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第六話 カナちゃん

 民宿へ戻った頃には、空はすでに暗くなり始めていた。


 山の上へ集まっていた雲は、島全体を覆うように海の方まで広がり、窓の外に見える防波堤も、その向こうの水面も、同じ鈍い灰色の中へ沈んでいる。

 まだ夕方と呼べる時刻のはずだったが、遠くの海上には漁船の灯りがいくつか浮かび、波に揺られながら細く伸びたり、途切れたりしていた。


 部屋は二階の端にあった。


 六畳の和室に、小さな座卓と薄い座椅子が二つ。壁際には空の冷蔵庫と電気ポットが置かれ、入口近くの衣桁には、糊の利いた浴衣が一枚掛けられている。

 畳は新しくはなかったが、掃除は行き届いており、窓際の木枠にも目立った埃はなかった。


 夕食を食べ、浴場で髪と身体を洗った後も、袖口へ顔を近づけると、加工場の魚と消毒液の匂いが微かに残っていた。

 神社の社務所で吸い込んだ、古い紙と畳の匂いも混じっているような気がする。


 一日の間に訪れた場所が、目には見えない薄い膜になって、まだ身体のどこかへ貼りついている。


 私は窓を少しだけ開けた。湿った海風が入ってくる。


 波の音は聞こえたが、風そのものは弱く、部屋の中に溜まった匂いを追い出すほどではなかった。

 窓から身を乗り出せば、民宿の屋根越しに海が見える。そのさらに右手、家々の間には、暗くなり始めた山の斜面も一部だけ残っていた。


 海側の部屋を選んでも、山を完全に視界から外すことはできないらしい。


 窓を閉め、座卓の上へノートパソコンを置いた。今日撮影した写真をカメラから取り込み、日付と場所ごとにフォルダを分けていく。


 三影島集落。

 奥本家周辺。

 浜谷水産加工場。

 三影神社一の鳥居。

 三影神社参道。

 三影神社二の鳥居。

 三影神社境内。

 三影神社祭礼執行簿。


 ファイル名を整理し、一枚ずつ画像を確認する。


 鳥居の向こうへ続く参道は、実際に見た時よりも写真の中の方が暗かった。露出を上げた画像でも、二の鳥居を越えた先だけは黒く潰れ、道の輪郭が途中で途切れている。

 紙垂が裏返った瞬間に撮ったものはない。


 拝殿の写真にも、特別なものは写っていなかった。

 古い木造建築と、鈴緒と、賽銭箱。画面の端には口元の欠けた狛犬があり、濡れた石の表面へ鈍い光が落ちている。


 最後に、祭礼執行簿の画像を開いた。


 黄ばんだ紙の中央へ、濃い墨で書かれた四文字がある。


 『黒川正臣。』


 その横に、小さく、島外。


 祭礼、二の下にて止む。

 直会、行わず。

 白布、二の下。

 拾わず。


 画像を拡大すると、紙の繊維と、墨が滲んだ跡まで見えた。


 黒川正臣という名前は、ほかの文字より強く書かれているようにも見えるが、単に筆へ含ませた墨の量が多かっただけかもしれない。年号や天候を書いた文字と同じ筆跡なのかも、私には判別できなかった。


 私はブラウザを開き、検索欄へ名前を入力する。


 『黒川正臣』


 検索結果が表示される。


 同姓同名と思われる会社役員。

 地方の囲碁大会の結果。

 大学の研究会名簿。

 姓名が別々の文章に含まれているだけのページ。


 画像検索には、無関係な中年男性の顔や、黒川という姓のスポーツ選手が並んだ。昭和六十三年に三影島で婿役を務めた人物だと分かるものはない。


 検索語を追加する。


 黒川正臣 三影島。

 黒川正臣 祭り。

 黒川正臣 山神。

 黒川正臣 昭和六十三年。

 三影島 雑誌。

 三影島 祭礼 昭和。


 結果はほとんど変わらなかった。

 三影島について表示されるのは、町役場の簡素な案内頁と、釣り人が撮影した港の写真、数年前に島を訪れた旅行者の短い日記程度だった。


 山神婚礼祭という言葉は、現在のインターネット上には存在していないらしい。

 黒川正臣という名前も、私が撮影した帳面の画像以外には、まだ三影島と結びついていない。


 時計を見る。午後九時を少し過ぎていた。

 遅すぎる時間ではない。けれど、連絡を入れる前に、ほんの少しだけ迷った。


 ――名前しか分からない、三十八年前の人間を調べてほしい。


 通常の検索では何も出ない。

 仕事の依頼として正式に発注するほどでもなく、しかし友人へ頼むには面倒な調査だった。


 それでも、こういう時に連絡する相手は、ほかに思いつかなかった。


 メッセージアプリを開く。連絡先の一覧から、『カナちゃん』を選ぶ。


 前回のやり取りは、二週間ほど前で止まっていた。

 私が仕事で使用している動画のリンクが切れていると指摘され、直すと答えた後、翌日になっても修正していないことまで確認されている。


 最後のメッセージには、


> 信用度三パーセントです。


 と書かれていた。


 私は新しい文章を入力する。


> 今、時間ある?

 少し調べてもらいたい名前があるんだけど。


 送信して一分も経たないうちに既読がついた。


> ありますよ。

 もしかして、また変な仕事を引き受けました?


 文字を見て、少しだけ肩の力が抜ける。


> 四国の島にいる。

 変かどうかは、まだ分からない。


> 「まだ」と言う時点で、変な仕事ですよね。


 続けて、通話の着信が表示された。


     ◇


「もしもし。」


『先輩、今どこですか?』


「民宿。今日はもう外に出ないよ。」


『夕食は食べました?』


「食べた。」


『何を?』


「民宿の夕食。焼き魚と煮物と、あと小鉢がいくつか。」


『それなら本当ですね。』


「私が普段、嘘をつくみたいに言わないで。」


『忙しい時の先輩は、ゼリー飲料を夕食に含めるでしょう。』


「今回はちゃんと食べたよ。カナちゃんこそ、ご飯は?」


 一拍、返事が遅れた。


『まだです。』


「先に食べなさい。」


『名前を調べてからでもいいですか?』


「だめ。何か持ってきて。」


『じゃあ、食べている間も通話をつないでいてください。』


「別にいいけど。」


 受話口の向こうで、椅子が床を擦る音がした。それから扉の開閉音と、何かを探すような物音が続く。


『何もないですね。』


「冷蔵庫に?」


『冷蔵庫にも、棚にも。』


「買い物は?」


『行ってません。』


「今日、外に出た?」


『出てません。仕事はしていました。』


「それは外に出たことにならないでしょう。」


『先輩の声を聞いたら、お腹が空いてきました。』


「私のせいにしないで。何か注文しなさい。」


『選んでもらえます?』


「自分で選べるでしょう。」


『先輩に選んでもらった方が、おいしく食べられる気がします。』


「何それ。」


 呆れながらも、通話をスピーカーへ切り替え、民宿の座卓に置いたスマートフォンから聞こえる声を頼りに、カナちゃんの近所にあるらしい店の候補を聞く。


 麺類。

 丼物。

 カレー。


 結局、夜でも比較的胃にもたれにくそうなうどんを選ばせ、注文が完了するまで見届けた。


 カナちゃんは、大学時代に同じサークルへ入ってきた、一つ下の後輩だった。

 大学は、一般にも名前を知られた国立大学で、学部は違っていた。サークルも熱心に活動する種類のものではなく、講義の合間に部室へ集まり、雑談をしたり、小規模なイベントを手伝ったりする程度だった。


 入学したばかりの頃のカナちゃんは、よく部室の隅に座っていた。


 人の輪へ入れないというより、入る必要を感じていないように見えた。

 誰かに話しかけられれば応じるが、自分から会話を続けようとはせず、興味のない説明を受けている時には、隠そうともせず別のことを考えていた。


 履修登録の期限を忘れ、サークルの集合時刻を間違え、昼食を食べること自体を忘れる。

 それでいて、一度興味を持った話になると、周囲がついていけなくなるほど細かなことまで調べ、止めるまで話し続けた。


 放っておけずに声をかけたのは、私の方が先だった。

 食事をしたかを尋ね、提出物の期限を伝え、必要な時には講義室まで迎えに行った。


 いつから立場が逆になったのかは、よく覚えていない。


 卒業後、一度は大きなコンサルティング会社へ入ったが、組織の中で複数の人間と足並みを揃えて働くことは、あまり合わなかったらしい。現在は個人で仕事を請け負い、専門分野を生かして、会社員だった頃よりもはるかに忙しく生き生きと働いている。


 それでも、私の前では時折、大学一年生の頃と同じように、何もできない後輩のような顔をする。顔を見て話しているわけではない今でさえ、わざと甘えているのではないかと思うことがある。


「それで、調べてほしい名前なんだけど。」


『はい。名前だけですか?』


「今分かっているのは、名前と、昭和六十三年に島の祭りで婿役をしたことだけ。」


『婿役。結婚式のような祭りですか?』


「山の神様に、男性を婿として送る祭り。」


『……なるほど。名前は?』


「黒川正臣。」


 電話の向こうで、キーボードを打つ音が始まった。


『漢字は、黒い川に、正しい、家臣の臣ですか?』


「そう。私も普通に検索してみたけど、関係ありそうなものは出なかった。」


『当時の年齢は?』


「分からない。成人はしてるはず。」


『住所は?』


「島外としか書かれてない。」


『職業は?』


「分からない。」


『祭りの日付は?』


「昭和六十三年。月日は帳面を見直さないと。」


 キーボードを打つ音が、一度止まった。


『先輩。情報、ほとんどないじゃないですか。』


「だから頼んでるの。」


『同姓同名がいたら、区別できませんよ。昭和六十三年に成人なら、生まれた年にもかなり幅がありますし。』


「無理そう?」


『無理とは言ってません。期待値を調整しているだけです。』


 再び、キーボードの音が続く。先ほどまで食事を選んでほしいと甘えていた時とは、声の張りが少し違っている。

 質問が短くなり、返事を待つ間にも別の検索を進めているらしく、途切れなく細かな打鍵音が聞こえた。


『三影島という名前は、実在の島名ですか?』


「架空じゃないよ。町の中にある小さな島。」


『同名の地名は?』


「たぶんないと思う。」


『祭りの正式名称は?』


「山神婚礼祭。ただ、この名前が昔から使われているかは分からない。」


『別名はありますか?』


「山の女様のお祭り、と島の人は言ってる。」


『山の女様……。』


 その言葉だけ、カナちゃんは少しゆっくりと繰り返した。


『どんな祭りなんです?』


「男性が白装束を着て、婿役として夜に山の神社へ上がる。詳しい手順は、まだ全部聞けてないけど、それだけ。」


『婿役……毎年島の人ですか?』


「近年はそう。ただ、昭和六十三年だけは、島外の黒川正臣という人だった。」


『その年に何かあった?』


「祭りが途中で止まってる。」


 打鍵音が止まった。今度の沈黙は、先ほどより長かった。


『途中で?』


「二の鳥居の下……神社に上る途中の道で止まったらしい。直会も行われてない。」


『理由は?』


「記録にはないね。」


『事故ですか?』


「怪我や死亡の記載はない。」


『……ほかには、何が書いてあります?』


「白布、二の下。拾わず。」


『もう一度、お願いします。』


「白布、二の下。拾わず。」


 通話の向こうで、何かを机へ置く音がした。その後、先ほどまでより速い速度でキーボードが鳴り始める。


『帳面の画像、あります?』


「あるよ。」


『今すぐ送ってください。切り抜かずに、撮ったままの画像を。』


「名前のところだけでいい?」


『駄目です。周囲の文字も、紙の状態も必要です。表紙は撮りました?』


「表紙は一枚だけ。」


『前後の頁は?』


「何枚かは。」


『昭和六十二年と六十四年は?』


「六十二年は写ってると思う。六十四年は撮ってない。」


『どうしてですか。』


「その時は必要になると思わなかったから。」


『必要でしょう。前年と翌年で、記録の形式と筆跡を比較できるじゃないですか。墨の濃さも、頁へ書かれた時期が同じかを見る材料になります。』


「ごめん。」


『謝らなくていいですけど、もし次に行く機会があれば撮っておいてください。表紙、裏表紙、最初の頁、最後の頁、昭和六十二年から平成元年まで。できれば同じ人が書いたと思われる別の年も。』


「急に元気になったね。」


 キーボードの音が、一瞬止まった。


『……元気でしたよ。』


「名前だけの時は、あまり乗り気じゃなかったでしょう。」


『情報が少なすぎたんです。今は話が違います。祭りを止めた理由は書かずに、白い布を拾わなかったことは記録しているんですよね?』


「そう。」


『記録した人にとっては、中断の理由より、拾わなかったことの方が残す価値があった。あるいは、中断の理由と布が同じことを指している。』


「私も気になった。」


『画像を見ます。早く送ってください。』


「今送る。」


 私は祭礼執行簿の画像をメッセージへ添付し、送信する。しばらくして、受話口の向こうで小さな通知音がした。


『来ました。』


 それから、カナちゃんは何も言わなくなった。画像を確認しているらしい。

 拡大と縮小を繰り返しているのか、ときどきマウスのホイールを回す音が聞こえる。先ほど注文した食事のことは、もう頭から抜け落ちているに違いなかった。


「カナちゃん?」


『少し、待ってください。』


「はいはい。」


 十分ほど、ほとんど会話がなかった。その間に私は、パソコンの画面へ表示された今日の写真をもう一度確認する。


 二の鳥居。

 四枚の紙垂。

 その先へ続く暗い道。


 黒川正臣は、三十八年前、あの鳥居の手前か、下に立っていた。そして、祭礼はそこで止まった。


 理由は記録されていない。代わりに、白い布を拾わなかったことだけが書かれている。


『先輩。』


「何か分かった?」


『まだです。ただ、この頁、前年と形式が違いますね。』


「そうなの?」


『昭和六十二年は、天候と婿役と参加人数が同じ並びで書かれています。でも、六十三年は名前の位置が少し高い。最初からこの内容を書くために用意した頁ではなくて、後から別の人が書き足した可能性もあります。』


「画像だけで分かる?」


『可能性です。断定はできません。元の帳面を見ないと、墨の重なりも、紙の凹みも分かりませんから。』


「島まで来るつもり?」


 また、一拍だけ間があった。


『必要なら。』


「今のところは、そこまでしなくていいよ。」


『先輩が一人で調べるよりは安全ですよ。』


「一人じゃない。役場の人が案内してくれてる。」


『誰ですか?』


「潮見さん。三影町役場の職員。」


『へえ。ずっと一緒なんですか?』


「取材中はね。」


『年齢は?』


「二十五歳、だったかな。」


 今日確認した名簿の一覧を思い出す。四年前に二十一歳ならば、現在二十五歳でおそらく間違いではないだろう。


『……そうですか。』


「年齢が必要?」


『いえ、現地の事情をどの程度知っている立場か、確認しただけです。』


「潮見さん自身も、昔のことは知らないみたい。昭和六十三年には生まれてないし。」


『先輩より若いんですね。』


「……だから、何?」


『可愛いですか?』


「男の人だよ?」


 笑って答えると、再びキーボードの音が始まる。


     ◇


 注文した食事が届いたのは、通話を始めてから三十分ほど経った頃だった。カナちゃんは配達を受け取りに行ったものの、戻ってきても容器を開ける様子がない。


「先に食べなさい。」


『調べながら食べます。』


「こぼすよ。」


『大丈夫です。』


「カナちゃんの大丈夫は、信用度が低い。」


『先輩にだけは、言われたくないです。』


 袋を開ける音がし、ようやく食事を始めたらしい。しかし、数口食べるたびにキーボードへ手を戻しているのか、箸と打鍵音が交互に聞こえてくる。


『黒川正臣という名前だけでは、やっぱり通常検索は難しいですね。』


「私が調べた時も、関係ない人しか出なかった。」


『活動した時期が、インターネットの普及前だからでしょうね。こういう人は、名前が残っていても検索には出ません。』


「調べられない?」


『紙の人です。』


「紙の人?」


『活動記録が紙のまま止まっている人です。雑誌、新聞、会報、図書館の目録、古書店の在庫。ウェブ上に本文がなくても、書誌情報だけ残っていることがあります。紙の方を探せばいいです。』


 奥本さんの言葉が蘇る。


 ――紙の頃でも、人は来た。


「あ、そうだ。昔、祭りが地方雑誌に載ったことがあるって……。」


『いつですか?』


「浜谷さんは、昔としか言わなかった。ただ、奥本さんは、紙に書いたら人が来たと言ってた。」


『黒川正臣が婿役をしたのは昭和六十三年。雑誌が先なら、六十二年か、それより前ですね。』


「そうだと思う。」


『雑誌名は?』


「分からない。」


『発行地域は?』


「たぶん四国か瀬戸内。地方の雑誌としか。」


『取材した人の名前は?』


「分からない。」


『……本当に分からないことばかりですね。』


「島の人も、皆そう言うんだよ。」


 カナちゃんは少し黙った。


『……皆が同じ言い方をする時は、本当に知らない場合と、同じところまでしか言わないようにしている場合があります。』


「私も、少しそう感じてる。」


『古い話なら、知っている人の記憶が曖昧なのは普通です。ただし、複数人が同じ言い方をしているなら、その出来事自体をわざと避けている可能性はありますね。』


「どうだろう。聞き取りも、まだ二人にしかしてないし。」


『先輩、最初から順番に説明してください。途中だけ聞いてもやっぱり判断できません。』


 私は、今日一日の出来事を話した。


 奥本さんの家で聞いたこと。

 山の女様が、呼ばないための名であること。

 手順、数、場所、行く道を書いてはいけないと言われたこと。

 奥本さんの家の前に、白い布が落ちていたこと。

 私が拾おうとすると、潮見さんが止めたこと。

 加工場で浜谷さんから、以前、地方雑誌へ祭りが掲載されたと聞いたこと。

 祭りの前にも後にも人は死ぬ、と言われたこと。

 黒川正臣の祭礼記録。

 二の鳥居。

 拾われなかった白い布。


 話している間、カナちゃんはほとんど口を挟まなかった。食事をする音も、途中から聞こえなくなっていた。


『白い布には、触っていませんよね?』


「触ってないよ。」


『それは正解です。』


「迷信を信じるの?」


『正体の分からない、泥に汚れた布を拾う理由がないでしょう。衛生的にもよろしくないです。』


「潮見さんと同じことを言うね。」


『その判断については、信用できます。』


「会ったこともないのに?」


『先輩が触ろうとしたのを止めたなら、その点だけは。』


 少し不満そうに聞こえたが、理由は分からなかった。


『明日も神社へ行くんですか?』


「明日は役場で構成案をまとめる予定。帳面の撮影は、許可を取り直してからになると思う。」


『一人で山へ戻るのは、なしですからね。』


「戻らないよ。」


『今、少し間がありました。』


「考えただけ。」


『同じです。』


「カナちゃんは心配性だね。」


『先輩が、心配されるようなことをするからですよ。』


 その言い方が大学時代の私とよく似ていて、少し笑った。


「昔は私が言ってたのに。」


『昔の話です。』


「履修登録を忘れた時とか。」


『忘れてません。締切直前まで保留していただけです。』


「昼ご飯を三日続けて忘れたでしょう。」


『それも、必要性を感じなかっただけです。』


「そういうのを忘れたって言うの。」


 電話の向こうで、カナちゃんも小さく笑った。


『先輩が毎日持ってきてくれたから、困りませんでしたけど。』


「結果的に甘やかしたことになるのか。」


『そうですね。責任を取って、これからも面倒を見てください。』


「もう立派な大人でしょう。」


『先輩の前では、まだ立派な後輩です。』


 カナちゃんは時折こうして、大学時代から変わらない距離を、今も残してくれている。

 私にとっても、その関係はとても心地よかった。


 互いに別の仕事をし、住む場所も生活の時間も違っている。

 それでも、必要な時に連絡をすれば、昨日まで同じ部室にいたような口調で話せる。


 近づきすぎることもなく、離れすぎることもない。互いの生活を変えるほど踏み込むことはなく、それでも、必要な時には迷わず声をかけられる。

 長く続いた、穏やかな関係だった。


『先輩。』


「何?」


『一件、それらしいものがありました。』


 声の調子が変わった。


「黒川正臣?」


『同一人物かは分かりません。昭和六十二年に発行された地方の紀行雑誌です。瀬戸内周辺の島と祭礼を扱った特集号で、所蔵館が公開している目次画像に、黒川正臣という名前があります。』


「記事を書いた人?」


『そこまでは分かりません。執筆、撮影、取材協力のどれかです。目録には名前だけで、担当までは出ていません。』


「三影島の記事なの?」


『特集内に複数の島が含まれています。各記事の題名も一部しか登録されていないので、三影島が載っているかは確認できません。』


「でも、翌年に同じ名前の人が、島で婿役になってる。」


『同一人物なら、そうなります。』


 私の胸の奥で、ばらばらだった情報が、初めて細い線でつながった。


 昭和六十二年。

 地方雑誌。

 島の祭り。

 黒川正臣。

 翌年、島外から来た婿役。

 二の鳥居で止まった祭礼。


『先輩、まだ同じ人だと決めないでください。』


「分かってる。」


『同姓同名の可能性があります。現物を見ないと、三影島の記事があるかも、この黒川正臣が何を担当したかも分かりません。』


「現物は、どこにあるの?」


『所蔵館が二か所あります。一つは四国の県立図書館。もう一つは国立の図書館です。ただ、デジタル化はされていません。』


「取り寄せられる?」


『複写依頼か、所蔵館への閲覧申請ですね。古書店やオークションの過去在庫も探します。雑誌名で個人ブログや画像検索をかければ、表紙くらいは残っているかもしれません。』


 キーボードの音がさらに速くなる。問いかけへの返答が終わる前に、次の検索へ移っているようだった。


「カナちゃん、食事は?」


『食べてます。』


「本当?」


『冷めました。』


「先に食べればよかったのに。」


『今は、こっちの方が気になります。』


 その声には、もう先ほどまでの甘えた響きがほとんど残っていなかった。


 興味を持ったカナちゃんは、周囲のことが見えなくなる。

 時間も、食事も、明日の予定も、本人の中で意味を失う。

 対象と、自分の間にある情報だけが急に鮮明になり、ほかのすべてが背景へ押しやられる。


 大学時代から、何度も見てきた。

 こうなると止めることは難しい。

 無理に止めれば機嫌を損ねるのではなく、止められた理由そのものを理解できず、本気で不思議そうな顔をする。


「明日の仕事に響かない程度にしてね。」


『明日は午後からです。』


「寝る時間は?」


『必要になったら寝ます。』


「今夜中に全部調べなくていいんだよ。」


『全部は無理です。今日は、雑誌の現物へ到達する経路だけ確認します。』


「十分、仕事みたいになってる。」


『先輩からの依頼ですから。』


「正式にお金を払おうか?」


 打鍵音が止まった。


『いりません。』


「でも、調査に時間がかかるでしょう。」


『では、見つけたら褒めてください。』


「それでいいの?」


『先払いでもいいですよ。』


「見つけてから。」


『厳しいですね。』


「もう見つけかけてるでしょう。」


『それなら、半分くらい褒めてもらってもいいと思います。』


「はいはい。カナちゃんは偉いよ。」


『雑ですね。』


 不満そうに言いながらも、少し機嫌が直ったことは分かった。


     ◇


 通話を終えたのは、午後十一時を過ぎてからだった。切る直前まで、カナちゃんは検索を続けていた。


 私は何度も、明日でよいと伝えたが、返ってきたのは、


> もう少しだけです。


 という答えばかりだった。


 それが本人にとって、本当に少しだけで済まないことは知っている。


 最後に、部屋の鍵と窓を確認するように言われた。

 窓は二階にあると答えても、二階だから安全とは限らないと言われ、実際に鍵をかける音を聞かせるまで納得しなかった。


 通話が切れた後、部屋の中が急に静かになる。

 民宿の廊下を誰かが歩く。遠くで扉が閉まり、階下から食器の触れ合う音が聞こえた。窓の外では、海が暗闇の中で一定の音を立てている。


 私は座卓の上へ置いたスマートフォンを見る。カナちゃんへ送った祭礼執行簿の画像が、画面に残っていた。


 黄ばんだ紙。

 黒い墨。

 黒川正臣。

 島外。


 祭礼、二の下にて止む。

 直会、行わず。

 白布、二の下。

 拾わず。


 三十八年間、神社の帳面に収められていた名前は、私の端末へ移り、今度は島の外へ渡った。


 カナちゃんは、紙の方を探すと言った。その言葉を心強く思い、私は端末を伏せる。


 その夜、黒川正臣という名前が、何度検索されたのかは知らない。

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