ティルのおでかけ
青い石が増えた翌朝、箱庭を覗くとティルの姿がなかった。家の中にも、壁際へ移した布の上にもいない。名前を呼んでみても羽音は返ってこず、代わりに窓辺の小さな扉だけが開いていた。
「……どこ行ったんだ?」
工房の中を見回してから、壁際の通気窓が少し開いていることに気づいた。人間なら手も通らないような隙間だけれど、ティルなら十分に抜けられる。
しばらくそこを見ていると、外から聞き慣れた小さな羽音が近づいてきた。薄緑色の羽が通気窓の向こうに現れ、ティルが両手で黄色い花を抱えたまま、ふらふらと工房へ入ってくる。
「ティル」
呼ぶと一度だけこちらを見たものの、そのまま箱庭へ飛んでいった。花を壁際へ置いて眺め、少し考えるように首を傾げたあと、今度は棚の隙間へ茎を差し込む。黄色い花だけが外を向くと、満足したのか羽を小さく揺らした。
俺は通気窓とティルを交互に見る。外へ出られること自体は不思議じゃない。羽があるんだから、むしろ今まで考えていなかった方がおかしい。
でも、それならティルはいつでもここから出ていけたことになる。
それなのに、朝になれば箱庭にいて、夜にはあの布の上で眠っていた。
「……毎日、戻ってきてたのか」
ティルは聞いていない。棚から少し離れて黄色い花を眺め、また位置を直していた。
◇
放課後、その話をすると、フィオナさんは鞄を置くより先に通気窓へ向かった。
「ここから?」
「今朝、ここから戻ってくるのを見ました」
「じゃあ、外に遊びに行ってたんだ……」
窓の向こうを覗き込む。工房の裏には小さな庭があり、その先は細い路地へ続いている。フィオナさんはしばらく外を眺めていたけれど、やがて少しだけ眉を寄せた。
「猫とか鳥とか、大丈夫かな」
「俺もそれは気になります。でも、今まで何度も出てたなら、自分で気をつけてるのかもしれません」
「そうだといいけど……」
フィオナさんは箱庭へ戻り、黄色い花を見つけるとすぐに笑顔になった。
「これ、今日持ってきたの?」
「そうみたいです」
「かわいい。わざわざ持って帰ってきたんだ」
空想帳を開き、棚の隙間から花が出ているところを描き始める。俺が横から見ていると、フィオナさんは花だけでなく、その隣に座っているティルまで小さく描き足した。
「今日はそこに置くんですね」
「だって今ここにあるもん。また明日変わってるかもしれないけど」
前なら、空いている場所を見ると何を置いたら可愛いか考えていた。今はティルが置いたものを、そのまま描いている。
描き終える前に、ティルが立ち上がった。黄色い花にはもう興味がなくなったらしく、窓辺まで歩いていくと、開いていた小さな扉を自分で押した。
「え、また行くの?」
フィオナさんの声に、ティルが一度だけ振り返る。そのまま窓枠へ乗り、四枚の羽を広げると、通気窓の方へ飛んでいった。
二人で見送る。
「ほんとに出かけるんだね」
「みたいですね」
「……帰ってくるかな」
「朝も帰ってきましたから」
そう答えると、フィオナさんは少し安心したように頷いた。
その日は、話をしているうちにティルが戻ってきた。何も持っていなかったけれど、いつもの窓辺へ降り、少し羽を休めてから赤い実を食べに行く。
フィオナさんはそれを見て、「おかえり」と嬉しそうに笑った。
◇
それから、ティルが外へ出ること自体は珍しくなくなった。
朝から箱庭にいない日もあれば、俺が学校から帰ってきたあとにふらりと出ていく日もある。外へ行ったからといって必ず何かを持ち帰るわけでもなく、手ぶらで戻ってきて、そのまま布の上で眠ってしまうこともあった。
たまに何かを拾ってくる。
小さな木の実だったり、乾いた草だったり、綺麗な色の石だったりする。それをどこへ置くのかはティル次第で、俺たちはなるべく触らずに見ていた。
ある日、フィオナさんが丸い木の実へ指を伸ばしかけると、ティルがすぐに近づいてきた。フィオナさんは途中で手を止め、そのままゆっくり引っ込める。
「取らないよ。見るだけ」
ティルはしばらく指先を見たあと、木の実を両手で抱えて別の場所へ運んでいった。
「……嫌だったかな」
「触られたくなかったのかもしれませんね」
「じゃあ、やめとこ」
それ以上追いかけず、フィオナさんは空想帳の端に木の実を抱えたティルを小さく描いた。少し不満そうな顔までついている。
「その顔、本当にしてました?」
「私にはこう見えたの」
「なるほど」
そんなふうに、外へ出ることも、戻ってくることも、いつの間にか当たり前になっていった。
いつでも出ていけるのに、ティルは毎日ここへ帰ってくる。
そのことを口にすることはなかったけれど、朝、箱庭のどこかから小さな羽音が聞こえると、少しだけ安心するようになっていた。
◇
その日も、朝にはティルがいた。
窓辺に座って青い石を両手で転がしていたから、特に気にせず学校へ向かった。放課後に工房へ戻ると姿はなく、開いた通気窓を見て、また出かけているのだと思った。
少ししてフィオナさんがやってくる。
「ティルいる?」
「今日は外みたいです」
「そっか。じゃあ、そのうち帰ってくるね」
いつものように箱庭の前へ座り、フィオナさんは空想帳を開いた。俺も依頼品の窓枠を削り始め、時々話をしながらそれぞれ手を動かす。
空想帳の頁が一枚埋まっても、ティルは戻らなかった。
俺が窓枠を一つ仕上げ、次の部品へ取りかかっても羽音はしない。最初は気にしていなかったフィオナさんも、だんだん通気窓へ目を向ける回数が増えていった。
「今日は遅いね」
「そうですね。でも、まだ明るいですから」
それからもう少し待った。
ばあちゃんが夕食のことを聞きに工房へ顔を出した頃には、窓から入る光がずいぶん弱くなっていた。フィオナさんはとうとう空想帳を閉じ、通気窓の外を覗く。
「ノア君。ちょっとだけ、庭見に行かない?」
「行きましょう」
工房の裏庭から探した。
黄色い花が咲いていた場所。植え込みの下。古い木の根元。ティルなら入り込めそうな場所を二人で覗きながら、何度か名前を呼ぶ。
返事はなかった。
路地の先にある小さな公園まで足を延ばしたけれど、木の枝にも草むらにも薄緑色の羽は見つからない。フィオナさんは帰る途中も何度か立ち止まり、植え込みの隙間を覗いていた。
「……戻ってるかもしれません」
「うん」
二人で工房へ急ぐ。
箱庭の窓は開いたままだった。椅子も布も、青い石も、朝と同じ場所にある。
ティルだけがいない。
フィオナさんは箱庭の前へしゃがみ込み、家の中まで覗いたあと、何も言わず近くの椅子へ座った。俺も作業へ戻ったけれど、刃を置くたびに通気窓へ目が向く。
外はいつの間にか夕方の色を失い、工房の床へ長い影が伸びていた。
それでも、いつもならどこかで聞こえる小さな羽音は戻ってこなかった。




