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第十六個体観測録  作者: 黒瀬 量衡


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第十七話 帳の置き場

 朝、月の血は続いていた。


 昨日より、血の気配ははっきりしている。


 腹の奥には重さがある。


 腰の下にも、鈍いものが沈んでいる。


 だが、街にいた頃の二日目とは違った。


 二日目。


 いつもなら、女の血の中で最も身が沈む日だった。


 立つことを避けたくなる。


 歩くことを減らしたくなる。


 腹に布を当て、腰を丸め、冷えをこらえ、何でもない顔をして帳の前に座る日だった。


 今も、何もないわけではない。


 血はある。


 痛みもある。


 腰の鈍さもある。


 だが、私は座れていた。


 帳を広げることができた。


 鉄筆を持つ指も、震えていなかった。


 私はそのことを、まず荷帳の端へ書いた。


 ――月の血、二日目。


 ――血、昨日より明らかなり。


 ――腹重あり。腰鈍あり。


 ――されど、従前の二日目ほど沈まず。


 ――座して記録、可。


 ――原因、定め難し。


 書いてから、私は帳を数えた。


 紐で綴じた公務用の調査帳。


 泥で端が固くなった羊皮紙。


 ドワーフ荷の余白。


 谷底で写したザポテックの荷札の控え。


 黒き刃石について記した小片。


 そして、王国へ出すべからざる頁。


 それらを膝の上に広げた時、私はようやく気づいた。


 増えている。


 私の記録は、増えていた。


 王国から遠ざかるほど、王国へ出せない記録が増えていく。


 火のそばに置けば燃える。


 水場に近ければ湿る。


 寝床に置けば、若い雄や小柄な者が踏む。


 荷の山に紛れれば、肉包みや皮と一緒に扱われる。


 腐れた布と同じ場所になど置けない。


 血のある布とも、混ぜられない。


 火を見る雌に任せることもできない。


 水場側の雌は傷を負っている。


 肩傷の雌は賢いが、私の帳の意味までは分からない。


 私は帳を抱えたまま、しばらく動けなかった。


 この帳は、私の務めだ。


 同時に、私の逃げ道でもある。


 書いている限り、私はただの捕らわれた女ではない。


 記している限り、私はまだ観測者でいられる。


 だが、その帳を守る力は、私にはなかった。


     *


 小柄なオークが幕屋の入口から覗いた。


「みず」


 木椀を差し出す。


 私は受け取ろうとして、膝の上の羊皮紙を押さえた。


 同時に、身の下の血布がわずかに重くなっていることにも気づいた。


 昨日、月の血の雌に示された手順なら、替える頃合いだった。


 清い布。


 使った布。


 洗う前の布。


 灰湯。


 湯。


 干し場。


 女の血にも、置き場がある。


 ならば、この帳にも置き場が要る。


 その仕草を、小柄な者が見た。


 彼は首を傾げ、羊皮紙へ手を伸ばした。


「まて」


 声が出た。


 私の声だった。


 小柄なオークは止まった。


 驚いたように、私を見た。


 私も驚いていた。


 大個体の声ではない。


 私が、オークへ「まて」と言った。


 私は慌てて羊皮紙を抱え込んだ。


「これは駄目です。触ってはなりません。……帳」


 通じない。


 分かっている。


 だが、小柄な者は私の腕の中の束を見て、もう一度言った。


「ちょう?」


 私は息を止めた。


 帳。


 また一つ、音が渡ってしまった。


 けれど、この音だけは、軽々しく渡したくなかった。


 これは水でも火でもない。


 根でも種でもない。


 狼の皮でも黒き刃石でもない。


 私の筆の置き場だ。


 私が私であるための、薄い皮と墨の束だ。


     *


 昼前、大個体は黒き刃石を使っていた。


 狼の皮の端を細く裂く。


 腱を切る。


 木片のささくれを削る。


 若い雄が叩こうとするたびに、止める。


「まて」


 大個体は黒い石を持ち上げた。


「きる」


 それから、棍棒を指す。


「たたく、だめ」


 若い雄は不満げに鼻を鳴らした。


 切る石。


 叩く棒。


 その違いが、まだ群れには入りきっていない。


 私はその様子を見ながら、帳を抱えていた。


 このままでは駄目だ。


 雨が降れば湿る。


 火の粉が飛べば燃える。


 若い雄が座れば潰れる。


 小柄な者が面白がれば、破れる。


 そして、秘匿の頁だけは、誰にも見せてはならない。


 大個体にも。


 私は立ち上がった。


 足はまだ頼りない。


 月の血の二日目だからか。


 それとも、ただ座っていたせいか。


 分からない。


 だが、行かねばならなかった。


     *


 大個体は私に気づいた。


 黒き刃石を置き、こちらを見る。


 私は帳を両腕で抱えた。


「帳」


 そう言って、束を少し持ち上げる。


 大個体は、私の口元を見た。


「ちょう」


 その音は低く、奇妙だった。


 私は頷いた。


「帳」


 次に、水場を指した。


「水、駄目」


 大個体は水場を見る。


「みず、だめ」


 私は火場を指した。


「火、駄目」


「ひ、だめ」


 次に、腐れた布を焼く穴の方を指した。


「腐れ、駄目」


「くされ、だめ」


 それから、若い雄の方を指す。


 若い雄は、ちょうど黒き刃石を舐めようとして止められているところだった。


「触るな。……まて」


 大個体は若い雄を見た。


 それから、私の帳を見た。


「まて」


 私は最後に、帳を胸へ押しつけた。


「守る」


 この語は、通じないだろう。


 だが、他に言いようがなかった。


「ここ。守る」


 私は自分の胸を叩き、帳を叩き、また胸を叩いた。


 大個体は、しばらく黙っていた。


 彼の目が、帳ではなく私の手を見ていることに気づいた。


 私は帳を握りしめていた。


 指が白くなるほど。


 その握り方で、彼は理解したのかもしれない。


 これは、ただの皮ではない。


 肉でもない。


 荷でもない。


 水を運ぶ器でもない。


 私が守ろうとしているもの。


 私の命に近いもの。


 大個体は、ゆっくり頷いた。


     *


 置き場を探すことになった。


 水場の近くは駄目だった。


 湿りがある。


 火場の近くも駄目だった。


 乾くが、火の粉が飛ぶ。


 寝床の奥も駄目だった。


 若い雄が寝返りで潰す。


 小柄な者が潜り込む。


 雌たちの布や皮と混じる。


 荷の山も駄目だった。


 骨、皮、腱、黒き刃石、古い縄、腐れかけた袋。


 何もかもが重なっている。


 大個体は森の端へ歩いた。


 広場の外れに、根の張った大きな木があった。


 幹の片側が少しえぐれている。


 雨は入りにくい。


 火場からは遠い。


 水場からも遠い。


 ただし、地面に置けば湿る。


 大個体は上を見た。


 枝があった。


 低すぎず、高すぎない。


 彼は若い雄を呼んだ。


 皮紐を持ってこさせる。


 木片を持ってこさせる。


 狼の乾きかけた皮の端を細く裂かせる。


 若い雄は、また途中で皮を肩に掛けようとした。


「まて」


 大個体は疲れた声で止めた。


 それから、黒き刃石で皮を切った。


「きる」


 小柄な者が真似る。


「きる」


 木片に穴を開けるには、黒い石は脆すぎた。


 大個体は尖った骨を使った。


 石で削り、骨でこじり、皮紐を通す。


 粗い。


 王国の箱職人が見れば、笑うだろう。


 だが、木片と皮紐は、やがて小さな棚のようになった。


 棚というより、吊るす台だった。


 大個体はそれを枝から吊るした。


 地面には触れない。


 火場から離れている。


 水場からも遠い。


 若い雄が手を伸ばした。


「まて」


 大個体は止めた。


 私を見た。


 置け、ということだろう。


     *


 私は帳を置いた。


 まず、王国へ出せるはずの帳。


 次に、ザポテック荷札の写し。


 黒き刃石の記録。


 ドワーフ荷帳の余白に書いたもの。


 湿りに弱い羊皮紙は、乾いた布に包む。


 その布は、火場で乾かされたものだった。


 私は一瞬、手を止めた。


 布。


 血布を思い出した。


 今朝、使った布を分けた時の、自分の手つきを思い出した。


 清いもの。


 使ったもの。


 洗うもの。


 隠すもの。


 置けるもの。


 置けないもの。


 私は小さく息を吐いた。


 今は、帳だ。


 ここは王国へ出す帳の置き場だ。


 私は布を巻いた。


 そして、最後に残った数枚を見た。


 王国へ出すべからざる頁。


 それだけは置けなかった。


 大個体の目が、私の手元へ向く。


 私は慌てて、それを胸元へ隠した。


「これは……駄目」


 大個体は黙っている。


「見るな」


 私は言った。


「みるな」


 大個体は、ゆっくりその音を繰り返した。


 そして、目を逸らした。


 私は息を呑んだ。


 読めるはずがない。


 王国語の文字を読めるはずがない。


 それでも彼は、目を逸らした。


 中身を知らないまま、私の「見るな」を聞いた。


 それが、かえって恐ろしかった。


     *


 小柄なオークが近づいた。


 吊るされた台を見て、目を輝かせている。


 新しい遊び道具だと思ったのかもしれない。


 手を伸ばす。


「まて」


 大個体が止めた。


 小柄な者は手を止める。


 だが、すぐに私を見る。


「ちょう?」


 私は頷いた。


「帳」


 小柄な者はもう一度、吊るされた台を見た。


「ちょう、まて」


 私はしばらく言葉を失った。


 帳、まて。


 正しいのか。


 間違っているのか。


 少なくとも、小柄な者は、触ってはならないものだと覚え始めている。


 私は荷帳を開きかけて、すぐに閉じた。


 今、その荷帳は置いたばかりだった。


 記すために置いたのに、置いたことを記す帳が手元にない。


 私は思わず笑いそうになった。


 笑いかけて、腹の奥が少し鈍く動いた。


 二日目の血は、消えたわけではない。


 軽くなったのでもない。


 ただ、私を床へ押しつけるほどではない。


 その違いが、また私を黙らせた。


 大個体がこちらを見た。


 私は首を横に振った。


 何でもない。


 そう伝わったかは分からない。


     *


 夕暮れ前、大個体は吊るし台の下に石を置いた。


 若い雄がぶつかっても倒れにくいように。


 雨が流れても泥が跳ねないように。


 獣が足をかけにくいように。


 さらに、乾いた皮を上からかぶせた。


 完全ではない。


 隙間はある。


 風が強ければ揺れる。


 雨が横から降れば濡れるかもしれない。


 だが、幕屋の床よりはずっとよい。


 荷の山よりも安全だった。


 私はその前に立った。


 王国の帳が、オークの作った吊るし台に置かれている。


 王国へ出すべき記録を、オークの群れの中で守らせている。


 それが、どうしようもなくおかしかった。


 おかしく、恐ろしく、そして少しだけ安堵した。


 私は自分の胸元に隠した秘匿の頁を押さえた。


 これは、あそこへは置けない。


 王国へ出せないだけではない。


 大個体にも見せてはならない。


 私は二つに分けた。


 外に置く帳。


 身の内に隠す頁。


 その分け方もまた、私を裂くようだった。


 そして、水場へ行った時、私はもう一つを分けた。


 使った血布。


 清い血布。


 洗う前のもの。


 洗った後のもの。


 干すもの。


 身につけるもの。


 女の血もまた、混ぜてはならないものだった。


 私の帳もまた、混ぜてはならないものだった。


 王国へ出せるもの。


 出せないもの。


 外へ置けるもの。


 身の内へ隠すもの。


 私はその分け方を覚えながら、少しずつ、この群れの作法に近づいているのではないかと思った。


 その思いもまた、王国へ出すべからず。


     *


 夜、若い雄が吊るし台に近づいた。


 黒き刃石の包みと間違えたのかもしれない。


 あるいは、ただ揺れるものが気になっただけかもしれない。


 大個体は火場から立った。


「まて」


 若い雄は止まった。


 大個体は吊るし台を指した。


「ちょう」


 次に、私を指す。


「アリア」


 そして、若い雄へ向けて低く言った。


「まて」


 私の名と、帳が結ばれた。


 その瞬間、喉の奥が詰まった。


 大個体は、帳の中身を知らない。


 王国へ出すものか、出せないものかも知らない。


 私がどれほどそこに自分を隠しているかも知らない。


 それでも彼は、私のものとして守らせた。


 私の名を添えて。


 アリアの帳。


 その音は、王国の学術院で与えられた公務の名よりも、ずっと危うかった。


     *


 私はその夜、小さな木札の裏に記した。


 調査帳は吊るし台に置いたため、手元にあったのは谷底の荷から出た薄い札だけだった。


 文字は小さくした。


 余白を惜しんだ。


 ――帳の置き場を作る。


 ――水場より遠く、火場より遠し。


 ――腐れの穴より遠し。


 ――木の枝より吊るす。


 ――皮にて覆う。


 ――大個体、若い雄と小柄な者を「まて」にて止む。


 ――「帳」の音、小柄な者へ移る。


 ――大個体、「帳、アリア」と結ぶ。


 ――王国へ出すべき記録を、オークに守らせる。


 ――常ならず。


 ――されど、今はこのほか守る手なし。


 そこまで書いて、手が止まった。


 私は、王国へ戻るために記しているのか。


 それとも、この群れの中で自分が消えないために記しているのか。


 最初は同じだったはずだ。


 記すことは、王国へ戻ることだった。


 けれど今は違う。


 記すことは、ここで私を保つことになっている。


 その帳を、私は大個体に守らせた。


 王国ではなく。


 学術院ではなく。


 教会でもなく。


 オークに。


 腹の奥が、また鈍く重くなった。


 私は木札を膝に置き、少しだけ身を丸めた。


 二日目。


 街にいた頃なら、この時間にはもう、何も書きたくなくなっていた。


 今日は書いている。


 短い木札の裏に、まだ文字を刻んでいる。


 その事実もまた、定め難かった。


     *


 外で、水場側の雌が低く鳴いた。


 まだ腕を庇っている。


 若い雄は火場の近くで肩を動かそうとして、また止められていた。


「まて」


 大個体の声。


 その声は、傷を広げるなという声だった。


 帳に触るなという声でもあった。


 若い雄を止める声。


 私を守る声。


 大個体自身を止める声。


 同じ音が、あまりに多くのものを背負っている。


 私は胸元の秘匿の頁を押さえた。


 そこに書かれていることだけは、吊るし台には置けない。


 大個体に守らせることもできない。


 大個体から隠さねばならない。


 それなのに、今夜も大個体の「まて」を聞いている。


 私は木札の余白に、最後の一行を刻んだ。


 ――月の血、二日目。


 ――出血、昨日より明らか。


 ――布替え、数度あり。


 ――腹重、腰鈍、冷え、いずれもあり。


 ――されど、従前の二日目ほど身を沈めず。


 ――記録、可。


 ――帳の置き場、得る。


 ――私の帳は、大個体の声に守らる。


 ――私の秘匿は、その大個体より隠さる。


 ――この二つ、同じ夜にあり。


 ――王国へ出すべからず。


 木札を胸元に戻した。


 外では、吊るし台が夜風に少し揺れていた。


 その中に、私の帳がある。


 王国の外で。


 オークの群れの中で。


 大個体の「まて」の届く場所に。


 私はそれを恐れた。


 同時に、今夜だけは少し眠れるかもしれないと思った。

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