第三話 奥本さん
支所での打ち合わせを終えた後、私と潮見さんは、昼食を買うために港近くの商店へ向かう。支所から歩いて五分とかからない距離だった。
商店は、港へ続く道の角にあった。
日焼けして白くなった赤い庇。その下に、手書きで食料品、日用品、たばこと書かれた看板が掛かっている。
出入口の横には、空になった青い飲料ケースが積み重ねられ、古いアイスクリームの冷凍庫が置かれていた。
窓ガラスには複数の広告シールが貼られているが、その大半は端が剝がれ、色も薄くなっている。
何年も前に販売を終了していそうな商品の名前も混じっていた。
自動ドアではない。
潮見さんが引き戸を横へ滑らせると、上部に取りつけられた鈴が、乾いた音を立てる。
からん。
店の中は、外よりもさらに暗かった。
天井に長い蛍光灯が二本並んでいるが、そのうち一本は点灯していない。点いている方も、時折小さく明滅している。
入口近くには野菜と果物の籠が並んでいた。
袋に入った玉ねぎ。
土のついた馬鈴薯。
小ぶりな茄子。
形の不揃いな蜜柑。
奥の棚には乾麺、缶詰、調味料、洗剤、乾電池、蚊取り線香、殺虫剤が置かれている。島の生活に必要なものは、一通り揃っているらしい。
けれど、商品よりも棚の空白の方が目につく。同じ品物を何列も並べるほどの在庫はない。一つ売れれば、その場所はしばらく空いたままになるのだろう。
店の奥には、透明な蓋のついた惣菜ケースが置かれていた。弁当は二種類。
鯵の塩焼きと、鶏の唐揚げ。
潮見さんは迷わず鯵の弁当を取り、私は同じものを選ぶ。
「島で獲れた鯵ですか?」
「たぶん、そうです。ここのお弁当は、商店の方が朝に作っています。」
「美味しそうですね。」
「味は間違いないです。ただ、午後になると残っていないことが多いので。」
私たちが弁当を持ってレジへ向かうと、椅子に座っていた年配の女性がゆっくり立ち上がった。
七十代半ばほどだろうか。白髪を短く切り揃え、薄い灰色のエプロンを着けている。
女性は潮見さんへ軽く顎を引いた後、私をじっと見た。
顔。
服装。
カメラ。
肩に掛けた鞄。
外から来た人間を、順番に確認しているような視線だった。
「役場さんの人かね。」
「東京の制作会社の方です。観光サイトの件で来ていただいています。」
潮見さんが説明すると、女性はレジへ弁当を置きながら言う。
「祭りの。」
「はい。」
私が答える。女性は弁当の価格を手元の電卓へ入力した。
「外の人に見せるんじゃな。」
問いかけというより、確認だった。
「島の方々のご意向を伺いながら、祭りや神社をご紹介する予定です。」
「意向。」
女性は小さく繰り返す。電卓のボタンを押す指が止まる。
「意向を聞いたら、見せん方がええと言う者もおるじゃろうに。」
私は返答に迷い、潮見さんを見る。彼は困ったように笑った。
「その辺りも含めて、これから確認します。」
「そう。」
女性はそれ以上何も言わず、弁当をレジ袋へ入れた。
レジの脇には、小さな白い皿が置かれている。中には、粗い塩が山の形に盛られていた。
飲食店の入口などで見る盛り塩に似ている。ただ、皿が置かれているのは店の外ではなく、レジカウンターの内側だった。
人を迎えるためというより、外から持ち込まれた何かを、そこで止めるためのようにも見える。
「午後から、奥本さんのところへ伺う予定です。」
潮見さんが言うと、女性は初めて少し表情を動かした。
「サヨさんの?」
「はい。昔の祭りについてお話を聞きに伺います。」
「あの人は、よう喋るけんね。」
女性はそう言った後、私の方を見る。
「よう喋る人が、よう知っとるとは限らんよ。」
口調は穏やかだった。
しかし、忠告なのか、奥本さんへの悪意なのか、私には判断できなかった。
「承知しました。複数の方に確認しながら進めさせていただきます。」
仕事で使い慣れた言葉を返す。女性は薄く笑った。
「丁寧なんじゃな。」
「ご迷惑はお掛けしないように進めるつもりです。」
「そう。」
女性は釣り銭を私の手のひらへ置いた。冷たい硬貨が、皮膚へ触れる。
店を出る時、再び鈴が鳴った。
からん。
背後で引き戸が閉まる。振り返らなかったが、店の女性がまだこちらを見ているような気がした。
◇
昼食は、支所の会議室で取ることになった。
弁当の鯵は皮が香ばしく焼かれ、身にはほどよく脂が乗っている。付け合わせは、甘く煮た南瓜と、細く切った大根の酢の物だった。
「美味しいですね。」
「良かったです。」
潮見さんは少し安心したように笑う。
「島に飲食店がないので、来客の時はいつも困るんです。」
「お弁当だけでも、十分観光資源になると思います。地元の魚を使った島弁当として予約制にすれば、日帰りの方にも案内できますし。」
「商店の方が引き受けてくれれば、ですが。」
「人手の問題ですか?」
「それもあります。毎日何個売れるか分からないものを作るのは難しいので。」
その言葉に、私は頷く。
客が来れば商品を作れる。
しかし、商品がなければ客は来ない。
宿も、店も、交通も、同じ問題を抱えている。
需要が生まれるまで赤字を抱えられる人間がいない。
人口が減った地域では、何かを始めるために必要な余裕そのものが失われている。
「先ほどの商店の方も、今回の企画には反対されているのでしょうか。」
私が尋ねると、潮見さんは箸を止めた。
「商店ですので、本当は歓迎すべきこととは、分かっておられると思います。ただ、気持ちとしては、難しいのかもしれません。」
「難しい……やはり、嫌、ということですか?」
「そうでしょうね。外の人が来て、分かったような顔をすることが、嫌なのかと。」
答えた直後、潮見さんは少し慌てたように言葉を足した。
「いえ、決して秋原さんのことを言っているわけではありません。」
「分かっています。」
私は笑う。けれど、その言葉は、私にも向けられている。
島の歴史を知らない。
祭りを経験したこともない。
神の名も、禁止事項の理由も知らない。
それでも私は、数日間の取材をもとに、島の物語を組み立てることになる。
そして、ウェブサイトを見た人間にとっては、私が並べた文章と写真が、三影島そのものになる。
「島の方からすれば、面白半分に消費されたくないということですよね。」
「……はい。ただ、何も見せなければ、このまま祭りも島も続かないかもしれません。」
「支所長も同じことをおっしゃっていました。」
「それは、本当に正しいと思います。」
潮見さんは、弁当の蓋へ視線を落とす。
「しかし、正しいから、嫌ではないとはなりません。理性ではどうにもならない部分です。」
私は箸を止めた。
潮見さんは、時々、役場の担当者としては言わなくてよいことまで口にする。
それは彼の誠実さなのかもしれない。
あるいは、自分一人では決められないことを、私にも分け与えようとしているだけなのかもしれない。
「潮見さん自身は、外へ見せることに賛成ですか?」
「必要だとは思っています。」
「賛成かどうかではなく?」
「必要なことと、したいことは、同じではありませんから。」
潮見さんは、それ以上続けなかった。
私は鯵の身を箸でほぐす。
外へ見せたい人がいる。
見せたくない人がいる。
見せなければ残らない。
見せれば変わる。
どちらも正しい。
しかし、どちらかだけを完全に選べるほど、島には時間が残されていない。
「奥本さんは、反対されている方、なんですよね。」
「そうだと思います。」
「なぜ、その方を聞き取り先に?」
「昔のことを知っているから、ですね。」
「祭礼保存会に関わっていたんですか?」
「奥本さんのご主人が、長く世話役をされていました。奥本さん自身も、装束の準備や供物の手配をしていたそうです。」
「では、祭りの実務にも詳しい。」
「はい。」
潮見さんは、少し間を置いて続ける。
「……ただ、聞かれたことに、そのまま答える方ではありません。」
「先ほどの商店の方も、似たようなことをおっしゃっていました。」
「仲が悪いんです。」
「そうなんですか?」
「昔から、あまり。」
理由を尋ねようとしたが、潮見さんはそれ以上話すつもりはなさそうだった。
私もそれ以上は踏み込まず、会議室の窓に目を遣った。
小さな島だ。
同じ名字が繰り返され、同じ人物が祭りの役を何度も務める。
人間関係も、役割も、過去の軋轢も、簡単には入れ替わらないのだろう。
島に残る古い信仰。
湿った人間関係。
今回の観光企画としては、きっとどちらも魅力的な言葉になる。
私はそう考えた後、残った鯵の骨を、弁当の端へ静かに寄せた。
◇
午後一時を過ぎた頃、私たちは支所を出た。午前中に海上を覆っていた霧は、すでにほとんど消えていた。
それでも、山の上には低い雲が残り、木々の先端を隠している。
奥本サヨさんの家は、港から車で十分ほど離れた、島の山側にある集落に位置していた。
海沿いの道を外れ、かなり細い坂道へ入る。軽自動車一台が通るだけで、左右にほとんど余裕がない。
石垣の上には古い家々が並び、黒ずんだ板塀と低い軒が、道を挟むように続いている。
窓は開いている。
洗濯物も干されている。
庭の草も刈られている。
人が確かに生活していることは分かる。けれど、外に姿を見せる者はいない。
車が通ると、窓の奥でカーテンが揺れる。風のせいかもしれない。誰かが見ているのかもしれない。
「この辺りには、何世帯くらい住んでいるんですか?」
「今は十二世帯ほどです。」
「空き家も多そうですね。」
「半分近くは空き家です。盆や正月だけ、島を出た家族が戻ってくる家もあります。」
「管理はされているように見えますが。」
「隣近所で草を刈ったり、風を通したりしています。そのままにすると家が傷んで、小動物や虫など、近隣にも影響が出ますから。」
家を離れた人間の代わりに、残った人間が家を守る。
祭りと同じだと思った。
誰かが続けなければ、少しずつ壊れていく。しかし、その誰かが、もうここには十分に残っていない。
奥本さんの家は、集落の最も奥にあった。
背後には、すぐ山の斜面が迫っている。
山に背を向けているのではなく、山へ寄りかかるように建っていると感じた。
黒ずんだ木造の家。
低い瓦屋根。
軒下に吊るされた乾燥した玉葱。
玄関横には、背丈ほどある大きな石が置かれ、その中央へ古いしめ縄が巻かれている。庭の端には、使われなくなった石臼と、欠けた水甕が並んでいた。
潮見さんが玄関前に立ち、声をかける。
「奥本さん。潮見です。」
返事はない。
「役場の潮見です。東京から来られた方をお連れしました。」
少しして、家の奥から声が返る。
「開いとる。」
低く、掠れた声だった。
潮見さんが引き戸を開ける。
玄関の中には、日中だというのに裸電球が点いていた。土間は広く、壁際には農具や長靴、古い傘が並んでいる。
家の中からは、線香と古い畳の匂いがした。
「失礼します。」
靴を脱いで上がる。
廊下の先にある和室へ通されると、座卓の向こうに、小柄な女性が座っていた。
奥本サヨ。
八十六歳。
髪は白く、短く切られている。背は丸まり、肩には薄い紫色のカーディガンを掛けていた。
顔には深い皺が刻まれている。けれど、目だけは濁っていない。
私たちが部屋へ入った時から、こちらを真っ直ぐ見ている。
「本日は、お時間をいただきありがとうございます。」
私は座卓の前へ正座し、名刺を差し出す。奥本さんは手を伸ばさない。
名刺と私の顔を交互に見た後、何も言わないまま視線を潮見さんへ移す。潮見さんが名刺を受け取り、座卓の端へ置いた。
「こちら、東京の企画制作会社から来られた秋原澪さんです。町の観光サイトを作るため、祭りについてお話を伺いたいそうです。」
「ホームページを作る人じゃと聞いた。」
「はい。」
「祭りも載せるんか。」
「その予定です。ただ、島の皆さんのご意向を確認しながら、内容は慎重に決めたいと考えています。」
「意向。」
奥本さんは、午前中の商店の女性と同じ言葉を繰り返した。
「はい。」
「意向を聞くなら、載せん方がええと言う人もおるじゃろう。」
「そのご意見も、役場や祭礼保存会へ共有します。」
「共有。」
また繰り返す。私が使う言葉を、口の中で確かめているようだった。
「最終的な掲載内容は、役場と保存会の方々に確認をいただいた上で決定します。」
奥本さんは、皺の奥にある目を細める。
「役場は、山のことを決められるんか。」
すぐには答えられなかった。
行政が祭りの公開範囲を決める。
神社と保存会が、神事の進め方を決める。
ウェブ制作会社が、何をどのように見せるかを決める。
しかし、山そのものの許可を誰が取るのか。
そのようなことを考える必要は、本来ない。
「山のことを決めるというより、祭礼の運営について、関係者の皆さんにご確認いただくという意味です。」
「同じじゃ。」
「同じ、でしょうか。」
「人が決めるんじゃろう。」
奥本さんは言う。
「どこまで見せるか。どこまで入れるか。何と呼ぶか。人が決める。」
「はい。」
「役場が決める。保存会が決める。外から来た人が、おかしく書く。」
おかしく書く。その言葉には、明確な嫌悪が混じっていた。
「祭りを面白半分に扱うつもりはありません。」
私は慎重に答える。
「島に残る文化として、由来や意味を尊重しながら、丁寧に紹介したいと考えています。」
「丁寧に。」
「はい。」
奥本さんは、私の顔をしばらく見つめた。
「丁寧に怖がらせるんか。」
返答に詰まった。否定すれば、嘘になる。
観光サイトを読む人に興味を持たせるため、私は祭りの異質さや不穏さを使おうとしている。
写真の明るさを落とす。
顔の見えない婿役を使う。
禁止事項を短い言葉へ変える。
山の女様という呼称を、見出しに置く。
馬鹿にするつもりはない。しかし、怖がらせるつもりはある。
「怖さを、強調する部分はあると思います。」
私は答える。
「若い方に興味を持っていただくためには、祭りが持つ物語性を伝える必要がありますので。」
「物語。」
「はい。」
「話は、勝手に大きくなるもんじゃ。」
奥本さんは言った。
「昔からの言葉ですか?」
「違う。」
「では、奥本さんが、そう思われているということでしょうか。」
「話は、勝手に大きくなる。」
同じ言葉を、もう一度繰り返す。
「一人が話す。聞いた者が、少し足す。次の者が、また足す。結局誰が最初に言うたか分からんようになる。」
奥本さんは座卓の木目へ視線を落とす。
「最後には、誰も言うてないことが、昔からの話になっとる。」
「随分具体的に聞こえます。過去に、そのようなことがあったのですか?」
尋ねると、奥本さんは黙った。
隣にいる潮見さんの呼吸が、少し浅くなったように感じる。
「紙の頃でも、人は来た。」
奥本さんが言う。
「紙?」
「紙に書いたら、人が来た。」
「雑誌や新聞に、祭りが紹介されたことがあるんですか?」
奥本さんは、私を見た。
「今は、紙より速いんじゃろう?」
質問には答えない。けれど、否定もしなかった。
私は手帳へ書き込む。
『過去に雑誌等の取材歴あり。要確認。』
『記事を見た外来者が来島した可能性。』
「その時、何か問題が起きたのでしょうか?」
「聞いて、何に使う。」
「過去の経緯を知っておく必要があるかと思いまして。以前の公開によって島の方がご不快な思いをされたのであれば、同じことを繰り返さないためにも。」
「同じことは、同じ形では来んだろ。」
奥本さんは言う。
「形を変えて来るんじゃ。」
怪異の話をしているのか。人の話をしているのか。
判別できなかった。
潮見さんが用意していた聞き取り項目へ話を戻す。
「……山の女様、という呼び方について、お伺いしてもよろしいですか?」
私が尋ねると、奥本さんは露骨に顔を顰めた。
「もう呼んどるんか。」
「……すみません。正式な呼称は三影大神だと伺っています。」
「それでええじゃろうが。」
「島では昔から、その、山の女様、とも呼ばれているのでしょうか。」
「呼び名じゃない。」
「……では、何のための言葉ですか?」
「呼ばんためじゃ。」
奥本さんは、短く答える。
部屋の空気が一瞬固まった。暑く湿った室温にも関わらず、足元が冷えていく感覚があった。
「……本当の名前を呼ばないため、という意味ですよね。」
「知らん。」
「本当の名前は、誰も知らないという意味ですか。」
「知っとるもんは、知らんと言う。」
「……どういう意味でしょうか。」
「知っとるから、知らんと言う。」
会話が成立しているようで、どこかが噛み合わない。私は自分の聞き方が悪いのかと考える。
「山の女様、という言葉は、本当の名前の代わりに使うもの、ですか?」
「名前の代わりでもないわ。」
「では、何でしょう。」
「あれを、あれと言わん。言ったら、寄るぞ。」
奥本さんは、山の方を指さすように、顎をわずかに動かした。細く小さな目が、静かにこちらを見詰めていた。
和室の障子は閉じられている。それでも、家の背後に山があることが分かる。
「呼ぶための名前じゃあない。」
奥本さんは言う。
「呼ばんためじゃ。」
私は手帳へ、そのまま書き留める。ペン先がわずかに滑り、最後の一文字が歪んだ。
『呼ぶための名ではない。』
『呼ばないための名。』
――呼べば、寄る。
名付けではない。指し示さないための言葉。
私は、汗の浮かぶ額に一度手の甲を当てて、ぎこちなく視線を下ろした。聞取り項目の紙が視界の端に入る。
「……それでは、祭りでは、なぜ山の神へ婿を出すのでしょう。神は、その、少し、恐れられているように思いますが。」
「知らん。」
「女性の神様だから、男性をあてがう、という形式的なものなのでしょうか?」
「神さんは、男や女の話じゃない。」
「しかし……婚礼、という形を取るのですよね。」
「そりゃ人が分かる形にしとるだけじゃ。」
「……人が分かる形。」
「人は、物語にせんと分からんのじゃろ。」
奥本さんの言葉に、私はペンを止める。
「では、本来の目的は、婚礼ではない、と?」
「婚礼と言うた方が、人には分かりやすい。」
「では、本来は何をする祭りなのですか?」
奥本さんはすぐには答えない。
隣室で、古い柱時計が一度鳴る。時刻を知らせる音ではなかった。
内部の歯車が動いただけのような、短い金属音。
「……山は、欲しがる。」
「欲しがる?」
「水でも、獣でも、人でも。」
「山へ入ったものを、取り込むという意味ですか?」
「外の人間は、すぐ意味を作りたがるけぇ。」
奥本さんは私を見遣る。皺の多い細い目の端がくっと歪んだ。
「……祭りは、山の神を鎮めるためのもの、ですか?」
尋ねると、奥本さんは初めてかすかに笑った。
楽しいから笑ったのではない。私が予想どおりのことを言ったために笑ったようだった。
「そうやって、すぐ鎮めたがる。」
「違う、のですか……?」
「違う。鎮まっとるもんを、わざわざ起こさんようにするんじゃ。」
部屋が、一段暗くなったように感じた。雲が太陽を覆っただけかもしれない。
額から落ちた汗が、つ、と頬を滑り落ちた。
「祭りは、何かを、変えないために、行うものだと?」
「決まったもんは、決まったようにせにゃあかん。」
「なぜですか?」
「決まっとるからじゃ。」
「誰が決めたのでしょう。」
「知らん。」
「いつから?」
「知らん。」
分からない。
誰が決めたかも。
何のためにするのかも。
いつから続いているかも。
なぜ婚礼と呼ばれているのかも。
神と呼ばれるものが一体何なのかも。
それでも、手順だけは残っているのだ。そこだけ不自然なほど明確に。
役場で確認した資料を思い出す。神についての情報が少ない。そこだけぽっかりと穴が開いているように。
ただ、祭りの手順だけが具体的に定められている。奥本さんも、同じことを言っている。
「祭りの際に、してはいけないこと等はありますか?」
私が尋ねると、奥本さんの目が細くなった。
「しちゃいけんこと聞いて、何に使おうとしとる。」
「観光客の方へ、注意事項としてお伝えする必要がある、かと。」
「注意事項。」
「はい。祭礼を妨げたり、危険な場所へ入ったりしないよう、事前に周知します。」
「……禁忌として、載せるんじゃろう。」
こちらの完全な思惑を、奥本さんが知っているはずはない。それでも、一瞬見透かされたように感じた。
「祭礼上、避けられている行為があれば、文化的背景とともに紹介する可能性はあります。」
「避ける必要はあるじゃろうの。」
「実際の祭りでも、もちろん守っていただきます。」
「紙にも書かん方がええ。」
「紙にも?」
「書くな。」
奥本さんは、はっきり言った。
「してはいけんことを書いたら、必ずする者が出る。」
「それでも、禁止事項を明記しなければ、知らずに行う方が出ます。安全管理上、書かないという判断は難しいと思います。」
「見てはいけんと書いたら、見るんじゃろ。」
返す言葉がなかった。自然と口の端に力が入る。
「入ってはいけんと書いたら、入る。拾ってはいけんと書いたら、拾う。呼んではいけんと書いたら、呼ぶ。」
否定できない。
全員ではない。
ほとんどの人は守る。
しかし、百人が読めば一人は試すかもしれない。一万人が読めば、百人が試す。
悪意からではなく、好奇心から。
自分だけは大丈夫だと思うから。
写真や動画にすれば他の人が見るだろうと思うから。
「書いたら、読む者がおる。」
奥本さんは言う。
「読んだら、する者がおる。」
「……それは、祭礼に関わらず、観光化においてもいつも問われる問題です。」
私は慎重に返す。
「それでも、知らずに立入禁止区域へ入る方や、祭礼の道具へ触れる方が出る可能性の方がまずいかと。」
「書かずに問題が出たら、責任は取らんと。」
奥本さんは、私の言葉を拾うように言った。
「じゃあ書いたら全部あんたが責任取れるんか。」
「決してそういう意図では、ありません。」
「文字は、人を操る。」
ウェブサイトとは、まさにそういうものだ。
複雑な背景を、短い文章へ変える。
何を見ればよいかを示す。
どこへ行けばよいかを伝える。
読む者が迷わないよう、道筋を作る。
「書くなら、終わったことだけにするんじゃ。」
奥本さんが言う。
「終わったこと?」
「これからすることを書くな。」
「……それは、祭りの予定や進行を掲載するな、という意味ですか?」
「手順を書くな。」
奥本さんは、一本ずつゆっくりと指を折った。
「数を書くな。」
二本目。
「場所を書くな。」
三本目。
「行く道を書くな。」
四本目。
「禁忌を書くな。」
五本目。
「なぜですか?」
「読んだもんが来る。」
奥本さんは、折った指をゆっくり開く。
「来たら、見る。見たら、言う。言うたら、真似る。」
書く。
読む。
来る。
見る。
言う。
真似る。
それは、怪異の仕組みではない。情報が広がる、ごく普通の過程だ。
だからこそ、奥本さんの言葉は、ただの世迷い事として笑えなかった。
「以前も、外から見物に来た人がいたのですか?」
私が尋ねる。奥本さんは、口を閉じた。
「紙に書かれた時ですか?」
答えない。
「その時、祭りで何かあったのでしょうか。」
「人は死ぬ。」
唐突な言葉だった。
「島でも、本土でも、人は死ぬ。」
「……祭りと関係があるような事故も事件も、これまで発生していないと伺っています。」
「……。」
「あの、その情報が誤っているということですか?」
奥本さんは、私の目を見る。
「言わん方がええことはある。」
それ以上、聞くことはできなかった。
知っている。
何かを知っている。
けれど、それを語ること自体が、同じことを繰り返すのだと考えている。
奥本さんの中では、沈黙は記録の欠落ではない。
何かを防ぐための行為のように、私はなぜか思えた。
◇
聞き取りは、一時間ほどで終わった。奥本さんは、途中からほとんど質問に答えなくなった。
祭りの装束を縫っていたこと。
昔は供物の魚を各家から持ち寄っていたこと。
直会では男たちが酔いつぶれ、女性たちが後片づけをしていたこと。
そうした生活に近い話であれば、比較的素直に話す。しかし、山や神のことへ話を戻そうとすると、口を閉ざす。
私は名刺を座卓へ残し、持参した菓子折りを差し出した。
「本日はありがとうございました。伺った内容は、役場や保存会の方々とも確認した上で、慎重に扱います。」
「慎重。」
奥本さんは最後まで、私の言葉を繰り返した。
「はい。」
「結局、慎重に広げるんじゃな。」
返答できなかった。
玄関へ移動し、靴を履く。潮見さんが先に外へ出ようとした時、奥本さんが呼び止めた。
「潮見。」
「はい。」
潮見さんが振り返る。
「あんた、今年も上がるんか。」
「今年は撮影対応です。今のところは二の鳥居まで同行する予定です。」
「上がるんじゃな。」
「二の鳥居までですよ。」
「鳥居は、数に入るぞ。」
潮見さんの背中が、わずかに強張った。
「……分かっています。」
「一つ目も、二つ目も、鳥居は鳥居じゃけぇ。」
「……はい。」
「分かっとるなら、ええがの。」
奥本さんは、それ以上何も言わない。
私は意味を尋ねようとしたが、潮見さんが先に玄関を出た。
空気が重かった。雨は降っていない。それでも、庭の土はまだ黒く湿っている。
私は石畳へ足を下ろし、玄関前に置かれたしめ縄の石を見た。
朝よりも空は明るい。山を覆っていた雲も、少しずつ薄くなっている。
そのため、地面に落ちているものが、よく見えた。
細長い白い布だった。玄関脇の濡れた土の上に、半分ほど泥へ沈んでいる。
ここへ来た時にはあっただろうか。
幅は手のひらほど。
長さは、一メートル近くあるだろうか。
端はまっすぐ切られていない。
古い布を裂いたように、細い糸が何本も出ている。
洗濯物が風で飛ばされたのかもしれない。
農作業に使った布かもしれない。
祭りの供物とは限らない。
私は反射的に手を伸ばした。
「触らないでください。」
潮見さんの声が飛ぶ。強い口調だった。
私は手を止める。
潮見さんは、車の横に立っている。顔が強張っていた。
「……これは、祭りの白布ですか?」
「分かりません。」
「誰かの洗濯物では?」
「そうかもしれません。」
「落としたものなら、奥本さんへお伝えした方が。」
「そのままでいいです。」
潮見さんは布を見ない。視線を地面から外し、車のドアを開ける。
「行きましょう。」
私は、もう一度布を見る。
泥に汚れている。
白いとは言い難い。
ただの布切れにしか見えない。
それでも、先ほど見つけた五項目の一文が頭に浮かぶ。
――白きものを拾うな。
私はゆっくりと手を引く。
車へ向かう途中、背後で玄関の引き戸が閉まる音がした。
振り返る。
奥本さんの姿は見えない。家は静かだった。
玄関前には、白い布だけが残されている。
風は吹いていない。それでも布の端が、一度だけ、わずかに持ち上がった気がした。
◇
【現地出張報告三/秋原澪】
聞き取り対象:
奥本サヨ氏 八十六歳
関係:
祭礼保存会元世話役の妻。
本人も長年にわたり、祭礼装束、供物、直会等の準備に従事。
主な発言:
・「役場は、山のことを決められるんか。」
・「丁寧に怖がらせるんか。」
・「話は、勝手に大きくなるもんじゃ。」
・「紙の頃でも、人は来た。」
・「今は、紙より速いんじゃろう。」
・「呼ぶための名ではない。呼ばんためじゃ。」
・「鎮まっとるものを、わざわざ起こさんようにするんじゃ。」
・「書いたら、読む者がおる。」
・「読んだら、する者がおる。」
・「これからすることを書くな。」
・「鳥居は、数に入る。」
聞き取り所感:
観光公開に対する強い警戒が認められる。
祭礼を、神を祝うための行事ではなく、現状を維持するために定められた手順として認識している可能性あり。
呼称、手順、数、場所等を具体的に記録・公開すること自体を忌避している。
過去に雑誌、新聞その他の紙媒体に祭礼が掲載され、外部から見物人が来島した可能性あり。ただし、詳細については回答を得られず。
実務上の考察:
迷信的な警告である一方、公開情報を閲覧した者が現地へ来訪し、禁止行為や模倣行為を行う危険性については、現実的な指摘と考えられる。
今後、祭礼手順、立入制限、供物等を掲載する際には、模倣を誘発しない表現を検討する必要あり。
備考:
奥本氏宅前に白色の布片あり。
由来不明。
潮見氏より、接触しないよう強い制止あり。
◇
奥本さんは、書くなと言った。
話は勝手に大きくなると言った。
これからすることを、文字へ残すなと言った。
私はその日のうちに、言葉を一つずつ書き起こし、発言者の名前とともに記録した。
忘れないために。
誤解しないために。
そして、誰かに分かる形へ整えるために。
それが私の仕事だった。




