第十八話 鍛える獣
朝、月の血はまだ続いていた。
だが、昨日の朝とは違う。
血の気配はある。
布も替えねばならない。
腹の奥の重さも、腰の下の鈍さも、まだ消えてはいない。
それでも、昨日より少し細い。
街にいた頃なら、三日目もまだ身体の底に冷えが残った。
血が細り始めても、腰の奥の鈍さは残り、眠り足りぬようなだるさがまとわりついた。
今は、それが浅い。
ある。
だが、浅い。
私は清い血布を取り、使った布を分けた。
灰湯。
湯。
干し場。
昨日より、手順に迷わなかった。
慣れた、というほどではない。
だが、どこへ置くか分かっているだけで、身体の重さとは別の重さが減る。
私は荷帳の端に書いた。
――月の血、三日目。
――血、なおあり。されど昨日より細る気配あり。
――腹重、腰鈍、冷え、なおあり。
――されど従前の三日目より浅し。
――血布の扱い、昨日より迷い少なし。
――原因、定め難し。
書き終えてから、吊るし台を見に行った。
吊るし台は無事だった。
夜露は皮の覆いに残っていたが、中の帳は湿っていない。
私はそれを確かめて、息を吐いた。
王国の調査帳が、オークの作った吊るし台に守られている。
その事実には、まだ慣れない。
だが、濡れていない。
踏まれていない。
火に焼かれてもいない。
それだけで、今の私には十分だった。
小柄なオークが近づき、吊るし台を見上げた。
「ちょう」
それから、自分の手を途中で止める。
「まて」
自分で言った。
私はその声を聞き、胸の奥が妙に詰まった。
帳に触ってはならない。
その作法が、小柄な者の中に少し残っている。
私は荷帳を取り出し、次の行を書いた。
――吊るし台、一夜を越す。
――帳、濡れず。
――小柄な者、「帳」「待て」を結ぶ。
――作法、わずかに残る。
*
その朝も、若い雄の肩は赤く湿っていた。
彼は不機嫌そうに肩を回し、布を剥がそうとした。
「まて」
大個体が止める。
若い雄は牙を鳴らす。
水場側の雌は、少し離れた場所で腕を庇っていた。
昨日より、布は乾いているように見えた。
私は近づいた。
大個体がこちらを見る。
「見るだけです」
私はそう言い、膝をついた。
膝をつく時、腹の奥が少し重く沈んだ。
けれど、それだけだった。
昨日の二日目よりも、身体は動く。
血はあるのに、動ける。
そのことを意識しないようにして、私は二つの傷を見た。
若い雄の肩には、まだ熱がある。
傷の周りの毛は湿り、赤黒く固まっている。
水場側の雌の腕は、裂けていることに変わりはない。
けれど、腫れが引いているように見えた。
昨日、同じほどの傷に見えた。
少なくとも、私の目にはそうだった。
だが、今は違って見える。
私が見誤ったのか。
雌の傷が浅かったのか。
それとも、雌の身には何か、雄と異なる保ち方があるのか。
まだ定められない。
定められないので、記す。
――若い雄、肩の熱なお強し。
――水場側の雌、腕の腫れ退き始むように見ゆ。
――昨日、傷の深さ同じほどと見たり。
――見誤りか。
――雌の身の違いか。
――肩傷の雌の例、再び思い出す。
――一つなら偶然。二つなら徴。
――三つあれば、記すべき作法か。
そこまで書いて、私は筆を止めた。
三つ。
そう書いた自分に気づき、胸の奥が冷えた。
私は、何を数えようとしているのか。
雌の傷。
肩傷の雌の戻り。
水場側の雌の乾き。
そして、私の月の血。
それらを同じ頁に置こうとしているのか。
まだ早い。
早すぎる。
私はその行を消さず、ただ続きを書かなかった。
*
大個体は、黒き刃石を火場のそばへ並べていた。
谷底から持ち帰ったものだ。
薄く割れた石。
小さな刃。
矢じりのようなもの。
欠けた破片。
若い雄たちは、まだそれを武器として見ている。
叩くもの。
突くもの。
割るもの。
大個体は違った。
彼は狼の皮を引き寄せた。
黒き刃石の薄い端を当て、ゆっくり引く。
皮が裂けた。
「きる」
大個体が言う。
小柄なオークが真似る。
「きる」
若い雄が、同じ石を持って骨へ叩きつけようとした。
「まて」
止まる。
「たたく、だめ」
大個体は低く言った。
若い雄は不満げだった。
なぜ鋭い石を叩いてはならないのか。
なぜ棍棒のように使ってはならないのか。
理解していない。
大個体は石を取り上げず、手を添えて動かした。
叩くのではない。
押し当てる。
引く。
裂く。
若い雄の手は強すぎた。
皮ではなく、下の木まで削ろうとする。
黒き刃石の端が欠けた。
大個体が固まる。
若い雄も固まる。
次の瞬間、大個体は深く息を吐いた。
怒鳴らなかった。
叩かなかった。
ただ、欠けた石を拾い、若い雄の手をもう一度開かせた。
「きる」
そして、欠けた端を見せる。
「たたく、だめ」
私はその場面を、妙に長く見てしまった。
力で従わせるなら、すぐに終わる。
だが、大個体は何度もやり直させる。
黒き刃石は、力の強さだけでは扱えない。
そのことを、オークに教えようとしている。
*
火を見る雌が腱を持ってきた。
昨日、狼から分けたものだ。
乾きかけて、固くなっている。
大個体は黒き刃石でそれを切った。
すぐには切れない。
だが、何度か引くと、腱は細く分かれた。
それを木片へ巻く。
骨の尖りを添える。
皮の端を巻く。
粘る汁を少しつける。
粗い柄のようなものができた。
若い雄がそれを振った。
すぐに骨が抜けた。
大個体は目を閉じた。
火を見る雌が喉を鳴らす。
小柄なオークが、それを面白がって拾おうとする。
「まて」
大個体は、抜けた骨を拾った。
巻き方を見る。
腱をほどく。
もう一度巻く。
強く。
だが、強すぎないように。
私には、その加減が分からなかった。
オークたちにも、分からないのだろう。
若い雄は、締めるとなれば力任せに締める。
すると皮が破れる。
腱が切れる。
骨が曲がる。
弱ければ抜ける。
強すぎれば壊れる。
大個体は、その間を探していた。
私は荷帳へ書いた。
――黒き刃石、皮と腱を切る。
――骨を木へ添え、腱にて括る。
――粘る汁を用いる。
――若い雄、力任せに扱い、すぐ壊す。
――大個体、やり直させる。
――弱ければ抜け、強すぎれば壊れる。
――力のみでは足りぬ作法あり。
*
昼近く、大個体は自分で丸太を担いだ。
倒れた木の幹だった。
若い雄二体で運んでいたものを、大個体は一人で肩に乗せた。
ただ運ぶだけではない。
広場の端から端へ歩く。
斜面を上る。
戻る。
また上る。
何のために。
私は最初、荷を移しているのだと思った。
だが、違った。
丸太は同じ場所へ戻される。
また担がれる。
また運ばれる。
用を終えた動きではない。
動くことそのものが用なのだ。
若い雄たちは、すぐ飽きた。
重い丸太を運ぶのは面白い。
だが、同じ道を何度も行き来するのは面白くない。
途中で肉を探す。
火場を覗く。
雌の声に振り向く。
大個体だけが続けていた。
肩。
腕。
背。
腰。
脚。
毛に覆われた大きな身体の下で、肉が動く。
ただ太いのではない。
丸太を担ぐための動き。
斜面を登るための動き。
息を乱しすぎないための動き。
私は知らず、目で追っていた。
そして、目を逸らした。
何を見ているのか。
大型猿の身体だ。
オークの雄だ。
狼を叩き伏せ、若い雄を止め、私を壊せる腕を持つ獣だ。
だが、その獣は、ただ生まれつき大きいのではない。
鍛えている。
その言葉が、胸に落ちた。
その時、腹の奥の重さがふと薄くなっていることに気づいた。
血はまだある。
布も替えねばならない。
だが、私は立って見ている。
目を逸らした後も、また見ている。
街にいた頃の三日目なら、これほど長く立っていただろうか。
分からない。
分からないが、今は見ている。
そのこともまた、記すべきかもしれなかった。
*
王国の騎士の鍛錬なら見たことがある。
城塞都市の広場で、木剣を振るう者。
槍を並べる者。
甲冑を着て歩く者。
彼らの身体は、礼法と武具のために作られていた。
だが、大個体は違う。
鎧はない。
馬もない。
隊列もない。
紋章もない。
野の身体だ。
毛と牙と爪と、圧倒的な重さを持つ身体。
けれど、その野の身体を、何者かの意志が鍛えている。
私は荷帳を開いた。
――大個体、丸太を担ぎ斜面を上る。
――同じ道を幾度も往復す。
――荷の移動にあらず。
――身を鍛うるものか。
――若い雄、飽きる。大個体、飽きず。
――王国の騎士にあらず。
――野の雄にあらず。
――獣の身を、何者かの意志が鍛えているものか。
最後の一行を書いた時、手が止まった。
何者か。
私は、そう書いた。
大個体の中に、ただのオークではない何かがあると、私はもう感じ始めている。
だが、それが何かは分からない。
分からないから、怖い。
*
大個体は丸太を下ろすと、すぐに水を飲まなかった。
まず、傷のある若い雄を見る。
水場側の雌を見る。
火場を見る。
吊るし台を見る。
それから水を飲んだ。
小柄なオークが肉の脂身を持ってくる。
大個体は受け取る。
だが、全部は食べない。
赤い肉を食べる。
根を食べる。
苦い葉を少し噛む。
脂は少しだけ。
若い雄なら、脂を先に食べる。
腹が膨れるまで食べる。
残すことを嫌がる。
大個体は違った。
腐れかけたものを避けるのは、これまでも見た。
だが、そうではない。
食べられるものの中でも、選んでいる。
私はそれに気づき、また帳を開いた。
――大個体、食すものを選ぶ。
――肉を取り、根を取り、苦き葉を少し噛む。
――脂、食い尽くさず。
――若い雄らと異なる。
――腹を満たすのみならず、身を保つために食うものか。
身を保つ。
そう書いた瞬間、私は水場側の雌の腕を思い出した。
雌の身。
雄の身。
保たれる身。
そして、私の身。
月の血の三日目に、なお帳を書き、立って見ている身。
それらが、私の中でまだ結びつかないまま揺れていた。
*
午後、大個体は若い雄たちを並べた。
並べた、といっても、人間の兵のような列ではない。
木の前に立たせる。
棍棒を持たせる。
同じ高さへ振らせる。
一度。
二度。
三度。
若い雄は、最初は喜んだ。
棍棒を振るうのは好きなのだ。
だが、同じ形で何度も振るうことは、すぐに嫌がった。
もっと強く振りたい。
走りたい。
木を叩き折りたい。
相手を殴りたい。
大個体が止める。
「まて」
木の幹に、黒き刃石で細い線をつける。
そこへ当てろ、ということらしい。
若い雄は上へ外す。
下へ外す。
強すぎて木片を飛ばす。
飽きる。
大個体は、またやり直させる。
私はその姿を見て、胸が重くなった。
この群れは、ただ強くなっているのではない。
強さを同じ形へ入れようとしている。
水を分けるように。
火を分けるように。
腐れを分けるように。
肉と皮と骨を分けるように。
血布を分けるように。
力まで、分けようとしている。
私は記した。
――大個体、若い雄らに棍棒を振らせる。
――同じ場所へ、同じ形にて当てさせんとす。
――若い雄、強く振るうことを好む。
――同じ形を嫌う。
――大個体、やり直させる。
――力をただ出すにあらず。形へ入れるものか。
*
その時、若い雄の一体が力任せに棍棒を振った。
木の線を外し、隣の若い雄の腕に当たりかけた。
大個体が動いた。
速かった。
丸太を担いでいた疲れなど、なかったように。
若い雄の腕を掴む。
棍棒を止める。
身体ごと地面へ押し伏せる。
土が鳴った。
若い雄は吠えた。
大個体は吠え返さない。
ただ、低く言った。
「まて」
若い雄は動けなかった。
押さえつけられている。
逃げられない。
それを見た時、私の背に冷たいものが走った。
あの腕なら、私など簡単に押さえられる。
あの力なら、私の抵抗など、草を払うより容易い。
だが、大個体の手は、若い雄を壊していない。
止めている。
押さえている。
壊すためではなく、壊させないために力を使っている。
私はそのことに気づき、なお恐ろしくなった。
制された力。
制されているからこそ、恐ろしい力。
*
私は筆を持ったまま、しばらく書けなかった。
腹の奥が、一度だけ重く波打った。
月の血の重さなのか。
恐れのためなのか。
分からなかった。
私は布の位置を確かめ、呼吸を整えた。
血はまだある。
だが、筆を落とすほどではない。
大個体が若い雄を放す。
若い雄は起き上がり、不満げに鼻を鳴らした。
だが、次に棍棒を振る時は少し遅かった。
大個体は頷いた。
それでよい、ということなのだろう。
少し遅い。
少し弱い。
だが、当たる。
私はようやく書いた。
――若い雄、力余り隣を打たんとす。
――大個体、これを押さう。
――壊さず。止める。
――大個体の力、ただの暴れにあらず。
――制されし力なり。
――制されねば、危うし。
――制されてなお、恐ろし。
書き終えた後、私は自分の手を見た。
震えていた。
狼を見た時とは違う震えだった。
野のオークの巣を見た時とも違う。
大個体の力が、私へ向いた時を考えてしまった震えだった。
私は荷帳を閉じかけた。
だが、閉じられなかった。
観測者なら、書くべきだ。
恐れているなら、なおさら書くべきだ。
私は小さく続けた。
――あの力が私へ向けば、逃げるすべなし。
――されど、今まで大個体は私へ向けず。
――若い雄を止め、己を止める。
――待て、とは群れへの声のみならず。
――大個体自身へも向く声なり。
*
夕刻、水場側の雌がまた立とうとした。
大個体が止める前に、肩傷の雌が低く言った。
「まて」
水場側の雌は不満げに喉を鳴らす。
だが、座った。
若い雄は肩を動かし、また布に赤を滲ませた。
大個体がそちらへ行く。
「まて」
若い雄は牙を鳴らす。
水場側の雌の腕は、やはり乾きが早いように見えた。
私は記した。
――夕刻、若い雄の肩、再び血滲む。
――水場側の雌、立とうとするも傷開かず。
――腫れ、朝より退くように見ゆ。
――定め難し。
――されど、見逃すべからず。
この記録は、どこへ置くべきなのか。
王国へ出す帳か。
王国へ出すべからざる頁か。
まだ分からない。
分からないので、今は公務用の帳に書いた。
だが、いつか移すことになるかもしれない。
秘匿の方へ。
それから私は水場へ行き、血布を替えた。
朝より、血は細い。
完全に止まったわけではない。
終わった、と書くには早い。
だが、終わりへ向かっている気配はあった。
街にいた頃なら、血が細っても、身体の底の重さはもっと残った。
今は違う。
血は残る。
だが、身の重さが先に退き始めている。
私は灰湯に布を浸しながら、そのことを見ないふりはできなかった。
――月の血、三日目夕。
――血、なおあり。されど朝より細し。
――終わりへ向かう気配あり。
――腹重、腰鈍、冷え、なおあり。
――されど従前より退き早きように見ゆ。
――原因、定め難し。
*
夜、大個体は一人で丸太を動かしていた。
若い雄たちはもう飽き、火場の近くで肉を噛んでいる。
火を見る雌は粘る汁の器を遠ざけすぎ、今度は冷やしすぎていた。
小柄なオークは吊るし台の下に座り、「ちょう、まて」と小さく言っている。
大個体だけが、まだ動いていた。
丸太を担ぐ。
下ろす。
棍棒を振る。
止める。
息を整える。
火の光が、彼の背に揺れた。
毛の下で、肉が動く。
ただ大きいのではない。
ただ強いのでもない。
鍛えられた獣。
その言葉が、頭から離れなかった。
王国の騎士の身体ではない。
野のオークそのものでもない。
獣の身に、誰かの意志が入っている。
私は幕屋の陰から、それを見ていた。
見てはならないものを見る時のように。
*
私は吊るし台から帳を取り出さなかった。
手元の木札にだけ、小さく記した。
――大個体、夜も身を鍛う。
――他の雄、食い、眠り、雌の声に耳を向ける。
――大個体、続ける。
――野の雄にあらず。
――王国の騎士にあらず。
――鍛えられた獣なり。
そこまで書いて、私は木札を伏せた。
胸が熱かった。
恐怖のためか。
それ以外のもののためか。
私は、まだそれを王国の言葉で呼びたくなかった。
呼べば、もう戻れない気がした。
外で、大個体が丸太を下ろす音がした。
重い音。
地面がわずかに震える。
その力が、私に向けられていないことに安堵した。
同時に、その力が私へ向くところを考えてしまった。
私は目を閉じた。
木札の端に、もう一度だけ書いた。
――月の血、三日目夜。
――血、なおあり。
――されど、身の冷え、従前より浅し。
――だるさ、残るも浅し。
――本日、立ち、見、記すこと可。
――終わり、近き気配あり。
――明朝また見るべし。
続けて、私は別の行を書いた。
――この記録、王国へ出すべきか。
――定め難し。
――少なくとも、秘匿へ移すべき気配あり。
それ以上は書けなかった。
幕屋の外で、大個体の息が整っていく。
私はその音を聞きながら、胸元の秘匿の頁を押さえた。
水場のこと。
匂いのこと。
私の身の熱のこと。
月の血が来たのに、身が沈みきらぬこと。
その頁の隣に、今夜のことも置かれるのだろう。
鍛えられた獣。
その言葉は、私の内側で、静かに重くなっていった。




