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ノアの箱庭 ~妖精好きの侯爵令嬢と、小さな世界を作っています~  作者: あゆと
第一章 妖精が選んだ箱庭

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気まぐれな妖精

妖精は、いる。


森の奥や、人のあまり入らない花畑で見かけたという話なら、ときどき聞く。けれど、人前に姿を現すことは滅多になく、昨日まで同じ場所にいたと思えば、次の日にはもういない。昔から、妖精ほど気まぐれな生き物はいないと言われていた。


有名な妖精なら《春告げのリリィ》がいる。春になると王都の庭園に現れ、白い花の上で眠っていたという妖精で、今では絵本にもなっている。俺も小さい頃、ばあちゃんに何度も読んでもらった。


だから、目の前の小さな少女が妖精だということは分かる。


「……本物だよな」


薄緑色の服を着た、手のひらほどの女の子。背中には透き通った四枚の羽があり、俺が作った箱庭の椅子にちょこんと座っている。


妖精は小さなカップを両手で抱えたまま、俺を見上げていた。


俺が少し顔を近づける。


妖精の肩がぴくっと動いた。


「あ……すみません」


思わず謝って、すぐに身体を引いた。妖精相手に敬語を使ってどうするんだと思ったけれど、急に普通に話しかけるのも変な気がした。


しばらく動かずにいると、妖精も少し警戒を解いたらしい。抱えていたカップを持ち上げ、中を覗き込む。


何も入っていない。


傾けてみる。


やっぱり何も出てこない。


妖精は、こてんと首を傾げた。


「……喉、渇いてるのかな」


作業台の水差しに手を伸ばしかけて、止まる。このカップに普通に注いだら、妖精ごと水浸しになりそうだ。


細い筆を一本取り、柄の先に水を一滴だけ乗せる。それを箱庭の端へそっと置くと、妖精は俺と水滴を何度か見比べた。


やがて椅子から降り、食卓の脚へ隠れながら少しずつ近づいてくる。


筆の前で止まった。


顔を寄せる。


ぺろり。


水滴がなくなった。


「飲んだ……」


妖精の四枚の羽が、ぱたぱたと動いた。


そのまま筆の先を覗き込んでいる。


俺はもう一滴、水を乗せた。


今度は迷わず近づいてきた。


小さな両手で筆をつかみ、水滴を舐める。飲み終えると、また羽がぱたぱたと揺れた。


なんだか嬉しそうに見えて、俺も少し笑った。


「ノアー? まだ片づかないのかい?」


工房の外から、ばあちゃんの声がした。


妖精の羽がぴんと立つ。


次の瞬間、小さな身体が食卓の下へ飛び込んだ。


「あっ」


「さっきから何してるんだい。夕飯が冷めるよ」


ばあちゃんが工房へ顔を出す。


「ばあちゃん、ちょっと静かに」

「なんだい?」


俺が箱庭を指さすと、ばあちゃんも声を止めた。


二人でそっと覗き込む。


食卓の奥から、薄緑色の頭がほんの少しだけ出ていた。


「まあ……」


ばあちゃんが目を丸くする。


「妖精じゃないか」

「やっぱり、そうだよね」

「どこから来たんだい?」

「分からない。箱庭を棚から下ろしたら、もう中にいたんだ」


妖精はばあちゃんを警戒しているのか、それ以上出てこない。


ばあちゃんも無理に近づかなかった。


「それにしても、珍しいねえ」

「妖精が?」

「妖精が人のところへ来るのも珍しいけど、こんなふうに家の中へ入ってるのは、私は初めて見るよ」


俺も箱庭を見る。


食卓の下から、小さな顔だけがこちらを窺っている。


しばらくすると、ばあちゃんが少し離れた。


「怖がらせても悪いね。私は先に戻ってるよ」

「うん。俺もすぐ行く」

「本当にすぐ来るんだよ」

「分かってる」


ばあちゃんが工房を出ていく。


静かになると、妖精の頭が少しずつ出てきた。


俺が動かずにいると、食卓の下からそろそろと姿を現す。そのまま家の中を歩き回り、窓の前で止まった。


両手を伸ばす。


届かない。


背伸びをする。


それでも少し足りない。


なぜか羽は使わず、何度もつま先立ちをしている。


俺はしばらく見ていたけれど、とうとう指を伸ばした。


「これですか?」


小さな窓を押す。


窓が開いた。


妖精がぱっと振り返った。


俺の指を見てから、開いた窓を見る。そのまま嬉しそうに窓辺へ駆け寄り、枠へ腰を下ろした。


夕方の風が入り、薄緑色の服と透明な羽がふわりと揺れる。


妖精は小さな足をぶらぶらさせながら、工房の外を眺め始めた。


俺はその姿を見て、箱庭へ目を戻した。


この窓は、ただ開くように作っただけだ。


椅子も、カップもそうだった。飾りとして固定してしまうこともできたけれど、使う人が好きな場所へ動かせた方がいいと思って、そう作った。


まさか本当に誰かが使うなんて、考えたこともなかった。


妖精はしばらく窓辺に座っていたが、やがて小さなあくびをした。


それから部屋の隅へ歩いていき、置いてあった布の上へころんと横になる。四枚の羽を畳み、身体を小さく丸めた。


「……寝るんだ」


返事はない。


少しすると、小さな胸がゆっくり上下し始めた。


俺は箱庭の前にしゃがんだまま、しばらく動けなかった。


妖精は気まぐれだ。


明日になれば、もういないかもしれない。


それでも今夜は、俺の箱庭の中で眠っている。


俺は窓から入る風が強すぎないように、ほんの少しだけ窓を閉じた。


「……おやすみ」


今度こそ灯りを落とし、工房を出た。


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