もう一匹
その夜、ティルは戻ってこなかった。
暗くなっても通気窓は開けたままにしておいた。フィオナさんもなかなか帰ろうとしなかったけれど、家の人が心配する時間になり、最後にもう一度箱庭を覗いてから立ち上がった。
「戻ってきたら、明日すぐ教えてね」
「はい。何かあったら学校で話します」
扉の前でもフィオナさんは一度振り返った。俺も大丈夫だとは言えず、そのまま見送った。
作業へ戻ってからも、外で小さな音がするたびに手が止まった。青い石も、丸い木の実も、棚の下に押し込んだ枝もあるのに、その持ち主だけがいない。
ばあちゃんにもう寝るよう言われて、ようやく道具を片づけた。それでも通気窓だけは閉めず、誰もいない箱庭へ「……おやすみ」と声をかけて工房を出た。
◇
翌朝は、いつもより早く目が覚めた。
着替えてすぐ工房へ降りる。まだ薄暗い室内を抜け、開いたままの通気窓を確認してから箱庭へ近づいたところで、小さな羽音が聞こえた。
「……ティル?」
窓辺に、小さな影が座っていた。
薄緑色の四枚羽。膝の上には、あの青い石を抱えている。
「ティル」
思ったより大きな声が出たらしく、ティルが肩を跳ねさせてこちらを見た。それでも逃げる様子はなく、青い石を抱えたまま首を傾げている。
無事だった。
それを確認した途端、昨日から胸の奥に引っかかっていたものがようやくほどけた。
近づこうとして、通気窓の向こうで何かが動いた。
小さな顔が、壁の端から半分だけ覗いている。
「……え?」
目が合った瞬間、さっと隠れた。
俺はその場で動きを止める。しばらく待っていると、またほんの少しだけ顔が出てきた。
ティルと同じくらいの大きさで、四枚の透明な羽を持っている。ただ、羽はティルより少し青みがかっていて、朝の光を受けると水みたいな色に見えた。
「……フィリル?」
小さく呟いただけなのに、もう一匹は再び壁の陰へ消えた。
ティルは気にする様子もなく窓辺から降り、いつもの壁際へ青い石を置く。それから通気窓の近くまで行って外を覗き、少し待っては箱庭へ戻る、ということを何度か繰り返した。
もう一匹がまだ外にいるのかもしれない。
俺がしゃがむ位置を少し変えただけで、通気窓の向こうから羽音が遠ざかった。
追いかける気にはならなかった。
ティルも最初は俺を警戒していた。でも、水を置けば近づいてきたし、その日のうちに箱庭で眠った。
今の子は、俺が少し動いただけでいなくなる。
同じフィリルでも、ずいぶん違う。
◇
学園へ着くと、フィオナさんは俺を見つけるなりこちらへ走ってきた。
「ノア君、ティルは?」
「戻ってました。怪我もなさそうです」
「ほんと!?」
その場で大きく息を吐き、胸の前で握っていた手をようやく下ろす。昨日からずっと気にしていたらしい。
「よかったぁ……。朝まで帰ってなかったらどうしようって、ずっと考えてた」
「俺も起きてすぐ見に行きました」
「いたんだね。よかった……」
そこで俺が少し言いにくそうにしているのに気づいたのか、フィオナさんが顔を覗き込んだ。
「どうしたの?」
「ティルの近くに、もう一匹いたんです」
「…………え?」
今度は別の意味で固まった。
「たぶんフィリルです。四枚羽で、ティルと同じくらいの大きさでした。羽が少し青っぽくて」
「もう一匹……?」
声が大きくなりかけて、フィオナさんは慌てて口元を押さえた。近くを歩いていた生徒が通り過ぎるのを待ってから、今度は小声で続ける。
「ティルと一緒にいたの?」
「近くにはいました。でも俺と目が合ったら、すぐ隠れました。少し動いただけでも離れていって」
「……そっか」
嬉しそうだった表情が、少しだけ慎重なものに変わった。
「私が行ったら、もっと逃げるかな」
「分かりません。でも、今朝はかなり警戒してました」
「じゃあ今日は、静かにする」
妖精に会えると知ったフィオナさんがそんなことを言うのは、少し意外だった。
でも、すぐに「放課後、行ってもいい?」と聞くところはいつものフィオナさんだった。
◇
放課後、フィオナさんは本当に静かに工房へ入ってきた。
鞄を置く音まで小さくしてから、「いる?」と囁く。俺も声を落として、さっき通気窓の外に少しだけ見えたと答えた。
二人で箱庭から少し離れた場所へ座る。
ティルは庭で丸い木の実を転がしていた。追いかけては両手で抱え、また少し先へ押しているけれど、もう一匹の姿は見えない。
フィオナさんも最初は通気窓ばかり見ていたが、だんだん肩の力が抜けていった。
「帰っちゃったのかな」
「まだ近くにいるかもしれません」
そう答えた直後、ティルが動きを止めた。
顔を上げて、通気窓を見る。
少し遅れて、微かな羽音が聞こえた。
フィオナさんの膝の上で、指がぴたりと止まる。
通気窓の端に、小さな指がかかった。
そこから少しずつ顔が出る。朝見た、青みがかった羽のフィリルだった。
最初に見るのはティルだった。
木の実を追っているティルをじっと眺め、それからゆっくり工房の中へ視線を動かす。俺たちに気づいた瞬間、身体が引っ込んだ。
フィオナさんは息を呑んだけれど、動かなかった。
しばらくすると、また顔だけが現れる。
今度はさっきより長く見ていた。
ティルが椅子へ登れば、その方を見る。花のカップを持ち上げると、通気窓から少し身を乗り出す。けれど視線が俺たちへ戻るたびに、身体はすぐ外側へ引いた。
フィオナさんが空想帳へ伸ばしかけた手を止める。紙を開く音さえ気になるらしく、そのまま膝の上へ戻した。
ティルは丸い木の実を抱えて通気窓へ近づいた。
もう一匹は逃げない。
二匹が少し離れて向かい合う。
ティルが木の実を床へ置くと、相手が一歩だけ近づいた。細い手が伸びかけたところで、こちらを見る。
その時、フィオナさんが無意識に姿勢を変えた。
椅子が小さく鳴る。
次の瞬間、青みがかった羽が一気に開いた。
もう一匹のフィリルは通気窓の外へ飛び出し、そのまま見えなくなった。
フィオナさんは「あ……」と小さく漏らしただけで、追いかけなかった。
ティルは飛び去った方をしばらく見ていたが、やがて自分で木の実を拾い、いつもの庭へ戻っていく。
「……ティル、最初こんなだったっけ」
しばらくして、フィオナさんが囁いた。
「もう少し近かった気がします。俺が最初に見つけた時には、もう箱庭の中にいましたし」
「だよね……」
初めてティルを見た夜のことを思い出す。
あの時にはもう椅子へ座り、小さなカップへ触れていた。俺が水を置けば近づいて、そのまま箱庭の布で眠った。
今朝の子は、俺が少し動いただけで通気窓の外へ消えた。さっきだって、箱庭をずっと見ていたのに、一度も中へは入ってこなかった。
「本で読んだフィリルって、もっと今の子に近かった気がする」
フィオナさんはティルを見ながら言った。
「人がいると、すぐ隠れちゃう感じ」
「じゃあ、ティルの方が珍しいんですかね」
「分かんない。でも……最初から全然違うよね」
ティルはそんな話など知らず、椅子の位置を少しずつ動かしている。
フィオナさんはその姿を眺めてから、ふと首を傾げた。
「……なんでティルは、ここに入ったんだろう」
俺も答えられなかった。
最初から箱庭の中にいた。
いつでも外へ出られるのに、毎日ここへ帰ってくる。
それが普通なのだと思っていたけれど、もう一匹を見たあとでは少し違って見えた。
通気窓の外で、青みがかった羽が一度だけ光った。
けれど、そのフィリルは最後まで工房の中へ入ってこなかった。




