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第四話 浜谷宗一

 奥本さんの家を出てから、しばらく、車の中にはエンジンの音しかなかった。


 軽自動車は、家々の間を縫う細い坂道をゆっくりと下っていく。濡れた石垣の隙間から伸びた羊歯が、車体のすぐ横で震えている。

 雨は上がっているが、路面の窪みには濁った水が残り、タイヤが踏むたび、低い水音が腹の下を通り抜けた。


 窓の外には、古い家が続いている。開いた窓。干された肌着。軒下に吊られた玉葱。植木鉢の土へ刺された、色褪せた風車。


 確かに人は住んでいる。それなのに、やはり誰も外へ出てこない。

 車が通り過ぎる直前、二階の薄いカーテンがわずかに動いた。風かもしれない。けれど、もしかしたら私たちが来たことを、家の奥から確かめている者がいるのかもしれない。


 膝の上に置いた手帳を開く。


 奥本サヨ氏。

 八十六歳。

 祭礼保存会元世話役の妻。

 山の女様。

 呼ばんための名。

 話は、勝手に大きくなる。

 紙の頃でも、人は来た。

 今は、紙より速い。

 書いたら、読む者がおる。

 読んだら、する者がおる。

 文字は、人を操る。


 書き留めた言葉は、どれも短い。短いからこそ、意味を一つに定められない。


 奥本さんが恐れていたのは、山にいる何かなのか。それとも、話を聞いた人間なのか。あるいは、二つを分けて考えること自体が、すでに間違っているのか。


 手帳の文字を見ているうちに、玄関前の濡れた土が浮かんだ。泥へ半分沈んだ、細長い布。


 ――白きものを拾うな。


「あの布は、何だったのでしょう。」


 私が口を開くと、潮見さんの肩がわずかに動いた。

 彼は前を見たまま答える。


「……分かりません。」


「祭りで使う白布ではないんですか?」


「分かりません。」


「でも、触らないように言いましたよね。」


「はい。」


「なぜですか?」


 潮見さんはすぐには答えなかった。

 道が右へ曲がる。バックミラーの中から、奥本さんの家が消える。家の背後に迫っていた山だけが、黒い塊のように残っている。


「……分からないからです。」


「分からないから?」


「分からないものに、わざわざ触る必要はありませんから。」


 もっともな答えだった。


 道端に落ちた、由来の分からない布。

 泥に汚れ、何に使われたものかも分からない。たしかに衛生上の理由だけでも、素手で触れない方がよい。

 潮見さんは、迷信を理由にしていない。ただ、分からないものへ触れないと言っている。


 それでも、彼があの布を一度も見ようとしなかったことまで、その説明で納得するには無理があった。


「すみません。」


 潮見さんが言う。


「奥本さんは、少しきつかったですよね。」


「いえ。大変貴重なお話でした。」


「ご気分を、害されませんでしたか?」


「大丈夫です。むしろ、外部公開をどう思われているのか、率直に伺えてよかったと思います。」


 私は手帳を閉じる。表紙の角が、汗ばんだ掌へ貼りついた。


「島の人間が全員、奥本さんと同じ考えというわけではありません。」


「そうだと、ありがたいのですが。」


「これからお会いする浜谷さんは、かなり前向きな方です。」


「浜谷宗一さん、でしたよね。」


「はい。水産加工場を経営されています。祭礼保存会の副会長で、漁協や青年会にも顔が利きます。今回の観光事業も、最初から賛成してくださっています。」


「島の中心的存在、ということでしょうか?」


「中心という言い方が正しいかは分かりませんが……浜谷さんが動くと、話は早いですね。」


 潮見さんの声には、信頼があった。けれど、その言葉のあとには、ごく短い間が残った。


「……一方で、話が早いことと、皆が納得していることは、同じではありませんが。」


「強引な方、ですか?」


「決して悪い意味だけでは、ありません。」


 潮見さんは、細い坂を下りきったところで、対向車を避けるため車を端へ寄せた。錆びた軽トラックが、窓のすぐ横を通っていく。運転席の老人が潮見さんへ手を上げる。潮見さんも片手を上げて応じた。


「浜谷さんは、本当に島のことを考えています。台風の後に道が塞がれれば、誰より先に重機を出します。祭りの準備にも人を出しますし、商店へ荷物が届かない時は、加工場の船で運んだこともあります。」


「皆さんに頼りにされている方、なんですね。」


「はい。」


 潮見さんは即答した。


「だからこそ、止めにくいんです。」


「止める必要があるんですか?」


「いえ……。」


 潮見さんは小さく首を振る。


「今のは、忘れてください。」


 忘れてほしいと言われた言葉ほど、後に残る。なんとなく、役場の立場が見えてきた気がした。


 発注元は、三影町役場である。しかし、今回の企画は、役場だけの発案ではないのかもしれない。

 地域の衰退を憂う誰かが強く働きかけ、それを行政が事業の形へ整えた。これまで携わってきた市町村案件でも、そうした例は珍しくなかった。


 役場に熱がないのではない。おそらく、熱の持ち方が違うのだ。


 車は山道を抜け、海沿いの道へ出る。

 さっきまで家々の屋根に隠されていた空が、急に広くなった。雲の切れ間から薄い陽が差し、海面の一部だけが白く光っている。


 窓を閉めていても、潮と魚の匂いが分かった。


     ◇


 浜谷水産加工場は、港から少し離れた海沿いに建っていた。白いトタン張りの、大きな平屋だった。


 壁の下部には海風に削られたような錆が広がり、雨樋の継ぎ目からは黒い筋が何本も垂れている。

 屋根の端にとまっていた海鳥が、私たちの車が近づくと、重そうに羽ばたいて飛び去った。


 建物の脇には、青いコンテナと発泡スチロール箱が積み上げられている。黄色いホースが濡れた地面を這い、その先から水が細く流れ続けていた。

 排水溝の金網には、銀色の鱗が何枚か貼りつき、陽を受けて不自然なほど明るく光っている。


 車を降りた瞬間、冷たい空気が足元を通り抜けた。冷蔵設備から漏れる冷気なのか、海風なのかは分からない。


 魚と塩と氷、それに消毒液の匂いが混じっている。鼻の奥へ刺さるような臭気ではない。

 ただ長くそこにいれば、服や髪へ薄く染み込んで取れなくなりそうな匂いだった。


 加工場の中では、絶えず水が流れていた。


 ステンレスの台へ魚が置かれる、湿った音。

 刃物が骨へ当たる、短い硬音。

 箱を床へ下ろす音。

 冷蔵設備の低い唸り。

 働く人たちの声。


 どれか一つが目立つのではなく、全部が重なり、建物そのものが大きな生き物のように鳴っている。


 白い作業着を着た女性が、魚の腹を手早く開いていた。

 隣では、高齢の男性が氷を詰めた箱を台車へ積んでいる。彼が箱を持ち上げようとしたところへ、奥から若い男性が走ってきて、黙って片側を持った。

 魚を洗う水が、薄い血を含んで床を流れていく。白く泡立ちながら排水溝へ吸い込まれ、そのあとには、また新しい水が流れ込む。


 山の女様は、水でも、獣でも、人でも欲しがる。奥本さんの言葉が浮かんだ。


 ここでは、人間が海から魚を引き上げ、切り分け、重さを量り、箱へ詰め、本土へ送り出している。


 命だったものが、決められた手順で商品へ変えられていく。

 それを残酷だとは思わなかった。


 仕事だ。

 人が食べ、働き、島で生きていくために必要な仕事。


「ここで働いている方は、多いんですか?」


 私が尋ねると、潮見さんは加工場の入口を見ながら答えた。


「常時は十数人です。繁忙期には、もう少し増えます。」


「島の方が中心ですか?」


「半分以上は島内です。ここか漁協関係で働いている方が多いですね。」


「こちらがなくなれば?」


 潮見さんは、少しだけ視線を下げた。


「何世帯かは、島を出ると思います。」


 加工場が一つなくなる。

 職を失った家族が島を出る。

 商店の客が減る。

 船の利用者が減る。

 草を刈る者が減る。


 祭りの支度をする者が減る。


 それぞれ別の問題に見えて、同じ場所でつながっている。


 その時、機械音の向こうから、ひときわ大きな声が飛んできた。


「おお。来た来た!」


 白い作業着の上に紺色の防水前掛けを着けた、大柄な男性が歩いてくる。


 浜谷宗一。

 五十四歳。


 短く刈った髪には白いものが混じり、日に焼けた顔は丸い。厚い首。広い肩。前掛けの下には、年齢相応に突き出た腹がある。片手には青いゴム手袋をつけたままだった。


「東京からよう来てくれました。」


 潮見さんが紹介するより先に、浜谷さんは手袋を外した。


 近くにいた従業員がその背に声を掛ける。


「社長、冷蔵車の業者から電話です。」


「折り返す。先に三番の箱を中へ入れといてくれ。陽に当てるなよ。」


「分かりました。」


「腰、まだ痛いんか。」


「もう大丈夫です。」


「大丈夫言うやつほど大丈夫じゃない。重いもん持つな。」


 浜谷さんはそれだけ言うと、私へ向き直った。つい先ほどまで魚に触れていた手を、作業着の脇で念入りに拭く。


「お仕事中にすみません。」


 潮見さんが短く言い、頭を軽く下げた。


「いやいや、こっちがお願いしたんじゃけえ。浜谷宗一です。よろしくお願いします。」


「秋原澪です。本日はお時間をいただき、ありがとうございます。」


 差し出された手を握る。


 指が太く、掌には硬い部分がいくつもあった。温かい手だったが、爪の際には、洗っても落ちきらなかったらしい赤黒い色が薄く残っている。


「外の人が見て、来てみたいと思う島にしてくれるんでしょう。期待しとります。」


「ありがとうございます。島の魅力が伝わる形を考えたいと思っています。」


「海も祭りも、使えるものは何でも、使ってください。」


 何でも、を少し強調し、浜谷さんは笑った。


「少しくらい怖い方が、覚えてもらえるでしょう。」


 声も、笑い方も大きい。奥本さんの家に残っていた、言葉を発するたびに空気が沈んでいくような感覚が、急に遠ざかった。


 明るい人だった。少なくとも、そう見えた。


「奥本さんのところへ行かれたんでしょう?」


「はい。先ほど、お話を伺いました。」


「怖いことを、ようけ言われましたでしょう。」


「外部へ公開することには、かなり慎重でいらっしゃいました。」


「そうでしょうなあ。」


 浜谷さんは笑ったまま、加工場の奥へ視線を向けた。少し離れた場所で、女性が魚の入った箱を持ち上げようとしている。それに気づくと、浜谷さんは片手を上げた。


「それ、持たんでええけえ。俊介にやらせろ。」


 女性は苦笑しながら箱を置いた。浜谷さんは、こちらへ顔を戻す。


「まあ、あの人には、あの人の理由があります。」


「理由を、ご存じなんですか?」


「昔から、奥本の家は祭りのことを背負いすぎとるんです。」


「背負いすぎている?」


「ご主人が長いこと保存会の世話役をしとりました。何かあれば、良いことも悪いことも、全部あの家へ話が行く。」


 口調は軽い。けれど、奥本さんを迷信深い老人として笑っているわけではなかった。


「でも、ただ怖いから閉じておけ、と言うだけでは、今の島は守れません。」


 その一言だけ、声が低くなった。


「立ち話も何ですから、事務所へどうぞ。魚の匂いは、帰るまで取れんかもしれませんが。」


 浜谷さんはもう一度明るく笑った。


     ◇


 事務所は、加工場の脇へ継ぎ足すように作られたプレハブだった。扉を開けると、古い空調機が大きな音を立てている。

 外の加工場よりは涼しいが、魚と消毒液の匂いは薄く入り込んでいた。


 壁際に事務机が二つ。

 擦れた茶色の応接セット。

 小さな流し台。


 冷蔵庫の扉には、従業員の勤務表と、町の健康診断のお知らせが磁石で留められている。壁には、加工場の求人票、月別の出荷表、連絡船の時刻表。


 その隙間に、山神婚礼祭の写真が数枚貼られていた。


 暗い参道。

 提灯を持つ男たち。

 直会の長机。

 白装束姿の浜谷さん。


 しかし、祭りの写真よりも、求人票と出荷表の方が多い。


「……浜谷さんも、以前婿役を務められたんですね。」


「令和六年です。」


 浜谷さんは、自分が写っている写真を指で叩いた。


 写真の中では白い装束を着て、鳥居の前に立っている。今よりも随分表情が硬く見えた。


「山の神さんも、こんな婿では困ったでしょうな。」


 自分の腹を叩いて笑う。私は写真へ近づく。


「怖くは、ありませんでしたか?」


「怖いというより、暗かったですよ。」


「潮見さんも、同じことをおっしゃっていました。」


 隣に腰を掛ける潮見さんも、僅かに戸惑ったように頷いた。


「そりゃ、山ですからな。暗いのは当たり前でしょう。」


 浜谷さんは冷蔵庫を開け、私たちの前へペットボトルのお茶を置いた。

 冷蔵庫の奥に、従業員の名前が書かれた弁当箱がいくつも並んでいるのが見えた。遅番の従業員のものだろうか。


「提灯を持って上がるんですが、それでも見えるのは足元くらいです。周りは真っ暗。後ろから年寄りが黙ってついてくる。あれは、知らん人が見れば怖いでしょうな。」


「見せ方次第で、かなり印象に残ると思います。」


「でしょう!」


 浜谷さんは満足そうに頷いた。


「秋原さん。そこなんです。三影島には、大きな温泉もない。洒落たホテルもない。海はきれいですが、四国で海のきれいなところなんか、ほかにもいくらでもある。」


「三影島にしかないものが必要だと。」


「そうです。うちにしかないのは、あの祭りと神社ですわ。」


 浜谷さんは、机の端に積まれた書類の中から、一枚の求人票を引き抜いた。


 正社員募集。

 水産加工補助。

 未経験可。

 島外からの応募者には住宅相談あり。


 下部は、何度もコピーされたために潰れた文字が並んでいる。


「恥ずかしい話ですが。これ、半年出しとるんです。」


「応募は?」


「二人。面接まで来たのは一人です。それも、島へ移る話をしたら、断られました。」


 浜谷さんは求人票を元の場所へ戻す。


「昔は、この加工場にも二十人以上おりました。漁師も、今の倍近くおった。祭りの日は、頼まんでも若い者がようけ集まった。」


 外で、台車の車輪が床の継ぎ目を越える音がする。ごとん、ごとん、と一定の間隔で遠ざかっていく。


「今は、祭りの準備を頼むにも、まず仕事の休みを合わせにゃならん。消防団も、草刈りも、船着場の掃除も、結局、同じ顔が集まります。」


「島を出た若い方は、戻りたくても仕事がない。」


「仕事だけでもありません。仕事があっても、店がない。病院がない。子どもの学校がない。船が減れば、通うことも難しい。」


 浜谷さんは、壁に貼られた連絡船の時刻表を見る。赤いペンで、一本の便へ丸がつけられている。


「何か一つ残せばええという話ではないんです。生活は、全部つながっとる。」


 先ほど私が加工場の外で考えたことを、この人は長い間、現実として引き受けてきたのだろう。


「何もしなくても、島は変わります。」


 浜谷さんは言う。


「……変えないことも、一つの選択、と考えておられる方もいらっしゃるでしょうね。」


「今のまま残るというなら、それも分かりますがね。」


 机の上の缶コーヒーへ、浜谷さんの太い指が触れる。けれど、開けようとはしない。


「けど、何もせんかったら、今のまま残るんじゃないんです。何もない方へ、変わっていくんです。」


 窓の向こうを、冷蔵車がゆっくり横切った。荷台の扉を閉める音が、事務所の薄い壁を震わせる。


「店が閉まる。船が減る。家が空く。神社へ上がる道を掃く者もおらんようになる。祭りを変えずに守ろうとした結果、祭りそのものがなくなったら、一体我々は何を守っとったことになるんですか。」


「そのために、祭りを変える、と。」


「使えるものは、何でも、使わんといけません。もうこの島には猶予はないんです。」


 浜谷さんは、ためらわなかった。


「不敬だと言う人もおります。でも、今いる人間が食べていけんかったら、祭りも神社も残らんのです。」


 加工場では、魚が切られている。大きさを揃え、重さを量り、箱へ詰められている。海にいたものを、人が使える形へ変えている。


 祭りも同じなのだろうか。


 山に残されてきたものを、外の人間が理解し、買い、訪れられる形へ変える。

 私は、それをするために呼ばれている。


「奥本さんは、山の女様という呼び方も、外へ出すべきではないと考えているようでした。」


「あの人は、そう言うでしょうな。」


「浜谷さんは、使ってよいと?」


「ええ名前でしょう。覚えやすい。インパクトもある。」


 即答だった。


「呼ぶための名前ではない、と伺いました。」


「呼ばんための名でも、外の人には関係ないでしょう。」


「なぜですか?」


「外の人は、本当の名前なんか、最初から知らんのですから。」


 缶コーヒーのプルタブが起こされる。かしゅ、と軽い音がした。


 その理屈は正しい。本当の名を知らない者は、本当の名を呼びようがない。


 山の女様という言葉が、真の名を避けるための代用品でしかないなら、外から来る人間にとっては、ただの呼称だ。


 私は頷きかける。けれど、言葉が喉の奥で止まった。


 大勢が、同じ名前を知る。

 同じ写真を見る。

 同じ山を思い浮かべる。


 本当の名である必要は、あるのだろうか。


 ――呼べば、寄る。


 ふと、その言葉が脳裏をよぎった。考えた理由は、自分でも分からなかった。


 私はペットボトルの水滴を、親指で拭った。事務所の中は先ほどの民家より大分涼しい。少し肌寒いほどだった。


「奥本さんから、以前、祭りについて取材か何かで、人が来たと伺いました。」


 私が尋ねると、浜谷さんの手が止まった。ほんの一瞬だった。

 缶の縁へ口をつける前に、そのまま机へ戻す。


「昔の話です。」


「雑誌でしょうか。」


「地方の雑誌に、小さく載ったことがありますな。」


「記事を読んだ方が、祭りを見に来たのですか?」


「何人かは来たようですわ。しかし、今ほど交通も便利ではない頃ですから、大した人数ではなかったようです。」


「何か問題があったのでしょうか。」


「問題。」


 浜谷さんは、腕を組み、その言葉を一度口の中で転がした。


「外の人が来れば、まあ面白く思わん者もおります。見せるべきではなかったと言う者もおるでしょう。逆に、せっかく来たんだから、もっと見せればええと言う者もおるわけです。」


「島の中で意見が分かれた、と。」


「小さい島ですからな。一度割れた話は、何年経っても元へ戻りません。」


「記事を書いた方の名前は?」


「覚えておりません。」


 答えは早かった。


 私は手帳へ視線を落とさず、その顔を見た。笑ってはいない。目を逸らしてもいない。


 嘘をついているようには見えなかった。同時に、何も知らない人の顔にも見えなかった。


「……その年の祭りで、何か事故はありませんでしたか?」


「祭りの最中に、怪我人が出たという記録はありません。役場でもそう説明されたでしょう。」


「はい。僕が生まれる前の話ですが、役場に残る記録では、何も確認できませんでした。」


 潮見さんが答えた。声は平静だったが、口元がわずかに強張っている。


 祭りの最中に。


 言葉の範囲が、やけに狭く定められているように感じる。気のせいだろうか。


「奥本さんは、過去に何かあったような言い方をされていました。」


「あの人は、起きたことを何でも祭りへ結びつけるんです。」


「では、祭りの後に、何かあったのですか?」


 浜谷さんは、私を見る。潮見さんは黙ったままだ。空調機の音が大きい。


 それでも、その数秒だけ、外の加工場まで静かになったように感じた。


「人が生きとれば、事故もあります。病気もあります。」


 浜谷さんは言う。


「祭りの前にも後にも、人は死にますよ。」


 奥本さんと、同じ言葉だった。島でも、本土でも、人は死ぬ。


 同じ出来事を指しているのかは分からない。嘘を吐いている様子にも見えない。


「しかし、なんでもかんでも山のせいにしたら、それこそ亡くなった人にも失礼でしょう。」


 その声には、怒りではなく、疲労があった。何度も同じ話を聞かされ、何度も否定してきた人間の声に聞こえた。


「……そうですね。」


 私はそれ以上尋ねなかった。浜谷さんは、缶コーヒーを一口飲んだ。机へ戻した缶の底が、輪染みの上へ正確に重なった。


「他に聞かれたいことは?」


 少し開いてしまった間を埋めるように、潮見さんが口を挟んだ。


「……そうですね。実は、祭りの手順や禁忌について、どこまで公開するべきか迷っています。」


 話題を変えると、浜谷さんの表情が少し緩んだ。


「禁忌。」


 浜谷さんは、その言葉を確かめるように繰り返した。


「ええ響きですね。」


「良い、ですか?」


「してはいけないことがある方が、人は興味を持つでしょう。」


 奥本さんの声が脳裏に蘇る。


 見てはいけんと書いたら、見る。

 入ってはいけんと書いたら、入る。

 拾ってはいけんと書いたら、拾う。


「禁止されている行為を具体的に紹介すれば、実際に試す人が出る可能性がありますが……。」


「立入禁止の場所には、人を置けばええ。ロープも張る。安全管理は役場と保存会で考えますわ。」


「しかし、恐らく山道の安全だけではありません。祭礼の意味が歪められたり、島の方がご不快に思われたりする可能性もあります。」


 浜谷さんは、缶を持ったまま少し考えた。


「秋原さん。」


「はい。」


「意味というのは、残った人間が決めるもんではないですか。」


「残った人間、ですか?」


「昔の人が何を思って祭りを始めたか、神さんがいつからおるんか、誰か知っとるんですか。神さんが何を望んどるかも分からん。年寄り同士でも、言うことが違いよるんですよ?」


「だから、今の人間が意味を決め直してよい、ということでしょうか?」


「決め直す、というより、今の人間が続けられる形にせにゃならん、ということですな。」


 浜谷さんは、写真の中の白装束姿を見た。


「昔の通りにせいと言われてもね。そりゃ昔は人がおった。子どもも、漁師も、祭りを手伝う若い衆もようけおったですわ。」


 写真の中には、大勢の島民が写っている。近年のものだ。


 それでも、画面の端にいるのは、ほとんどが中高年だった。


「昔のままにせいと言うなら、昔の人の数も戻してくれと、正直思います。」


 強い言葉だった。けれど、声は大きくなかった。


 そこにあったのは怒りより、どうにもならないものへ長く耐えてきた人の疲れだった。


「昔の形を守って、誰もおらんようになるのと、少し形を変えて残すのと、どちらが祭りを守ることになると思いますか?」


 もう浜谷さんの中では結論が出ているのだろう。長く苦しみ、悩み抜いた結果なのだと、その声が言外に語っていた。


「とても、難しい問題です。」


「難しいと言うとる時間も、もう残ってないんです。私らにはね。」


 浜谷さんは笑う。先ほどの豪快な笑い方ではない。口元だけを持ち上げた、短い笑みだった。


「だから、わしは秋原さんに期待しとります。」


「私に?」


「はい。怖くてもええ。最初は面白半分でもええ。まず来てもらわんと、何も始まらんのです。」


「面白半分でも?」


「最初は、それでもええんです。来て、島の名前を覚えて、それで少しでも良いところがあると、記憶に残れば。」


「その後は?」


「その後で、もしもっと人が来てそれが新しい産業になればもちろんありがたいです。それに、きっと可能性もあるでしょう。」


「可能性とは?」


 浜谷さんは窓の外を見た。ガラス越しに、白い作業着を着た人たちが動いている。


 魚を洗う者。

 箱へ氷を詰める者。

 冷蔵車の荷台へ商品を運ぶ者。


「この島が、これから先も続いていく可能性です。」


 浜谷さんは言う。


「景色だけじゃない。祭りだけでもない。その奥で、飯を食って、働いて、年を取る人間がおる。皆を、守らないとあかんでしょう。」


 机の上に置かれた彼の手を見る。


 太い指。

 削れた爪。

 魚の血が薄く残った皮膚。


 この人は祭りを利用しようとしている。

 同時に、加工場を残そうとしている。

 船を残そうとしている。

 商店を残そうとしている。

 島を出た若者が、いつか戻ろうと思った時、戻れる場所を残そうとしている。


 島の人々の生活を、守ろうとしている。


 どれも、同じ手で行われている。


 潮見さんは、少し顔を伏せて口を開かなかった。


 その時、事務所の外を、一人の男性が通り過ぎた。


 黒い作業着。

 細い背中。

 肘までまくった袖から、日に焼けた腕が出ている。

 片手には、濡れた白いタオルを持っていた。


「俊介!」


 浜谷さんが呼ぶ。男性の足が止まった。すぐには振り返らない。


 手にしていたタオルを一度広げ、端を合わせ、折り直す。

 それから、事務所の入口へ戻ってきた。


「ちょっと来い。」


 男性は無言で扉の前に立つ。


「今年の婿役です。」


 浜谷さんが言う。


「藤尾俊介。うちで働いとります。」


「藤尾です。」


 声は低く、大きくはない。


 二十八歳。

 短い黒髪。日に焼けた肌。目の下に、薄い影がある。不健康そうには見えない、ただの睡眠不足だろうか。

 痩せ気味ではあるが、ごく普通の青年に見えた。


 彼は私を見る前に、浜谷さんを見た。次に潮見さんへ目を向け、最後に私を見る。


「秋原澪です。この島の観光サイトの制作を担当させていただくことになりました。本日はお仕事中に申し訳ありません。」


「いえ、大丈夫です。」


「祭りの撮影については、改めてご相談させてください。顔を出すかどうかも含め、藤尾さんのご意向をしっかり確認させていただいた上で決めてまいりますので。」


「はい。」


「ご不安なことや、撮影されたくない場面があれば、どうか遠慮なくおっしゃってください。」


 藤尾さんの指が、折り畳んだタオルの端を押した。布から水が一滴、床へ落ちる。


「大丈夫です。」


「顔を出すことも、ですか?」


「ええ、大丈夫です。」


「まだ決めなくても構いませんよ。後から変更もできますし……。」


「いえ、大丈夫です。」


 答えるたび、彼の視線はほんの一瞬、浜谷さんの方へ動く。確認しているようにも見える。無意識の動作かもしれない。


「俊介。東京からわざわざ来てくれたんじゃ。今年は大役だぞ。」


 浜谷さんが笑う。


「観光公開の最初の年じゃけん、頼むぞ。島のためじゃけえ。」


「はい、分かってます。」


 藤尾さんは頷く。タオルが、もう一度強く握られる。


「藤尾さん。」


 潮見さんが静かに声をかけた。


「撮影や祭礼のことで不安があれば、役場へ直接言ってください。」


「大丈夫です。」


「後で電話でも構いませんから。」


「いえ、大丈夫ですから。」


 二度目の声は、わずかに小さかった。


「ほら。本人も大丈夫言うとるじゃないですか。」


 浜谷さんが笑う。しかし、藤尾さんの表情は特に変わらなかった。


「浜谷さん。」


 潮見さんの声が、少し硬くなる。


「本人の意思確認は、改めて役場から個別に行います。」


 事務所の空気が変わった。空調機の音が、急に大きく聞こえる。


 浜谷さんは潮見さんを見る。怒ってはいない。けれど、先ほどまでの笑みは消えていた。


「潮見くん。島に住んどったら、皆、何かしら断れん役を持っとるんですよ。」


「それでも、確認は必要です。」


「祭りも、消防団も、草刈りも、誰かがせにゃならん。あんたのおった都会みたいに、やりたい人だけで回せるほど、人がおらんのよ。分かっとるじゃろ。」


 穏やかな声だった。それだけに、譲るつもりがないことがよく分かった。

 浜谷さん自身も、望んだ役だけを引き受けてきた人ではないのだろう。


 加工場。

 保存会。

 港。

 祭り。


 困った時には真っ先に動くと、潮見さんは言った。

 島に残るということは、役割から逃げないことと、いつの間にか同じ意味になっているのかもしれない。


 藤尾さんは、二人の間で少し戸惑うように黙っている。彼の靴の先から、床へ細い水の跡が伸びていた。


 加工場の機械音に紛れて、何かが鳴った。低く、乾いた音だった。


 こん。


 私は、すぐには音の正体を考えなかった。木箱か、道具がぶつかったのだと思った。加工場には、似たような音がいくらでもある。


 けれど、藤尾さんの手が止まった。濡れたタオルを握ったまま、指だけが固まっている。


 誰も何も言わない。


 水の流れる音。

 刃物が台へ触れる音。

 冷蔵設備の唸り。


 その中に、今の音だけが、しばらく残っているように感じた。


 藤尾さんが、ゆっくり窓の外を見る。音がしたのは加工場の奥だった。しかし、彼が見ているのは、反対側だった。


 事務所の小さな窓。

 青いコンテナと冷蔵車の向こう。

 島の中央にある山。


「藤尾さん?」


 私が呼ぶと、彼は遅れて振り返った。


「すみません。」


「具合が悪いんですか?」


「いえ、大丈夫です。」


 また、その言葉だった。藤尾さんは深く頭を下げる。


「仕事へ戻ります。」


「ああ。引き止めて悪かったな。」


 浜谷さんが言う。

 藤尾さんは小さく頷き、事務所を出ていった。


 扉が閉まる直前、彼の肩が枠へ軽く触れた。足を止めることも、振り返ることもなく、そのまま加工場の奥へ消える。


「少し気が小さいでしょう。」


 浜谷さんは、困ったように笑った。


「昔から、あんな子なんです。」


 私は窓の外を見る。海沿いの加工場からも、山は見えた。


 建物と冷蔵車の隙間に、黒い斜面が細く残っている。島のどこへ行っても、あの山だけは視界の外へ出ない。


     ◇


【現地出張報告四/秋原澪】


 面談対象:

 浜谷宗一氏 五十四歳


 所属・役職:

 浜谷水産加工場代表。

 山神婚礼祭保存会副会長。

 令和六年度婿役。

 三影島観光振興事業推進者。


 面談所感:

 島内雇用、交通、商業、祭礼の担い手不足に対し、強い危機感を有する。

 水産加工場は島内の主要雇用先の一つであり、同氏の影響力は経済面・地域運営面の双方に及ぶ。

 祭礼の文化的変容に伴う懸念より、島および祭礼の存続を優先する傾向。

 過去の紙媒体による祭礼紹介について認識あり。詳細は確認できず。


 面談対象:

 藤尾俊介氏 二十八歳


 所属:

 浜谷水産加工場勤務。

 令和八年度山神婚礼祭婿役予定。

 令和元年度婿役経験あり。


 確認事項:

 撮影、取材、顔出しについて、いずれも「大丈夫です」と口頭回答。

 回答時、勤務先代表者兼祭礼保存会副会長である浜谷宗一氏が同席。

 本人のみでの再確認を要する。


 備考:

 面談中、加工場内で木材同士の接触音に似た音を一度確認。

 藤尾氏は作業を停止し、音源とは異なる方向にある窓外を注視。

 体調を確認したところ、「大丈夫です」と回答。


     ◇


 聞き取りを終え、加工場の外へ出る。雲の切れ間が広がり、濡れたコンクリートへ白い光が落ちていた。


 魚を洗う水が、排水溝へ向かって流れている。


 鱗。

 薄い血。

 細い肉片。


 それらをまとめて運び去り、あとには濡れた床だけが残る。


 加工場では、人が働き続けている。


 洗う。

 切る。

 量る。

 詰める。

 冷やす。

 船へ載せる。


 島が明日も残るように。


 入口で、浜谷さんがこちらへ大きく手を振った。その後ろで、従業員の一人が何かを尋ねる。浜谷さんはすぐに振り返り、冷蔵車の方を指さした。


 大きな体。

 大きな声。

 多くの役割を背負い、島を残そうとしている人。


 加工場を出る直前、私は窓越しに藤尾さんの姿を探した。白い作業着の人々の中に、黒い背中が見える。


 浜谷さんが何か声をかける。藤尾さんは、こちらからは表情が見えないまま、一度だけ頷いた。


 車へ乗り込んでも、潮見さんはすぐにはエンジンをかけなかった。ハンドルへ両手を置き、加工場を見ている。


「浜谷さんは、悪い人ではありません。」


 潮見さんが言う。


「分かります。」


「本当に、島のことを考えている方です。」


「はい。」


「あの加工場がなくなれば、島を出る家族がいます。祭りも、浜谷さんが動かなければ準備が進まないと思います。」


「だから、止めにくい。」


 私が言うと、潮見さんはこちらを見た。山道で自分が口にした言葉を、私が覚えていたことに気づいたようだった。


「そうです。」


 小さく答える。


「悪意のある人なら、もっと簡単なんです。」


 エンジンがかかる。車体が細かく震え、加工場の機械音と重なった。


「潮見さんは、以前島外に出られていたんですか?」


「はい。高校からは関西の方に。大学も長期の休みだけは戻っていましたが。昨年母が倒れまして、こちらに。」


「そうだったんですね。」


 潮見さんは何でもないことのように話し、肩を僅かに竦めた。なんとなく、また一つ島の人間関係の混みあった内情が分かりかけ、私は胸の内で小さく嘆息した。


「次は、神社へ向かいます。」


「はい。」


 車が動き出す。魚と消毒液の匂いが、開いた送風口からまだ薄く流れ込んできた。


 浜谷宗一は、島が消えないために祭りを外へ開こうとしている。その手で魚を切り、雇用を守り、祭りの支度をし、人へ役割を与えている。


 間違っているとは、思えなかった。正しいとも、言い切れなかった。

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