第二十話 こわいという音
朝、私は水場へ行かなかった。
行けなかった、という方が近い。
水は必要だった。
顔を洗うにも、筆を湿らせるにも、昨日の泥を落とすにも、水は要る。
血布も、確かめねばならなかった。
月の血は、ほとんど過ぎていた。
淡い痕があるだけだった。
来なかったのではない。
来た。
来て、私の身を通り、過ぎようとしている。
それなのに、身の底に残るはずの冷えが浅い。
腹の重さも、腰の鈍さも、街にいた頃の過ぎた後より軽い。
軽いことが、かえって怖かった。
昨日までなら、月の血の名残を理由に、水場へ行く足が鈍ると言えたかもしれない。
だが、今朝の足を止めているものは、痛みではなかった。
水場そのものだった。
幕屋の隅で目を覚ました時、まず胸元を押さえた。
秘匿の頁は、そこにあった。
外へ出す帳ではない。
王国へ出すべき記録でもない。
昨夜の頁。
指先で触れただけで、身の奥が熱を思い出した。
私はすぐに手を離した。
外では、火を見る雌が火種を移している。
小柄なオークが水桶のそばで「みず」と言っている。
若い雄が骨を噛み、肩の布をまた剥がそうとしている。
昨日と同じ朝のはずだった。
けれど、私だけが違っていた。
私は荷帳の端に、小さく書いた。
――月の血、ほぼ過ぐ。
――淡き痕のみ。
――来ざりしにあらず。来たり。
――腹重、腰鈍、冷え、従前の過ぎた後より浅し。
――身、軽し。
――されど、水場へ行くこと難し。
――理由、痛みにあらず。
そこで筆を止めた。
その先は、王国へ出す帳に置けなかった。
*
大個体は、水場の方から戻ってきた。
近づきすぎない。
いつもより、少し遠い。
それに気づいた瞬間、胸が痛んだ。
彼は私を避けているのか。
それとも、私を壊さぬよう、距離を置いているのか。
昨夜もそうだった。
近かった。
けれど、触れなかった。
名を呼ばれた。
けれど、抱かれはしなかった。
私は彼を見上げた。
大個体の目が、私を見た。
「アリア」
低い声。
それだけで、喉の奥に別の音が上がりかけた。
あなた。
私は唇を噛んだ。
出してはならない。
これは本編の帳に置ける音ではない。
王国へ出せる音ではない。
今の朝に、何気なく返してよい音でもない。
私は代わりに、ただ頷いた。
「……水は、あとで」
通じたかどうかは分からない。
だが、大個体はそれ以上近づかなかった。
その距離が、優しさのようで、罰のようでもあった。
*
水場へは、昼前になってから行った。
一人ではない。
小柄なオークが先に歩き、火を見る雌が少し後ろにつく。
大個体は遠くにいた。
だが、見ていた。
それが分かった。
私は水場の石を見ないようにした。
流れから外れた岩陰も見ないようにした。
けれど、見てしまった。
昨夜の場所から少し離れた木の幹に、深い爪痕が残っていた。
太い爪が、樹皮を裂いている。
狼の爪ではない。
熊の爪でもない。
オークの爪だ。
大個体のものだ。
私は息を止めた。
あれは、獲物に向けた爪ではない。
敵に向けた爪でもない。
己を止めるための爪だ。
木を掴み、近づかぬよう耐えた跡。
それを見た瞬間、足の力が抜けそうになった。
小柄なオークが振り返る。
「アリア?」
私は何でもないように立とうとした。
だが、膝が震えていた。
月の血の重さではない。
もう、それを言い訳にできるほど、身は沈んでいなかった。
小柄なオークが私の足元を見る。
「いたい?」
痛い。
その音は、もう彼らの中に根づき始めている。
傷。
血。
裂けた皮。
腫れ。
それらへ向ける音。
私は首を振った。
「痛くは、ありません」
痛いのではない。
では、何か。
私は爪痕を見た。
大個体の爪。
自制の跡。
私を壊さぬために木へ刻まれたもの。
怖い。
その言葉が、胸の内で鳴った。
私は小さく言った。
「こわい」
小柄なオークが首を傾げた。
「こわい?」
火を見る雌もこちらを見た。
遠くにいた大個体が、動きを止めた。
*
しまった、と思った。
この音を、軽く渡してよいのか。
水や火の名とは違う。
残す、埋める、乾かす、とも違う。
待てや駄目とも違う。
これは、心の内を指す音だ。
傷ではない。
腐れでもない。
目に見える物でもない。
見えぬもの。
だが、確かにあるもの。
私は、自分の胸を押さえた。
「こわい」
小柄なオークは私の胸を見た。
次に、爪痕を見た。
次に、大個体を見た。
「こわい」
真似た。
意味は、まだ分かっていない。
だが、音は拾われた。
大個体が近づいてきた。
ゆっくりと。
私が逃げないほどの速さで。
だが、近すぎないところで止まる。
彼は爪痕を見た。
それから私を見た。
「アリア、こわい?」
その問いに、胸が裂けそうになった。
怖い。
ええ、怖い。
あなたが怖い。
あなたの力が怖い。
あなたが自分を止めなければ、私は壊れるのだと知っている。
けれど、怖いだけではない。
それが言えない。
私は頷くことも、首を振ることもできなかった。
大個体は、それを見て一歩下がった。
それだけで、私は泣きそうになった。
*
火を見る雌が、小柄なオークの肩を押した。
水桶を持て、ということらしい。
小柄なオークはまだ私を見ていた。
「こわい?」
私は息を整えた。
何を指して教えればよいのか。
狼の骨を指せば、分かりやすい。
ゴブリンの腐れを指せば、危うさとして伝わる。
だが、今の「こわい」はそれだけではない。
私は狼の牙を拾った。
「狼。こわい」
小柄なオークが繰り返す。
「おおかみ、こわい」
次に、腐れを焼く場所の方を指した。
「腐れ。こわい」
火を見る雌が低く鳴いた。
「くされ、こわい」
それから、私は若い雄たちが棍棒を振る広場を指した。
「力。こわい」
これは難しかった。
小柄なオークは分からない顔をした。
私は若い雄が昨日、棍棒を外して隣を打ちかけた場面を思い出し、腕を振る真似をした。
それから、自分の腕を抱えて縮こまる。
「こわい」
小柄なオークの目が少し変わった。
完全に分かったのではない。
だが、痛いとは違うものだと、わずかに感じたらしい。
私は最後に、大個体を見た。
大個体も私を見ていた。
私は何も言わなかった。
言わなかったことが、たぶん伝わった。
*
昼の帳に、私はこう書いた。
――本日、「こわい」の音を渡す。
――痛きにあらず。
――傷にあらず。
――目に見ゆるものの名にもあらず。
――狼、腐れ、力に向けて用う。
――小柄な者、音を拾う。
――火を見る雌も音を拾う。
――大個体、「アリア、こわい?」と問う。
――心の内を指す音、群れへ入り始めたり。
そこまで書いて、筆を止めた。
心の内。
それを記した瞬間、手が重くなった。
オークに、心の内を示す音が渡った。
水でも火でもない。
腐れでも荷でもない。
してよいこと、してはならぬことでもない。
見えぬものを指す音。
これを、私は渡してしまった。
私は続けて、別の行を小さく足した。
――月の血、ほぼ過ぎたり。
――身、従前より軽し。
――痛みによる怯みにあらず。
――水場を避ける理由、別にあり。
――王国へ出すべからず。
*
午後、若い雄がまた傷の布を剥がした。
肩はまだ赤く、熱を持っている。
水場側の雌の腕は、かなり乾いていた。
彼女は立って働こうとしたが、肩傷の雌に止められた。
「まて」
水場側の雌は不満げに喉を鳴らす。
若い雄は、布を剥がして傷を掻こうとした。
大個体が止める。
「まて。だめ」
若い雄が吠える。
私はその声に肩を震わせた。
小柄なオークがすぐに私を見た。
「アリア、こわい?」
私は苦笑しかけて、できなかった。
この小さな者は、覚えたばかりの音を、私へ返している。
私は頷いた。
「少し、こわい」
小柄なオークは、若い雄を見る。
「わかい、こわい」
若い雄がこちらを見た。
意味は分かっていない。
けれど、自分が何かの音で呼ばれたことは分かったらしい。
不満げに鼻を鳴らす。
大個体が低く言った。
「まて」
若い雄は動きを止めた。
小柄なオークは、その様子を見て言った。
「まて。こわい、だめ」
おそらく、正しくはない。
だが、間違ってもいない。
待て。
怖い。
駄目。
その三つが、彼の中で近づいている。
私は震えた。
言葉は、私の手を離れると、群れの中で別の形へ育っていく。
*
夕方、大個体は若い雄たちに棍棒を振らせた。
昨日より、少しだけ遅い。
少しだけ、線へ近い。
まだ粗い。
すぐ飽きる。
すぐ強く振りすぎる。
それでも、大個体は何度もやり直させる。
大個体が若い雄の腕を止めた時、私はまた肩を震わせた。
あの腕。
壊すこともできる腕。
止めることもできる腕。
大個体が私を見た。
「アリア、こわい?」
今度は、私は逃げなかった。
頷いた。
「こわい」
大個体の目が暗く沈んだ。
私は続けた。
「でも……よい」
言ってから、自分でも驚いた。
よい。
それもまた、心の内に近い音だった。
大個体は聞き取った。
「よい?」
私は迷った。
どう教えればよいのか。
私は若い雄の腕を止める大個体の手を指した。
「まて。よい」
次に、若い雄を殴らずに放したことを示す。
「壊さない。よい」
壊さない、という音はまだ難しい。
大個体はすべてを理解したわけではないだろう。
だが、私が恐れているだけではないことは分かったらしい。
彼は少しだけ息を吐いた。
「こわい。よい」
並べると、おかしな言葉だった。
けれど、私にはそれが一番近かった。
怖い。
よい。
この二つが、今の私の中で、別々に立っていない。
*
夜の帳には、書けることだけを書いた。
――「こわい」に続き、「よい」の音を渡す。
――よい、とは用に立つ、危うくない、許される、望ましきものに向けて用うか。
――大個体、若い雄を壊さず止める。
――それを指して「よい」と示す。
――大個体、「こわい。よい」と並べる。
――相反するもの、同じものへ向けられることあり。
――心の内、分け難し。
分け難し。
そう書いた時、私は筆を止めた。
水は水。
火は火。
腐れは腐れ。
それらは分けられる。
血布も、血布として分けられる。
食の布、寝床の布、傷の布、女の血の布。
置き場がある。
だが、怖いとよいは、分けられないことがある。
大個体がそうだ。
怖い。
よい。
守る。
壊せる。
遠ざける。
求める。
私はその先を書かなかった。
昼の帳には、置けない。
*
夜、水場の方から音がした。
私は行かなかった。
今夜は行かない。
そう決めた。
足は動きかけた。
だが、私は寝草の上で膝を抱えた。
月の血は、もうほとんど終わっている。
身は軽い。
軽いからこそ、足が向かおうとする。
痛みで止まれない。
だるさで眠れない。
私は自分で止まらねばならなかった。
胸元の秘匿の頁が、肌に触れている。
そこには、昨夜のことがある。
私が書いた、王国へ出せぬ私がいる。
外で、大個体の低い声がした。
誰かへ向けた声ではなかった。
おそらく、自分へ向けた声。
「まて」
私は目を閉じた。
その声だけで、胸が熱くなる。
怖い。
よい。
その二つが、また私の中で重なった。
私は秘匿の頁を取り出さなかった。
書けば、また戻れなくなる。
書かなくても、戻れないことはもう知っている。
外では、水場の音が続いている。
私はその音を聞きながら、唇の内側で、声にならぬ音を噛み殺した。
あなた。
今夜は、まだ書かない。
けれど、その音はもう、私の中にある。




