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ノアの箱庭 ~妖精好きの侯爵令嬢と、小さな世界を作っています~  作者: あゆと
第二章 妖精のお茶会

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もう一匹

その夜、ティルは戻ってこなかった。


暗くなっても通気窓は開けたままにしておいた。フィオナさんもなかなか帰ろうとしなかったけれど、家の人が心配する時間になり、最後にもう一度箱庭を覗いてから立ち上がった。


「戻ってきたら、明日すぐ教えてね」

「はい。何かあったら学校で話します」


扉の前でもフィオナさんは一度振り返った。俺も大丈夫だとは言えず、そのまま見送った。


作業へ戻ってからも、外で小さな音がするたびに手が止まった。青い石も、丸い木の実も、棚の下に押し込んだ枝もあるのに、その持ち主だけがいない。


ばあちゃんにもう寝るよう言われて、ようやく道具を片づけた。それでも通気窓だけは閉めず、誰もいない箱庭へ「……おやすみ」と声をかけて工房を出た。



翌朝は、いつもより早く目が覚めた。


着替えてすぐ工房へ降りる。まだ薄暗い室内を抜け、開いたままの通気窓を確認してから箱庭へ近づいたところで、小さな羽音が聞こえた。


「……ティル?」


窓辺に、小さな影が座っていた。


薄緑色の四枚羽。膝の上には、あの青い石を抱えている。


「ティル」


思ったより大きな声が出たらしく、ティルが肩を跳ねさせてこちらを見た。それでも逃げる様子はなく、青い石を抱えたまま首を傾げている。


無事だった。


それを確認した途端、昨日から胸の奥に引っかかっていたものがようやくほどけた。


近づこうとして、通気窓の向こうで何かが動いた。


小さな顔が、壁の端から半分だけ覗いている。


「……え?」


目が合った瞬間、さっと隠れた。


俺はその場で動きを止める。しばらく待っていると、またほんの少しだけ顔が出てきた。


ティルと同じくらいの大きさで、四枚の透明な羽を持っている。ただ、羽はティルより少し青みがかっていて、朝の光を受けると水みたいな色に見えた。


「……フィリル?」


小さく呟いただけなのに、もう一匹は再び壁の陰へ消えた。


ティルは気にする様子もなく窓辺から降り、いつもの壁際へ青い石を置く。それから通気窓の近くまで行って外を覗き、少し待っては箱庭へ戻る、ということを何度か繰り返した。


もう一匹がまだ外にいるのかもしれない。


俺がしゃがむ位置を少し変えただけで、通気窓の向こうから羽音が遠ざかった。


追いかける気にはならなかった。


ティルも最初は俺を警戒していた。でも、水を置けば近づいてきたし、その日のうちに箱庭で眠った。


今の子は、俺が少し動いただけでいなくなる。


同じフィリルでも、ずいぶん違う。



学園へ着くと、フィオナさんは俺を見つけるなりこちらへ走ってきた。


「ノア君、ティルは?」

「戻ってました。怪我もなさそうです」

「ほんと!?」


その場で大きく息を吐き、胸の前で握っていた手をようやく下ろす。昨日からずっと気にしていたらしい。


「よかったぁ……。朝まで帰ってなかったらどうしようって、ずっと考えてた」

「俺も起きてすぐ見に行きました」

「いたんだね。よかった……」


そこで俺が少し言いにくそうにしているのに気づいたのか、フィオナさんが顔を覗き込んだ。


「どうしたの?」

「ティルの近くに、もう一匹いたんです」

「…………え?」


今度は別の意味で固まった。


「たぶんフィリルです。四枚羽で、ティルと同じくらいの大きさでした。羽が少し青っぽくて」

「もう一匹……?」


声が大きくなりかけて、フィオナさんは慌てて口元を押さえた。近くを歩いていた生徒が通り過ぎるのを待ってから、今度は小声で続ける。


「ティルと一緒にいたの?」

「近くにはいました。でも俺と目が合ったら、すぐ隠れました。少し動いただけでも離れていって」

「……そっか」


嬉しそうだった表情が、少しだけ慎重なものに変わった。


「私が行ったら、もっと逃げるかな」

「分かりません。でも、今朝はかなり警戒してました」

「じゃあ今日は、静かにする」


妖精に会えると知ったフィオナさんがそんなことを言うのは、少し意外だった。


でも、すぐに「放課後、行ってもいい?」と聞くところはいつものフィオナさんだった。



放課後、フィオナさんは本当に静かに工房へ入ってきた。


鞄を置く音まで小さくしてから、「いる?」と囁く。俺も声を落として、さっき通気窓の外に少しだけ見えたと答えた。


二人で箱庭から少し離れた場所へ座る。


ティルは庭で丸い木の実を転がしていた。追いかけては両手で抱え、また少し先へ押しているけれど、もう一匹の姿は見えない。


フィオナさんも最初は通気窓ばかり見ていたが、だんだん肩の力が抜けていった。


「帰っちゃったのかな」

「まだ近くにいるかもしれません」


そう答えた直後、ティルが動きを止めた。


顔を上げて、通気窓を見る。


少し遅れて、微かな羽音が聞こえた。


フィオナさんの膝の上で、指がぴたりと止まる。


通気窓の端に、小さな指がかかった。


そこから少しずつ顔が出る。朝見た、青みがかった羽のフィリルだった。


最初に見るのはティルだった。


木の実を追っているティルをじっと眺め、それからゆっくり工房の中へ視線を動かす。俺たちに気づいた瞬間、身体が引っ込んだ。


フィオナさんは息を呑んだけれど、動かなかった。


しばらくすると、また顔だけが現れる。


今度はさっきより長く見ていた。


ティルが椅子へ登れば、その方を見る。花のカップを持ち上げると、通気窓から少し身を乗り出す。けれど視線が俺たちへ戻るたびに、身体はすぐ外側へ引いた。


フィオナさんが空想帳へ伸ばしかけた手を止める。紙を開く音さえ気になるらしく、そのまま膝の上へ戻した。


ティルは丸い木の実を抱えて通気窓へ近づいた。


もう一匹は逃げない。


二匹が少し離れて向かい合う。


ティルが木の実を床へ置くと、相手が一歩だけ近づいた。細い手が伸びかけたところで、こちらを見る。


その時、フィオナさんが無意識に姿勢を変えた。


椅子が小さく鳴る。


次の瞬間、青みがかった羽が一気に開いた。


もう一匹のフィリルは通気窓の外へ飛び出し、そのまま見えなくなった。


フィオナさんは「あ……」と小さく漏らしただけで、追いかけなかった。


ティルは飛び去った方をしばらく見ていたが、やがて自分で木の実を拾い、いつもの庭へ戻っていく。


「……ティル、最初こんなだったっけ」


しばらくして、フィオナさんが囁いた。


「もう少し近かった気がします。俺が最初に見つけた時には、もう箱庭の中にいましたし」

「だよね……」


初めてティルを見た夜のことを思い出す。


あの時にはもう椅子へ座り、小さなカップへ触れていた。俺が水を置けば近づいて、そのまま箱庭の布で眠った。


今朝の子は、俺が少し動いただけで通気窓の外へ消えた。さっきだって、箱庭をずっと見ていたのに、一度も中へは入ってこなかった。


「本で読んだフィリルって、もっと今の子に近かった気がする」


フィオナさんはティルを見ながら言った。


「人がいると、すぐ隠れちゃう感じ」

「じゃあ、ティルの方が珍しいんですかね」

「分かんない。でも……最初から全然違うよね」


ティルはそんな話など知らず、椅子の位置を少しずつ動かしている。


フィオナさんはその姿を眺めてから、ふと首を傾げた。


「……なんでティルは、ここに入ったんだろう」


俺も答えられなかった。


最初から箱庭の中にいた。


いつでも外へ出られるのに、毎日ここへ帰ってくる。


それが普通なのだと思っていたけれど、もう一匹を見たあとでは少し違って見えた。


通気窓の外で、青みがかった羽が一度だけ光った。


けれど、そのフィリルは最後まで工房の中へ入ってこなかった。

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