ティル
翌日の放課後、フィオナさんは小さな籠を抱えて工房へやってきた。いつものように真っ先に箱庭を覗き込み、窓辺にいるフィリルを見つけると嬉しそうに手を振る。
「いた! 今日はね、お茶会の相談に来たの」
もちろん返事はない。フィリルは窓枠から顔を出し、フィオナさんの持っている籠をじっと見ていた。
「……そっちが気になる?」
「みたいですね」
作業台へ籠を置くと、フィリルの視線も一緒についてくる。中には小さな赤い実や果物、それから花蜜の入った瓶が入っていた。
「何を飲んだり食べたりするのか分からないから、家にあったものを少し持ってきたの」
「全部試すんですか?」
「嫌がったらやめるよ。好きなものがあったら、お茶会に置けるかなって」
フィオナさんが話している間にも、フィリルは窓から飛び立った。作業台の端へ降りると、籠を見上げて首を傾げる。
しばらく遠巻きにしていたけれど、やっぱり気になるらしい。一歩近づいて、中を覗く。そこから顔を引っ込め、また覗いた。
「……かわいい」
フィオナさんが小声で呟く。
フィリルは籠の縁へ両手をかけると、今度は身体をいっぱいまで伸ばした。中にある赤い実へ手を伸ばすものの、あと少し届かない。
一度降りる。
また登る。
今度は羽までぱたぱたさせる。
「取ってあげてもいいかな」
「欲しそうですね」
フィオナさんが赤い実を一つ取り、フィリルの前へ置いた。
フィリルはすぐには触らない。近づいて、匂いを確かめるように顔を寄せ、指先でちょんと触る。
ころん。
実が転がった。
「あっ」
フィリルも慌てて追いかける。作業台の端へ行く前に両手で捕まえると、そのままぎゅっと抱え込んだ。
フィオナさんが両手で口を押さえた。
「……持ってる」
「気に入ったみたいですね」
「もうそれ、あげる」
言われなくても返す気はなさそうだった。
フィリルは赤い実を抱えたまま座り込み、小さく齧った。少しすると四枚の羽がぱたぱたと揺れる。
「好きなんだ」
「たぶん、かなり」
俺たちが見ていることにも構わず、もう一口齧る。その姿を見ながら、フィオナさんが空想帳を開いた。
「じゃあ、お菓子はこういう実でもいいのかな」
「絵では蜂蜜のお菓子でしたよね」
「うん。でも本物がこっちを好きなら、こっちがいい」
そう言って、昔描いた皿の横に小さな実を描き足す。
昨日まで絵の中にしかいなかった妖精たちのお茶会が、少しずつ目の前のフィリルに合わせて変わっていく。それを見ているのは、俺も楽しかった。
「飲み物はどうしよう」
フィオナさんが花蜜の瓶を持ち上げる。昨日、水は飲むことが分かっている。
「少しだけ混ぜてみます?」
「うん」
小さなカップへ水を入れ、花蜜をほんの少し落とす。フィリルの近くへ置いて待っていると、赤い実を食べ終えたフィリルが気づいた。
カップを見る。
俺たちを見る。
またカップを見る。
やがて近づき、両手で抱えて一口飲んだ。
ぴくっと羽が動く。
もう一口。
そのままカップを抱えて座り込んだ。
「……これも好き」
「お茶じゃないですけどね」
「いいの。本物のお茶会なんだから」
フィオナさんは嬉しそうに、空想帳のカップの横へ『花蜜』と書き足した。
その時、ふと手が止まる。
「ねえ、ノア君」
「はい?」
「この子、いつまでフィリルって呼ぶの?」
俺もカップを抱えた妖精を見る。
「フィリルは種類の名前でしたね」
「うん。本当は、この子にも自分の名前があるのかもしれないけど……」
フィオナさんは少し考え込んだ。
「勝手に名前をつけちゃうのは、なんか違う気がする」
「じゃあ、呼ばないんですか?」
「それも困る」
真剣な顔で悩んでいる。
やがてフィオナさんはフィリルの前へしゃがみ込み、少し離れたところから話しかけた。
「名前じゃなくてね。私たちが君を呼ぶ時だけの呼び方なら、いいかな?」
フィリルはカップの中を覗いている。
「……聞いてないですね」
「聞いてるかもしれないよ」
フィオナさんはしばらく考えたあと、小さく口にした。
「ティル」
「ティル?」
「うん。フィリルって呼んでたから、ずっと頭に残ってて。短くて呼びやすいし……この子に似合わない?」
もう一度、妖精を見る。
淡い緑の髪に、透き通った四枚の羽。カップを両手で抱えたまま、今度はこちらを見ている。
「……いいと思います」
「ほんと?」
「はい。かわいい名前です」
フィオナさんが嬉しそうに笑った。
「じゃあ、嫌だったら教えてね」
どうやって教えるのかは分からない。
「ティル」
フィオナさんが呼ぶ。
反応はない。
もう一度呼んでも、カップを抱えたままだった。
「まあ、そんなすぐには分かんないよね」
フィオナさんは気にした様子もなく、また空想帳へ目を戻した。俺も隣で、花蜜用のカップをどう作るか考える。
しばらくして、フィリルが窓の方へ戻ろうとした。
「ティル。カップ、置いていってください」
何気なく呼んだ。
小さな身体が、ぴたりと止まった。
振り返る。
俺と目が合った。
「……え」
隣でフィオナさんも固まっていた。
「ノア君」
「はい」
「今、ティルって呼んだら振り向いたよね」
「……振り向きましたね」
フィオナさんの顔が、ぱっと輝いた。
「もう一回呼んで!」




