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第十六個体観測録  作者: 黒瀬 量衡


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第十五話 残す草

 朝、狼の皮は枝に掛けられたままだった。


 夜露を受け、重く垂れている。


 近づくだけで、血と脂の匂いがした。


 若い雄の一体が、それを取ろうとした。


 まだ乾いていない。


 大個体の声が飛ぶ。


「まて」


 若い雄は止まった。


 止まったが、牙を鳴らし、不満げに皮を見ている。


 食えぬもの。


 だが、使えるかもしれぬもの。


 オークたちにとって、それは分かりにくいものなのだろう。


 肉なら食う。


 骨なら割る。


 血なら舐める。


 皮は、どうするのか。


 大個体は、濡れた皮を指した。


 次に、火場から少し離れた枝を指す。


 それから、私を見た。


 言葉を求めている。


 私はそう気づいた。


「乾かす、のですか」


 大個体は、私の口元を見た。


「か……わ……かす」


 不確かな音だった。


 だが、彼はすぐに若い雄へ向けた。


「かわかす」


 若い雄は低く真似た。


「か、わ……」


 途中で飽きたように、また皮へ手を伸ばす。


「まて」


 大個体はもう一度言った。


 私は荷帳を開いた。


 ――狼の皮、枝に掛け乾かす。


 ――大個体、私より「乾かす」の音を拾う。


 ――若い雄、音を真似るも作法まだ入らず。


 ――食えぬものを用に立てること、彼らにはまだ遠きものか。


     *


 狼に傷つけられた若い雄は、火場の外れに座らされていた。


 肩に巻かれた布は、朝になっても赤く湿っている。


 彼はそれを嫌がり、何度も剥がそうとした。


 そのたびに、大個体が言う。


「まて」


 若い雄は牙を鳴らす。


 従っているというより、力のある者の声だから止まっているだけに見える。


 水場側の雌も、少し離れた場所にいた。


 昨日、狼に腕を裂かれた雌だ。


 肩傷の雌でも、火を見る雌でもない。


 灰をかぶったような暗い毛を持つ、腕の太い雌。


 腕には布が巻かれている。


 彼女は黙って座っていた。


 だが、目は水場の方を見ている。


 昨日の務めに、まだ戻ろうとしているのだろうか。


 私は二つの傷を見比べた。


 若い雄の肩。


 水場側の雌の腕。


 どちらも狼の牙によるもの。


 どちらも湯で洗われ、布を巻かれている。


 今朝の私には、大きな違いは定められなかった。


 ただ、水場側の雌の腕は、血の滲みが少ないようにも見えた。


 偶然か。


 巻き方の違いか。


 傷の深さを、私が見誤っただけか。


 今はまだ、書き留めるだけにした。


 ――若い雄、肩傷。


 ――水場側の雌、腕傷。


 ――ともに狼の牙によるもの。


 ――若い雄の布、なお赤く湿る。


 ――水場側の雌の布、血の滲み少なきようにも見ゆ。


 ――されど、今朝のみでは定め難し。


 ――後日また見るべし。


 そこまで書いてから、私はふと、自分の腹に手を当てた。


 浅い重さがあった。


 痛みではない。


 病でもない。


 月の血が近い時、身体の底に置かれる小さな石のような重さ。


 街にいた頃なら、この時点でもう少し腰が鈍かった。


 下腹の冷えも、もっと早く来た。


 今はある。


 あるが、浅い。


 浅すぎる。


 私はそのことを、まだ書かなかった。


 血はまだ来ていない。


 前触れだけで断じるべきではない。


 ただ、腹の奥にある重さが、今朝見た二つの傷と同じように、後日また見るべき徴であることだけは分かった。


     *


 朝の務めが終わると、肩傷の雌と火を見る雌が森の浅いところへ向かった。


 小柄なオークもついていく。


 水場側の雌は立ち上がりかけたが、大個体が止めた。


「まて」


 雌は低く喉を鳴らした。


 不満なのか。


 従ったのか。


 私には分からない。


 大個体は彼女の腕を指し、次に水場を指した。


 そして、肩傷の雌を指した。


 今日は休め。


 水場は別の者が見る。


 そういうことなのだろう。


 水場側の雌は、しぶしぶ腰を下ろした。


 私はそれを見てから、杖を手に取った。


 大個体がすぐにこちらを見る。


「まて」


「見るだけです」


 私は荷帳を掲げた。


 彼は私の言葉をすべては分からない。


 けれど、私が行きたがっていることは分かったらしい。


 彼はしばらく私を見ていた。


 昨日の狼。


 腐れた巣。


 名知らぬ女。


 それらを思えば、森へ出すことを許したくないのだろう。


 だが、やがて彼は自分の胸を叩き、私を指し、肩傷の雌を指した。


「まて」


 また、その一語。


 勝手に進むな。


 線を越えるな。


 触るな。


 離れるな。


 この群れでは、一つの音が多くを背負い始めている。


 私は頷いた。


     *


 森の浅いところには、小さな線があった。


 枝を並べただけのもの。


 石を置いただけのもの。


 獣なら一歩で崩すだろう。


 若い雄なら、気づかず踏むだろう。


 だが、そこには確かに線があった。


 肩傷の雌が、その内側の土を指した。


 小さな芽が出ている。


 私は膝をつき、顔を近づけた。


 食べられる草か。


 苦い葉か。


 根を取るものか。


 私には分からない。


 だが、大個体の群れは、それを踏ませないようにしている。


 小柄なオークが足を上げたまま、その芽の上へ置こうとした。


 大個体はすぐに芽を指し、小柄な者の足を指し、私を見た。


 また、言葉を求めている。


 私は短く言った。


「踏むな」


 大個体は繰り返した。


「ふむな」


 小柄なオークは、足を上げたまま固まった。


 私は息を呑んだ。


 水。


 火。


 腐れ。


 待て。


 痛い。


 飲め。


 乾かす。


 踏むな。


 音がまた増えている。


 しかも、それは水や火のような物の名ではない。


 足を止めるための音。


 まだ小さな芽を守るための音。


 野の猿が、明日の草のために足を止めている。


 私はそのことを、どう書けばよいのか分からなかった。


     *


 小柄なオークは、慎重に足を下ろした。


 線の外へ。


 だが、次の瞬間、別の若い雄が横から歩いてきて、枝の線を踏み壊した。


 肩傷の雌が吠えた。


 大個体がすぐに来る。


「まて」


 若い雄は止まった。


 自分が何をしたか、分かっていない顔だった。


 大個体は、踏まれた枝を拾い、もう一度並べた。


 若い雄の足を指す。


 芽を指す。


 線を指す。


「ふむな」


 若い雄は、枝を見た。


 芽を見た。


 自分の足を見た。


 それから、なぜか枝を持ち上げて、別の場所へ投げようとした。


 大個体の肩が強張った。


「まて」


 低く、深い声だった。


 若い雄は今度こそ固まった。


 私は思わず息を殺した。


 大個体の作法は、群れに一度で入るものではない。


 線を見せても、線の意味までは入らない。


 芽を指しても、芽を守る理由までは入らない。


 音を与えても、行いがすぐ正されるわけではない。


 それでも、大個体はやり直させる。


 何度も。


     *


 肩傷の雌は、土から根を掘った。


 全部は取らない。


 太い根を半分だけ折り、細い根を残す。


 土を戻す。


 葉を少し残す。


 私はそれを見て、首を傾げた。


 採るなら、なぜ全部採らないのか。


 その疑問が浮かんだ瞬間、答えも浮かんだ。


 残すためだ。


 食べ尽くさない。


 掘り尽くさない。


 次もここに来るために、残す。


 王国の畑では当たり前のことかもしれない。


 だが、ここは畑ではない。


 森だ。


 そして、彼らはオークだ。


 野の群れなら、食えるものはその場で食い尽くすだろう。


 次の芽など考えないだろう。


 だが、この群れは残している。


 大個体は、土に残した細い根を指し、私を見た。


 私は言った。


「残す」


「のこす」


 彼はすぐに繰り返した。


 そして肩傷の雌、小柄な者、若い雄へ向けて言った。


「のこす」


 私は荷帳へ刻んだ。


 ――根を取る。されど掘り尽くさず。


 ――葉を残し、土を戻す。


 ――採るのみにあらず。残す。


 ――大個体、私より「残す」の音を拾い、群れへ移す。


 ――野の群れにあらず。


 ――王国の畑にもあらず。


 ――森の中に、残す作法あり。


     *


 小柄なオークが、別の根を見つけた。


 嬉しそうに鳴き、両手で土を掻き始める。


 早い。


 そして雑だった。


 根の周りの土をすべて掻き出し、細い根まで引き抜こうとする。


 大個体が低く言った。


「のこす」


 小柄なオークは止まった。


「の、こ……」


 真似る。


 だが、真似ながらも、手は根を引こうとしている。


「まて」


 大個体は小柄なオークの手を押さえた。


 乱暴ではない。


 だが、逃さない。


 彼は根の半分を指す。


 取る。


 残す。


 土を戻す。


 その動きを、ゆっくり見せた。


 小柄なオークは見ていた。


 見ていたが、最後に残った葉を食べようとした。


 大個体が私を見た。


 私は少し迷い、それから言った。


「食べてはなりません。……食うな」


 大個体は、短い方だけを拾った。


「くうな」


 小柄なオークは葉を口の前で止めた。


 大個体は、額を押さえるように太い指を顔に当てた。


 私は思わず、笑いそうになった。


 笑ってはいけない。


 けれど、大個体の苦しみは、あまりにも人のそれに近かった。


 群れを変えるとは、こういうことなのか。


 言葉を与えれば足りるのではない。


 何度も止め、何度も見せ、何度もやり直させる。


     *


 火を見る雌は、苦い葉を摘んでいた。


 彼女は比較的うまい。


 似た草を避け、匂いを嗅ぎ、葉の裏を見る。


 だが、途中で面倒になったのか、似た葉をまとめて籠に入れた。


 大個体がその籠を見た。


「まて」


 火を見る雌は不満げに喉を鳴らす。


 大個体は籠から一枚ずつ葉を出した。


 苦い葉。


 似た葉。


 使える葉。


 捨てる葉。


 彼は分ける。


 火を見る雌に見せる。


 火を見る雌は、二枚目までは見ていた。


 三枚目から、森の奥の音に気を取られた。


 大個体が私を見た。


 私は言った。


「見る」


 大個体は葉を指し、火を見る雌へ向けて言った。


「みる」


 火を見る雌は彼を見る。


 大個体は、もう一度、葉を指した。


「みる」


 私は荷帳を握った。


 見る。


 観測者である私にとって、それは当たり前の務めだ。


 だが、この群れでは今、その音が葉を分けるために使われている。


 見ることもまた、作法になる。


     *


 私はそこで、初めてはっきりと怖くなった。


 水、と鳴くならまだ分かる。


 火、と指すならまだ分かる。


 それらは物の名だ。


 だが、残す。


 それは物ではない。


 今ここで食わず、次のために置くという行いだ。


 埋める。


 それも物ではない。


 土へ入れ、後の芽を待つという行いだ。


 踏むな。


 それは、足を止めるだけではない。


 まだ生えてもいない明日の草を守るための音だ。


 食うな。


 見る。


 それらもまた、物の名ではない。


 してよいことと、してはならぬことを分ける音。


 行いを整える音。


 作法を運ぶ音。


 大型猿が、物の名だけでなく、行いの名を扱い始めている。


 私は荷帳に刻んだ。


 ――水、火は物の名なり。


 ――されど、残す、埋める、踏むな、食うな、見るは物の名にあらず。


 ――行いの名なり。


 ――してよきこと、してはならぬことを分ける音なり。


 ――大個体、私の口より音を拾い、作法へ移す。


 ――大型猿の鳴き真似にあらず。


 ――これは何と記すべきか。


 ――王国へ出すべきか、なお定め難し。


     *


 実のなる低木があった。


 黒い実がいくつかついている。


 肩傷の雌は、実を取る。


 しかし枝を折らない。


 小柄なオークは、実より枝ごと引き寄せようとした。


「まて」


 大個体は枝を押さえた。


 実を取る。


 枝を残す。


「のこす」


 小柄なオークは、今度は真似た。


「のこす」


 声は不確かだった。


 だが、彼は枝を折らなかった。


 私はその瞬間、胸が少しだけゆるんだ。


 そして、すぐに怖くなった。


 私は何を喜んでいるのか。


 オークが枝を折らずに実を取ったことを。


 この群れが、また一つ作法を覚えたことを。


 私は本当に、王国へ戻る者の目で見ているのか。


 それとも、すでにこの群れの育ちを喜ぶ者の目で見ているのか。


     *


 実を食べた後、大個体は種を指した。


 若い雄は、それを口から遠くへ吐いた。


 大個体がすぐに止める。


「まて」


 種を拾わせる。


 若い雄は不服そうに拾う。


 大個体は水場から離れた土を指した。


 指で穴を開ける。


 種を入れる。


 土をかける。


 そして、また私を見る。


「埋める」


 私は言った。


「うめる」


 大個体は繰り返した。


 若い雄は真似た。


「う、め」


 そして、手に持っていた種を全部一つの穴へ押し込んだ。


 大個体が固まった。


 しばらく、動かなかった。


 その後、彼は土を掘り返した。


 種を分けた。


 一つ。


 別の場所へ一つ。


 また別の場所へ一つ。


「うめる」


 若い雄は、何が違うのか分からない顔で見ていた。


 私は、その顔を見て思った。


 これは畑ではない。


 これは、畑になる前の、もっと苦しいものだ。


 分かる者が一体いて、分からぬ者たちへ、何度も同じ手を見せる。


 作法は、すぐには生まれない。


 失敗とやり直しの跡が、土に残る。


     *


 大個体は、食べ残しを持っていく場所も決めていた。


 腐れた実。


 虫の入った根。


 食べられぬ葉。


 それらを水場近くへ置こうとした若い雄がいた。


「駄目です」


 私は思わず言った。


 大個体がこちらを見た。


 私は水場を指し、腐れた実を指した。


「水のそばは、駄目」


 大個体は私の口元を見た。


「だめ」


 それから、水場を指し、腐れた実を指す。


「みず、だめ」


 若い雄は止まった。


 大個体は続けて、腐れた実を指した。


「くされ」


 それから、水場を指す。


「みず、だめ」


 若い雄は、ようやく腐れた実を持ち上げた。


 大個体は森の外れの穴を指す。


 そこへ入れろということだ。


 若い雄は腐れた実を持って、穴へ向かった。


 途中で一つを食べようとした。


「くうな」


 若い雄は、少しだけ肩を落とした。


 私は今度こそ、小さく笑ってしまった。


 大個体がこちらを見た。


 私はすぐに口元を押さえた。


 笑ってよい場面ではない。


 だが、大個体は怒らなかった。


 ただ、疲れたように息を吐いた。


 その姿は、獣の長というより、言うことを聞かぬ幼い者たちに囲まれた、気の毒な師のようだった。


 いや。


 それも王国のたとえに過ぎない。


 ここでは違う。


 群れの作法を、牙と手と短い音で染み込ませようとする大きな個体。


 それだけだ。


     *


 私は記した。


 ――食える根、残す。


 ――実の枝、折らず。


 ――種、水場外れの土へ埋む。


 ――芽の場所、踏ませず。


 ――腐れた実、水場へ近づけず。


 ――大個体、「のこす」「うめる」「ふむな」「くうな」「みる」を用いる。


 ――本日、「駄目」の音を拾う。


 ――水と腐れを近づけぬ時に用いる。


 ――待ては動きを止める音。


 ――駄目は、してはならぬことを示す音か。


 ――物の名にあらず。禁ずる音なり。


 ――されど、群れ、一度に覚えず。


 ――若い雄、種を一所へ押し込む。


 ――小柄な者、残す葉を食わんとす。


 ――火を見る雌、苦き葉と似た草を混ぜる。


 ――大個体、都度やり直させる。


 ――作法は命令にて成るにあらず。


 ――やり直しにて染みるものか。


 私はそこで手を止めた。


 やり直しにて染みる。


 それは、この群れだけの話ではない気がした。


 私もまた、何度も自分をやり直している。


 王国の女。


 観測者。


 捕らわれた者。


 庇われた者。


 群れの肉を食べた者。


 大個体を恐れる者。


 大個体の近くに胸がゆるむ者。


 どれが本当の私なのか。


 分からない。


 分からないから、私は書く。


     *


 帰る頃、小柄なオークがまた種を拾った。


 今度は、大個体を見た。


 土を指す。


「うめる?」


 疑問のような音だった。


 大個体は、少しだけ目を細めた。


 そして、頷く。


 小柄なオークは穴を掘った。


 種を一つ入れた。


 土をかけた。


 最後に、足で踏み固めようとした。


「ふむな」


 肩傷の雌が言った。


 小柄なオークは、足を上げたまま止まった。


 私は声を出さずに笑った。


 火を見る雌も、喉を鳴らした。


 大個体は、空を見た。


 疲れたようだった。


 だが、その空気は、腐れた巣を見た後の広場にはなかったものだった。


 うまくいかない。


 間違える。


 やり直す。


 それでも、群れの中に音が残る。


 私はそれを、少し眩しいもののように見てしまった。


     *


 広場へ戻ると、若い雄と水場側の雌はまだ火場の外れにいた。


 若い雄は肩を動かそうとして、大個体に止められている。


 水場側の雌は、巻かれた腕を胸の前に置き、じっと水場を見ていた。


 彼女もまた、すぐに務めへ戻りたいのだろう。


 私はそっと近づいた。


 大個体が私を見た。


「見るだけです」


 私はそう言い、荷帳を開いた。


 若い雄の肩は、まだ熱を持っているように見えた。


 布の下から、赤い湿りが滲んでいる。


 水場側の雌の腕も裂けている。


 だが、朝より血の滲みは少ないように見えた。


 傷の深さが違ったのか。


 腕の巻き方がよかったのか。


 雌の方が我慢しているだけか。


 今は、定められない。


 それでも、書いた。


 ――若い雄の肩、なお熱あり。


 ――水場側の雌の腕、血の滲み少なきようにも見ゆ。


 ――傷の深さ、同じとは断じ難し。


 ――されど、肩傷の雌の例を思い出す。


 ――一つなら偶然。


 ――二つなら、後日見るべき徴か。


 ――今は定めず。


 ――王国へ出すべきか、なお定め難し。


 書き終えた時、腹の奥の重さがまた少しだけ増した。


 私は無意識に、手を下腹へ寄せていた。


 大個体が、それを見た。


 私は慌てて手を離した。


 彼は近づきかけ、止まった。


 火場へ向かいかけ、また止まった。


 石の上に置かれた布の束へ手を伸ばしかけ、途中で指を引いた。


 狼を前にしても迷わぬ大個体が、布を前にして迷っている。


 そのことが、妙に分かりやすかった。


 やがて彼は、低く息を吐いた。


 そして、私に背を向けた。


 怒ったのではない。


 避けたのでもない。


 逃げたように見えた。


 私は目を瞬いた。


 しばらくして、大個体は一頭の雌を連れて戻ってきた。


 腹は大きくない。


 子も抱いていない。


 腕の太い、年を重ねた雌だった。


 歩き方に、わずかな重さがある。


 腰の下を庇うような、その歩き方を、私は知っている。


 月の血の雌だ。


 大個体はその雌の前に、乾いた布の束を置いた。


 次に、別の籠を指す。


 使った布の籠。


 さらに、灰を溶いた水。


 火にかけた湯。


 干してある布。


 食の布とは別に置かれた籠。


 そこまで示すと、彼は一度だけ私を見た。


 何かを言おうとしたように見えた。


 だが、言わなかった。


 雌に場を譲るように半歩下がり、そのまま火の方へ戻っていった。


 戻る足が、いつもより少し早かった。


 私は、その背を見送った。


 彼は女の血を穢れとして遠ざけたのではない。


 ただ、私に説明できなかったのだ。


 言葉がないからではない。


 たぶん、そうではない。


 彼は、気まずかったのだ。


 私に。


 女である私に。


 月の血の布の扱いを、自分の大きな手で示すことが。


 その事実に気づいた時、腹の奥の重さとは違う熱が、胸の下に上がった。


 連れて来られた雌は、大個体の迷いなど気にしていなかった。


 私の前にしゃがむと、乾いた布を一枚取った。


 次に、自分の腰のあたりを指す。


 それから、使った布の籠を叩いた。


 濡れたものはこちら。


 血のあるものはこちら。


 清いものはこちら。


 洗うものはこちら。


 干すものはこちら。


 言葉はない。


 だが、手順は分かる。


 清い布。


 血を受ける布。


 使った布。


 灰湯。


 湯。


 干し場。


 戻す場所。


 血の布は、食の布と混ぜない。


 寝床の脇に丸めて置かない。


 水場の流れにそのまま投げ込まない。


 洗う。


 分ける。


 干す。


 戻す。


 私は、雌の手の動きを見つめた。


 これは、女の血を隠す作法ではない。


 女の血を扱う作法である。


 私は喉の奥が詰まった。


 人間の街でさえ、ここまで分ける家ばかりではない。


 貴族の屋敷なら別であろう。


 王立の奥なら、清い布も湯もある。


 だが、市場の裏、旅の宿、門外の見張り小屋ではどうか。


 女たちは、洗いにくい布を使い回す。


 乾かぬまま身につける。


 匂いを隠し、血を隠し、痛みを隠す。


 それが当たり前だった。


 ここでは、オークの雌が、私に血布の分け方を教えている。


 そして、それを整えたのは、おそらく大個体である。


 彼は女の血を見ないふりはしなかった。


 穢れとして追い払うこともしなかった。


 ただ、洗い、分け、乾かし、戻す手順を置いた。


 そして、私への説明だけは、雌に任せて逃げた。


 その逃げ方が、なぜか私には、彼のどんな強さよりも強く残った。


 私は荷帳を開き、震えないように鉄筆を持った。


 ――第十六雌、月の血あり。


 ――血を受ける布あり。


 ――清き布、使いし布、洗う前の布、洗いし布、別置。


 ――灰湯あり。


 ――湯あり。


 ――干し場あり。


 ――食の布と混ぜず。


 ――寝床の脇へ丸め置かず。


 ――水場へ直に流さず。


 ――洗い、分け、乾かし、戻す。


 ――女の血、捨てるのみにあらず。


 ――扱う作法あり。


 そこまで書いて、私は手を止めた。


 残す草。


 埋める種。


 踏ませぬ芽。


 腐れを水へ近づけぬ穴。


 そして、血を受ける布。


 今日見たものは、別々のようで、同じところへ向かっている気がした。


 食い尽くさない。


 腐らせない。


 混ぜない。


 洗う。


 分ける。


 乾かす。


 戻す。


 明日のために、今のものを扱う。


 その作法が、この群れの中で粗く、不格好に、しかし確かに増えている。


 私は自分の腹に、そっと手を当てた。


 月の血は、まだ来ていない。


 だが、近い。


 明日か。


 その次か。


 その時、私はこの布を使うのだろう。


 オークの雌に示された手順で。


 大個体が気まずそうに逃げた、その手順で。


 そのことを、どう記せばよいのか、まだ分からなかった。


     *


 夕暮れ、狼の皮がまだ乾かされていた。


 若い雄の一体が、今度は皮ではなく、骨を持っている。


 大個体が骨と腱を集めさせていた。


 鍋のような石の窪みに湯を張り、骨と腱、皮の端を入れる。


 火を見る雌が火を保つ。


 臭いが立った。


 私は顔をしかめた。


「これは……食べるのですか」


 大個体は首を横に振った。


 木片を持ってくる。


 革の端を持ってくる。


 煮えた湯を枝ですくう。


 湯は濁り、少し粘っていた。


 彼はそれを木片と革の間へ塗った。


 押さえる。


 待つ。


 私は目を見開いた。


 骨と腱を煮て、粘る汁を取る。


 それで木と革をつなぐ。


 王国にも、似たものはある。


 職人たちが使う粘るもの。


 だが、この森で、オークがそれを作ろうとしている。


 しかも、うまくいっていない。


 若い雄が、その粘る汁を指につけ、舐めようとした。


「くうな」


 大個体の声が飛んだ。


 私はまた、笑いそうになった。


     *


 火を見る雌が、粘る汁の器を火に近づけすぎた。


 焦げた臭いがした。


 大個体は器を指し、火を指し、私を見た。


「近い。火が近すぎます」


 私は言った。


 大個体は短く拾った。


「ひ、ちかい」


 火を見る雌は慌てて器を遠ざける。


 今度は遠ざけすぎて、冷えかける。


 大個体は頭を抱えるように、太い手を額へ当てた。


 それでも、やめない。


 粘る汁を取り直す。


 木片を押さえ直す。


 革を乾かす場所を変える。


 若い雄が半乾きの皮を肩に掛けようとする。


「かわかす」


 大個体が言う。


 若い雄は不満げに皮を戻す。


 完全な作法ではない。


 失敗ばかりだ。


 だが、昨日の狼は、肉だけでは終わっていない。


 皮。


 骨。


 腱。


 脂。


 牙。


 食うもの。


 敷くもの。


 括るもの。


 結ぶもの。


 防ぐもの。


 獣の死骸が、いくつもの用に分けられていく。


     *


 私は荷帳に刻んだ。


 ――狼、肉のみならず。


 ――皮を剥ぎ、乾かす。


 ――骨、腱、皮の端を湯にて煮る。


 ――冷えし汁、粘りあり。


 ――大個体、これを木と革の間へ用いんとす。


 ――若い雄、舐めんとす。止めらる。


 ――火を見る雌、火に近づけすぎ焦がす。


 ――大個体、私より「近い」の音を拾う。


 ――「ひ、ちかい」と用いる。


 ――半乾きの皮、若い雄が身に掛けんとす。止めらる。


 ――大個体、手間取る。


 ――されど、やめず。


 ――獣を食うのみにあらず。


 ――身に括るもの、寝るもの、結ぶものへ変える。


 ――野の群れにあらず。


 ――王国の職人にもあらず。


 ――その間の、粗き作法なり。


 そこまで書いて、私は顔を上げた。


 大個体は、焦げかけた器を見ていた。


 肩を落としているように見える。


 その大きな背を見て、私はまた胸がゆるんだ。


 恐ろしいはずの背だ。


 水場で見てはならぬものを見た背。


 若い雄を止める背。


 死者を火に送った背。


 狼を叩き伏せた背。


 今は、粘る汁を焦がされて困っている背。


 私はその背を見て、危ういほど静かな気持ちになった。


     *


 夜、広場にはいつもより多くの物が吊るされていた。


 狼の皮。


 細く裂いた腱。


 骨。


 乾かす葉。


 種を入れた小さな袋。


 黒い実を吊るした枝。


 血を洗った布。


 すべてが不格好だった。


 王国の倉なら笑われるだろう。


 商会の荷なら売り物にならないだろう。


 だが、ここでは確かに用へ向かっている。


 食うだけではない。


 捨てるだけではない。


 残す。


 埋める。


 乾かす。


 分ける。


 洗う。


 待つ。


 駄目。


 私は荷帳を閉じた。


 外で、小柄なオークが低く練習していた。


「のこす」


 少し離れて、肩傷の雌が言う。


「ふむな」


 火場の方から、大個体の疲れた声がした。


「まて」


 私は幕屋の中で、その三つの音を聞いた。


 残す。


 踏むな。


 待て。


 水と火と腐れだけではない。


 この群れは、明日の草にまで線を引き始めている。


 そして、女の血さえ、ただ隠して捨てるものではなく、洗い、分け、乾かして戻すものとして扱い始めている。


 私はそのことを恐れた。


 同時に、その芽が潰されずに残ればよいと、思ってしまった。


 私の血が来る時にも、この作法が私を助けるのだろうと、思ってしまった。


 その思いもまた、王国へ出すべからず。

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