妖精のお茶会
夜のうちに赤い実を載せる皿を仕上げ、月灯花の鉢を受ける土台を組んだ。最後に細く切った芝布を庭の縁へ貼り終えた頃には、工房の窓がうっすら白み始めていた。
丸いテーブルと一脚の椅子。その横には小皿と、四つ目でようやく形になった花のカップがある。中央だけ丸く空けた庭へ月灯花の鉢を収めれば、フィオナさんと一緒に紙へ描いた景色になるはずだった。
「……できた」
道具を置くと、それまで気にならなかった眠気が一気に押し寄せてきた。椅子へ腰を下ろしかけたところで小さな羽音がして、箱庭の奥からティルが顔を出す。
見慣れない庭に気づいたらしい。すぐには近づかず、少し離れたところから首を傾げていたが、やがて芝の上へ降りると、まず小皿を持ち上げて裏返した。
「そっちから見るのか……」
ティルは皿を戻し、次は椅子ではなくテーブルの上へよじ登った。天板を二、三度踏んでから飛び降り、ようやく花のカップに気づく。両手で抱え、少しふらつきながらも持ち上げた。
今度は持てた。
「よかった」
ティルはカップを抱えたまま椅子へ座り、満足そうに四枚の羽を揺らした。三つ失敗した甲斐はあったらしい。
「ノア」
振り返ると、ばあちゃんが工房の入口に立っていた。完成した庭より先に俺の顔を見て、眉間へ皺を寄せる。
「その顔じゃ、ほとんど寝てないね」
「少しは寝たよ」
「少しじゃ駄目だよ。ベルクさんの縮景はもう箱に入ってるんだろ?」
「うん。あとは渡すだけ」
「なら、届けるのはあたしがやる。あんたは顔を洗って、学校へ行きな」
手伝うと言いかけたけれど、立ち上がっただけで頭が少しぼんやりした。ばあちゃんにはそれで十分だったらしく、「ほら」と工房の外を指さされる。
「……ありがとう」
「礼を言うくらいなら、今夜はさっさと寝な」
◇
午前の授業では、一度だけ先生に名前を呼ばれていることに気づかなかった。隣の席から机を軽く叩かれて慌てて顔を上げると、教室の何人かが笑っている。
昼休みになると、フィオナさんが俺の席までやってきた。いつもならティルの話から始まるのに、今日は顔を見るなり目を細める。
「ノア君、昨日より眠そうじゃない?」
「そうですか?」
「そうだよ。ちゃんと寝た?」
答えるまで少し間が空いたせいか、フィオナさんの眉がさらに寄った。
「ばあちゃんの仕事が立て込んでたので。でも、もう終わりました」
「終わったかどうかじゃなくて、寝たか聞いてるんだけど」
「……今日は早く寝ます」
「ほんとに?」
「ほんとです」
まだ納得していない顔だったが、そこへ友達から呼ばれた。振り返って返事をしたあと、何かを思い出したようにまた俺を見る。
「そうだ、月灯花! 今朝見たら、もうかなり開いてたの。夕方には一番きれいになると思う!」
「それなら、ちょうどいいですね」
「うん。放課後、持っていくからね」
フィオナさんは嬉しそうに手を振って戻っていった。
今日までに完成させてほしいとは、一度も言われていない。それでも、朝のうちに終わっていてよかったと思った。
◇
放課後、工房の扉が開く音と一緒に、明るい声が飛び込んできた。
「ノア君、見て見て!」
フィオナさんは両手で鉢植えを抱えていた。細い茎の先に咲いた月灯花は、すでに八分ほど開いている。白い花びらの奥には淡い金色が見え、夕方の光を受けるたびに色が変わった。
「これが月灯花ですか」
「うん! もうすぐ全部開くと思う。思ってたより大きくなっちゃったけど、置けるかな?」
「たぶん大丈夫です。少し見せてもらってもいいですか?」
鉢を受け取り、そのまま工房の奥へ案内する。作業台の上には、朝から布をかけたままにしてあった。
「ノア君、何それ?」
「……見てもらいたいものがあります」
布を外すと、フィオナさんの声が止まった。
すぐに何か言うと思っていたのに、何も言わない。丸いテーブルから椅子、小皿、花のカップへと視線が動き、最後に中央の空いた場所で止まる。
「……これ」
ゆっくり近づいてきたフィオナさんが、庭の前へしゃがみ込んだ。
「私たちが描いたやつ……?」
「はい。鉢、置いてみてもいいですか?」
「う、うん」
中央の窪みへ鉢を入れる。聞いていた寸法より少し大きかったけれど、周囲の土台は動かせるようにしてある。隙間へ草と小石を寄せると、月灯花が最初からそこに生えていたように庭へ収まった。
フィオナさんは口元を両手で押さえたまま、それを見ていた。
「……ほんとに、ある」
小さく漏れた声に、胸の奥が少しだけ軽くなる。
「ここ、私が描いた丸いテーブルだよね」
「そうです。椅子は今のところ一脚だけにしました」
「うん……ティル、一人だもんね」
フィオナさんは花のカップへ顔を近づけた。触る寸前で手を止め、「これも持てるようにしたの?」と聞く。
「朝、ティルに試してもらいました。最初の三つは駄目でしたけど、これは大丈夫そうです」
「三つも作ったの?」
「重かったり、割れたり、倒れたりして」
「……そっか」
それ以上は何も言わず、また庭を見る。
その時、箱庭の奥で何かが動いた。
「あっ、ティル」
フィオナさんはすぐに声を小さくした。
ティルは月灯花を警戒しているのか、柱の陰から半分だけ顔を出していた。しばらく花を眺めたあと、庭へ降りると真っ先に赤い実の入った皿へ向かい、一つ抱えてテーブルの上へ運ぶ。
「椅子じゃなくて、そっちなんだ」
フィオナさんが笑いを堪えるように囁いた。
ティルは赤い実をテーブルへ置くと、今度は月灯花の根元まで歩いていった。大きな花を見上げ、落ちていた白い花びらの端を両手で持ち上げようとして、重かったのかすぐに諦める。
「やっぱり、思った通りには動かないね」
「その方がティルらしいです」
フィオナさんが俺を見て、嬉しそうに頷いた。
少ししてティルは椅子へよじ登った。俺が花のカップへ花蜜を混ぜた水を入れて置くと、両手で抱え、一口だけ飲む。気に入ったらしく羽がぱたぱたと揺れ、そのまま赤い実へ手を伸ばした。
「……ほんとに、お茶会してる」
フィオナさんの声が震えた。
月灯花も、その間に少しずつ開いていた。白い花びらが夕日を透かし、金色が庭の上へ落ちる。その下でティルは花のカップを抱えたまま、赤い実を一口ずつ食べていた。
フィオナさんは何も言わなくなった。
横顔を見ると、目の端に少しだけ涙が溜まっている。それでも泣くより先に笑っていて、空想帳を見せてもらった時よりも、ずっと嬉しそうだった。
「……すごいね」
それだけ言って、また庭を見る。
しばらくしてティルがカップを置くと、フィオナさんはようやく息を吐いた。
「ノア君、ありがとう。私、これ……ずっと見たかった」
「喜んでもらえてよかったです」
そう答えると、フィオナさんはまた庭の細部へ目を移した。花のカップを見たところで、ふと首を傾げる。
「……ねえ、ノア君。これ、いつ作ったの?」
「三日前からです」
「三日前?」
フィオナさんが俺を見る。
「月灯花が今日咲くって言ってたので、それに合わせようと思って」
「……ちょっと待って」
さっきまで笑っていた顔から、少しずつ表情が消えていく。
「ノア君、もしかして……今日までに全部作らなきゃって思ってた?」
「……違ったんですか?」
「違うよ!」
思わず大きくなった声に、ティルがびくっと肩を震わせて月灯花の後ろへ飛び込んだ。フィオナさんは「あっ、ごめん」と慌てて声を落とし、それからもう一度こっちを見る。
「私、三日後にまた来て、それから一緒に続きを作るんだと思ってたの。今日までに作ってなんて、一回も……」
「はい。言われてません」
「じゃあ、なんで……」
そこでフィオナさんの目が俺の顔に止まった。
「昨日も眠そうだったよね」
「……はい」
「今日も。何時間寝たの?」
答えないでいると、フィオナさんの目が細くなる。
「ノア君」
「……二時間くらいです」
「二時間?」
声が裏返った。
「でも、もう終わったので。今日はちゃんと寝ます」
「そういうことじゃないよぉ……!」
フィオナさんの顔が一気に歪んだ。こらえようとしたらしいけれど間に合わず、大粒の涙が頬を伝う。
「私、そんなことしてほしかったんじゃないのに……! 三日後に来るって言っただけなのに、なんで一人で全部……」
言葉の途中で何度も息が詰まる。涙を手の甲で拭いても次から次へと溢れ、とうとうフィオナさんは顔を伏せた。
「今年じゃなくてもよかったのに……。こんな、寝ないで作るくらいなら……」
「フィオナさん」
名前を呼ぶと、泣きながら顔を上げる。
「……なんで?」
「え?」
「なんで、そこまでしたの?」
俺はすぐには答えられなかった。
庭を見る。
月灯花の陰から戻ってきたティルが、何事もなかったように赤い実を抱えている。その向こうで、フィオナさんが泣いている。
頼まれたわけじゃない。
ただ、あの絵を本物にしてみたかった。
「……見せたかったので」
フィオナさんが瞬きをした。
「それ……私に?」
「はい。フィオナさんに」
一瞬だけ、工房が静かになった。
ティルが赤い実を齧る小さな音だけがする。
フィオナさんの唇が震えた。
「……もう、やだぁ」
今度こそ堪えきれなくなったらしく、両手で顔を覆って泣き始めた。
「そんなこと言われたら、怒れないじゃん……! 嬉しいよ……すっごく嬉しいけど……!」
泣いているのに、途中で笑っている。笑ったと思ったらまた涙が増えて、自分でもどうしていいのか分からないらしい。
俺もどうすればいいのか分からず、ポケットからハンカチを出して差し出した。
「……使いますか?」
「使う……」
フィオナさんは素直に受け取って目元へ押し当てた。しばらく鼻をすすってから、「次からはちゃんと言って」と、まだ震える声で言う。
「私、待てるから。三日でも、一週間でも待てるし、一緒に作りたいの。だから、勝手に無理しないで」
「……分かりました」
「ほんとに?」
「今度からは、ちゃんと相談します」
「絶対だからね」
ようやく少しだけ落ち着いたところで、月灯花の下から小さな羽音がした。
ティルが椅子へ戻り、空になった花のカップを両手で抱えている。どうやらまだ飲みたいらしく、こちらを見ながらカップを何度も持ち上げていた。
フィオナさんもそれに気づき、真っ赤な目のまま吹き出した。
「……ほら。もうおかわり欲しがってる」
「たぶん、そうですね」
「かわいい……」
また涙が一つ落ちたけれど、今度はそのまま笑っていた。
俺が花蜜を足すと、ティルは満足そうにカップを抱え直す。開ききった月灯花の下で、小さな羽が金色の光を受けて揺れていた。
フィオナさんはハンカチを握ったまま、その景色をじっと見つめる。
「ノア君」
「はい?」
「……ありがとう。本当に」
少し迷ってから、俺も同じ庭を見る。
「俺も、見られてよかったです」
月灯花の下で、ティルが嬉しそうに羽を揺らした。




