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第十六個体観測録  作者: 黒瀬 量衡


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第二十一話 名を分ける

 朝、月の血はほとんど過ぎていた。


 血布には、もう淡い痕が残るだけだった。


 来なかったのではない。


 来た。


 来て、私の身を通り、過ぎた。


 それなのに、身の底に残るはずの重さは浅い。


 冷えも、だるさも、街にいた頃ほど残らない。


 身体は軽かった。


 だが、軽いから楽だとは限らない。


 痛みや冷えに押さえられていたものが退くと、別のものがはっきり残る。


 水場の記憶。


 大個体の声。


 胸元の秘匿の頁。


 そして、昨日渡してしまった音。


 こわい。


 よい。


 火場のそばで、小柄なオークが言った。


「こわい。よい」


 それは昨日、私が大個体へ向けてしまった二つの音だった。


 怖い。


 よい。


 大個体はその二つを聞き、何も言わなかった。


 若い雄が骨を噛みながら、小柄な者の声を真似る。


「こわい」


 そして、大個体を指した。


 火を見る雌が喉を鳴らす。


 肩傷の雌も、ちらりと大個体を見た。


 間違いではない。


 大個体は怖い。


 だが、怖いという音が、このまま大個体の名のように群れへ広がるのは違う。


 私は慌てて首を振った。


「いいえ。こわい、は名ではありません」


 当然、通じない。


 小柄なオークは首を傾げる。


「こわい?」


 私は自分の胸を押さえた。


「こわい。ここ」


 それから、狼の牙を指す。


「狼、こわい」


 腐れを焼く場所を指す。


「腐れ、こわい」


 最後に、大個体を見た。


 言えなかった。


 大個体も、こわい。


 けれど、それだけではない。


 私は荷帳を開き、震える筆で書いた。


 ――「こわい」の音、名へ変じる恐れあり。


 ――小柄な者、大個体へ向けて用う。


 ――若い雄も真似る。


 ――心の内を示す音と、その者を呼ぶ音は分けねばならぬ。


 書いてから、私は気づいた。


 分けねばならない。


 それは、この群れだけの問題ではない。


 私自身の問題でもあった。


     *


 私は、大個体を何と呼んでいるのか。


 王国へ出す帳では、第十六個体。


 十五文化圏の外側に現れた、十六番目の秩序。


 そう記すための呼び方。


 けれど、それは彼の名ではない。


 水場で、私の名を呼んだ彼を、私は第十六個体とは思えなかった。


 大個体。


 これはまだ言える。


 群れの中で最も大きく、最も強い。


 若い雄を止める。


 水と火を分ける。


 腐れを焼く。


 帳を守る。


 傷ある者を止める。


 女の血の布を、食の布や寝床の布と混ぜぬよう扱わせる。


 だが、それも彼の名ではない。


 大きい者なら、ほかにもいるかもしれない。


 強い者なら、いつか別に現れるかもしれない。


 あなた。


 その音は、胸の内にある。


 けれど、昼の広場で出してよい音ではなかった。


 秘匿の頁へ落ちる音だ。


 私は筆を止めた。


 名が要る。


 彼だけへ向ける音が。


     *


 昼前、私は試しに言った。


「オーク」


 小柄なオークがすぐに真似た。


「おーく」


 若い雄も振り向いた。


 大個体も私を見た。


 私は群れを指した。


「オーク」


 次に、大個体を指す。


「オーク」


 肩傷の雌を指す。


「オーク」


 若い雄を指す。


「オーク」


 大個体は黙っていた。


 分かっていない。


 その目で、私は理解した。


 彼はこの音を知らないのだ。


 王国では、彼らをオークと呼ぶ。


 大型害獣。


 森の害。


 駆除の対象。


 城壁の外で出会えば、槍と火を向けるべきもの。


 だが、この群れが自分たちをそう呼んでいるわけではない。


 隊商を威嚇した時も、荷を奪った時も、人間たちが何を叫んでいたのか、彼らには分からなかったのだろう。


 オークという音は、外から投げつけられた名だ。


 彼ら自身の口から生まれた名ではない。


 大個体は、自分たちがその音で呼ばれていることを知らなかったのかもしれない。


 私は荷帳へ書いた。


 ――王国にては、彼らをオークと呼ぶ。


 ――されど、大個体、この音を知る様子なし。


 ――人間の叫びを聞きしことはあろう。


 ――されど、己らを指す音と知るとは限らず。


 ――外より与えられし名と、内にある名とは異なるものか。


 私はそこまで書いて、筆を置いた。


 オーク。


 その音を、今この群れへ渡してよいのか。


 迷った。


 王国の害獣名を、彼ら自身の口へ入れることになるからだ。


     *


 大個体は、私の迷いを見ていた。


 彼は自分の胸を叩いた。


「おーく?」


 私は止まった。


 次に、若い雄を指した。


「おーく?」


 肩傷の雌を指す。


「おーく?」


 私は頷くべきだったのかもしれない。


 王国の分類なら、すべてオークだ。


 だが、頷けなかった。


 目の前の大個体と、若い雄と、肩傷の雌と、小柄な者。


 王国の帳なら、同じ欄に入る。


 だが、私の目にはもう同じではない。


 水を持つ者。


 火を見る者。


 傷を抱える者。


 待てを真似る者。


 若く荒い者。


 己を制する者。


 すべてを一つの外の名で括ることに、私の手が止まった。


 私は首を振った。


「……今は、違います」


 違う。


 その音が出た。


 大個体の目が動いた。


「ちがう?」


 また新しい音を拾ってしまった。


 私は額に手を当てた。


 だが、もう遅い。


 言葉は一度出れば、戻らない。


     *


 私は小石を拾った。


 一つ、大きな石。


 一つ、小さな石。


 一つ、白い石。


 一つ、黒い石。


 それらを地面に並べる。


「石」


 すべてを指す。


「石」


 大個体は頷いた。


 これは分かる。


 次に、大きな石を指す。


「この石」


 小さな石を指す。


「この石」


 私は二つを離した。


「ちがう」


 大個体は目を細めた。


 私はもう一度、大きな石と小さな石を示す。


「石。でも、ちがう」


 小柄なオークが小さく言う。


「いし。ちがう」


 私は大きく息を吐いた。


 完全には伝わっていない。


 けれど、少しだけ届いた。


 同じ呼び名の中にも、異なるものがある。


 同じ群れの中にも、別の身がある。


 私は大個体を指した。


 次に、若い雄を指した。


「オーク。けれど、ちがう」


 大個体は若い雄を見る。


 若い雄は何が起きているのか分からず、骨を噛んでいる。


 大個体は低く繰り返した。


「おーく。ちがう」


 私は頷いた。


 それは、まだ危うい理解だった。


 だが、今はそれでよかった。


     *


 次が、本題だった。


 私は自分の胸に手を当てた。


「アリア」


 大個体はすぐに言った。


「アリア」


 その声に、胸の奥が揺れる。


 私は揺れを押さえた。


 今は、昼だ。


 これは、王国へ出す帳の側の話だ。


 私は大個体の胸を指した。


 彼の毛深い胸。


 丸太を担ぎ、若い雄を止め、夜ごと己を制する身体。


 そこだけを指した。


 若い雄ではない。


 肩傷の雌ではない。


 小柄な者でもない。


 彼だけ。


 私は言った。


「ゴードン」


 音は、思ったより低く出た。


 自分でも、どこから取り出したのか分からなかった。


 王国の古い名か。


 隊商で聞いた異国の男の名か。


 私の中で勝手に形を持った音か。


 分からない。


 けれど、それは彼へ向いた。


 大個体は、私を見ていた。


 私はもう一度、彼の胸を指した。


「ゴードン」


 彼は自分の胸に手を当てた。


「ごーどん」


 小柄なオークが目を丸くした。


 若い雄が骨を噛むのをやめた。


 肩傷の雌が顔を上げた。


 火を見る雌が火箸を止めた。


 群れの空気が変わった。


 私は息を詰めた。


 名を与えたのだ。


 観測の印ではない。


 王国の害獣名でもない。


 群れ全体を括る音でもない。


 彼だけへ向ける音を。


     *


 大個体は、もう一度自分の胸を叩いた。


「ゴードン」


 私は頷いた。


「はい。ゴードン」


 その時、若い雄が自分の胸を叩いた。


「ゴードン?」


 私はほとんど反射で首を振った。


「違います」


 強く言いすぎた。


 若い雄が牙を見せる。


 大個体がすぐに低く言った。


「まて」


 若い雄は止まった。


 私は若い雄を指した。


「ちがう」


 小柄な者を指す。


「ちがう」


 肩傷の雌を指す。


「ちがう」


 それから、大個体を指す。


「ゴードン」


 大個体は黙って聞いていた。


 若い雄が不満げに鼻を鳴らす。


 小柄な者は楽しそうに、大個体を指した。


「ゴードン」


 次に、自分を指して言いかける。


「ご……」


 私は首を振る。


「ちがう」


 小柄な者は少し考え、私を指した。


「アリア」


 私は頷く。


 大個体を指す。


「ゴードン」


 小柄な者は、ゆっくりと言った。


「アリア。ゴードン」


 その並びに、私は息が詰まった。


     *


 大個体が、若い雄へ短く言った。


「まて」


 そして、自分の胸を叩く。


「ゴードン」


 若い雄を指す。


「ちがう」


 若い雄は牙を鳴らした。


 だが、今度は自分をゴードンとは言わなかった。


 大個体は肩傷の雌を指す。


「ちがう」


 小柄な者を指す。


「ちがう」


 私を指す。


「アリア」


 最後に、自分を指す。


「ゴードン」


 私は、言葉が群れの中に入っていく瞬間を見ていた。


 水の名が入った時とも違う。


 火の名が入った時とも違う。


 待てや駄目が入った時とも違う。


 名。


 一つの身を、ほかの身から分ける音。


 それが今、オークの群れの中に入った。


 私は荷帳を開いた。


 ――本日、大個体へ名を与う。


 ――ゴードン。


 ――群れの名にあらず。


 ――オークの名にあらず。


 ――大個体一体へ向ける音なり。


 ――初め、若い雄これを己にも向けんとす。


 ――「違う」の音を用い、分ける。


 ――名とは、群れを括る音にあらず。


 ――一つの身を、ほかの身より分ける音なり。


     *


 私はそこで筆を止めた。


 今、何を書いたのか。


 大個体一体。


 そう書いた。


 だが、もうそれで足りるのか。


 ゴードン。


 名を書いた途端、第十六個体という呼び方が少し遠のいた。


 危うい。


 名前を与えることは、観測を近づける。


 近づけてはならないはずだった。


 けれど、もう遅い。


 彼は自分の胸を叩き、低く言った。


「ゴードン」


 次に、私を見た。


「アリア」


 その二つの音が、昼の広場に並んだ。


 秘匿の頁ではない。


 水場の闇でもない。


 火場のそばで、群れの前で、並んだ。


 アリア。


 ゴードン。


 私はその並びを聞きながら、胸の奥がどうしようもなく熱くなるのを感じた。


 月の血の名残ではない。


 病の熱でもない。


 昨夜の水場だけの熱でもない。


 名が並んだことで、身の内に生まれた熱だった。


 これは、王国へ出すべきことなのか。


 それとも、秘匿へ落とすべきことなのか。


 分からない。


 ただ一つ、分かることがあった。


 名前を持ったものは、ただの害獣には戻らない。


     *


 午後、小柄なオークは何度も言った。


「アリア。ゴードン」


 そのたびに、若い雄が不満げに鼻を鳴らす。


 自分にも音が欲しいのかもしれない。


 肩傷の雌は、自分の胸を叩き、私を見る。


 名が欲しいのか。


 それとも、ただ大個体に与えられた音を不思議がっているだけか。


 私は困った。


 名は、簡単に与えてよいものではない。


 一つ与えれば、次も求められる。


 そして、名を持つ者は、帳の上で重くなる。


 殺された数ではなく、失われた誰かになる。


 傷ある雌。


 火を見る雌。


 水場側の雌。


 小柄な者。


 若い雄。


 私はこれまで、そう呼んできた。


 務めや傷や大きさで分けてきた。


 だが、彼らが名を求め始めたら、私はどうするのか。


 王国の帳は、オークに名を与えない。


 害獣に名はいらない。


 駆除の数に名はいらない。


 けれど、ここでは。


 私は筆を取った。


 ――名、一つ与えれば、ほかの者も求むるか。


 ――名なき時、群れは群れなり。


 ――名ある時、その者はその者となる。


 ――王国の帳、オークに名を与えず。


 ――されど、この群れにおいて、名なきまま見続けること難し。


     *


 夕刻、大個体――いや、ゴードンは水桶を持つ小柄な者を止めた。


「まて。みず、こぼす、だめ」


 こぼす。


 また新しい音が混じっていた。


 小柄な者は水桶を傾けすぎていた。


 ゴードンは手を添え、桶を戻す。


 力任せではない。


 壊さず、こぼさず、戻す。


 私はその手を見てしまった。


 昨夜、木を掴み、自らを止めていた手。


 昼には若い雄を止める手。


 今は水桶を支える手。


 同じ手だ。


 怖い。


 よい。


 そして、今は。


 ゴードン。


 私はその音を、心の内で呼んでしまった。


 彼がこちらを見る。


 まるで聞こえたかのように。


「アリア」


 私は息を呑んだ。


 呼ばれただけだ。


 ただ、名を呼ばれただけ。


 けれど、昨日までの「アリア」とは違って聞こえた。


 なぜなら、彼にも名があるからだ。


 名前を呼ぶ者が、名前を持ったからだ。


     *


 夜、私は王国へ出す帳にこう書いた。


 ――本日、名を分ける作法、始まる。


 ――アリアは私。


 ――ゴードンは大個体。


 ――オークは王国における外の呼び名。


 ――されど、ゴードン自身、初めよりそれを知りし様子なし。


 ――ゴードンを群れの名と誤る恐れあり。


 ――胸を指し、他の者を指して「違う」と示す。


 ――小柄な者、「アリア。ゴードン」と並べる。


 ――名は危うし。


 ――観測対象を近づける。


 そこで、私は筆を止めた。


 観測対象。


 また、王国の言葉に逃げた。


 ゴードンは、観測対象なのか。


 大個体なのか。


 第十六個体なのか。


 守る男なのか。


 駆除されるべき野の生き物なのか。


 それとも、私が水場の闇で「あなた」と呼んだものなのか。


 私はその先を書かなかった。


 王国へ出す帳には置けない。


 かわりに、別の行を小さく足した。


 ――月の血、ほぼ過ぎたり。


 ――身の重さ、従前より浅し。


 ――されど、名を記したる後、胸の熱強し。


 ――これは女の血の名残にあらず。


 ――定め難し。


 ――王国へ出すべからず。


     *


 秘匿の頁は開かなかった。


 開けば、名前を書いてしまう。


 ゴードン。


 その音を、秘匿の頁に置けば、戻れなくなる。


 そう分かっていた。


 だが、昼の帳にはすでに書いてしまった。


 ゴードン。


 王国へ出す帳にさえ、その名は入った。


 私は寝草の上で、胸元を押さえた。


 外から、低い声がした。


「アリア」


 少し間があく。


 それから、まるで確かめるように。


「ゴードン」


 私は目を閉じた。


 彼は自分の名を覚えた。


 私が与えた音を。


 群れの名ではなく、害獣の名でもなく、一つの身を分ける音として。


 その事実が、どうしようもなく恐ろしかった。


 そして、どうしようもなく、嬉しかった。


 私は声には出さなかった。


 けれど、胸の内で返した。


 ゴードン。


 月の血は過ぎた。


 けれど、身の内に残る熱は、別の名を持ち始めている。


 王国へ出すべからざる熱を帯びたその音は、もう私の中に根を下ろしていた。

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