第十六話 谷底の荷札
朝、若い雄の肩の布は、まだ赤く湿っていた。
彼は何度も布を剥がそうとし、そのたびに大個体に止められている。
「まて」
若い雄は牙を鳴らした。
水場側の雌は、少し離れたところに座っていた。
腕に布を巻かれている。
昨日、狼に裂かれた腕だ。
彼女もまた水場を見ている。
立ち上がろうとする。
座らされる。
また立ち上がろうとする。
大個体が低く言った。
「まて」
水場側の雌は不満げに喉を鳴らした。
私はその腕を見た。
若い雄の肩と、同じほどの傷に見えたはずだった。
だが、水場側の雌の布は、若い雄のものほど赤くない。
傷の深さを見誤ったのか。
布の巻き方が違うのか。
雌の方が痛みに強いだけか。
分からない。
分からないので、書いた。
――若い雄、肩傷。なお血の滲み多し。
――水場側の雌、腕傷。血の滲み少なきように見ゆ。
――定め難し。
――肩傷の雌の例と合わせ、後日また見るべし。
書き終えた時、腹の底で、小さく重さが動いた。
私は手を止めた。
月の血が来た。
そう分かるまでに、少しだけ間があった。
昨日からあった浅い重さが、今朝、形を持ったのだ。
私は息を吸い、荷帳を閉じた。
慌てるほどではない。
痛みも、強くはない。
腰の鈍さはある。
下腹の重さもある。
だが、街にいた頃のように、朝から身体の底へ冷たい泥を流し込まれるような感覚はなかった。
血は来た。
来ていないのではない。
ただ、重くない。
軽い、と断じるには早い。
だが、浅い。
私は昨日、雌に示された布の場所へ行った。
清い布。
血を受ける布。
使った布を入れる籠。
灰湯。
湯。
干し場。
私はその手順に従った。
オークの雌に示された通りに。
大個体が気まずそうに逃げた、あの作法に従って。
血を受ける布を身につける時、私は少しだけ目を閉じた。
人間の街で、こんなふうに準備されていたことが何度あっただろう。
王立の奥なら、ある。
貴族の屋敷なら、ある。
だが、旅の途中では。
辺境の宿では。
市場の裏では。
ここは、オークの群れである。
その事実が、腹の重さとは別に、私を黙らせた。
荷帳の端に、小さく書いた。
――月の血、始まる。
――腹重あり。されど従前より浅し。
――腰鈍あり。冷え少なし。
――血布、昨日示された手順にて用いる。
――原因、定め難し。
――後日また見るべし。
書き終えると、大個体が森の奥を見ていた。
*
その日は、水場から下る細い沢をたどった。
狼を追うためではない。
大個体は、昨日から沢の石を気にしていた。
小柄なオークが足裏を切ったのだ。
傷は浅い。
けれど、その石は奇妙だった。
黒く、濡れていないのに光っていた。
割れた端が、刃のように薄い。
大個体はそれを拾い、狼の皮の端へ当てた。
石は、音もなく皮を裂いた。
牙で裂くより静かだった。
骨で削るより細かった。
私は思わず息を止めた。
「黒き……玻璃石」
口からそう漏れた。
大個体は、私を見た。
言葉を求める時の目だった。
「黒い、刃の石です」
私は言い直した。
「黒き刃石」
「くろ……は、いし」
彼はうまく言えなかった。
だが、その黒い石を捨てなかった。
沢の上に、同じものがあると見たのだろう。
だから私たちは、沢を下るのではなく、上へ向かった。
歩き出してから、私は自分の身体を測るように意識した。
血はある。
腹の奥の重さもある。
だが、足は動く。
息も乱れない。
街にいた頃なら、月の血の始まりの日に、沢沿いの石道を歩くことは避けたかった。
下腹に力を入れるたび、腰の奥が鈍く沈むからだ。
今日は違う。
重さはある。
だが、私を止めない。
それが布の乾きのためか。
水と火と灰のためか。
眠りが深かったためか。
食のためか。
それとも、別の何かのためか。
私は決めなかった。
決めないまま、沢を上った。
*
森の奥へ入るほど、水音は細くなった。
大きな道ではない。
人間の荷車が通るような道でもない。
だが、まったく道がないわけではなかった。
石の間に、古い轍のような窪みがある。
草に埋もれた切り株がある。
崩れた土の端に、車輪が削ったような跡がある。
私は足を止めた。
これは、私が来た人間側の交易路ではない。
城塞都市から伸びる道ではない。
王国の商会が使う荷道でもない。
もっと古い。
もっと細い。
山と谷の間を抜ける、別の荷の道だ。
私は荷帳を開いた。
――沢沿いに古き道あり。
――王国の車道にあらず。
――草に埋もれし轍あり。
――人間側交易路とは別筋か。
――十五文化圏の境、森奥に重なるものか。
書いていると、大個体が低く唸った。
沢の先に、谷が割れていた。
*
崖は高くなかった。
だが、足を滑らせれば戻れないほどには深い。
谷底には、古い木片が散っていた。
車輪。
軸。
折れた箱。
荷を縛っていた縄。
荷車の残骸だ。
年月を経ている。
雨に打たれ、苔に覆われ、半ば土に埋もれていた。
若い雄がすぐに降りようとした。
「まて」
大個体が止めた。
先に石を投げる。
斜面の土が崩れる。
下の木片が動く。
崩れやすい。
大個体は枝を折り、足場を試しながら降りた。
若い雄たちには待たせる。
肩傷の雌と火を見る雌を、上に残す。
小柄なオークは私の近くに立たされた。
私は崖の上から谷底を見た。
木片の間に、白いものがあった。
最初は石かと思った。
違った。
骨だった。
*
谷底に、白骨があった。
一人ではない。
二人。
いや、三人分かもしれない。
人間王国の服ではなかった。
布はほとんど朽ちている。
だが、腰紐の飾りや、腕輪の形が違う。
荷札の木片も、王国のものではない。
若い雄が骨へ手を伸ばした。
「まて」
大個体の声が谷底に落ちた。
若い雄は止まった。
止まったが、頭骨を見ている。
遊ぶものか。
割るものか。
使えるものか。
野のオークなら、そう見るのだろう。
大個体は、そうしなかった。
彼はまず、荷をどかした。
次に、骨を拾った。
一つずつ。
腕の骨。
肋の骨。
頭の骨。
向きを揃えるように、一か所へ置いていく。
若い雄が折れた骨を持とうとすると、大個体はまた言った。
「まて」
その声は、荷を守る声ではなかった。
水を守る声でも、肉を分ける声でもなかった。
私は崖の上で、息を殺した。
何をしているのか。
腐れを避けるだけなら、骨を遠ざければよい。
荷を得るだけなら、骨は捨て置けばよい。
だが、大個体は拾っていた。
死者を、死者として扱っていた。
*
私は下りることを許されなかった。
崖の上から見るだけだった。
それでも、見えた。
大個体は、荷札を一つ拾った。
木札だった。
腐りかけているが、刻みはまだ残っている。
点。
棒。
そして、端に貝殻にも花にも見える印。
私は身を乗り出した。
「見せてください」
大個体は私を見上げた。
意味は通じていない。
私は自分の目を指し、荷札を指した。
「見る」
彼は少し迷い、荷札を持って上がってきた。
私はそれを受け取らなかった。
受け取る前に、手が震えた。
王国文字ではない。
ドワーフの鉱山印でもない。
龍人の官用文字でもない。
点と棒。
二十をひとまとまりに数える者たちの印。
神官文字の本文は読めない。
商人の符牒も分からない。
だが、この荷札の型は見たことがある。
辺境の荷帳に、写しとして残されていたものだ。
「ザポテック……」
私は小さく言った。
大個体はその音を拾えなかったらしい。
ただ、私の顔を見ていた。
私は荷帳へ書いた。
――谷底に荷車跡。
――白骨複数。
――王国人にあらず。
――木札に点と棒、貝殻または花に似た印あり。
――ザポテック系の荷札か。
――本文読めず。
――数と荷印のみ見覚えあり。
――人間側交易路とは別筋より落ちしものか。
*
荷の中には、黒い石の包みがあった。
布は朽ちかけていたが、内側の石は残っている。
黒い。
薄い。
割れ口が夜の水面のように光る。
大個体は一つを拾った。
若い雄がそれを棍棒のように握ろうとした。
「まて」
大個体は石を奪うのではなく、若い雄の手を開かせた。
石の端を指す。
手の腹を指す。
切れる、と示したいのだろう。
若い雄は分からない顔をした。
大個体は、朽ちた革紐を拾った。
黒い石の端を当てる。
軽く引く。
革紐は、すっと裂けた。
若い雄の目が変わった。
次の瞬間、彼は黒い石を別の木片へ叩きつけようとした。
「まて」
谷底に、大個体の疲れた声が響いた。
私は思わず目を伏せた。
力で割るものではない。
薄い端を使うものなのだ。
だが、それはオークには伝わりにくい。
大個体は黒い石を持ち、若い雄の前で何度も見せた。
切る。
叩かない。
切る。
叩かない。
言葉にはならない。
だが、手で示していた。
*
私は荷札をもう一度見た。
黒き刃石。
ザポテックの商人が、そう呼んだかどうかは知らない。
けれど、この荷は刃石の荷だったのだろう。
小刃。
矢じり。
薄く割られた刃。
木箱の隅には、割れた小片も残っている。
王国の鍛冶師なら笑うかもしれない。
鉄に劣る。
すぐ割れる。
武器にはならぬ。
だが、この森では違う。
鉄を持たぬオークにとって、それは刃だった。
肉を切る。
皮を裂く。
腱を切る。
木を削る。
食い散らかす群れなら見落とすものを、大個体は用に立てようとしている。
私は記した。
――黒き玻璃石、多数。
――薄く割れし端、刃のごとし。
――革紐を静かに裂く。
――若い雄、叩かんとす。大個体止む。
――叩く石にあらず。切る石なり。
――森に鉄少なし。
――この群れにとり、刃となるものか。
*
荷を漁ることは、すぐには始まらなかった。
それが、また私には異様だった。
若い雄たちは包みを見ている。
使えそうな縄を見ている。
黒い石を見ている。
だが、大個体は先に骨へ戻った。
谷底の乾いた土を掘る。
深くはない。
石が多く、根も絡む。
それでも、彼は骨を一か所へ集め、土をかけた。
完全に埋めることはできない。
だから、その上に石を積んだ。
一つ。
また一つ。
若い雄にも石を持たせる。
若い雄は最初、意味が分からず、黒い刃石の包みの上へ石を置こうとした。
「まて」
大個体は骨の上を指した。
荷ではない。
骨の上だ。
若い雄は不満そうに、石を置いた。
小柄なオークも、小さな石を持ってきた。
大個体はそれを受け取り、同じ場所へ置かせた。
私は崖の上で見ていた。
神名は唱えない。
ザポテックの神など、私にも分からない。
大個体に分かるはずもない。
だが、彼は踏ませなかった。
骨を荷と混ぜなかった。
死者の荷札を、石のそばに置いた。
荷札を捨てなかった。
それは、清めではない。
荷分けでもない。
弔いだった。
*
私は震える手で書いた。
――谷底に白骨あり。
――ザポテック商人または護衛か。定め難し。
――大個体、荷を先に漁らず。
――骨を拾い、一所へ集む。
――若い雄、骨を弄らんとす。大個体「まて」にて止む。
――荷札、骨の側へ置く。
――石を積む。
――神名唱えず。文化圏定め難きためか。
――されど、死者を死者として扱う。
――腐れを避けるのみならば、ここまでする要なし。
――荷を得るのみならば、骨は捨て置けばよし。
――この作法、野のオークにあらず。
――第十六個体、死者を踏ませぬものか。
――王国へ出すべきか、なお定め難し。
書きながら、私は寒くなった。
この大個体は、何なのか。
水を分ける。
火を分ける。
汚れを焼く。
若い雄を止める。
雌雄の熱を場で分ける。
草を残す。
皮を乾かす。
黒い石を刃として見る。
そして、死者を踏ませない。
ただの獣なら、なぜ死者に石を積む。
人なら、なぜオークの姿をしている。
私は答えを持たない。
だから、また荷帳に書くしかなかった。
*
谷底から上がる時、大個体は黒き刃石の包みをすべて持っていかなかった。
割れた小片。
使えそうな薄刃。
革紐と一緒に残っていた矢じり。
それらを選んだ。
だが、骨のそばの荷札には触れなかった。
小柄なオークが、荷札を持とうとした。
「まて」
大個体は短く止める。
そして、荷札を石積みのそばへ戻した。
誰のものか分からない。
読めもしない。
それでも、死者の側へ戻す。
私はその行いを見て、胸の奥が重くなった。
名知らぬ女を火に送った時と同じ重さだった。
大個体は、死者を名で呼べない。
神へ送る言葉も知らない。
だが、死者を物として扱わない。
それは、野のオークにはないはずの作法だった。
*
帰り道、若い雄は黒い石を何度も見た。
叩きたそうにしている。
大個体がそのたびに目を向ける。
「まて」
若い雄は牙を鳴らす。
火を見る雌は、黒い小刃を少し怖がっているようだった。
肩傷の雌は、皮袋へ入れた包みを嗅ぎ、興味を失った。
小柄なオークだけが、大個体の真似をしていた。
細い枝を拾う。
黒い石の端を当てる。
ゆっくり引く。
枝にはほとんど傷がつかなかった。
それでも、小柄な者は顔を上げた。
「きる?」
私はその音に、足を止めた。
切る。
誰が教えたのか。
私が先ほど、革紐が裂けた時に言ったのかもしれない。
大個体が私を見る。
私は頷いた。
「切る」
大個体は小柄な者へ向けて言った。
「きる」
それから、黒い石を指し、棍棒を指した。
「きる。たたく、だめ」
叩く、という音をどこで拾ったのか。
私か。
それとも、これまでのやり直しの中でか。
若い雄は不満げだった。
だが、黒い石を叩かなかった。
私は荷帳へ書いた。
――黒き刃石、「切る」の用。
――大個体、「叩く、だめ」と若い雄へ示す。
――小柄な者、「切る」の音を出す。
――物の名にあらず。行いの名、また増ゆ。
――黒き石、群れの手を変えるものか。
帰り道の半ばで、私はもう一度、自分の腹に意識を向けた。
血は続いている。
布は濡れているはずだった。
だが、不快さは薄かった。
水場で教えられた布が、身の動きに沿っていたからか。
替えがあると知っているからか。
灰湯と湯があると知っているからか。
それとも、身体そのものの重さが浅いのか。
私は足を止めずに考えた。
月の血の始まりの日に、崖の上に立ち、谷底の骨を見て、黒き刃石を記す。
街にいた頃なら、そんなことをしようとは思わなかった。
できなかった、とまでは言わない。
だが、したくなかった。
今日は、できている。
この違いを、私はまだ何と書くべきか知らない。
*
広場へ戻る頃には、日が傾いていた。
若い雄の肩は、また赤く湿っていた。
水場側の雌の腕は、朝よりも乾いて見えた。
私は目を細めた。
見間違いかもしれない。
疲れのせいかもしれない。
雌の傷が浅かっただけかもしれない。
それでも、記した。
――若い雄の肩、夕刻なお血湿りあり。
――水場側の雌の腕、乾き早きように見ゆ。
――定め難し。
――一つなら偶然。二つなら徴か。
――肩傷の雌の例、忘るべからず。
――後日また見る。
私は筆を止めた。
今はまだ、これ以上は書けない。
雌の身が、雄と違う保ち方を持つのか。
それとも私が、見たいものを見ているだけなのか。
どちらにしても、王国へ出すには早すぎる。
それから、私は水場へ行った。
昨日、月の血の雌に示された通りに、使った布を分けた。
血のある布は、食の布とは混ぜない。
水場の流れへ直に落とさない。
灰湯へ浸す。
湯で洗う。
干す場所へ移す。
手順は粗い。
私の手つきも、まだぎこちない。
だが、迷わずに済んだ。
それだけで、腹の奥の重さが少し遠のくようだった。
私は荷帳の端に、さらに書いた。
――月の血、初日。
――出血あり。
――布替え、可能。
――腹重、従前より浅し。
――腰鈍、浅し。
――冷え、少なし。
――歩行、沢道および谷上観測に支障少なし。
――ただし原因、定め難し。
――血布作法、水・灰・湯・乾きの助け大なり。
――身体そのものの変化かは、なお後日見る。
*
夜、黒き刃石は火場のそばに置かれた。
大個体は、狼の皮の端へそれを当てる。
薄く、静かに裂ける。
若い雄たちが見ている。
叩けば早いと思っている顔だ。
大個体は、何度も見せる。
切る。
叩かない。
切る。
叩かない。
火を見る雌が、細い腱を持ってくる。
黒い刃石がそれを切る。
小柄なオークが目を丸くした。
「きる」
大個体が頷いた。
「きる」
私はその声を聞きながら、谷底の石積みを思い出していた。
黒い石。
ザポテックの荷札。
白骨。
死者の上に置かれた石。
この群れは、十五文化圏の境から落ちたものを拾っている。
荷を拾う。
刃を拾う。
作法を拾う。
言葉を拾う。
だが、死者の骨だけは、拾って道具にしなかった。
石を積んだ。
それが何よりも、私には恐ろしかった。
獣ならば、しない。
人ならば、する。
だが、彼はオークだ。
私は荷帳を閉じた。
――谷底の荷札、王国へ出すべきか。
――黒き刃石、群れの用となる。
――死者、石の下に置かる。
――この群れ、十五文化圏より落ちしものを拾う。
――されど、死者を踏ませず。
――第十六個体、なお定め難し。
外で、大個体の声がした。
「まて」
若い雄が黒い石を叩こうとしたのだろう。
私はその声を聞き、目を閉じた。
水。
火。
腐れ。
残す。
切る。
待て。
血を分ける。
そして、死者を踏むな。
まだ、その音はない。
だが、大個体の行いの中には、すでにそれがあった。




