気まぐれな妖精
妖精は、いる。
森の奥や、人のあまり入らない花畑で見かけたという話なら、ときどき聞く。けれど、人前に姿を現すことは滅多になく、昨日まで同じ場所にいたと思えば、次の日にはもういない。昔から、妖精ほど気まぐれな生き物はいないと言われていた。
有名な妖精なら《春告げのリリィ》がいる。春になると王都の庭園に現れ、白い花の上で眠っていたという妖精で、今では絵本にもなっている。俺も小さい頃、ばあちゃんに何度も読んでもらった。
だから、目の前の小さな少女が妖精だということは分かる。
「……本物だよな」
薄緑色の服を着た、手のひらほどの女の子。背中には透き通った四枚の羽があり、俺が作った箱庭の椅子にちょこんと座っている。
妖精は小さなカップを両手で抱えたまま、俺を見上げていた。
俺が少し顔を近づける。
妖精の肩がぴくっと動いた。
「あ……すみません」
思わず謝って、すぐに身体を引いた。妖精相手に敬語を使ってどうするんだと思ったけれど、急に普通に話しかけるのも変な気がした。
しばらく動かずにいると、妖精も少し警戒を解いたらしい。抱えていたカップを持ち上げ、中を覗き込む。
何も入っていない。
傾けてみる。
やっぱり何も出てこない。
妖精は、こてんと首を傾げた。
「……喉、渇いてるのかな」
作業台の水差しに手を伸ばしかけて、止まる。このカップに普通に注いだら、妖精ごと水浸しになりそうだ。
細い筆を一本取り、柄の先に水を一滴だけ乗せる。それを箱庭の端へそっと置くと、妖精は俺と水滴を何度か見比べた。
やがて椅子から降り、食卓の脚へ隠れながら少しずつ近づいてくる。
筆の前で止まった。
顔を寄せる。
ぺろり。
水滴がなくなった。
「飲んだ……」
妖精の四枚の羽が、ぱたぱたと動いた。
そのまま筆の先を覗き込んでいる。
俺はもう一滴、水を乗せた。
今度は迷わず近づいてきた。
小さな両手で筆をつかみ、水滴を舐める。飲み終えると、また羽がぱたぱたと揺れた。
なんだか嬉しそうに見えて、俺も少し笑った。
「ノアー? まだ片づかないのかい?」
工房の外から、ばあちゃんの声がした。
妖精の羽がぴんと立つ。
次の瞬間、小さな身体が食卓の下へ飛び込んだ。
「あっ」
「さっきから何してるんだい。夕飯が冷めるよ」
ばあちゃんが工房へ顔を出す。
「ばあちゃん、ちょっと静かに」
「なんだい?」
俺が箱庭を指さすと、ばあちゃんも声を止めた。
二人でそっと覗き込む。
食卓の奥から、薄緑色の頭がほんの少しだけ出ていた。
「まあ……」
ばあちゃんが目を丸くする。
「妖精じゃないか」
「やっぱり、そうだよね」
「どこから来たんだい?」
「分からない。箱庭を棚から下ろしたら、もう中にいたんだ」
妖精はばあちゃんを警戒しているのか、それ以上出てこない。
ばあちゃんも無理に近づかなかった。
「それにしても、珍しいねえ」
「妖精が?」
「妖精が人のところへ来るのも珍しいけど、こんなふうに家の中へ入ってるのは、私は初めて見るよ」
俺も箱庭を見る。
食卓の下から、小さな顔だけがこちらを窺っている。
しばらくすると、ばあちゃんが少し離れた。
「怖がらせても悪いね。私は先に戻ってるよ」
「うん。俺もすぐ行く」
「本当にすぐ来るんだよ」
「分かってる」
ばあちゃんが工房を出ていく。
静かになると、妖精の頭が少しずつ出てきた。
俺が動かずにいると、食卓の下からそろそろと姿を現す。そのまま家の中を歩き回り、窓の前で止まった。
両手を伸ばす。
届かない。
背伸びをする。
それでも少し足りない。
なぜか羽は使わず、何度もつま先立ちをしている。
俺はしばらく見ていたけれど、とうとう指を伸ばした。
「これですか?」
小さな窓を押す。
窓が開いた。
妖精がぱっと振り返った。
俺の指を見てから、開いた窓を見る。そのまま嬉しそうに窓辺へ駆け寄り、枠へ腰を下ろした。
夕方の風が入り、薄緑色の服と透明な羽がふわりと揺れる。
妖精は小さな足をぶらぶらさせながら、工房の外を眺め始めた。
俺はその姿を見て、箱庭へ目を戻した。
この窓は、ただ開くように作っただけだ。
椅子も、カップもそうだった。飾りとして固定してしまうこともできたけれど、使う人が好きな場所へ動かせた方がいいと思って、そう作った。
まさか本当に誰かが使うなんて、考えたこともなかった。
妖精はしばらく窓辺に座っていたが、やがて小さなあくびをした。
それから部屋の隅へ歩いていき、置いてあった布の上へころんと横になる。四枚の羽を畳み、身体を小さく丸めた。
「……寝るんだ」
返事はない。
少しすると、小さな胸がゆっくり上下し始めた。
俺は箱庭の前にしゃがんだまま、しばらく動けなかった。
妖精は気まぐれだ。
明日になれば、もういないかもしれない。
それでも今夜は、俺の箱庭の中で眠っている。
俺は窓から入る風が強すぎないように、ほんの少しだけ窓を閉じた。
「……おやすみ」
今度こそ灯りを落とし、工房を出た。




