ノアの箱庭
『箱庭を作るときはね、その家で大事にされていた毎日を、よく覚えておきな。誰が誰を待って、何を見て笑っていたのか。家も家具も、その思い出が戻ってくるように作るんだよ』
幼い頃、ばあちゃんから教わったその言葉を、俺は今も覚えている。だから俺は、完成したはずの箱庭を前に、朝から同じ椅子を何度も動かしていた。
父親の椅子を少し引いてみる。しばらく眺めてから、「うーん……」と唸って元へ戻した。今度は娘のカップを手前へ寄せてみたけれど、これもしっくりこない。
俺は後ろ頭をかき、箱庭を覗き込んだ。両腕で抱えられるほどの二階建ての家で、屋根を外せば、一階の食堂と居間、二階の寝室まで見渡せる。窓には細い真鍮の蝶番をつけ、棚には爪より小さな皿を並べ、二階の机には開くことのできる小さな本まで置いてある。
――縮景細工師。
家や庭、町並みを、実物そっくりに小さく作る職人だ。これから建てる屋敷を先に作ることもあれば、取り壊される家や、遠く離れる故郷を残してほしいと頼まれることもある。家具や道具まで作り込み、そこで過ごした人の毎日まで残したものを、箱庭と呼ぶ。
俺とばあちゃんは、王都の外れにある工房で、その箱庭を作っている。今回の依頼は、遠い北の領地へ嫁ぐ娘に、生まれ育った家を持たせたいという父親からのものだった。
外壁の色も、部屋の広さも、家具の形も、父娘から聞いた通りに作った。娘が子供の頃につけた机の傷まで残してあるし、寸法も何度も確かめた。それなのに、箱庭へ布をかぶせようとすると、どうしても手が止まる。
「ノア、まだ終わらないのかい?」
「ごめん。もう少しだけ待って」
向かいの作業台で木を削っていたばあちゃんが、眼鏡越しにこちらを見た。
「娘さんが来るのは昼過ぎだよ」
「分かってるんだけど……」
俺はまた椅子をつまんだ。少し動かして、首を傾げて、結局また同じ場所へ戻す。
「なんか、このまま渡すのは嫌なんだ」
「どこか間違えたのかい?」
「ううん。そこは何度も見た。でも……なんでだろう」
自分でも分からず、また頭をかく。ばあちゃんは俺の隣まで来たものの、箱庭には触らなかった。
「娘さん、この家の話をしてる時、何が一番楽しそうだった?」
「一番?」
俺は手を止めた。
娘は自分の部屋や庭の話もしていた。冬になると暖炉の前を占領していた話も楽しそうだったけれど、一番長く続いたのは、父親と言い合いになった朝の話だった。
「……食堂かな。娘さん、朝が苦手だったみたいで」
「それで?」
「お父さんが毎朝待ってたって。お母さんは庭の花を一輪だけ飾って、お父さんはお茶を飲みながら……」
そこまで言って、俺は食卓を見た。
三人分の椅子とカップが、同じ位置にきっちり並んでいる。
「あ」
父親の椅子を引き、カップを少し手前へ寄せた。蓋は外して横へ置き、娘の椅子は机の下へ戻す。まだ手をつけていない娘のカップには小さな皿を伏せ、最後に食卓の中央へ白い花を一輪置いた。
俺は一度離れてから、もう一度箱庭を覗き込んだ。さっきまで何度動かしても落ち着かなかった手が、今度は自然と止まった。
「ばあちゃん、見てもらってもいい?」
「ああ」
ばあちゃんは眼鏡を押し上げ、食堂を覗き込んだ。何も言わないので、俺は落ち着かなくなって、指先についた木屑を払う。
「どうかな?」
「お父さん、今日もずいぶん待たされてるねえ」
俺は思わず、ばあちゃんの顔を見た。
「分かった?」
「このままだと、二杯目のお茶までなくなりそうだよ」
「……よかった」
肩から力が抜けて、思わず笑った。ばあちゃんから布を受け取り、今度こそ箱庭へかぶせる。
その時、工房の奥にある棚が目に入った。一番上には、仕事とは別に俺が一年ほど作り続けている、小さな森の家が置いてある。
あれだけは、まだ完成していなかった。
俺はひとまず棚から目を離し、父娘を迎える準備を始めた。
◇
昼過ぎ、依頼人の父娘が工房を訪れた。娘は数日後、馬車で十日以上かかる北の領地へ嫁ぐという。
「お待たせしました。中もご覧ください」
ばあちゃんが留め具を外して屋根を持ち上げると、娘はすぐに身をかがめた。二階の部屋を覗き込み、机の角に残した小さな傷を見つける。
「まあ……本当に私の部屋だわ。お父様、ここ。椅子を倒した時の傷でしょう?」
「部屋の中を走るなと、あれほど言ったのにな」
「お父様が廊下から急いで来いと呼んだんでしょう?」
「走れとは言っていない」
「昔からそればっかり」
娘は口を尖らせたものの、すぐに笑った。そのまま一階へ目を移し、食堂の前でぴたりと止まる。
父親の椅子だけが引かれている。その前には蓋を外したカップがあり、娘の席にはまだ蓋のついたカップが置いてあった。
「お父様、このカップ……」
「毎朝、お前を待たされたからな」
「先に出かければよかったのに」
「茶を飲んでいただけだ」
「私が降りてくるまで?」
父親は答えず、小さな窓を開いて、また閉めた。娘はその横顔を見てから、自分のカップへそっと指先を添える。
「私が起きてくる前だわ」
娘はそれきり、しばらく食堂から目を離さなかった。
俺は思わず息を止めていた。朝から何度も椅子を動かして、やっと決めた場所だったから、何か言われるまで妙に落ち着かなかった。
やがて娘が顔を上げ、俺を見る。
「ノアさん、ありがとうございました」
「いえ。あの……変なところ、ありませんでしたか?」
「変なところ?」
「家具の位置とか、俺が聞き間違えていたところとか」
娘はもう一度箱庭を見て、それから笑った。
「ありません。ちゃんと、私の家です」
「……よかった」
つい声に出てしまった。娘が少し笑ったので、急に恥ずかしくなって視線を箱庭へ戻す。
「向こうへ着いたら、最初に屋根を開けます」
「はい。あの、留め具は片方ずつ外してください。無理に上げると窓枠に当たるので」
「大切にしますから、そんなに心配なさらないで」
「あ……すみません」
また余計に説明してしまったらしい。娘が笑い、父親も箱庭を抱えたまま小さく息を漏らした。
「娘に、いいものを持たせてやれる。ありがとう」
「こちらこそ、任せていただいてありがとうございました」
父娘が帰ったあと、作業台には箱庭が置かれていた四角い跡だけが残った。ばあちゃんは床に落ちた木屑を掃きながら、俺を見た。
「喜んでもらえてよかったねえ」
「うん。食堂を見て、すぐ気づいてくれた」
「朝から悩んだ甲斐があったじゃないか」
「……うん」
自分で作ったものを、ちゃんと受け取ってもらえた。そのことが思っていたより嬉しくて、俺はしばらく空になった作業台を眺めていた。
「さあ、夕飯にするよ。今日は肉が固くなる前に来な」
「うん。片づけたらすぐ行く」
「今度こそ信じていいのかい?」
「今日は本当だよ」
ばあちゃんが工房を出ていった。
俺は使った道具を一つずつ棚へ戻し、一番上へ手を伸ばした。そこで、朝にも見た小さな屋根に指が触れる。
一度は手を引いたものの、結局その箱庭を棚から下ろした。
森の中に一軒だけ建つ、小さな家だった。
依頼人から頼まれたものではない。ばあちゃんみたいに、誰かの思い出を聞かなくても一つの暮らしを作れるようになりたくて、少しずつ手を入れてきた箱庭だ。
家も家具も、とっくにできている。それなのに、椅子をどこへ置くか、机の上に何を残すかを考え始めると、いつもそこで止まってしまう。
俺は椅子を一脚引いてみた。
「うーん……」
今日作った父親の席と同じだと気づき、すぐに元へ戻す。今度はカップを二つ並べてみたけれど、これも違う気がして片づけた。
「難しいな……」
頭をかきながら、家具の揃った小さな部屋を覗き込む。しばらく考えてみたものの、今日はもう何も浮かばなかった。
「また明日にしよう」
俺は椅子を戻し、小さな扉を閉めた。
キィ……。
背後で、蝶番が鳴った。
振り返ると、今閉めたはずの扉が開いている。しかも、元へ戻したはずの椅子が、食卓から少し離れた場所へ動いていた。
「え?」
慌てて顔を近づける。
椅子には、手のひらほどの少女が座っていた。薄緑色の服を着て、背中には透き通った四枚の羽がある。
少女は小さなカップを両手で抱えたまま、俺を見上げた。
「……妖精?」




