。


「いや」


「違います」


 私は頭を抱えたくなった。


 小柄なオークは、今度こそ困った顔をした。


 自分の胸を叩く。


「いや?」


「あなたの名ではありません」


 もちろん通じない。


 私は小柄なオークの前にしゃがんだ。


 彼は私より低い。


 大人なのか、若い個体なのか、私にはまだ分からない。


 ただ、群れの中では小さい。


 だから、私の目にはいつもそう映っていた。


「小さい」


 私は言った。


 小柄なオークは瞬きをした。


「ちいさい」


「はい。小さい」


 彼は自分の胸を叩く。


「ちいさい」


 私は少し迷った。


 これは名ではない。


 本当の名ではない。


 ただ、私の目に映る特徴である。


 小柄なオークを、小さいと呼ぶことは、正しいのか。


 王国なら、体つきで人を呼ぶのは褒められたことではない。


 だが、この群れには、まだ姓も家も職名もない。


 務めと姿と音で、互いを分け始めている。


 小柄なオークは、もう一度、自分の胸を叩いた。


「ちいさい」


 それから、喉を鳴らした。


 高く、明るい音だった。


 私はその音を聞いて、別の言葉を思い出した。


「うれしい」


 小柄なオークが首を傾げる。


 私は自分の胸へ手を当て、少し笑ってみせた。


「うれしい」


「うれしい」


 小柄なオークは、すぐに真似をした。


 意味はまだ浅い。


 それでも、音は入った。


「ちいさい。うれしい」


 彼はそう言って、跳ねるように水場の方へ走った。


 私は筆を取る。


 ――小柄なる個体、自らを小さいと受く。


 ――名にあらず。されど、個を分ける音として働く。


 ――うれしい、という音を与う。


 ――内より出る喜びの音なるべし。


 ――こわい、いや、うれしい。


 ――群れ、命令以外の音を持ち始む。


     *


 火場では、火を見る雌が座っていた。


 彼女はいつも火に近い。


 燃えすぎる枝をどけ、湿った枝を脇へ寄せ、火の勢いを見ている。


 火を見る。


 そういう務めの雌だ。


 私は以前から、そう記していた。


 彼女は私を見ると、胸を叩いた。


 そして言った。


「ゴードン?」


「違います」


 私は即座に答えた。


 彼女は不満そうではなかった。


 ただ、答えを待っている。


 名を欲しがっている。


 私は火を指した。


「火」


 彼女は頷く。


「ひ」


 次に、彼女の目を指す。


「見る」


「みる」


 私は彼女を指した。


「火を見る」


 彼女はしばらく黙った。


 それから、自分の胸を叩いた。


「ひ、みる」


「はい。火を見る」


 火を見る雌は、喉の奥で低く鳴った。


 小柄なオークほど跳ねはしない。


 だが、火のそばで背を少し伸ばした。


 その時、彼女の片手が腹へ添えられた。


 立ち上がるためではない。


 火の熱を避けるためでもない。


 無意識に、そこを支えるような手つきだった。


 私は目を止めた。


 腹が、わずかに前へ張っている。


 以前からそうであったか。


 火のそばで座り続けるため、衣がそう見えるのか。


 肥えか。


 腫れか。


 子か。


 定め難い。


 私は声には出さなかった。


 今ここで、その腹を指して音を与えるべきではない。


 名と同じだ。


 定まらぬものへ、早く音を置けば、音の方が先に育ってしまう。


 私は帳へ書く。


 ――火を見る雌、自らを火を見ると受く。


 ――これも名にあらず。務めの音なり。


 ――されど、音を得た時、背を伸ばす。


 ――名と務め、近し。


 ――務めを呼ばれること、個を呼ばれることに近づきつつあり。


 少し間を置いて、別の行へ小さく足した。


 ――同雌、立つ時、腹へ手を添う。


 ――腹、わずかに張るか。


 ――肥えか。腫れか。子か。


 ――定め難し。


 ――後日、なお見るべし。


     *


 昼すぎ、火を見る雌が太い枝を抱えようとした。


 乾いた枝だ。


 火場へ運ぶにはよい。


 だが、抱えるには少し太い。


 彼女は両腕を伸ばし、腹の前へ枝を寄せようとした。


 ゴードンが短く言った。


「まて」


 火を見る雌は止まった。


 怒った様子ではない。


 ただ、なぜ止められたのかを待っている。


 ゴードンは太い枝を取り、かわりに細い枝を二本渡した。


「すこし」


 火を見る雌は細い枝を見る。


 それから、腹へ添えていた手を下ろし、枝を受けた。


 彼女はそれを火場へ運んだ。


 私は見ていた。


 ゴードンは、腹に気づいているのか。


 それとも、火を見る雌を火場から離しすぎぬよう、ただ務めを分けただけか。


 分からない。


 だが、止めた。


 太い枝ではなく、細い枝を渡した。


 すこし。


 若い雄の肩にも、水場側の雌の腕にも使われた音が、今、火を見る雌にも使われた。


 私は記した。


 ――火を見る雌、太き枝を抱えんとす。


 ――ゴードン、まてと言う。


 ――太き枝を取り、細き枝二本を渡す。


 ――すこし。


 ――腹のためか、務めのためか、定め難し。


 ――後日、なお見るべし。


     *


 水場側の雌も、名を欲しがった。


 彼女は腕の傷が若い雄より早く落ち着いている。


 腫れはまだある。


 だが、熱が引くのが早い。


 肩傷の雌の時もそうだった。


 偶然か。


 雌の身の働きか。


 あるいは、ゴードンの群れの水と火と寝床の違いが、雌の傷にだけ強く働くのか。


 まだ書けない。


 だが、見る。


 水場側の雌は、水桶を持とうとした。


 大きな桶だ。


 彼女なら持てる。


 傷がなければ。


 ゴードンが止める。


「まて」


 水場側の雌が唸る。


 若い雄と同じように、拒む。


「いや」


 その音は、若い雄よりはっきりしていた。


 私は息を呑む。


 ゴードンも止まった。


 彼は、以前なら桶を取り上げ、別の務めを命じただろう。


 だが、今は違う。


 彼は水桶を見た。


 傷を見た。


 水場側の雌を見た。


 そして、小さい桶を持ってきた。


「すこし」


 水場側の雌は、鼻を鳴らした。


 不満はある。


 だが、受けた。


 小さい桶を持つ。


 数歩運ぶ。


 ゴードンが言う。


「よい」


 水場側の雌は、低く鳴った。


 私は帳へ記した。


 ――水場側の雌、いやと言う。


 ――ゴードン、止まる。


 ――すこしを与う。


 ――いやを聞き、すこしを作る。


 ――これ、群れの務めを壊さず、個の痛みを殺さぬための音なり。


     *


 夕方、小柄なオークがまた私の前へ来た。


「ちいさい」


 彼は自分を指す。


「うれしい」


 そして、私を指す。


「アリア」


 次に、遠くのゴードンを指す。


「ゴードン」


 火場を指す。


「ひ、みる」


 水場側の雌を指そうとして、止まる。


 音がないからだ。


 彼は困った顔をした。


 私は水場側の雌を見る。


 腕に傷がある。


 だが、彼女を「腕傷」と呼ぶのは、何か違う。


 傷はやがて消える。


 消えるものを名にするのは、危うい。


 彼女は水場を守り、水を運ぶ。


 私は迷った。


「水場側」


 そう言ってみる。


「みずば、がわ」


 小柄なオークには難しかった。


 彼は舌をもつれさせる。


「みず……が」


 水場側の雌も、同じように音をこぼした。


 私は苦笑した。


 まだ早い。


 すべてに名を与えるには、音が足りない。


 だが、群れは欲しがっている。


 自分を分ける音を。


 他と違う身であると示す音を。


 私は、そのことが怖くなった。


 名を与えるとは、責を負うことだ。


 呼び分けたものは、ただの群れへ戻らない。


 ただの害獣へも戻らない。


 私の帳の中で、彼らは一体ずつ、重くなっていく。


     *


 夜、吊るし台の下で、ゴードンが一人立っていた。


 乾いた肉。


 裂いた皮。


 骨。


 粘る汁を取るための欠片。


 それらが、務めごとに分けられている。


 彼は、石を三つ並べていた。


 一つは、私を指す石。


 一つは、彼自身を指す石。


 もう一つは、小柄なオークが置いたらしい小さな石。


 ゴードンはそれを見ていた。


 私が近づくと、彼は顔を上げた。


「アリア」


「ゴードン」


 私は答える。


 彼は自分の胸へ手を当てる。


「ゴードン」


 次に、私を指す。


「アリア」


 そして、少し離れた場所にいる小柄なオークを指す。


「ちいさい」


 私は頷いた。


「そうです」


 ゴードンは言葉を探すように喉を鳴らした。


「ちいさい、うれしい」


「はい。小さいは、うれしい」


 彼は若い雄の方を見る。


 若い雄は、まだ小さな荷を運んでいる。


「わかい」


 私は頷く。


「若い」


 若い雄が遠くで振り向いた。


 その顔は不満そうだった。


「いや」


 若い雄が言った。


 私は思わず笑いそうになり、すぐに堪えた。


 名にしたい音と、されたくない音がある。


 彼は「若い」と呼ばれたくないのかもしれない。


 ゴードンは若い雄を見た。


 叱らない。


 ただ、短く言った。


「いや」


 そして、自分の胸ではなく、若い雄を指す。


「いや」


 若い雄は鼻を鳴らした。


 それでも、荷を持ち直した。


 私は帳へ書く。


 ――若い雄、若いを嫌う。


 ――いや、と言う。


 ――名は与えれば足るものにあらず。


 ――受ける身が、いやと言うことあり。


     *


 その夜の記録は長くなった。


 名が生まれる。


 務めの音が、個の音へ近づく。


 こわい。


 いや。


 うれしい。


 すこし。


 群れの中に、命令ではない音が増えている。


 水を飲め。


 火へ寄るな。


 腐れを触るな。


 待て。


 それだけでは足りなくなっている。


 痛い。


 怖い。


 嫌だ。


 少しならよい。


 嬉しい。


 それらが、群れの中に芽を出す。


 私は筆を止めた。


 胸の奥が重い。


 名を与えるたび、彼らは近づく。


 人へ近づくのではない。


 十五文化圏の者へなるのでもない。


 ただ、群れの中で、一つの身として重くなっていく。


 それが怖い。


 同時に、目を離せない。


 荷帳の余白は、また少し減った。


 私は字を小さくして、続けた。


 ――火を見る雌、腹を支える。


 ――太き枝を避け、細き枝を受く。


 ――肥えか、腫れか、子か、定め難し。


 ――名と同じく、早く定めるべからず。


 ――ただし、日を置きて必ず見るべし。


     *


 最後に、ゴードンが吊るし台の下で小さく言った。


「ゴードン」


 自分を指す。


「アリア」


 私を指す。


 そして、少し間を置いて、言った。


「まて」


 その「まて」が、誰に向けたものか分からなかった。


 群れにか。


 若い雄にか。


 名を欲しがる小柄なオークにか。


 火を見る雌の腹へ、まだ名を置くなということか。


 それとも、自分自身にか。


 私は答えられなかった。


 ただ、帳へ書いた。


 ――名を得たものは、近づく。


 ――近づけば、待てが要る。


 ――ゴードン、まてと言う。


 ――誰へ向けし音か、定め難し。


 筆を置く。


 遠くで、小柄なオークが寝言のように言った。


「ちいさい……うれしい」


 火場では、火を見る雌が枝を動かした。


 その手が、また一度、腹の前をかすめた。


 若い雄は、小さな荷を抱えて眠っている。


 水場側の雌は、軽い桶をそばに置いていた。


 そして、ゴードンはまだ立っていた。


 名を持った大きな影として。


 私は、秘匿ではない帳に、最後の一行を書いた。


 ――群れ、名を欲す。


 ――名は、獣を人にするものにあらず。


 ――されど、ただの獣として数えることを難くするものなり。


 そして、さらに小さく、もう一行だけ加えた。


 ――腹もまた、名を待つものかもしれぬ。

この話に対応する秘匿別紙があります。


『第十六個体観測録 秘匿別紙』

秘匿別紙 五 すこしの手

https://novel18.syosetu.com/n7604mh/5/


※秘匿別紙はR18作品です。18歳未満の方は閲覧できません。

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