第十九話 散った羊皮紙
朝、血布はほとんど重くなかった。
まだ、まったく痕がないわけではない。
だが、昨日の夕よりも細い。
夜のうちに身の底へ残るはずの冷えも、思ったほど残っていない。
月の血は、来た。
来なかったのではない。
確かに来た。
初日には血を見た。
二日目には血が明らかだった。
三日目にも、血は残った。
それなのに、今朝の私は座れている。
立てている。
腹の奥に残る重さも、腰の下の鈍さも、街にいた頃の過ぎ際より浅い。
血が去る前から、身の重さが先に退き始めている。
私は荷帳の端に記した。
――月の血、四日目の朝。
――血、なおわずかにあり。
――されど、終わり近し。
――腹重、腰鈍、冷え、従前の過ぎ際より浅し。
――来ざりしにあらず。来たり。
――三日続き、今朝細る。
――過ぎた後の身の重さ、異なる。
――原因、定め難し。
書き終えた時、大個体は広場の端に、古い皮包みを引き出した。
火場から遠い。
水場からも遠い。
腐れたものを焼く場所からも離れている。
そこは、濡れた皮や骨を乾かし、使える荷と捨てる荷を分ける場所だった。
皮包みは、泥で固まっていた。
狼の皮ではない。
狩りの荷でもない。
谷底から持ち帰った黒き刃石の包みでもない。
もっと古い。
私がこの巣で目覚めるより前から、そこに置かれていたものだった。
大個体はそれを乱暴に開かなかった。
黒き刃石で、固まった紐だけを切る。
皮を少しずつ剥がす。
中のものを、一つずつ乾いた石の上へ置く。
小柄なオークが近づいた。
「まて」
大個体が言う前に、小柄な者は自分で手を止めた。
「ちょう、まて」
帳。
その音を聞いた時、私は胸の奥が嫌なふうに鳴った。
皮包みの中から、割れた木片が出た。
泥のついた革紐が出た。
ちぎれた布袋が出た。
折れた筆の軸が出た。
そして、羊皮紙が出た。
私は息を止めた。
それは、私の紙だった。
*
私は近づこうとして、足を止めた。
大個体がこちらを見る。
私は自分の胸を押さえ、紙を指した。
「私のものです」
通じたかどうかは分からない。
けれど、大個体は私へ道を空けた。
乾いた石の上に、泥で波打った羊皮紙が置かれている。
端は破れ、血か泥か分からぬ色がこびりついている。
それでも、字は残っていた。
私の字だった。
荷の数。
升の違い。
門ごとの徴収の仕方。
銅衡と麦衡の食い違い。
隊商長から聞き取った控え。
王国へ持ち帰るはずだった、公務の字。
それが、オークの広場の乾き石の上にある。
私は膝をついた。
膝の奥に、月の血の名残のような鈍さが少しあった。
だが、崩れるほどではない。
私はそのまま紙を見た。
声が出なかった。
*
これは、今拾ってきたものではない。
交易の道へ行って拾ったものではない。
森の外れから新しく持ち帰ったものでもない。
泥は古く乾いている。
包みの皮も、何日も同じ形で固まっていた。
中の紙は、火にも水にも近づけられず、ただ乾いた場所へ置かれていた。
あの日だ。
私が倒れた日。
ゴブリンに襲われ、隊商が崩れ、私が森の中で失われた日。
大個体は、私の身体だけを拾ったのではない。
私の腕に絡んだ鞄。
腰紐に残っていた袋。
近くに散っていた紙片。
荷札。
蝋板。
使えるかどうかも分からぬ小物。
それらを、ひとまとめに持ち帰っていたのだ。
ゴブリンが持ったのではない。
ゴブリンは荷を守らない。
紙を分けない。
字のあるものを包んで置かない。
噛み、裂き、汚し、腐れを広げるだけだ。
だから、これは大個体の荷だ。
あるいは、大個体が「私に付いていたもの」として拾ったものだ。
私は震える手で、荷帳を開いた。
――古き皮包みより、私の羊皮紙出づ。
――交易の道へ赴きて得たものにあらず。
――救われし時、私の身とともに持ち帰られしものか。
――泥、古く乾く。
――包み、何日も同じ場所に置かれし形あり。
――大個体、読めぬはずなれど、捨てず。
――異様。
*
次に出たのは、蝋板だった。
表は傷だらけだった。
角は欠けている。
蝋の上には、爪のような跡と、枝で押されたような筋があった。
それでも、刻まれた字の一部は読めた。
隊商長の控えだ。
同行者の名。
荷の数。
徴収を受けた場所。
積み替えの印。
その中に、私の名があった。
アリア。
王立学術院の監査官補。
隊商に同行する者として記された名。
私は、その一語を見ただけで息が浅くなった。
森の中で自分の名を見る。
それは、鏡を見るより恐ろしかった。
王国の帳にあった私の名。
隊商長の蝋板に刻まれていた私の名。
森で失われ、オークの荷置き場から戻ってきた私の名。
私はまだ生きている。
だが、その蝋板の中の私は、襲撃の日から先へ進んでいない。
隊商とともに失われたままだ。
私は蝋板を胸に押しつけた。
月の血が来て、過ぎようとしている私の身体は、ここにある。
だが、蝋板の中の私は、あの日の道で止まっている。
大個体が低く言った。
「アリア」
私は顔を上げた。
彼は蝋板の字を読んだのではない。
私がその名に反応したから、そう呼んだのだ。
「アリア」
もう一度。
森の泥に残った私の名と、大個体の声にある私の名。
どちらが今の私なのか、分からなかった。
*
私は記した。
――蝋板一枚を得る。
――隊商長の控えか。
――私の名あり。
――王国の帳に属する名なり。
――されど、今はオークの広場にて見つかる。
――大個体、字は読めず。
――されど、私の名を声に出す。
――泥の中の名と、大個体の声の名。
――いずれが今の私を保つものか。定め難し。
書き終えてから、私はしばらく筆を持ったまま動けなかった。
大個体は急かさない。
小柄なオークが、蝋板を覗き込もうとした。
「まて」
大個体の声。
小柄な者は止まった。
それから、少し誇らしげに言う。
「アリア、ちょう、まて」
私は笑いかけた。
けれど、うまく笑えなかった。
*
皮包みの底には、さらに細かなものがあった。
荷札。
折れた封蝋。
布に挟まった小さな羊皮紙。
私の予備の筆先。
割れた小瓶。
乾いた土の塊。
大個体は、それらを分けた。
紙。
木。
革。
金具。
腐れたもの。
まだ使えるもの。
彼は字を読まない。
それなのに、紙を骨や革と一緒にはしない。
濡れた紙を、火へ近づけすぎない。
泥の塊を、紙の上へ置かない。
若い雄が掴もうとすれば止める。
「ちょう、まて」
小柄な者も真似る。
「ひ、ちかい、だめ」
火を見る雌が、火種を近づけすぎた若い雄へ言った。
若い雄は不満げに鼻を鳴らす。
だが、下げた。
私はその場面を見て、胸の奥がまた詰まった。
紙まで、作法の中へ入っている。
水を分ける。
火を分ける。
腐れを分ける。
肉と皮と骨を分ける。
血布を分ける。
そして、紙を分ける。
第十六個体の秩序は、私の帳まで飲み込み始めている。
*
一枚、泥で読めない羊皮紙があった。
私の字か、隊商長の字かも分からない。
大個体はそれを火のそばへ持っていこうとした若い雄を止めた。
「ひ、だめ」
私は首を振った。
「火、近い、駄目。けれど、乾かす」
大個体は私を見る。
私は紙を石の上に置き、火場から少し離す。
手で風を送る。
端の泥を乾かすように示す。
「乾かす」
大個体は繰り返した。
「かわかす」
小柄なオークも言う。
「かわかす」
若い雄は退屈そうだった。
乾かすという行いは、彼らにとって遅すぎる。
引き裂く方が早い。
火で焼く方が早い。
水で洗う方が早い。
だが、紙はそれでは死ぬ。
私はそう思い、はっとした。
紙が死ぬ。
そんな言い方を、私はいつからするようになったのか。
*
泥のついた一枚を、私は慎重に開いた。
半分は読めない。
だが、残った部分に、私の控えがあった。
私が襲撃の前に書いた、升の寸法だ。
ほんの小さな記録。
だが、それは王国へ戻るための記録だった。
この紙を持ち帰り、学術院へ出すはずだった。
それが今、オークの広場で乾かされている。
私は交易の道を見ていない。
街へ続く線も知らない。
城塞都市の方角も、もう定められない。
ただ、私の紙だけがここにある。
紙の方が、私より先に王国から切り離されたようだった。
私は記した。
――私、道へ戻らず。
――街への線、見ず。
――されど、王国へ持ち帰るべき紙のみ、ここに戻る。
――紙、私より先に王国より切り離されしものか。
――定め難し。
書いてから、私は自分の腹に手を当てた。
ここにも、切り離されたものがある。
王国であれば、女の血の後には重さが残る。
冷えが残る。
だるさが残る。
それが私の当たり前だった。
今は、その当たり前から切り離されつつある。
それもまた、定め難かった。
*
血で固まった荷札があった。
私はそれを開こうとした。
大個体が手を出した。
「まて」
私は止まった。
彼は荷札の端を指した。
黒い。
乾いた血ではない。
腐れの筋がある。
ゴブリンの汚れかもしれない。
私は唇を噛んだ。
文字は見える。
けれど、触れれば危うい。
大個体は黒き刃石を取った。
荷札そのものを切るのではない。
腐れた端を、ぎりぎりのところで落とす。
私は声を出さずに見ていた。
文字の一部は消えた。
だが、残った部分は救われた。
大個体は切り落とした黒い端を、火を見る雌へ渡した。
「くされ。ひ」
火を見る雌が焼いた。
私は燃える小さな端を見つめた。
王国の字が、また少し火に消える。
だが、腐れを帳へ入れるわけにはいかない。
私は残った荷札を受け取った。
そこには、隊商長の印が半分だけ残っていた。
私はそれを写した。
*
――荷札一枚、腐れ筋あり。
――大個体、黒き刃石にて端を切る。
――腐れたる端は焼く。
――残りを写す。
――字、少し失われる。
――されど、帳を守るためなり。
――紙を守るには、紙を少し失うこともあり。
書いてから、私はぞっとした。
紙を守るには、紙を少し失う。
身を守るには、身を少し失う。
名を守るには、名を少し捨てる。
その考えが、勝手に胸の中でつながった。
私はすぐに筆を置いた。
今の一行は、王国へ出す帳には置けない。
私はその考えを飲み込み、ただ荷札の写しだけを残した。
*
夕刻まで、私たちは荷を分け続けた。
濡れた紙は石の上。
破れたものは木片で押さえる。
腐れの筋があるものは切る。
完全に読めぬものも、すぐには捨てない。
血布を替えた時、私はもう、ほとんど血がついていないことに気づいた。
終わった、と言い切るには、まだ淡い痕がある。
だが、朝よりさらに細い。
そして、身の冷えはほとんど戻っていない。
いつもなら、血が去る頃には、逆に空になったような重さが残った。
今は、その空の重さがない。
私は水場で、使った布を分け、灰湯に浸し、湯で洗い、干し場へ移した。
それから、荷の場へ戻った。
戻ることができた。
その事実を、私はまだ信じきれずにいた。
だが、すべてがここにあるわけではない。
私はそれに気づいていた。
腰の小袋に入れていた予備の控えがない。
隊商長が持っていた同行者の札もない。
門で押された通行の札も見えない。
私が写したはずの、徴収額の控えも足りない。
それらは、あの日の道に残ったのだろう。
荷車のそばに。
割れた木箱の下に。
血泥の上に。
ゴブリンの腐れから少し離れたところに。
あるいは、雨に打たれ、誰かに踏まれ、半ば破れたまま。
私はそこへ行っていない。
行けない。
街へ続く線を見ることもできない。
けれど、紙は残っているかもしれない。
私の名を記した紙が。
私が隊商に同行していたと示す札が。
王立学術院の監査官補であったことを示す控えが。
もし、王国の者がそれを拾えば。
もし、後の隊商が壊れた荷車と、血泥と、私の名を見つければ。
私は、生きている者としてではなく、失われた者として帳に閉じられるのだろう。
私は筆を取った。
――ここに戻りし紙、すべてにあらず。
――予備の控え、通行の札、同行者の札、見えず。
――襲撃の場に残りしものか。
――王国の者、これを拾えば、隊商の壊滅を知るべし。
――私の名を見れば、私を死せる者、または喪われし者と定むるか。
――私は道へ戻らず。
――されど、私の名は道に残るやもしれぬ。
――常ならず。
*
大個体は若い雄に命じた。
「ちょう、まて」
若い雄は言いづらそうに繰り返す。
「ちょう、まて」
「ひ、だめ」
「みず、だめ」
「くされ、だめ」
紙を守るための言葉が、オークの口に広がる。
その事実は、奇妙だった。
王国の学術院で教わったどの作法よりも、いま、この広場の方が私の紙を丁寧に扱っている。
私はそう思い、すぐに恥じた。
王国を裏切るような考えだった。
けれど、手元の羊皮紙は、確かに濡れず、燃えず、裂かれず、少しずつ乾いていた。
それもまた、本当だった。
*
夜、吊るし台には新しい包みが増えた。
今日見つけた羊皮紙と蝋板と荷札を、すべて同じ場所へ入れるわけにはいかなかった。
完全に乾いたものだけを上へ。
泥を落としきれないものは別へ。
腐れの疑いがあるものは、火で清めた小石の上へ。
蝋板は、皮に包んで寝かせる。
大個体はそれを見ていた。
分かっているのか。
分かっていないのか。
彼は、私が置いた場所をひとつずつ見た。
そして、若い雄が近づくと低く言う。
「まて」
小柄なオークもその横で言った。
「アリア、ちょう、まて」
私の帳。
私の字。
私の名。
それらが、オークの口で守られている。
私は木札に記した。
――本日、古き皮包みより、散りし羊皮紙、蝋板、荷札を得る。
――いずれも救われし日に、私の身の近くより持ち帰られしものと見ゆ。
――道へ戻らず。
――街への線、見ず。
――されど、私の字のみ、森の荷置き場より現る。
――また、道に残りし紙もあるべし。
――それらは王国へ、私の喪失を知らせるものとなるか。
――大個体、読めず。されど捨てず。
――紙を分け、火を遠ざけ、水を遠ざけ、腐れを切る。
――王国へ出すべき記録を、王国の外で守る。
――常ならず。
続けて、私は別の行を書いた。
――月の血、ほぼ過ぐ。
――来ざりしにあらず。来たり。
――血、四日目夕より細く、夜には淡き痕のみ。
――腹重、腰鈍、冷え、従前より残り少なし。
――過ぎた後の身、軽すぎるように思う。
――原因、定め難し。
――後日、なお見るべし。
*
最後に、私は蝋板をもう一度見た。
そこには、私の名がある。
アリア。
その横の印は、もう読めない。
同行者。
監査官補。
荷の証人。
あるいは、ただの人数のひとつ。
王国の帳の中で、私は何であったのか。
そして今、オークの広場で、私は何になっているのか。
私は蝋板を閉じた。
外では、大個体が吊るし台の近くに立っている。
若い雄が近づくたびに、低い声がする。
「まて」
それは、私の帳へ向けられた声だった。
同時に、私自身へ向けられているようにも聞こえた。
消えるな。
散るな。
腐れるな。
燃えるな。
まだ、ここにあれ。
もちろん、大個体がそんな意味を込めたはずはない。
けれど、私はそう聞いてしまった。
私は胸元の秘匿の頁を押さえた。
外へ置く帳。
内へ隠す頁。
今日、外へ置く帳は増えた。
内へ隠す頁も、きっと増える。
王国へ戻るために書いた字が、王国へ戻れない私を、この森につなぎ止めている。
その一方で、道に残ったかもしれぬ私の名は、王国へ私の死を運ぶかもしれない。
私はここにいる。
だが、王国の帳の中では、すでに死んでいるかもしれない。
血は来た。
来て、過ぎようとしている。
女としての身は、確かにここに日を数えている。
それなのに、王国の紙の中の私は、あの日から先へ進んでいない。
そのことが、どうしようもなく恐ろしかった。
そして、どうしようもなく、静かだった。
この話に対応する秘匿別紙があります。
『第十六個体観測録 秘匿別紙』
秘匿別紙 四 帳に書けぬ身
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