第十二話 腐れた巣
朝になる前から、森は静かだった。
鳥の声がない。
小さな獣の走る音もない。
風だけが、葉の裏を擦っていた。
火場では、いつもより早く湯が沸かされていた。
肩傷の雌が、布を分けている。
火を見る雌が、乾いた枝と湿った枝を分けている。
小柄なオークが、水桶を二つ並べている。
「みず」
彼はそう言った。
だが、いつものような軽い声ではなかった。
大きなオークは、広場の端に立っていた。
森の奥を見ている。
幕屋と森の間に立つ、その背は動かない。
私は杖を握った。
今日は、見ることになる。
昨日の布片。
折れた髪飾り。
細い息。
腐れの筋。
その先にあるものを。
*
大きなオークは、最初、私を連れて行くつもりがなかった。
彼は地面に線を引いた。
幕屋。
火場。
水場。
森。
そして、私の前に枝を横たえる。
「まて」
私は首を横に振った。
「見る」
彼は低く唸った。
私は荷帳を胸に抱いた。
「人の女がいるなら、私は見る」
私の言葉がすべて通じたとは思わない。
けれど、「人」と「女」は、昨日から何度も繰り返した。
私が布片を指し、髪飾りを指し、自分の胸を指して刻んだ音だった。
大きなオークの目が、私を見下ろした。
そこに怒りはなかった。
ただ、重い。
森の奥にあるものを、私に見せたくない。
そういう重さだった。
彼はしばらく動かなかった。
やがて、地面の枝を拾い、私の前からどかした。
代わりに、自分の胸を叩く。
次に、私を指す。
そして、短く言った。
「まて」
行ってよい、ではない。
彼のそばを離れるな。
そういう意味だと分かった。
私は頷いた。
*
森の中は、昨日より湿っていた。
雨は降っていない。
それなのに、土が重い。
腐れた葉が靴の下で潰れる。
細い枝が服の裾を引く。
どこかで虫が集まる音がしていた。
大きなオークが先頭を歩く。
若い雄が二体、左右へ散った。
肩傷の雌は、湯を入れた革袋を持っている。
火を見る雌は、灰を包んだ布を持っている。
小柄なオークは来なかった。
幕屋に残されたのだろう。
私は少し安堵した。
同時に、その安堵が怖かった。
私はもう、あの小柄なオークを「残ってよかった」と思っている。
森の奥に連れて行かれなくてよかったと。
獣の群れの一体に、そう思っている。
荷帳を握る手が汗ばんだ。
*
最初に見つけたのは、足跡だった。
大きい。
大きなオークのものと似ている。
だが、踏み方が違った。
彼の足跡は、重いが迷いがない。
水場へも、火場へも、傷病者の囲いへも、同じ間を持っている。
ここにある足跡は違う。
土を抉り、滑り、あちこちへ乱れている。
何かを引きずった跡が、その間にあった。
私は息を止めた。
人の足跡もあった。
小さい。
浅い。
何度も滑り、消えかけている。
裸足か、薄い履物か。
その足跡は、途中からなくなっていた。
代わりに、引きずられた跡だけが続いている。
私は杖に体重を預けた。
大きなオークが振り向く。
「まて」
私は立ち止まった。
彼は若い雄へ低く吠えた。
若い雄たちは、走り出しそうな熱を抑えられずにいる。
森の奥の匂いに、毛が逆立っている。
大きなオークは、もう一度言った。
「まて」
それだけで、二体は止まった。
止まったが、喉の奥で唸っている。
私はその唸りを聞き、身が冷えた。
この若い雄たちは、私を守っているのか。
それとも、ただ大きなオークの声で止まっているだけなのか。
その差は、あまりにも大きい。
*
巣は、谷の浅い窪みにあった。
初め、私はそれを巣だと認めたくなかった。
ただの泥の集まり。
折れた枝。
腐った葉。
骨。
食い残し。
濁った水溜まり。
そう思いたかった。
だが、寝床のように草が押し固められた場所がある。
そのすぐ横に、汚物がある。
さらにその横に、骨と皮がある。
水溜まりには、何かの脂が浮いている。
水。
糞。
血。
寝床。
食い残し。
すべてが一つだった。
分けられていない。
その事実だけで、私は吐き気を覚えた。
ここには、線がない。
水場と寝所の線がない。
火場と汚れの線がない。
傷病者を分ける線がない。
生きるものと腐るものを分ける線がない。
私は大個体の群れで見てきたものを思い出した。
水を煮る。
汚れた布を焼く。
傷ある者を囲う。
寝床を乾かす。
若い雄を幕屋から遠ざける。
それらは、奇妙な務めではなかった。
生きるための線だったのだ。
*
大きなオークが低く吠えた。
「くされ」
若い雄たちは鼻に皺を寄せる。
肩傷の雌が湯袋を下ろした。
火を見る雌が灰の布を広げる。
私は巣の奥を見た。
そこに、女がいた。
成人の女だった。
年は、私より上かもしれない。
下かもしれない。
顔は泥と血と汗で分からない。
髪は乱れ、昨日の髪飾りと同じ色の紐が、片側だけに残っていた。
衣は裂け、身体は汚れにまみれている。
腕には爪の跡があり、足には縄のような痕がある。
唇は乾き、目は半ば開いていた。
生きている。
かろうじて。
だが、そこにいるのは、すでに人の形から遠ざけられたものだった。
私は声を出せなかった。
大きなオークが若い雄たちを制した。
「まて」
その声は、今までで一番低かった。
若い雄たちは近づかない。
肩傷の雌も、火を見る雌も、一瞬止まった。
大きなオークは自分だけが前へ出た。
けれど、女へ触れる前に、枝を使って周囲の汚れをどかした。
次に、湯袋を肩傷の雌へ示す。
灰を示す。
布を示す。
いつもの手順。
だが、この巣では、手順があまりにも遅すぎた。
*
女の目が動いた。
私を見たのか。
空を見たのか。
分からない。
けれど、唇がわずかに動いた。
声は出ない。
私は杖をつきながら近づこうとした。
大きなオークが振り向いた。
「まて」
「人です」
私は言った。
「王国の、人です」
彼は私を止めたまま、女のそばへ膝をついた。
膝をつく、というより、巨体を低くした。
彼は女に直接触れなかった。
まず、湯で濡らした布を枝に巻き、顔の泥を拭う。
次に、汚れた布を外し、火を見る雌に渡す。
火を見る雌はそれを受け取ると、すぐに別の枝で火の方へ運んだ。
若い雄の一体が、喉を鳴らした。
大きなオークの頭が動く。
「まて」
若い雄は縮むように止まった。
私は、その一声に救われた。
同時に、その一声がなければ何が起きるのかを想像してしまった。
ここは大個体の群れではない。
ここは、野のオークの巣だ。
その巣に、人の女がいた。
*
女の胸は、浅く上下していた。
熱がある。
触れなくても分かる。
肌の赤み。
唇の乾き。
目の焦点の合わなさ。
施療院なら、どうしただろう。
湯を含ませる。
身体を拭く。
傷を覆う。
祈る。
家族を呼ぶ。
だが、ここには家族はいない。
施療院もない。
神官もいない。
あるのは、湯と灰と布と、オークの大きな手だけだ。
大きなオークは、木椀に湯を注いだ。
女の唇へ近づける。
女は飲めなかった。
湯が唇からこぼれる。
大きなオークは動きを止めた。
その横顔を見て、私は分かってしまった。
助からない。
彼も、それを分かっている。
肩傷の雌が低く鳴いた。
「いたい」
それは女へ向けた言葉か。
それとも、傷を見た彼女自身の声か。
私は分からなかった。
ただ、その「いたい」という音が、あまりにも人の言葉に近くて、胸が裂けるようだった。
*
私は荷帳を取り出した。
書かなければならない。
今、書かなければ、私は見たものに飲まれる。
――野のオークの巣を発見。
――水、糞、血、寝床、食い残し、一所にあり。
――分ける作法なし。
――成人の女一名、生存。
――髪紐、昨日の髪飾りと同じ色。
――傷多く、熱あり。
――声出ず。
――大個体、若い雄を近づけず。
――湯、灰、布を用いる。
――されど、救命かなわぬものか。
最後の一行を刻む時、鉄筆が滑った。
救命かなわぬ。
その言葉を、私は書いてしまった。
まだ生きているのに。
だが、もう分かる。
ここに来るのが遅すぎたのではない。
ここへ連れ込まれた時点で、彼女はほとんど失われていたのだ。
*
女が、かすかに息を吸った。
目が、今度は私を見た。
そう思った。
私は近づいた。
大きなオークは止めなかった。
彼は少しだけ身体をずらし、私が女の顔を見られるようにした。
私は膝をついた。
土が冷たい。
汚れの臭いが鼻を刺す。
女の瞳は濁っていた。
けれど、その奥に、ほんの一瞬、何かが戻った。
人。
私はそう思った。
彼女は、まだ人だった。
どれほど汚されても。
どれほど巣の奥に置かれても。
どれほど王国から遠ざけられても。
まだ、人だった。
私は声を出した。
「聞こえますか」
返事はない。
「私は、王立学術院の……」
そこまで言って、言葉が詰まった。
そんな肩書きが、何になる。
ここで、私の印章は何の力も持たない。
王国の名も、学術院の名も、彼女を巣から出すことはできない。
女の唇が震えた。
私は耳を近づけた。
音は、ほとんど息だった。
「……かえ……」
帰る。
そう言おうとしたのか。
返して。
そう言おうとしたのか。
分からない。
私は女の手を取ろうとした。
大きなオークが低く鳴った。
「くされ」
私は止まった。
触れてはならない。
触れれば、彼女の汚れを私が受けるかもしれない。
それでも、触れたかった。
けれど、彼女の指はもう動いていなかった。
*
女は、しばらくして息をしなくなった。
大きな音はなかった。
叫びもなかった。
ただ、浅い胸の動きが止まった。
森は静かだった。
若い雄たちも唸らなかった。
肩傷の雌も、火を見る雌も、動かなかった。
大きなオークは、女のそばでしばらく低く座っていた。
彼は怒っているようにも見えた。
悔いているようにも見えた。
ただの獣の顔にも見えた。
分からない。
私は、分からないことが怖かった。
彼もまたオークだ。
この巣を作った野の雄たちと、同じ牙を持ち、同じ腕を持つ。
私を運んだ腕。
私の幕屋の前で止まる腕。
水場で岩を掴んだ腕。
それらは、彼女を壊したかもしれない腕と、同じオークの身から出たものだ。
私は身体が冷えていくのを感じた。
*
大きなオークは、女をその場に置かなかった。
若い雄たちへ指図する。
「まて」
まず、それ。
次に、灰。
湯。
布。
火。
彼は、女の身体へ直接若い雄を触れさせなかった。
肩傷の雌と火を見る雌を呼ぶ。
二体は、湯で濡らした布を使い、女の身体から巣の泥をできるだけ落とした。
完全には清まらない。
そんなことは分かっていた。
けれど、汚れたまま放置はしない。
火を見る雌が、裂けた衣の残りを枝で運び、火へ投げた。
煙が上がる。
その煙は、腐れた巣の臭いよりも、まだましだった。
私は荷帳に刻んだ。
――女、息絶ゆ。
――大個体、若い雄を触れさせず。
――肩傷の雌、火を見る雌に湯布を持たせる。
――汚れた衣、火へ。
――死してなお、巣に置かず。
――この作法、森奥の野群にあらず。
書きながら、涙が落ちそうになった。
この作法に救いを感じてしまう自分がいる。
死んだ後に清められることを、救いだと思ってしまう自分がいる。
それほどまでに、この巣はひどかった。
*
巣の奥には、他にも痕があった。
骨。
布の切れ端。
折れた櫛。
商人の荷札。
誰かの小さな袋。
名はない。
誰のものか分からない。
野のオークに攫われるとは、そういうことなのだ。
名が消える。
家が消える。
職が消える。
王国の帳から消える。
最後には、布片と骨と汚れだけが残る。
私は、自分の名を思った。
アリア。
水場で呼ばれた名。
幕屋の前で呼ばれた名。
もし、私を拾ったのが大きなオークではなかったなら。
もし、森の奥の野群だったなら。
私の名は、誰の口にも残らなかっただろう。
荷帳も、印章も、私の言葉も、すべて泥の中に沈んだだろう。
私は、あの女だったかもしれない。
*
肩傷の雌が、女の髪紐を拾った。
泥を落とし、私へ差し出そうとして、途中で止まる。
大きなオークが「まて」と言ったからだ。
肩傷の雌は、髪紐を湯で濡らした布の上に置いた。
私はそれを見つめた。
受け取ってはいけない。
触れてはいけない。
けれど、見なければならない。
私は荷帳に記した。
――髪紐一つ。
――色、昨日の髪飾りと同じ。
――身元知れず。
――王国へ戻す術なし。
――されど、ここに記す。
名前の代わりにはならない。
けれど、何も書かないよりはましだと信じたかった。
*
帰り道、誰も声を出さなかった。
若い雄たちは、いつもより大人しい。
肩傷の雌は、湯袋を空にしていた。
火を見る雌は、灰の包みを抱えている。
大きなオークは、私の少し前を歩いた。
近すぎず、遠すぎず。
彼の背を見ながら、私は考えていた。
彼もオークだ。
何度もそう思った。
この巣の野の雄たちと同じオークの身。
同じ力。
同じ欲。
同じ繁殖の熱。
彼が自らを制することをやめれば、私はどうなる。
幕屋の線が消えたら。
「待て」の声が消えたら。
若い雄を遠ざける意思が消えたら。
私は、あの女になる。
それは想像ではない。
今日、見たまことだ。
私は荷帳を抱きしめた。
だが、同時に、別のことも分かってしまった。
彼は、あの巣を見て怒っていた。
少なくとも、放ってはおかなかった。
女を巣の汚れの中に置き去りにしなかった。
若い雄を近づけなかった。
湯を使い、灰を使い、火を使った。
同じオークでありながら、同じではない。
その事実が、私を救うのか、さらに深いところへ落とすのか、分からなかった。
*
広場へ戻ると、小柄なオークが駆け寄りかけた。
だが、大きなオークが手を上げる。
「まて」
小柄なオークは止まった。
大きなオークは、私の方を見ずに水場を指す。
次に、火場を指す。
肩傷の雌へ指図する。
火を見る雌へ汚れた包みを渡す。
戻ってきた者たちは、すぐに清めへ回された。
私は幕屋へ戻される。
小柄なオークが、入口に木椀を置いた。
「みず」
私は椀を見た。
水。
今は、その一語があまりにも重かった。
水を分けること。
汚れを分けること。
火で焼くこと。
若い雄を止めること。
それらがなければ、ここもまた腐れた巣になる。
私はようやく椀を取った。
手が震えていた。
*
夕暮れ、私は荷帳を開いた。
書かなければならない。
書かなければ、あの女の最後の息が、森の泥に沈む。
書けば救えるわけではない。
それでも、書くしかなかった。
――森奥の野群、巣を分けず。
――水、糞、血、寝床、食い残し、一所にあり。
――成人の女一名、生存せるも、救命かなわず。
――身に傷多く、熱あり。言葉戻らず。
――最後に「かえ」と聞こゆ。帰る、または返せ、の意か。定め難し。
――女、息絶ゆ。
――オークに攫われるとは、王国の怪談にあらず。まことなり。
――私もまた、大個体が自らを制せずば、かの女と同じ場所に置かれしものか。
――肩傷の雌らが損なわれぬは、オークの雌なるゆえか。
――人間の女、同じ扱いを受ければ耐え得ず。
――大個体、同じオークなり。されど、若い雄を遠ざけ、湯、灰、火を用いる。
――同じにして、同じにあらず。
――王国へ出すべからず。
そこで手を止めた。
涙が一つ、荷帳に落ちた。
私はそれを拭わなかった。
滲んだ文字も、記録の一部だと思った。
*
夜、森の外れから雌雄の声が聞こえた。
いつもなら、私は身を固くする。
今日も固くなった。
だが、意味が違っていた。
肩傷の雌たちは、壊れていない。
それは、彼女たちが平気だからではない。
オークの雌だからだ。
同じオークの雄を受け入れる身だからだ。
人間の女は違う。
あの女が、答えだった。
私は布の内側で震えた。
大きなオークの足音が、幕屋の前で止まる。
私は息を止めた。
彼は何も言わなかった。
私の名も呼ばなかった。
ただ、そこにいた。
まるで、森の奥と私の間に立つ線のように。
やがて、低い声がした。
「まて」
それは、誰へ向けた言葉だったのか。
私か。
若い雄か。
それとも、彼自身か。
今の私には、分からなかった。
ただ、その一語を聞いた時、私は荷帳を抱きしめた。
恐ろしくてたまらない。
それなのに、その声が消えることの方が、もっと恐ろしかった。
私はその夜、初めて理解した。
私を守っているのは、壁ではない。
王国でもない。
学術院でもない。
教会でもない。
ただ一体のオークが、自らへ向けて吐く「待て」なのだ。
その事実は、救いではなかった。
絶望に近い救いだった。
この話に対応する秘匿別紙があります。
『第十六個体観測録 秘匿別紙』
秘匿別紙三 あれが私であったなら
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※秘匿別紙はR18作品です。18歳未満の方は閲覧できません。




