第二十六話 触れぬ傷
その日、私は水を運ばなかった。
いつもなら、小屋の脇に置く小さな木椀へ、水を少し移す。
筆を洗うため。
指先の土を落とすため。
火場から戻ったあと、喉を湿らせるため。
だが、その朝は、水の椀を小屋の外に置いたままにした。
中へ入れられなかった。
水は清めである。
水は腐れを遠ざける。
水は傷の熱を冷ます。
それなのに、今の私には、水が別のものも連れてくる。
水場の石。
水面。
映った影。
昨夜の音。
そして、彼が水に触れた時、わずかに止めた息。
ゴードンは痛んでいる。
それを、私は知っている。
王国へ出す帳には、書けない。
大個体、腰に巻いた革帯の前をかばう。
歩みにわずかな遅れあり。
水場の清めにて痛みを示す。
そう書くことなら、あるいはできる。
だが、何によってそうなったかは書けない。
なぜ私がそれを知っているかも書けない。
私は公務調査帳を開いたまま、筆を持っていた。
書けることだけを書く。
それが、今の私に残された王国の形である。
――大個体、朝より動き重し。
――若い雄の制し、火場の分け、荷の扱いは継続。
――痛みあるものと思われる。
――されど、痛みを理由に務めを投げず。
務め。
その語を書いて、私は筆を止めた。
群れの者たちは、まだその語を持たない。
けれど、行いはある。
水を運ぶ者。
火を見る者。
濡れた布を近づけすぎぬ者。
木の実を残す者。
若い雄を遠ざける者。
傷者の側で唸る者。
帳置き場の前を踏まぬ者。
名はなくとも、行いは分かれている。
ゴードンは、それを一つずつ戻す。
痛みを抱えたまま。
外で、低い声がした。
「踏むな」
少し遅れて、別の声が荒く返る。
不満を含んだ若い雄の声である。
「だめ」
ゴードンの声は短かった。
それだけで、外の足音が止まる。
私は、筆を置いた。
小屋の入口から外を覗く。
帳置き場の前に、若い雄が立っていた。
足元には乾かしかけの草束がある。
踏めば潰れる。
踏めば乾きが遅れる。
踏めば、昨日までの手間が消える。
ゴードンは草束を指し、地面を指し、若い雄の足を押し戻した。
「踏むな」
若い雄は唸る。
ゴードンは、もう一度言った。
「踏むな。だめ」
若い雄は、足を引いた。
その動きは粗い。
足を引きながら、別の草束を蹴りかける。
ゴードンの肩がわずかに落ちた。
その身が、痛みを逃がすように少し横へずれる。
私は見てしまった。
かばっている。
彼は、腰に巻いた革帯の前を直接押さえはしない。
群れの前ではそうしない。
けれど、重心が少しだけ逃げる。
かさぶたが引きつるのだろう。
水で清めた傷が乾き、薄く固まり始めた場所。
動けば突っ張り、擦れれば裂ける場所。
私は喉の奥が詰まった。
近づきたい。
確かめたい。
水を出したい。
布を渡したい。
だが、触れてはならない。
見てもならない。
私がそう決めた。
私が彼へ置いた「まだ」である。
ならば、守らねばならない。
若い雄が退いたあと、小柄なオークが草束を拾おうとした。
乱暴に掴む。
根まで一緒に引く。
乾かしている葉と、残すべき根の区別がない。
ゴードンが言った。
「残す」
小柄なオークは首を傾けた。
ゴードンは、草の先を指す。
次に根を指す。
先を少し取る仕草をし、根を地へ押さえる。
「すこし。残す」
小柄なオークは、真似をした。
今度は、根を残した。
うまくはない。
葉の半分はちぎれた。
それでも、全部は引き抜かなかった。
ゴードンは頷く。
「よい」
小柄なオークの顔が、分かりやすく明るくなった。
「よい」
小柄なオークが真似をする。
それを聞いた若い雄が、面白がるように同じ音を出した。
「よい」
すぐに、別の若い雄も言った。
「よい」
場違いな音である。
何がよいのか分からず、ただ音だけを拾っている。
ゴードンが若い雄たちを睨んだ。
「だめ」
若い雄たちは黙った。
私はその様子を見て、胸の奥に小さな痛みを覚えた。
音は広がる。
だが、広がるほど薄くなる。
昨夜、あれほど重かった「よい」が、小柄なオークの成功を褒める音になり、若い雄の遊び声にもなる。
それを悲しむのは、私の勝手である。
王国語は私のものではない。
音は、使われれば群れのものになる。
それでも、胸の奥はざらついた。
ゴードンだけが、あの「よい」の重さを知っている。
そう思いたかった。
また、蓋である。
私は小屋へ戻り、帳へ記した。
――「よい」の音、小柄な個体の行いに対して用いられる。
――若い雄、音のみ真似る。大個体、「だめ」にて制す。
――音の広がりあり。されど、何を指すかは個体により浅し。
個体。
この語は王国の帳では使える。
だが、私の胸の中では違う。
小柄なもの。
若い雄。
肩傷の雌。
火を見る雌。
水場側の雌。
私は、すでに区別している。
名はない。
だが、同じではない。
王国の者が見れば、すべてオークで済ませるだろう。
大型害獣。
駆除の数。
森の害。
しかし、ここにいる私は、それだけでは済ませられない。
そのこともまた、王国へ戻れぬ理由になりつつある。
外で、短い悲鳴が上がった。
私はすぐに顔を上げた。
火場の近くで、小柄なオークが指を押さえている。
熱い石に触れたらしい。
小さな火傷である。
小柄なオークは怒ったように唸り、石を蹴ろうとした。
ゴードンが近づく。
動きが、またわずかに遅い。
それでも、彼は小柄なオークの手を掴み、火から離した。
「火、近い。だめ」
小柄なオークは唸る。
ゴードンは、その指を見た。
次に水桶を指す。
「水」
小柄なオークは首を振った。
痛みに怒っている。
水へ入れることも嫌がっている。
ゴードンは声を低くした。
「痛い」
小柄なオークが、ゴードンを見た。
「痛い」
もう一度。
今度は、小柄なオークが自分の指を見た。
しばらくして、不格好に真似をした。
「……いたい」
その音を聞いた瞬間、私は筆を握った。
痛い。
この音が、また一つ、群れの中で用に立った。
痛みを示す音。
怒りではなく、壊すための唸りでもなく、痛みそのものを指す音。
小柄なオークは、水桶へ指を入れた。
顔をしかめる。
しかし、手を引かない。
ゴードンは言った。
「よい」
小柄なオークは、まだ不満そうだったが、石を蹴らなかった。
私はその場面を、帳へ書きつけた。
――小柄な個体、火傷にて「痛い」の音をまねる。
――水へ入れる。
――大個体、「よい」にて留める。
――「痛い」は、怒りと別に置かれ始めたるか。
怒りと痛みを分ける。
これは大きい。
野の群れなら、痛みは怒りへ流れる。
怒りは噛みつきへ流れる。
噛みつきは争いへ流れる。
けれど、ここでは痛いという音が置かれた。
痛い。
水。
よい。
それだけで、石を蹴ることは止まった。
私は、息を呑んだ。
水と火を分けるだけではない。
痛みと怒りを分ける。
第十六個体の群れは、そこへ踏み込み始めている。
だが、その中心にいるゴードン自身は、痛みを隠している。
私はそれを、どう記せばよいのか分からなかった。
外の騒ぎが収まると、ゴードンは水場の方へ歩いた。
私は、気づかぬふりをした。
気づかぬふりをしながら、見ていた。
彼は水桶の前に立つ。
周囲に若い雄がいないことを確かめる。
こちらを見ない。
それから、片手で水を汲んだ。
腰に巻いた革帯の前へ手が下りかける。
私は目を伏せた。
見ない。
そう決めた。
けれど、音は聞こえる。
水が落ちる音。
布が絞られる音。
低く、息を止めた音。
痛いのだ。
私は、立ち上がりかけた。
だが、足を止めた。
行ってはいけない。
彼は、自分で清めようとしている。
私に見せぬようにしている。
群れに見せぬようにしている。
ならば、私は待たねばならない。
待つことも、手当ての一つである。
そのように思おうとした。
だが、胸の奥は落ち着かなかった。
水場の方から、低い声がした。
「痛い」
ゴードンの声だった。
誰に向けたのでもない。
ただ、漏れた音だった。
私は小屋の柱を掴んだ。
初めて聞いた。
ゴードンが、自分のために「痛い」と言った。
小柄なオークへ教える音ではなく、私に問われて答える音でもなく、ただ己の痛みに置いた音。
痛い。
それを言えるなら、まだ壊れていない。
そう思った。
強い雄であることと、痛まぬことは同じではない。
群れを制することと、傷を持たぬことも同じではない。
彼は痛む。
それでも止まる。
それでも分ける。
それでも水を置く。
私は帳へ書いた。
――大個体、自らの痛みに「痛い」の音を置く。
――これは隠すべき事柄なり。
――されど、観測上、重し。
――強きものが痛みを名づける時、若きものもまた痛みを怒りより分け得る。
そこまで書いて、筆を止めた。
名づける。
この語は、危うい。
ゴードンはまだ、すべてを名づけているわけではない。
だが、音を置いている。
痛みに音を置く。
待つことに音を置く。
少しに音を置く。
よいに音を置く。
それだけで、群れの荒さがほんの少し留まる。
水場から戻ったゴードンは、入口で止まった。
私は、帳を閉じなかった。
隠せば、秘匿の紙と同じになる。
これは王国へ出せるかもしれない帳である。
彼は私の前まで来なかった。
いつもの間合いより、さらに半歩遠い。
濡れた布を手に持っている。
その布は、自分で洗ったものだろう。
彼は、それを私に見せた。
私は見た。
血はない。
濃い汚れもない。
ただ、少し赤みを含んだ水が落ちたように見えた。
胸が痛んだ。
「痛い」
私は言った。
問いではない。
断じたのでもない。
ただ、そこに置いた。
ゴードンは、少し間を置いて頷いた。
「痛い。すこし」
やはり嘘だ。
私は首を横に振った。
「すこし、だめ」
ゴードンは目を細めた。
私の言い方が変だったからだろう。
すこし、だめ。
それでも、言いたいことは伝わったらしい。
少しと偽るな。
痛いなら痛いと言え。
今は触れない。
まだ。
それらを一つの音にはできない。
だから私は、彼の布を指し、水を指し、それから胸の前で手を止めた。
「水。よい。だめ。まだ」
ひどい王国語である。
だが、今の私たちの言葉では、これ以上は届かない。
水はよい。
無理はだめ。
触れるのはまだ。
ゴードンは、長く私を見た。
それから、低く言った。
「よい」
彼は布を持ったまま、小屋の外へ戻った。
私は、その背を見送った。
触れぬことが、こんなに難しいとは知らなかった。
触れることより、難しい。
昨夜、あれほど近づいた。
身を重ね、痕を混ぜ、名を呼んだ。
それなのに今、私は彼の傷へ触れない。
その「まだ」は、私にとって初めて、彼を守るための音になった。
私は補助羊皮紙を開いた。
公務調査帳とは別に、しかし秘匿別紙でもない。
王国へ出せるか分からぬ、中ほどの紙である。
そこへ記す。
――「痛い」は、怒りを分ける音となり得る。
――「まだ」は、欲のみならず、傷にも置かれる。
――「すこし」は、偽りにもなり得る。
――痛むものが「すこし」と言う時、なお見極めを要す。
見極め。
この語を書いて、私は苦く笑った。
私に、何が見極められるのか。
自分の忌避さえ、誇りで覆う女である。
自分の欲さえ、観測と呼ぼうとする女である。
それでも、見ねばならない。
水を見ることは、まだできない。
けれど、傷を見る代わりに、傷に触れぬ作法を見ることはできる。
火場では、小柄なオークがまだ水桶へ指を入れていた。
不満げではある。
だが、石を蹴ってはいない。
水場側の雌は、濡れた布を火から少し離して吊るしている。
小柄なオークは、木の実を全部ではなく、少しだけ籠へ移している。
若い雄は、ときどき盗もうとするが、そのたびにゴードンを見る。
そして、渋々手を止める。
まだ。
その音は、粗く、歪みながら、群れの中へ入っていく。
私とゴードンの夜から出た音が、木の実を残し、火傷を冷やし、濡れた布を焦がさず、傷へ触れぬ線にもなる。
私はそのことを恐れた。
同時に、誇りに思った。
また、蓋である。
だが、この蓋の下には、ただの忌避だけではない。
私が彼を傷つけたかもしれぬという悔い。
彼が痛むことを、初めて本当に恐れたこと。
そして、彼を待つ側になったこと。
それらが、重なっていた。
火を見る雌が、火場の端に座っていた。
今日は、立ち上がるのが遅い。
片手で薪を寄せ、もう片方の手を、また腹へ置いている。
私は、その手を見た。
肥えか。
腫れか。
子か。
まだ、定めてはならない。
だが、先ほど小柄なオークの火傷した指を見たあとでは、腹へ置かれたその手も、ただの癖とは思えなかった。
痛い、という音が、怒りを分けた。
まだ、という音が、触れぬ線を作った。
ならば、腹にもまた、まだを置くべきなのか。
重い薪は、まだ。
冷たい地べたは、まだ。
濡れた布を腹へ当てるのは、だめ。
火へ近すぎるのも、だめ。
湯。
乾いた布。
冷やさぬ場所。
産む女に要るものを、王国の産婆たちは知っている。
私はその名を知っている。
だが、この群れで、産む女のそばに座り、湯を見、布を替え、冷えぬように見守る者を、私はまだ見ていない。
子が生まれるかどうかではない。
産む女が、ひとりで腹を抱えずに済むかどうかである。
私は、その違いをまだ知らないまま、ただ王国の産婆を思い出していた。
火を見る雌が、私を見た。
腹へ置いた手を離さないまま、低く言った。
「まだ」
私は頷いた。
「まだ」
子とは書かない。
けれど、見ぬふりもしない。
夕方近く、ゴードンはもう一度、小屋の前へ来た。
今度は中へ入らない。
入口の外で、立ったまま私を見る。
「帳」
彼は言った。
私は頷く。
「帳」
彼は、私の手元を指した。
次に、外の群れを指した。
それから、水場の方を指す。
書け。
群れを書け。
水を書け。
今日あったことを書け。
そう言われているようだった。
私は筆を持ったまま、答えた。
「よい」
ゴードンは頷いた。
そして、私の方へ一歩近づきかけて、止まった。
半歩の手前。
昨夜なら、越えていた距離。
今朝なら、越えたくなった距離。
彼は越えなかった。
私も呼ばなかった。
唇の線は、まだ越えていない。
傷の線も、まだ越えない。
水面も、まだ見られない。
だが、帳は見られる。
私は書いた。
――触れぬこともまた、分けることなり。
――触れぬことで、後を残す。
――後が残るならば、まだは禁にあらず。
――まだは、次を壊さぬための堤なり。
筆を離す。
外では、ゴードンが若い雄へ言った。
「まて」
その声は、朝より少し掠れていた。
私は、返事をしない。
ただ、帳の端へ小さく書き足した。
――大個体、痛む。
――されど群れを分ける。
――記録者、触れず。
――これもまた、まだなり。
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