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第五話 三影神社

 浜谷水産加工場を出た車は、海沿いの道をしばらく走った後、支所へ戻る道とは反対の細い脇道へ入った。

 窓を閉めているにもかかわらず、加工場で染みついた魚と消毒液の匂いが、まだ車内の空気へ薄く残っている。

 私の袖口にもついているらしく、腕を動かすたび、冷たい海水を含んだような匂いが鼻先へ戻ってきた。


 先ほどまで耳を満たしていた水音や機械の唸りは、加工場が見えなくなるにつれて少しずつ遠ざかっていく。

 代わりに聞こえ始めたのは、タイヤが湿った路面を擦る音と、車体の下で小石が跳ねる音だった。


 道は緩やかな上り坂になっている。


 港の周辺にはまだ民家が並んでいたが、山へ近づくほど建物の間隔は広くなり、空き地や、使われなくなった畑が増えていった。腰ほどの高さまで伸びた草の中に、錆びた農具が半分埋まり、細い竹で組まれた支柱だけが、何も植えられていない土の上に残されている。


 後ろを振り返れば、海はまだ見えた。灰色の屋根の向こうに、陽を受けた水面が細く光っている。

 けれど、車が一つ角を曲がるたび、その光は家や木々の間へ細く切り分けられ、やがて完全に見えなくなった。


 魚を切り、量り、箱へ詰める人々の姿も、加工機械の重い振動音も、もうここまでは届かない。


「三影神社には、普段から宮司さんがおられるんですか?」


 私が尋ねると、潮見さんは前を向いたまま首を横に振った。


「常駐の神職はいません。本土側にある神社の宮司が、兼務されています。」


「祭りの時だけ島へ来られる?」


「祭礼のほかには、月に一度くらいです。あとは正月や、誰かが祈祷をお願いした時ですね。」


「日常の管理は、保存会が?」


「はい。掃除や、参道の草刈り、注連縄の交換などは、島の人間でしています。浜谷さんが人を出すことも多いですし、奥本さんのご主人も、生前はほとんど毎日のように上がっていたそうです。」


 窓の外には、山の斜面が近づいている。

 道路の右側は木々に覆われた斜面で、左側は低い石垣の下へ細い谷が落ち込んでいた。谷底には水が流れているらしく、ときどき枝葉の向こうから、かすかなせせらぎが聞こえた。


「神社の記録も、役場で保管しているんですか?」


「一部は写しがあります。ただ、全部ではありません。」


「では、祭礼の名簿や過去の記録は、神社にも別に残っている?」


「そう聞いています。役場へ持ち込まれたものもありますが、保存会が管理している帳面や、宮司が保管している資料もありますので。」


「整理はされていないんですか?」


「古いものは、あまり。」


 潮見さんは、少し言いにくそうに答えた。


「行政の正式な公文書ではありませんし、誰がどの時期に書いたものか分からない帳面もあります。祭りのたびに、世話役が必要なことだけ書き足していったようなものがほとんどです。」


「内容が正確かどうか、確認する術もない、と?」


「そうですね。ただ、役場に残っていないことが書かれている可能性はありますので。」


 その答えを聞いた時、ふと奥本さんの言葉が浮かんだ。


 ――紙の頃でも、人は来た。


 役場の資料には、過去に祭礼へ関連した事故や死亡は確認されていないと書かれている。浜谷さんも、祭りの最中に怪我人が出た記録はないと言った。

 しかし、奥本さんは、言わない方がよいことがあると言い、浜谷さんは、祭りの前にも後にも人は死ぬと言った。


 同じ出来事について話しているのかもしれない。まったく別の話なのかもしれない。まだ、結びつけるには情報が足りない。


 それでも、別々の人間が、同じ場所を避けるように言葉を選んでいることだけは分かった。


「古い記録も、確認できますか?」


「保存会から、企画検討に必要な範囲で見てよいとは言われています。ただ、公開する場合は、改めて許可が必要でしょう。」


「もちろんです。まずは、役場資料との照合だけさせてください。」


「はい。」


 潮見さんはそう答えた後、一度だけ私を見た。


「秋原さん。」


「はい。」


「記録に書いてあることが、必ず事実とは限りませんので。」


「分かっています。」


「反対に、書かれていないから、何もなかったとも限りません。」


 その言葉に、私は少し驚いた。潮見さん自身、役場の資料を信じているのだと思っていた。


「何か、ご存じなんですか?」


「いいえ。」


 彼はすぐに否定する。


「ただ、古い記録は、そういうものだと思います。誰かが必要だと思ったことしか残りませんから。」


 誰かが必要だと思ったことだけが残る。そして、必要ではないと判断されたことは、起きていても残らない。


 私は仕事で、何度も似たものを見てきた。


 古い企業史。

 自治体の周年誌。

 観光案内。


 年表に載るのは、記録したい出来事だけだ。

 対立や失敗、責任の所在が曖昧な事故は、短い一文へ縮められるか、初めから存在しなかったように外される。


 それは必ずしも悪意からではない。


 誰かを傷つけないため。

 関係者の名誉を守るため。

 余計な混乱を避けるため。

 あるいは、ただ、書き残す者がいなかったため。


 沈黙には、隠蔽と呼ぶほど明確な意思がない場合も多い。


 それでも、何十年も経てば、書かれなかったことと、起きなかったことの区別はつかなくなる。


 車は、山の裾にある小さな空き地へ入った。


「ここから歩きます。」


 潮見さんがエンジンを止めると、車内を満たしていた微かな振動も消えた。その途端、外の静けさが窓ガラス越しに押し寄せてくる。


 空き地には、軽自動車が三台ほど停められる広さしかない。地面は砂利で覆われているが、隅には草が伸び、使われなくなった木製の柵が斜めに傾いていた。


 車を降りる。

 先ほどまで感じていた魚の匂いが、湿った土と落ち葉の匂いへ変わる。


 目の前に、鳥居が立っていた。


 ――これが、三影神社の一の鳥居。


 想像していたよりも小さい。

 人の背丈の二倍ほどだろうか。

 表面にはかつて朱色が塗られていたらしいが、その大半は雨と潮風に削られ、褪せた赤の下から黒ずんだ木肌が見えている。二本の柱の根元には苔が厚くつき、片方には細い蔓が絡んでいた。


 額束には、三影神社と書かれている。

 墨の色はまだ残っていたが、木の板そのものが反り、下端には亀裂が走っている。


 鳥居の左右には石灯籠が一基ずつ置かれていた。

 右側のものは火袋の角が欠け、笠の上には落ち葉が積もっている。左側の灯籠は比較的新しく見えたが、表面に刻まれた奉納者の名は、苔で半分隠れていた。


 その脇に、白い金属板の注意看板が立っている。


 夜間立入禁止。

 足元注意。

 野生動物に注意。


 黒い文字はまだ新しい。祭礼についても、特別な注意書きは何一つなかった。


 私は看板と鳥居が同じ画面へ収まる位置まで下がり、カメラを構えた。湿気のせいか、レンズの表面が薄く曇っている。


 布で拭きながら、手帳へ書き込む。


 駐車可能台数。

 夜間立入禁止。

 案内板更新要。

 英語表記。

 祭礼時立入範囲。

 緊急連絡先。

 参道所要時間。


 視線を手帳から上げると、一の鳥居の向こうに細い道が続いている。

 舗装はされていない。木々の間へ吸い込まれるように、緩やかに曲がりながら上っている。


 奥本さんは、場所を書くなと言った。


 行く道を書くな。

 数を書くな。


 けれど、訪れる者がいる以上、場所を知らせないわけにはいかない。

 夜間立入禁止とだけ書いても、どこから先が夜間立入禁止なのか分からなければ、注意書きとして機能しない。

 祭礼当日に見物人を止めるなら、その位置も明示する必要がある。


 道を隠すことは、安全を守ることにはならない。少なくとも、通常の観光事業では。


「この鳥居が、一つ目ですね。」


 私が言うと、潮見さんは少し間を置いてから頷いた。


「はい。一の鳥居です。」


「二の鳥居までは、どのくらいですか?」


「ゆっくり歩いて十五分ほどです。その先の境内までは、さらに十分くらいですね。」


 私はスマートフォンを取り出し、時刻を確認する。


「実際に測っておきます。」


「時間だけで十分だと思います。」


「石段の数や傾斜も分かる範囲で確認したいのですが。」


 潮見さんの視線が、鳥居の上へ動く。


 注連縄は張られていない。紙垂もない。

 ただ古い木だけが、道の入口を区切っている。


「正確な数は、載せなくてもよいと思います。」


「安全案内には必要かもしれません。」


「図面が残っていれば、そちらで確認できます。」


「分かりました。今日は、写真と所要時間を中心にします。」


 そう答えながら、奥本さんの言葉を思い出していた。鳥居は、数に入る。


 何を数える時に、鳥居を数へ含めるのだろうか。


 石段か。

 道の区切りか。

 祭礼の進行か。


 潮見さんへ尋ねても、また分からないと答えるような気がした。


 私はスマートフォンの計測を開始し、一の鳥居をくぐった。


     ◇


 鳥居の向こうへ入っても、空気が急に変わるわけではなかった。


 同じ山。

 同じ湿気。

 同じ土の匂い。


 けれど、数歩進んで振り返ると、空き地に停めた車が、すでに遠く見えた。


 道は思っていたよりも細い。二人が並んで歩ける場所もあるが、木の根が露出した部分では、前後へ分かれなければならない。

 昨夜まで降っていた雨が土へ残り、靴底が何度も浅く沈んだ。


 頭上には、椎や樫の枝が重なっている。

 雲の隙間から陽が差しているはずなのに、光は地面までほとんど届かない。

 葉の表面に溜まった水滴だけが、時折白く光り、風もないのに落ちてくる。肩へ冷たい滴が当たるたび、雨が再び降り始めたのかと見上げた。


 鳥の声は聞こえる。

 高い枝のどこかで、小さな鳥が短く鳴いている。虫の羽音もある。

 自然の音がないわけではない。


 それでも、海が近い島の山にいるのに、波音がまったく聞こえないことが、不思議だった。


 加工場の機械音も、船のエンジン音も、民家から聞こえる生活音もない。

 山の中へ入ったというより、島の音が届かない場所へ足を踏み入れたように感じる。


「祭りの時も、この道を上るんですよね。」


「はい。」


「照明は提灯だけですか?」


「婿役と関係者が持つ提灯だけです。常設の照明はありません。」


「幾つか照明を置いた方がいいでしょうね。見物人は、一の鳥居の外ですか?」


「これまでは、祭りを外部へ公開していなかったので、決まった見物場所自体がありませんでした。島の人間は、いつも直会の会場で待つか、自宅にいます。」


「今年からは、二の鳥居まで見物可能にする予定ですか?」


「中川支所長と保存会では、その案が出ています。ただ、安全面を考えると、一の鳥居付近に留めた方がよいという意見もあります。」


「浜谷さんは、二の鳥居まで?」


「そうです。」


「奥本さんは?」


「外へ見せること自体に反対です。」


 潮見さんの答えは簡潔だった。


 私は歩きながら、道幅や足場を確認する。


 撮影機材を置ける場所。

 人を立たせても通行を妨げない場所。

 雨が降った場合に滑りやすい部分。

 木の根が道を横切る地点。


 見物人を二の鳥居まで入れるなら、この道を夜間に往復させることになる。

 提灯だけでは危険だ。仮設照明が必要になる。

 しかし、照明を増やせば、祭礼の雰囲気は変わる。


 道を歩く人間の安全と、行事が持つ暗さを両立させなければならない。


 仕事として考えれば、検討事項は多い。そして、検討事項が多いほど、私は落ち着く。

 意味の分からない禁忌も、過去に何があったのか分からない記録も、工程へ分ければ扱える。


 立入区域。

 導線。

 照明。

 警備員。

 撮影位置。

 緊急時の避難経路。


 理解できないものでも、実務上の問題へ置き換えれば、少なくとも対処はできる。


 道の途中から、石を並べた段差が現れ始めた。

 整った石段ではない。

 大きさの違う平石を、土へ押し込むように置いただけのものだった。長い年月の間に沈んだ石もあり、傾いた面には苔が薄く広がっている。


 一段。

 二段。

 三段。


 数えるつもりはなかった。


 けれど、歩幅が不揃いになるたび、頭の中で自然に数字が進んでいく。


 八。

 九。

 十。

 十一。


「秋原さん。」


 前を歩いていた潮見さんが振り返る。


「はい。」


「何か、数えていますか?」


 私は足を止めた。


「石段を。駄目ですか。」


「数えなくても大丈夫ですよ。」


 声は穏やかだった。しかし、言葉が少し早い。


「図面で確認できるんですよね。」


「はい。」


「分かりました。」


 私は歩き始める。数えるのをやめようと意識した途端、どこまで数えたのかが気になった。


 十一だったか。

 十二だったか。


 鳥居を一つ含めれば、別の数になる。その考えが浮かび、すぐに打ち消す。


 私は石段を数えていた。だから、鳥居を数える理由はないはずだ。


     ◇


 上り始めて十分ほど経った頃、道の先に、二つ目の鳥居が見えた。

 一の鳥居よりも小さい。

 朱色はほとんど残っておらず、湿気を吸った木は黒く変色している。笠木の端には白い菌糸のようなものが広がり、柱の片方には細い亀裂が縦に走っていた。


 それでも、注連縄だけは新しい。太い藁が固く編まれ、中央から四枚の紙垂が下がっている。


 鳥居の手前には、地面へ打ち込まれた木の杭が二本あった。

 祭礼時には、杭の間へ縄を張るのだと潮見さんが説明する。


「ここから先は、婿役と祭礼関係者だけが入ります。」


「撮影同行も、ここまでですか?」


「今のところは、その予定です。」


「カメラマンも入れませんか?」


「はい。」


「では、二の鳥居の手前から、婿役の後ろ姿を撮影する形になりますね。」


 私は鳥居の少し手前で立ち止まり、画角を確認する。参道は、鳥居を抜けた先で右へ曲がっている。

 そのため、奥まで見通すことはできない。

 黒い木々の間へ道が入り込み、数メートル先で消えている。


 白装束の男が一人、提灯を持って鳥居をくぐる。後ろには、同じく提灯を持った祭礼関係者。

 見物人は縄の手前に立ち、その背中だけを見る。


 トップページの画像としては、非常に強い。


 人物の顔は見えない。道の先も見えない。

 見る者は、自分でその先を想像する。


 ――山の女様のもとへ向かう婿。


 その言葉を添えれば、説明はほとんど必要ない。


 私はカメラを構え、鳥居と道を何枚か撮影する。シャッター音が、木々の間へ乾いて響いた。


 一枚目。

 二枚目。

 三枚目。


 ファインダー越しに見ると、鳥居の向こうだけが周囲より暗い。

 露出の問題かもしれない。木々が密集しているため、光が入らないだけだろう。


 私は設定を変え、もう一度撮影する。

 その時、四枚ある紙垂のうち、一番右の一枚だけが、ゆっくり裏返った。


 風は感じなかった。ほかの三枚は動いていない。


 紙垂は一度裏返ると、その白い裏面をこちらへ向けたまま止まった。


「風が出てきましたか?」


 私が尋ねる。

 潮見さんは周囲を見た。


「いえ。あまり。」


「紙垂が動いたので。」


 彼は鳥居を見る。けれど、その時には、裏返った紙垂も元の向きへ戻っていた。


「山の中ですからね、風ではないですか。」


「そうですね。」


 それ以外の説明は必要なかった。


 鳥居の向こうから、鳥の声は聞こえない。

 こちら側では、少し離れた枝から、甲高い鳴き声が続いている。


 私は録音用のスマートフォンを取り出しかけ、やめた。音の違いまで観光サイトへ載せる必要はない。


 その時点では、そう考えた。


     ◇


 二の鳥居をくぐると、道の傾斜が急になった。

 木々の根が大きく露出し、土を掴むように斜面へ這っている。ところどころに平石が残っているものの、石段と呼べるほど規則的ではない。


 潮見さんは、先ほどよりも歩調を落とした。私は彼の足跡を踏むようにして上る。額と首に汗が滲んだ。


 背後を振り返ると、二の鳥居の向こうに、来た道が細く見えた。

 鳥居は、こちら側から見るとさらに古く、柱の裏には無数の小さな傷がついている。刃物で刻んだような深い傷ではなく、硬いものが何度も当たったような浅い線だった。


「この傷は?」


 私が尋ねると、潮見さんも鳥居の柱へ近づいた。


「分かりません。祭礼の道具が当たったのかもしれません。」


「古そうですね。」


「そうですね。」


 彼は指で触れようとはしなかった。私も、カメラで一枚撮るだけにした。


 二の鳥居からさらに十分ほど上ったところで、木々の間がわずかに開けた。

 広い境内を想像していたため、最初はそこが目的地だと分からなかった。


 三影神社の拝殿は、山の斜面へ押し込まれるように建っていた。


 黒ずんだ木造の建物。

 低く張り出した屋根。


 左右へ回廊が続くこともなく、正面に短い階段と、小さな賽銭箱があるだけだった。屋根瓦には苔が広がり、一部へ落ちた枝がそのまま引っかかっている。軒下には太い鈴緒が下がっていたが、先端の房は雨を吸ったのか黒く重そうに垂れている。


 拝殿の背後には、さらに小さな本殿がある。木製の柵と閉ざされた扉の向こうにあり、正面から内部を見ることはできない。


 境内の奥は、すぐ山の斜面だった。

 拝殿の後ろにも道が続いているように見えたが、低い柵で塞がれ、その先は濃い木々に隠れている。


 手水鉢には澄んだ水が溜まり、底に数枚の落ち葉が沈んでいる。


 狛犬は一対置かれていた。

 右側の狛犬は口元が欠け、開いた口の片側だけが不自然に平らになっている。左側には目立つ破損はないが、目の窪みに黒い汚れが溜まり、こちらを見ているような表情が強調されていた。


 古い。

 けれど、放置されてはいない。拝殿前の落ち葉は掃かれている。賽銭箱の表面も、鈴緒も、建物の古さに比べれば新しい。


 人の手が入っている。

 島に残る少ない人間が、何度も山を上り、壊れた部分を直し、草を刈り、注連縄を取り替えている。


 浜谷さんが言った、神社へ上がる道を掃く者もいなくなる、という言葉が蘇った。


 ここは、人がいなくなれば、恐らく数十年もしない内に山へと戻るだろう。屋根は落ち、石段は土へ埋まり、鳥居は倒れる。


 ――そうなった後も、山の女様だけが残るのだろうか。


 祭りをする者がいなくなれば、今鎮まっているものは、一体どうなるのだろう。

 それとも、決まったことを決まったようにする人間がいなくなったら、やはり何かが変わるのか。


 考えているうちに、自分が奥本さんの言葉を事実のように扱い始めていることに気づいた。


 やめよう。儀礼は、人が意味を与え、人のために続けるものだ。私の仕事は、人の営みに、人を集めることだ。


 私はカメラを構える。


 拝殿。

 鈴緒。

 賽銭箱。

 狛犬。


 写真を撮るたび、それらは観光サイトへ掲載できる素材へ変わっていく。加工場で魚が商品へ変えられていたように、神社の古さや暗さも、画面へ収めた瞬間から、人を呼ぶための材料になる。


「社務所は、こちらです。」


 潮見さんが、拝殿の右手にある小さな建物へ向かった。


     ◇


 社務所は、社殿よりも新しい木造平屋だった。


 それでも建てられてから数十年は経っているらしく、引き戸の木枠は湿気で膨らみ、潮見さんが鍵を開けた後も、すぐには動かなかった。

 両手をかけて何度か揺すると、戸は低い音を立てて開いた。中から、古い畳と紙の匂いが流れ出す。

 空気が長く閉じ込められていたためか、微かな黴臭さもあった。


「先に、窓を開けます。」


 潮見さんが室内へ入り、奥の窓を開ける。網戸の隅に張られていた蜘蛛の巣が、外から入った風に揺れた。


 六畳ほどの和室には、折り畳まれた座布団と、低い机が置かれている。壁際には木製の棚が並び、祭礼で使うらしい道具が収められていた。


 紙に包まれた提灯。

 木製の盃。

 紐で束ねられた木札。

 白い布が入っているらしい桐箱。

 古い会計帳簿。

 保存会と書かれた朱肉入れ。

 布袋へ入れられた拍子木。


 私は棚へ近づきかけ、足を止めた。


「道具の撮影は、まだしない方がよいでしょうか。」


「保存会と宮司へ、個別に確認した方がよいと思います。」


「分かりました。」


 奥本さんは、手順を書くなと言った。供物や道具についても、詳しく聞こうとすると口を閉ざした。


 撮影許可が出れば、白装束や提灯は魅力的な素材になる。木製の盃も、暗い背景で撮れば祭礼の古さを伝えられる。


 そう考えている時点で、私は浜谷さんに近いのだろう。


 使えるものは、何でも使う。ただし、同意と許可を得て、誤解を招かないよう丁寧に。


 違いは、ただそれだけなのかもしれない。


「帳面は、この辺りだと思います。」


 潮見さんが棚の下段へしゃがみ込む。

 古い座布団と、折り畳まれた幕の後ろから、布に包まれた数冊の帳面が出てきた。布は黄ばんでいる。


 結び目をほどくと、中から和綴じの帳面と、厚い大学ノートが混ざって現れた。


 『山神婚礼祭 執行記録。』

 一番上のものが、一番新しいのだろうか。表紙は油性ペンで書かれていた。


 頁を開くと、役場で見た資料とほぼ同じ内容が並んでいた。


 年。

 天候。

 婿役。

 祭礼責任者。

 宮司。

 直会参加人数。


 平成二十九年。

 中川健一、当時三十四歳。

 平成三十年。

 森川浩二、当時四十一歳。

 令和元年。

 藤尾俊介、当時二十一歳。

 令和二年。

 奥本良平、当時三十六歳。

 令和三年。

 岡本洋介、当時三十五歳。

 令和四年。

 潮見悠真、当時二十一歳。


 自分の名前が書かれた頁で、潮見さんの指が一瞬止まった。


「この時のことは、覚えていますか?」


「覚えています。」


「詳しく伺っても?」


「後日でもよいでしょうか。」


「もちろんです。」


 彼は頁をめくる。


 令和五年。

 森川大地、当時二十二歳。

 令和六年。

 浜谷宗一、当時五十二歳。

 令和七年。

 奥本良平、当時四十一歳。

 令和八年。

 藤尾俊介、当時二十八歳予定。


 令和八年の欄には、藤尾俊介、当時二十八歳予定、と鉛筆で記されている。その横には、まだ宮司や直会参加者の記載はない。


 これから行われる祭礼の記録だ。空白の多い頁を見ていると、すでに決められた未来の一部だけが、先に書かれているように感じた。


「もっと古いものは?」


「こちらだと思います。」


 潮見さんが、下から二冊目の帳面を開く。表紙には、墨で三影神社祭礼執行簿と書かれていた。


 紙は茶色く変色し、縁が柔らかく崩れている。頁をめくるたび、乾いた紙の擦れる音がした。


 昭和の初め頃から記録が残っている。ただし、毎年同じ形式ではない。


 婿役の名だけが書かれた年。

 天候と供物の数が細かく記された年。

 世話役の交代について長い文章が続く年。

 何も記録されず、年号だけが空白の中央へ置かれた頁。


 筆跡も違う。


 太い字。

 細い字。

 右へ傾いた字。


 文字の癖から、書き手が何人も変わってきたことが分かる。


 役場の資料のように整理されてはいない。だからこそ、その時々に書き手が何を重要だと思ったのかが、直接残っているようだった。


 昭和六十二年。

 婿役 森下和馬。

 天候、雨。

 祭礼、滞りなく執行。

 直会、五十二名。


 その次の頁をめくる。


 昭和六十三年。


 紙の中央に、ほかの年よりも少し濃い墨で、人の名が書かれていた。


 『黒川正臣』


 その横に、小さく、『島外』、とある。


「黒川正臣。」


 私は声に出して読んだ。社務所の中で、名前だけが不自然に明瞭に響いた。

 潮見さんは何も言わない。


「島外の方が、婿役を務めたことがあるんですね。」


「そのようです。」


「ご存じでしたか?」


「いいえ。」


「この方が、先ほど話に出た外から来た方なのでしょうか。」


「分かりません。」


 黒川正臣という名の下には、短い記録が続いていた。


 祭礼、二の下にて止む。

 直会、行わず。

 白布、二の下。

 拾わず。


 それだけだった。


「これは、祭礼が中断されて、直会も行われなかった、ということですよね。」


「そうだと思います。」


 怪我人の名もない。

 事故という文字もない。

 死亡、失踪、病気、いずれの記載もない。


 祭礼が途中で止まり、直会が行われなかったこと。

 二の下に白い布があり、それを拾わなかったこと。


 その二点だけが、三十年以上前の誰かにとって、残すべき事実だった。


「二の下というのは、二の鳥居の下ですよね。」


「おそらくは。」


「祭礼、二の下にて止む。」


 私はもう一度読む。


「二の鳥居のところで、中止したということでしょうか。」


「恐らく、そうだと思います。」


「なぜ?」


「……ここには書いてありませんね。」


「直会も行われていない。」


「はい。」


「事故の記載はないですね。」


「ありませんね。」


 潮見さんの声は平静だった。けれど、頁の端を押さえる指には、少し力が入っているように見えた。


「白布は、祭礼で使うものですか?」


「装束にも、供物の準備にも、白い布は使います。ただ、この記録が何を指しているかは分かりません。」


「拾わなかったことを、わざわざ書いている?」


「そうですね。」


「拾ってはいけなかったから、ですか?」


 潮見さんは、帳面から目を上げた。


「分かりません。」


 また、その答えだった。しかし、今回は、彼自身も分からないことを不安に感じているように見えた。


 奥本さんの家の前に落ちていた布を思い出す。泥へ半分沈んでいた。端から細い糸が出ていた。


 私が触れようとすると、潮見さんは、触らないでくださいと強く言った。


「この記録を、撮影してもよいでしょうか。」


 私が尋ねると、潮見さんはすぐには答えなかった。


「もちろん公開はしません。役場資料との照合と、社内での確認用です。掲載する場合は、改めて保存会と宮司の許可を取りますので。」


「そうしてください。」


「ありがとうございます。」


 スマートフォンを取り出す。帳面の上へ影が落ちないよう、位置を調整する。


 黄ばんだ紙。

 黒い墨。

 黒川正臣。

 島外。


 祭礼、二の下にて止む。

 直会、行わず。

 白布、二の下。

 拾わず。


 画面の中へ、頁全体が収まる。撮影ボタンを押す。

 小さな電子音がした。紙の中に三十八年間残されていた名前が、画像データへ変わる。


 スマートフォンの画面を閉じれば見えなくなる。けれど、もうこれは帳面の中だけにある名前ではない。


 後で確認するため、撮影した画像へ印をつけた。仕事で使う、いつもの操作だった。


     ◇


 帳面を元の布へ包み、棚へ戻した後、私たちは社務所を出た。境内は、来た時よりも暗くなっている。


 空を見上げると、山の上へ低い雲が集まり、陽を遮っていた。雨が降り始めるほどではない。

 それでも、木々の下では夕方が早く来たように見える。


 潮見さんが社務所の戸を閉め、鍵を回す。私は拝殿の正面へ立ち、最後にもう一枚、写真を撮ることにした。


 賽銭箱の奥に、閉じられた扉がある。鈴緒は真っ直ぐ垂れ、風はない。

 ファインダーの中で構図を整える。拝殿を中央へ置く。左右の狛犬を画面の端へ入れる。


 シャッターを切ろうとした時、軒下で小さく乾いた音がした。


 こん。


 何かが鳴ったというより、小さな木片へ別の何かが触れた程度の音だった。私はカメラから顔を上げる。

 また獣よけの道具でもあるのだろうか。


「潮見さん。」


「はい。」


「今、何か音がしましたか?」


 彼は社務所の鍵を引き抜きながら、拝殿を見た。


「古い建物ですから。風で何かが当たったのかもしれません。」


「風は、あまりありませんが。」


「山の上は、急に風向きが変わりますから。」


 そう言われれば、それ以上確認する必要はない。


 木材は湿気で動く。

 屋根の上から小石が落ちる。

 虫や鳥が入り込むこともある。


 古い神社なら、音がする理由はいくらでも考えられる。


 私は拝殿を撮影した。写真の中に、特別なものは写っていなかった。


     ◇


 帰り道、二の鳥居をくぐる前に、私は一度立ち止まった。鳥居の下には、何も落ちていない。


 湿った土。

 積もった葉。

 地面へ張り出した木の根。


 白い布はない。


 それでも、先ほど読んだ記録の文字が、実際の場所へ重なって見える。


 祭礼、二の下にて止む。

 直会、行わず。

 白布、二の下。

 拾わず。


 三十八年前、この場所に誰かが立っていた。島外から来た、黒川正臣という男。

 白い装束を着ていたのかもしれない。提灯を持ち、後ろには祭礼関係者が続いていたのかもしれない。


 そして、何らかの理由で、ここから先へ進まなかった。あるいは、進めなかった。


 それ以上のことは、記録にない。


 私は鳥居の手前から、参道の奥へカメラを向ける。黒い鳥居。その向こうへ続く、狭い道。

 画面の中央には誰もいない。


 ――白装束の男を立たせれば、よい写真になる。


 その考えが浮かんだ。


 黒川正臣がここで何を見たのか分からない。祭礼がなぜ止まったのかも分からない。

 それでも、構図としては強い。私はシャッターを切る。


 奥本さんは、場所を書くなと言った。


 行く道を書くな。

 数を書くな。

 これからすることを書くな。


 私は、一の鳥居から二の鳥居までの所要時間を測り、参道の写真を撮り、見物人を止める位置を確認した。

 神社の場所を地図へ落とし、祭礼の導線を考えた。

 そして、古い帳面の中に残っていた男の名前を、画面の中へ持ち出した。


 ――黒川正臣。


 その時の私には、ただ一つ、後で確認すべき項目が増えたようにしか思えなかった。


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