第十四話 狩りの線
朝、森の奥から戻った若い雄の腕に、血がついていた。
人の血ではない。
そう分かっただけで、私は少しだけ息を吐いた。
だが、その安堵は長く続かなかった。
若い雄の肩には、浅い歯形があった。
腕の毛は裂け、赤黒い血が固まり始めている。
肩傷の雌が近づく。
「いたい」
若い雄は牙を見せて低く鳴った。
痛い、と認めたのか。
痛くない、と威張ったのか。
私には分からない。
大個体がその傷を見た。
次に、森の奥を見た。
そして短く言った。
「まて」
若い雄は、それ以上広場へ入らなかった。
水場の方へも行かない。
火場にも近づかない。
肩傷の雌が湯を持ってきた。
火を見る雌が灰を持ってきた。
小柄なオークが布を抱えて走ってくる。
傷を受けた者を、群れの真ん中へ入れない。
昨日の死者と同じではない。
だが、線の引き方は同じだった。
傷。
血。
汚れ。
火。
水。
それらを混ぜない。
私は荷帳を開いた。
*
――若い雄一体、森より戻る。
――腕と肩に歯跡あり。
――人の血にあらず。
――獣のものか。
――大個体、広場へ入れず。
――湯、灰、布を呼ぶ。
――傷を持つ者、水場・火場へ近づけず。
――線を引く。
そこまで書いて、私は森を見た。
木々の間に、黒い影がいくつか動いた気がした。
狼。
そう思った。
王国の街道にも、狼の話はあった。
村の羊を裂くもの。
冬に飢え、墓地を掘るもの。
旅人の足跡を追うもの。
だが、私が知っているのは話だけだった。
ここでは、その話が足音を持って近づいてくる。
*
大個体は、森へ出る前に広場を見回した。
支度と言っても、人間の兵士のようなものではない。
鎧を着るわけではない。
旗を立てるわけでもない。
角笛を鳴らすわけでもない。
だが、ただ飛び出すのでもなかった。
若い雄を二体、森の左右へ置く。
肩傷の雌を水場側へ残す。
火を見る雌に火を大きくさせる。
小柄なオークには、私の幕屋の近くへ水を置かせる。
その時、私はまだ記録に入れていない雌がいることに気づいた。
肩傷の雌ではない。
火を見る雌でもない。
灰をかぶったような暗い毛を持ち、腕の太い雌だった。
彼女は水場の外れに立ち、森の方を見ていた。
大個体はその雌を指し、水場を指した。
雌は低く喉を鳴らして頷くような仕草をした。
水場を守る雌。
私はそう仮に記すことにした。
次に、大個体は地面に枝で線を引いた。
広場。
水場。
火場。
森。
そして、私の幕屋。
私の前に枝を横たえる。
「まて」
私は頷いた。
従いたくて頷いたのではない。
昨日、腐れた巣を見た。
野のオークを見た。
名を失った女を見た。
今、森の中へ自分から出ていくほど、私は愚かではなかった。
それでも、胸の奥に悔しさがあった。
見なければ書けない。
けれど、見に行けば死ぬ。
私は観測者であることと、生き残ることの間に挟まれている。
*
大個体は、風を嗅いだ。
森へ出る前に、水場を確かめる。
火場を確かめる。
幕屋を確かめる。
それから、若い雄たちへ低く鳴いた。
若い雄たちは森へ散る。
だが、走らない。
足を低くし、木の間へ沈むように動く。
ただの獣ではない。
そう思った瞬間、私は自分を叱った。
オークは獣だ。
人間社会では、大型猿に近い害獣だ。
村に近づけば追われ、街道に出れば矢を射られる。
だが、今見ているものは、ただの獣の飛び出しではない。
見張る者がいる。
誘う者がいる。
止める者がいる。
水場を守る者がいる。
大個体が、すべてを見ている。
私は荷帳へ刻んだ。
――狩り、衝き出るにあらず。
――風を見る。水を見る。火を見る。幕屋を見る。
――若い雄、左右へ分かれる。
――肩傷の雌、水場近く。
――新たな雌一体、水場外れに立つ。
――仮に水場側の雌と記す。
――大個体、中央に立つ。
――追う線と、戻る線を分けるものか。
*
最初の声は、狼のものだった。
低く、長い。
それに応じる声が、森の奥から二つ、三つ。
私は幕屋の前で身を固くした。
小柄なオークが私の横にいた。
彼は私より少し前に出ている。
守ろうとしているのか。
ただ、そこに立てと命じられているだけか。
分からない。
ただ、その小さな背が、急に頼りなく見えた。
狼の影が、森の外れに現れた。
一匹ではない。
灰色の背。
低い頭。
光る目。
痩せた腹。
数は、五つ。
いや、奥にまだいる。
狼の群れだ。
大個体が火場の方へ声を投げた。
「ひ」
火を見る雌が、火のついた枝を持ち上げる。
別のオークが乾いた枝を束ねる。
火が高くなる。
狼たちは火を嫌った。
だが、完全には退かない。
飢えている。
昨日の死者の臭いか。
腐れた巣から流れた血の臭いか。
あるいは、若い雄の傷か。
何かが、狼たちをここまで呼んだのだ。
*
大個体は、すぐに飛び出さなかった。
若い雄が一体、前に出ようとした。
「まて」
止まる。
狼が一匹、横へ回る。
その動きに合わせて、肩傷の雌が水場側へ移った。
水場側の雌も、腕を広げるようにして、水場の前へ立つ。
私はそこで、ようやく理解した。
狩りではない。
これは、まず水場を守る戦いだ。
肉を得ることより先に、水を汚させない。
狼が水場へ入れば、血も毛も糞も泥も混じる。
傷を受けた獣が倒れれば、そこが腐れる。
大個体の群れにとって、水場は巣の腹と同じなのだ。
私は震えながら書いた。
――狼の群れ、広場外れへ来る。
――大個体、追撃より先に水場を守る。
――肩傷の雌、水場側へ立つ。
――水場側の雌、同じく前へ出る。
――火を見る雌、火枝を持つ。
――若い雄、逸るも「まて」にて止まる。
――水を守ること、肉を得ることに先んずるか。
*
狼が飛び出した。
速かった。
灰色の影が低く走り、若い雄の足元へ食いつこうとする。
若い雄は棍棒を振り上げた。
だが、大個体の声が飛んだ。
「まて」
遅らせた。
ほんの一息。
その一息で、狼は深く入りすぎた。
大個体が横から踏み込む。
太い腕が振られた。
狼の身体が宙へ飛び、土へ叩きつけられる。
若い雄がそこで初めて動いた。
棍棒が落ちる。
狼は動かなくなった。
私は息を呑んだ。
力だけなら、若い雄でも足りたかもしれない。
だが、声がなければ水場に近づきすぎた。
火場へ飛び込ませたかもしれない。
傷を受けたかもしれない。
「まて」は、臆病の声ではない。
狩りの声だ。
そう分かった。
*
次の狼は、火を避けて幕屋側へ回った。
私は足が動かなかった。
小柄なオークが前へ出た。
「まて」
声は細い。
狼には届かない。
だが、小柄なオーク自身は止まっている。
逃げない。
飛び出さない。
大個体が、こちらを見た。
一瞬だけ。
その一瞬で、私は彼が何を見たのか分かった。
私。
幕屋。
小柄な者。
狼。
水場。
火場。
すべてを、同時に見ている。
彼は低く吠えた。
若い雄の一体が横から走り、狼の前を塞ぐ。
狼は進路を変える。
そこへ火を見る雌が火枝を振った。
狼は飛び退いた。
その隙に、大個体の腕が届く。
骨の折れる音がした。
私は目を閉じなかった。
閉じてはならないと思った。
これは、食い散らかすための暴れではない。
線を守るための殺しだ。
*
だが、狼はまだいた。
一匹が倒れた仲間の横をすり抜け、水場の方へ低く走った。
水場側の雌が前へ出た。
肩傷の雌ではない。
火を見る雌でもない。
灰色の毛を持つ、太い腕の雌。
彼女は逃げなかった。
狼が跳んだ。
雌の腕に牙がかかった。
裂けた。
血が飛び、雌の毛に赤く散った。
それでも、彼女は退かなかった。
太い腕で狼の首を押さえ、身体を横へずらす。
水場から、ほんの少しでも遠ざけるように。
若い雄がそこへ飛び込もうとした。
「まて」
大個体の声。
若い雄は止まりきれず、狼の後ろ足に肩からぶつかった。
狼の牙が若い雄の肩をかすめる。
また血が出た。
水場側の雌の腕。
若い雄の肩。
どちらも、赤かった。
どちらも、同じほどの傷に見えた。
大個体が踏み込む。
狼は、今度こそ土へ叩きつけられた。
*
戦いは長くなかった。
狼は二匹倒れた。
一匹は深く傷つき、森へ逃げた。
残りは距離を取り、やがて木々の奥へ消えた。
若い雄たちが追おうとした。
大個体が低く言う。
「まて」
追わない。
なぜか。
獲物を逃がすなど、狩りとしては不完全に見える。
だが、大個体は追わせなかった。
彼は倒れた狼を指し、次に水場を指す。
そして、傷を負った若い雄と、水場側の雌を指した。
私にも分かった。
これ以上追えば、森奥へ入る。
傷を増やす。
水場を空ける。
腐れた巣の方へ近づくかもしれない。
狩りは、肉を得ることだけではない。
群れを減らさないこと。
水を汚さないこと。
傷を増やさないこと。
戻る線を失わないこと。
私は荷帳へ刻んだ。
――狼二匹を得る。
――一匹逃げるも追わず。
――大個体、追撃を禁ず。
――若い雄、肩を裂かれる。
――水場側の雌、腕を裂かれる。
――傷の深さ、私には同じほどに見ゆ。
――肉よりも、水場・傷者・戻る線を重んずるものか。
――野の狩りにあらず。
――線を持つ狩りなり。
*
倒れた狼は、すぐには火場へ運ばれなかった。
まず、血の落ちた場所へ灰が撒かれた。
肩傷の雌が湯を持つ。
火を見る雌が火を大きくする。
小柄なオークが布を運ぶ。
若い雄は、傷を見せるのを嫌がった。
牙を鳴らし、肩を引く。
大個体が低く言う。
「まて」
若い雄は止まった。
水場側の雌は、腕から血を垂らしたまま、黙って座った。
火を見る雌が湯をかける。
肩傷の雌が灰を近くに置く。
私は二つの傷を見た。
若い雄の肩。
水場側の雌の腕。
狼の牙による裂け目。
血の量。
毛の割れ方。
私の目には、どちらも大きく違うものには見えなかった。
ただ、今はそれ以上書かないことにした。
傷は、後で見るべきものだ。
*
大個体は狼の脚を持とうとした若い雄を止めた。
「まて」
彼は狼の腹を指した。
次に、水場を指す。
それから、広場の外れを指す。
腹を裂く場所は、広場の外だった。
水場から遠く。
寝所から遠く。
火場の風下。
昨日の死者を置いた場所に似ている。
私は胸の奥が重くなった。
死者も獣も、同じように分ける。
違うものとして扱うのではない。
腐れを生むものは、まず分ける。
その考え方が、ここにはある。
*
狼の腹が裂かれた。
若い雄たちは、すぐに肉へ食いつこうとはしなかった。
いや、食いつきたそうにはしていた。
喉を鳴らし、牙を見せ、血の匂いに目を光らせている。
だが、動かない。
大個体がいるからだ。
彼は内側のものを枝で分けた。
使うもの。
捨てるもの。
焼くもの。
私は見ているだけで吐き気を覚えた。
だが、目を逸らさなかった。
野のオークの巣なら、ここで食い散らかすだろう。
血も糞も腹の中身も、寝床のそばに混ざるだろう。
ここでは違う。
肉は火へ。
汚れは穴へ。
臭いの強いものは焼く。
皮は枝に掛ける。
骨は別に置く。
私は、自分が食べる肉がどこから来るのか、初めてまともに見た気がした。
*
小柄なオークが、私へ木椀を持ってきた。
「みず」
私は受け取った。
手が震えていた。
小柄なオークは私の顔を見た。
「いたい?」
私は首を横に振った。
「痛くはない」
通じたかは分からない。
だが、彼は私の手元を見て、こぼれそうな水を少しだけ支えた。
その仕草に、私は胸がゆるみかけた。
そして、すぐに怖くなった。
この手は、いつか大きくなる。
この声は、いつか低くなる。
この者もまた、群れの熱を持つ雄になるかもしれない。
水を支える手が、私を押さえる手になる日が来ないと、誰が言えるのか。
私は椀を持つ手に力を込めた。
小柄なオークは、何も知らない顔で首を傾げた。
*
狼の肉は、すぐに分けられた。
若い雄だけに与えられるのではない。
傷を負った者。
火を見る者。
水を運ぶ者。
見張りに立つ者。
そして、私の木椀にも、小さく焼いた肉が一切れ入れられた。
私はそれを見つめた。
狼の肉。
さきほどまで、私の幕屋へ近づいていた獣。
それが、今は火を通され、分けられ、私の椀にある。
私は食べるべきか迷った。
大個体が少し離れたところから見ていた。
食べろ、とは言わない。
強いない。
けれど、彼は肉を見て、私を見た。
私は木の箸で肉を持ち上げた。
固い。
臭い。
だが、火は通っている。
私は少しだけ食べた。
脂の強い味がした。
吐き気はなかった。
むしろ、身体の奥が温まった。
私はそのことにも、妙に傷ついた。
この森で得た肉を、私は食べている。
この群れの狩りで得たものを、私は受け取っている。
もう私は、外から見ているだけではない。
*
荷帳を開いた。
――狼肉、火を通し分配。
――傷者、水運び、火を見る者、見張り、私にも分けらる。
――力ある雄のみ食らうにあらず。
――務めに応じて分けるものか。
――私はこれを食す。
――外より観るのみならず、群れの狩りを身に入れたり。
――王国へ出すべきか、定め難し。
最後の一行を書いて、私は止まった。
王国へ出すべきか。
以前なら、迷わなかった。
食料の分配。
狩りの後の処理。
水場を守ること。
務めによる分け方。
これは、観測記録として価値がある。
だが、今の私は知っている。
この記録を王国が読めば、何を見るか。
大型猿の群れが、狩り、焼き、分ける。
それだけでも異様だ。
さらに、その肉を王国の女が受け取って食べたと知れば。
私は、どちら側の者として読まれるのか。
観測者か。
捕らわれた者か。
群れの一員か。
獣の巣に馴染んだ女か。
私はその先を書けなかった。
*
夕暮れ前、私は二つの傷をもう一度見た。
若い雄の肩。
水場側の雌の腕。
どちらも布で巻かれていた。
どちらも湯で洗われ、灰を近くに置かれていた。
若い雄は不機嫌そうに肩を鳴らし、立ち上がろうとして大個体に止められた。
「まて」
水場側の雌は、黙って座っていた。
腕を庇いながらも、水場の方を見ている。
なお務めに戻ろうとしているのだ。
大個体は、彼女にも同じように言った。
「まて」
雌は低く喉を鳴らした。
従ったのか。
不満なのか。
私には分からない。
私は記した。
――若い雄、肩傷。
――水場側の雌、腕傷。
――ともに狼の牙によるもの。
――ともに湯と布。
――本日、違い見えず。
――後日、見るべし。
*
その後、広場には狼の皮が枝に掛けられた。
まだ湿っている。
血と脂の匂いが残っていた。
若い雄の一体が、それを肩に掛けようとした。
大個体が止める。
「まて」
若い雄は不満げに牙を鳴らした。
大個体は皮を指し、火場を指し、枝を指す。
すぐ使うな。
火に近づけすぎるな。
吊るしておけ。
そういうことなのだろう。
だが、若い雄にはまだ届いていない。
また手を伸ばす。
「まて」
大個体の声が、少し疲れていた。
私はその声を聞いて、奇妙なものを見た気がした。
狼を一撃で叩き伏せる大きな個体が、湿った皮をめぐって若い雄に手を焼いている。
力で従わせるだけなら簡単だろう。
だが、彼は叩き潰さない。
奪って終わりにしない。
止める。
見せる。
やり直させる。
その繰り返しが、この群れを少しずつ変えている。
*
夜、広場には血の臭いがまだ少し残っていた。
だが、腐れた巣の臭いではない。
灰の臭い。
火の臭い。
焼かれた肉の臭い。
濡れた皮の臭い。
狼の皮は枝に掛けられたままだ。
骨は別に置かれた。
腱のようなものも、まとめられていた。
大個体はそれを見て、何か考えているようだった。
食うだけではない。
この群れは、獣の死骸を食うだけで終わらせないのかもしれない。
肉。
皮。
骨。
腱。
脂。
それらを分けて、別の用に立てようとしている。
まだ、うまくはいっていない。
若い雄たちは待てない。
小柄な者は真似るだけ。
火を見る雌も、火加減を誤る。
けれど、大個体はやめない。
私は荷帳に最後の行を書いた。
――狼、肉のみにあらず。
――皮、骨、腱、別に置く。
――大個体、これらを用に立てんとするものか。
――群れ、まだ待てず。
――作法、なお遠し。
――されど、食い散らかすのみにはあらず。
――若い雄の肩、水場側の雌の腕、後日また見るべし。
――明日、見るべし。
外で、小柄なオークが低く鳴いた。
「みず」
少し離れて、火を見る雌が応じる。
「ひ」
そして、大個体の声が落ちた。
「まて」
水。
火。
待て。
それだけで、私はここが腐れた巣ではないことを知る。
そのことに胸がゆるむ。
胸がゆるむ自分を、私は恐れる。
私は荷帳を閉じた。
ここは王国ではない。
野の巣でもない。
その間にある何かが、少しずつ形を持ち始めている。
私はそれを見ている。
見て、記している。
そして、その形の内側で、私は食べ、水を飲み、夜を越している。




