第十三話 名を失うもの
朝の火場には、声が少なかった。
小柄なオークが水桶を置いても、いつものように高く鳴かなかった。
「みず」
ただ、それだけだった。
肩傷の雌は、灰を布に包んでいる。
火を見る雌は、乾いた枝を選んでいる。
若い雄たちは、森の方を見たまま動かない。
昨日、腐れた巣で息絶えた女。
その死は、広場に戻っても消えなかった。
水を煮ても。
布を焼いても。
灰を撒いても。
森の奥から持ち帰ったものは、まだこの群れの上に薄くかかっていた。
*
大個体は、女の遺骸を巣に残さなかった。
けれど、広場へも入れなかった。
水場より遠く、寝所より遠く、火場の風下に、浅い窪みを掘らせた。
若い雄が近づこうとすると、低く言う。
「まて」
その声だけで、雄たちは止まる。
止まる。
止まるのだ。
昨日見た巣には、その一語がなかった。
水も火も、寝床も汚れも分けない。
欲も飢えも、痛みも死も分けない。
そこでは、止める声がなかった。
私はその違いを、もう知っている。
知ってしまった。
*
私は荷帳を持って、少し離れたところに座った。
女には近づけない。
大個体が許さなかった。
触れれば腐れを受ける。
それは分かる。
だが、離れて見るだけでは、彼女が二度目に失われる気がした。
名を失う。
それは、息が止まることと同じくらい恐ろしい。
彼女は、どこの者だったのか。
王国か。
別の文化圏か。
隊商の者か。
誰かの妻か。
誰かの娘か。
誰かの母か。
分からない。
昨日拾った髪紐も、折れた髪飾りも、何も語らない。
ただ、女のものだったということだけを伝えている。
私は荷帳に刻んだ。
――名不詳の女。
――森奥の野群の巣にて息絶ゆ。
――髪紐一つ。髪飾り一つ。
――身元定め難し。
――されど、人なり。
――王国の帳に戻せずとも、ここに記す。
そこまで刻んで、鉄筆を止めた。
名不詳。
その言葉が冷たすぎた。
けれど、ほかに書きようがなかった。
*
肩傷の雌が、湯で濡らした布を持ってきた。
彼女は女の髪紐をもう一度拭い、石の上に置いた。
大個体が私を見た。
来い、ではない。
見るだけだ。
私は杖をついて、少し近づいた。
髪紐は赤茶色だった。
王国の都でよく見る染めではない。
辺境の村で使う粗い紐とも違う。
細い糸が三つ撚られている。
一つは赤。
一つは黒。
一つは薄い黄。
私は見覚えを探した。
交易路で見たことがあるような気もする。
南の市で見た荷札の紐に似ている気もする。
だが、確かではない。
十五文化圏のすべてを、私は読めるわけではない。
まして、髪紐一つで人の来歴を断じることなどできない。
私は悔しかった。
学術院で習った言葉も、度量衡も、印も、ここでは足りなかった。
女は、名を持っていたはずだ。
しかし、私にはそれを取り戻せない。
*
火を見る雌が、薪を組んだ。
埋めるのかと思っていた。
だが、大個体は火を選んだ。
私は一歩、前へ出かけた。
「焼くのですか」
問いは、誰にも通じなかったかもしれない。
だが、大個体は私の顔を見た。
次に、巣の方を指す。
「くされ」
それから、火を指す。
「ひ」
最後に、女を指す。
私は唇を噛んだ。
分かる。
分かってしまう。
腐れを土に残さないため。
獣に荒らさせないため。
若い雄に近づけさせないため。
彼女を、もう一度巣のものにしないため。
火。
それは野の巣の火ではない。
分けるための火だ。
私は頷いた。
大個体は、何も言わなかった。
*
火がついた。
煙が上がる。
私は目を逸らさなかった。
逸らしてはならないと思った。
彼女は、最後に帰れなかった。
ならば、せめて誰かが見届けなければならない。
王国の女として。
学術院の研究官補として。
城壁の外で、すでに死んだことにされているかもしれない者として。
私は見届ける。
火を見る雌は、薪を足す。
肩傷の雌は、灰の包みを持つ。
若い雄たちは離れている。
大個体は、火と若い雄たちの間に立っていた。
そこに立つ意味が、私には分かった。
彼は、死者を守っている。
野のオークの巣からではない。
自分の群れの本能からだ。
同じオークでありながら、同じではない。
その言葉がまた胸に浮かんだ。
*
火の間、私は荷帳に記した。
――女、火に送る。
――腐れを土へ残さぬためか。
――獣に荒らさせぬためか。
――若い雄を近づけず。
――大個体、火と群れの間に立つ。
――死者を巣へ戻さぬ作法と見ゆ。
書いているうちに、涙が落ちた。
また、荷帳に滲みができた。
私はそれを拭わなかった。
滲みも、記録に入る。
王国の帳なら許されない。
だが、これは王国へ出せない帳だ。
ならば、私の涙も、この森で起きたことの一つだ。
*
火が落ちた後、残った骨は小さかった。
大個体は、枝を使ってそれを集めた。
肩傷の雌が灰を撒く。
火を見る雌が石を運ぶ。
若い雄たちは穴を掘る。
浅い窪みに、骨と灰が納められた。
髪紐は、焼かなかった。
大個体が私を見た。
私は首を横に振った。
「一緒に」
私は髪紐を指し、灰の窪みを指した。
通じたかは分からない。
けれど、大個体は少し考えたように見えた。
それから、肩傷の雌へ頷く。
肩傷の雌は、髪紐を湯で濡らした布ごと、小さく畳んだ。
それを骨と灰のそばに置く。
私は息を吐いた。
名にはならない。
それでも、彼女が人であった印だ。
*
石が積まれた。
大きなものではない。
森の中の獣なら崩すかもしれない。
雨が降れば、土に沈むかもしれない。
それでも、そこに石がある。
ここに誰かがいた。
そう示すための石。
私はその前に膝をついた。
祈りの言葉を口にしようとして、止まった。
彼女の信じた神が、私と同じとは限らない。
王国の神を呼んでよいのか。
別の文化圏の女なら、それは間違いになるのではないか。
私は言葉を失った。
結局、私はただ言った。
「あなたを見ました」
声は小さかった。
「あなたを、ここに記します」
それだけしか言えなかった。
*
大個体が、私の後ろに立っていた。
近すぎない。
遠すぎない。
昨日からずっと、彼はその距離にいる。
私は振り返らなかった。
振り返れば、何かを言ってしまいそうだった。
ありがとう。
怖い。
あなたも同じオークだ。
それでも、あなたがいなければ私はここにいない。
どの言葉も、王国へは出せない。
私は石の前で荷帳を開いた。
――名知らぬ女、火に送る。
――髪紐、灰と共に納む。
――石を積む。
――神名唱えず。文化圏定め難きため。
――ただ「見たり」と告ぐ。
――名を知らずとも、見た者あり。
――ここに記す。
鉄筆を置いた時、指が痛かった。
*
帰り道、小柄なオークが幕屋の前で待っていた。
私を見ると、木椀を差し出す。
「みず」
私は椀を受け取った。
彼の手は大きくない。
若い雄ほど荒くもない。
だが、やはりオークの手だ。
太い指。
硬い爪。
人とは違う皮膚。
昨日までは、彼を小柄な者として見分けていた。
水を運ぶ者。
私の前で「まて」と鳴く者。
今日、その手を見た時、私は怖くなった。
この者も成長すれば、若い雄になるのか。
群れの熱に飲まれれば、私を見る目も変わるのか。
私は椀を受け取る手を、少し震わせた。
小柄なオークは首を傾げた。
「いたい?」
私は息を止めた。
痛い。
その言葉を、この者は覚えている。
心配しているのか。
ただ、私の顔を見て真似ただけか。
分からない。
分からないことが、今は怖かった。
「……痛くは、ない」
私はそう言った。
通じるはずもない。
だが、小柄なオークはしばらく私を見て、それから静かに下がった。
私は椀を持ったまま、立ち尽くした。
*
夜が来る前、大個体は巣の方角へ見張りを増やした。
若い雄を二体。
火を見る雌。
肩傷の雌。
そして、私の幕屋の近くには、誰も置かなかった。
代わりに、彼自身が少し離れた場所に座った。
風は火場から森へ流れている。
幕屋の匂いが、彼の方へ届くかもしれない。
そう思った瞬間、私は顔を伏せた。
考えてはならない。
これは王国へ出す帳に書いてはならない。
まして、声に出してよいことではない。
私は息を整えた。
それでも、彼が近くにいることに、わずかに胸がゆるんでいる自分がいた。
森奥の野群が怖い。
若い雄が怖い。
小柄なオークが成長することすら怖い。
それなのに、大個体が近くにいることには胸がゆるむ。
彼もまたオークであるのに。
私はその矛盾を抱えたまま、荷帳を開いた。
*
――私はオークを見分け始めたり。
――小柄な者、肩傷の雌、火を見る雌。
――されど、見分けること、安全を意味せず。
――彼らはみなオークなり。
――人間の女は、オークの雌にあらず。
――同じ扱いを受ければ壊れる。
――森奥の女、そのまことを示す。
――されど、大個体近くにある時、私は胸がゆるむ。
――大個体もまたオークなり。
――この安堵、常ならず。
――王国へ出すべからず。
私はそこで手を止めた。
王国へ出すべからず。
その一文が、近頃あまりにも増えている。
王国へ出せないものばかりが増えていく。
王国へ出せる私は、だんだん小さくなっている。
出せない私の方が、森の中で大きくなっていく。
私は荷帳を閉じた。
*
夜、森の外れで声がした。
雌雄の声ではない。
見張りの低い唸り。
何かが動いたのだ。
大個体が立ち上がる。
若い雄たちも立つ。
私は幕屋の中で身を固くした。
また、野のオークか。
それとも、ゴブリンか。
大個体は私の幕屋の前を通った。
足音が止まる。
布の向こうで、低い声が落ちた。
「まて」
私は返事をしなかった。
ただ、荷帳を抱きしめた。
彼はすぐに森へ向かった。
足音が遠ざかる。
それを聞いた時、私は初めて、自分が本当に一人になったように感じた。
火場には火がある。
水場には水がある。
周りにはオークがいる。
それでも、大個体の足音が遠ざかるだけで、幕屋は急に薄くなる。
この幕屋を守っていたのは、布ではない。
あの声だった。
あの足音だった。
私はそれを認めたくなかった。
けれど、認めないことはできなかった。
*
森の奥で、短い吠え声がした。
次に、若い雄の唸り。
そして、大個体の声。
「まて」
その一語が、夜を割った。
私は布の中で目を閉じた。
あの声がある。
まだ、ある。
そのことに救われた。
同時に、私は思った。
もし、あの声がいつか消えたら。
もし、大個体が自らを制することをやめたら。
もし、私を守る線が、私を囲う線に変わったら。
私はどこへも逃げられない。
王国へも。
学術院へも。
女の石の前へも。
どこへも。
私は荷帳を抱きしめたまま、夜の森を聞いていた。
やがて、足音が戻ってくる。
重い足音。
大個体の足音。
その音を聞いた時、私は息を吐いた。
胸がゆるんだ。
恐怖した。
そして、自分がその二つを同時に抱いていることを、また荷帳へ書かねばならないと思った。




