妖精の羽粉
翌朝、目が覚めると、俺は着替えるより先に工房へ向かった。昨夜、箱庭の中で眠っていた妖精は気まぐれな生き物だ。朝になったら、もういなくなっていてもおかしくない。
そっと扉を開けて作業台へ近づく。小さな家の窓辺には、丸めた布の上で眠る薄緑色の姿があった。四枚の羽を畳み、小さな身体を丸くしている。
「……いた」
それだけで、少し肩の力が抜けた。
「朝から何してるんだい」
後ろからばあちゃんの声がして、慌てて振り返る。
「ばあちゃん、静かに」
「はいはい。まだいたのかい?」
「うん。昨日からずっとここみたい」
ばあちゃんも箱庭を覗き込み、目を細めた。
「ずいぶん気に入られたもんだねえ」
もっと見ていたかったけれど、今日は学園がある。着替えを済ませて鞄を持ち、出かける前にもう一度工房を覗くと、妖精は起きて窓辺に座っていた。
「俺がいない間、見ててもらっていい?」
「頼まれなくても、私はここで仕事してるよ」
「そうだけど……いなくなったら教えて」
「はいはい。ほら、遅刻するよ」
「お願いします」
窓辺の妖精をもう一度見てから、俺は工房を出た。
◇
学園までは歩いて二十分ほどだ。昼はそこで授業を受け、終われば工房へ戻ってばあちゃんの仕事を手伝う。それがいつもの毎日だった。
貴族の子も、商家や職人の家の子も同じ学園へ通っている。俺は授業が終わればさっさと帰る方なので、同じ学年でもほとんど話したことのない相手は多い。
校門をくぐった、その時だった。
「ノア君!」
まさか自分が呼ばれたとは思わず、そのまま二歩ほど進んでから振り返った。金色の髪を揺らしながら、一人の女の子がこっちへ来る。
フィオナ・アルヴェインさん。侯爵家の令嬢で、同じ学年でもよく目立つ人だ。俺とはまともに話したことなんて、ほとんどない。
「……フィ、フィオナさん?」
なんで俺を。
そう思っているうちに、フィオナさんは目の前まで来た。
「ノア君、ちょっと動かないで」
「え? あ、はい」
言われるまま固まると、フィオナさんが俺の肩へ顔を寄せた。
近い。
どうしていいか分からず視線を泳がせていると、フィオナさんは俺の制服しか見ていなかった。
「やっぱり……」
「あの、何かついてますか?」
フィオナさんが指した肩を見る。埃みたいな細かな粒がいくつかついていて、朝の光を受けると淡い緑色にきらっと光った。
「これ、妖精の羽粉だよ」
「妖精の?」
思わずフィオナさんを見る。
「羽を動かした時に少しだけ落ちるの。知らなかったら、普通の埃だと思うかも」
そこまで言うと、フィオナさんが俺の顔をじっと見た。さっきまでとは目が違う。
「ノア君。妖精に会った?」
「え、えっと……」
「会ったの?」
「……はい」
ぱっと顔が輝いた。
「本当に!? どんな子? 大きさは? 羽は何枚? 色は?」
「ちょ、ちょっと待ってください」
急に質問が飛んできて、頭が追いつかない。
「手のひらくらいです。羽は四枚で、薄緑色の服を着てて……」
「四枚羽で、薄緑……」
フィオナさんは何かを考えるように呟いたが、すぐに顔を上げた。
「どこで会ったの?」
「家の工房です」
「まだいる?」
「今朝はいました」
フィオナさんが止まった。
「今朝?」
「はい。昨日から俺の箱庭にいて、夜もそこで寝てました」
「箱庭で寝たの!?」
近くを歩いていた生徒が何人か振り返る。フィオナさんは慌てて口元を押さえたけれど、目の輝きはまったく収まっていなかった。
「自分から入ったの?」
「たぶん。見つけた時には、もう椅子に座ってました」
「椅子に?」
「はい。あと、水も飲みました」
「水まで……!」
今度はちゃんと声を抑えたものの、フィオナさんは俺との距離をさらに詰めてきた。
近い。
俺が一歩下がると、フィオナさんも一歩来る。
「ノア君」
「は、はい」
フィオナさんは期待を隠す気もない顔で、まっすぐ俺を見上げた。
「そこ、つれてって!」




