妖精の模様替え
月灯花の最後の花びらが落ちたのは、お茶会から四日後だった。
花のなくなった庭には、丸いテーブルと一脚の椅子、小さな皿と花のカップが残っている。月灯花の鉢があった場所だけぽっかり空いていて、俺はそこへ小さな木でも置こうかと考えていた。
朝の作業を始める前に箱庭を覗き、手が止まった。
昨日までテーブルの横にあった椅子がない。
床へ落ちたのかと思って探すと、庭の反対側、家の壁と棚の間に押し込まれていた。倒れたわけではなく、ちゃんと座れる向きで置かれている。
「……なんでそこにあるんだ?」
椅子を戻そうとして、今度は花のカップがないことに気づいた。
家の中を覗くと、二階の壁際に置かれている。その横には赤い実の種、乾いた花びら、白い小石、それから短い糸まで並んでいた。
どれも俺が置いた覚えはない。
「ティル?」
名前を呼ぶと、奥に置いてある布の陰から小さな顔が出た。俺を見たあと、ティルは椅子の方へ視線を移し、布から出てくる。
椅子の背へ両手を当てて押すと、ほんの少し動いた。
もう一度押す。
今度は身体ごとぶつかるようにして、椅子を壁へさらに寄せる。そのままよじ登って座ると、四枚の羽を小さく揺らした。
「……自分で動かしたのか?」
聞いてもティルは答えず、椅子の上から庭を眺めていた。
俺が最初に置いた場所とは、ずいぶん違う。
しばらく考えて、椅子はそのままにしておくことにした。
◇
放課後、フィオナさんが工房へ来るなり、いつものように箱庭へ向かった。
「ティル、こんにちは。今日は何して――あれ?」
すぐに気づいたらしい。庭と家の間を何度か見比べ、壁際に置かれた椅子を指さす。
「ノア君。あの椅子、前からあそこだった?」
「今朝見たら移ってました。ティルが押してるところも見ました」
「自分で?」
フィオナさんは目を丸くし、すぐ箱庭の前へしゃがんだ。
「見てください。カップも家の中に持っていってます」
「ほんとだ。石も増えてる……この糸もティルが持ってきたのかな」
二人で覗いていると、ちょうど窓の外から小さな羽音が聞こえた。ティルが細い枝を両手で抱え、ふらふらしながら戻ってくる。
枝はティルの身体よりずっと長い。片方を持ち上げるたびに反対側が床を擦り、それでも手放さず箱庭の中まで引きずってきた。
「どこから持ってきたんだろう」
「庭じゃないですかね。あのくらいの枝なら落ちてますから」
ティルは家の横まで運ぶと、壁と棚の隙間へ枝を入れようとした。
先がつかえる。
向きを変えてもう一度押すが、今度は途中で横木に引っかかった。反対側へ回って引っ張り、それでも入らないと、ティルはその場にしゃがみ込んで枝を見つめた。
フィオナさんが口元を押さえる。
「……困ってる」
「少し短くした方が入るかもしれませんね」
俺が小刀へ手を伸ばしかけると、フィオナさんが小さく「あ」と声を出した。
「待って。もう一回やりそう」
手を止める。
ティルはまだ諦めていなかった。枝の端を掴み直すと、今度は棚の下へ押し込もうとする。
最初は斜めに引っかかったが、少しずつ角度を変えていく。やがて枝の先が棚の下へ滑り込み、ティルがさらに身体を押しつけると、半分ほど奥へ入った。
四枚の羽がぱっと広がった。
「入った……!」
フィオナさんが思わず声を弾ませ、すぐに自分で口を押さえた。
ティルは俺たちの方を一度だけ見ると、枝をもう少し奥へ押し込んだ。それから例の椅子へ向かい、今朝よりさらに棚の近くまで押していく。
「また動かしてますね」
「うん。そこに置きたいのかな」
椅子を置き終えたティルは一度座って棚の方を見上げ、今度は家の中へ入っていった。
少しして戻ってきた時には、両手いっぱいに布を抱えていた。俺が寝床用に置いていたものだ。
ティルは布を椅子の横へ運び、引っ張っては畳み、また引っ張る。何度かやり直した末に、壁と棚に挟まれた狭い場所へ布を押し込んだ。
「あそこに持っていくんだ……」
俺が寝床を作ったのは、家のもっと奥だった。壁に囲まれていて、その方が安全だと思ったからだ。
けれどティルが選んだ場所は違う。
正面からは見えにくいのに、少し顔を出せば庭も窓も見える。ティルは布の上へ座ると、何度か位置を変えたあと、ようやく落ち着いた。
フィオナさんも黙ってそこを見ていた。
「ノア君が作った寝るところ、使わないね」
「そうみたいですね」
「こっちの方が好きなのかな」
「まだ分かりません。でも、今はここにいたいみたいです」
フィオナさんは少し考えてから、鞄を開いた。
出てきたのは空想帳だった。
「描くんですか?」
「うん。椅子、今ここでしょ」
新しい頁を開き、まず箱庭の輪郭を描く。その中に椅子と布を置き、棚の下から少しだけ飛び出している枝まで書き込んでいく。
「枝まで描くんですね」
「だってあるもん。明日また動いてるかもしれないし」
白い石の位置も、赤い実の種も、そのまま描く。
以前の空想帳なら、花の形をしたベッドや可愛い棚を先に描いていたはずだ。今は何も足さず、ティルが置いたものだけを追いかけている。
「この石、昨日は窓の近くじゃなかった?」
「今朝はそこでした」
「じゃあ、こっちに直しとこ」
消して、描き直す。
その横でティルは布から立ち上がり、白い石を持ってきた。フィオナさんが描き終えたばかりの場所から少し離れたところへ置き、首を傾げる。
「……また動いた」
「もう描き直します?」
「ちょっと待つ。まだ動かしそう」
二人で見ていると、案の定ティルはもう一度石を持ち上げた。
今度は椅子の脚の横へ置く。
フィオナさんが小さく笑った。
「ここでいいのかな」
「今のところは」
空想帳の石も、また場所が変わった。
◇
その日から、俺たちはティルが動かしたものを、なるべく元へ戻さないことにした。
次の日の朝には、椅子が壁際から窓の近くへ移っていた。夕方になると、家の中にあった花のカップが庭へ戻り、代わりに小皿が棚の下へ入っている。
理由は分からない。
ティル自身も、昨日と今日で置きたい場所が違うらしい。
フィオナさんは工房へ来るたびに空想帳を開き、「また変わってる」と言いながら描き直した。俺も、作った時に決めた配置へ戻したくなるのを我慢して、そのまま見るようになった。
三日目の朝。
箱庭の窓辺に、見覚えのない小さな青い石が置かれていた。
昨日まではなかったものだ。
椅子や布とは違う。俺が用意したものでも、工房に落ちていたものでもない。
ティルはその石の横へ座り、両手でころころと転がしている。
「……また増えてるな」
声をかけると、ティルは石を抱えたままこちらを見た。
それから大事そうに胸元へ引き寄せ、家の奥へ運んでいった。




