第二話 山の女様
支所の中は、外よりも薄暗い。玄関の正面には大きな窓があった。曇天とはいえ、午前の光も差し込んでいる。
それでも、建物の内部には光が十分に届いていないように見えた。
古い蛍光灯の白さ。
雨水の跡が残る灰色の床。
壁や掲示物に染み込んだ湿気。
そうしたものが重なり、室内全体から色を奪っている。
入口脇には、濡れた傘が数本差し込まれた傘立てと、古いスリッパラックが置かれていた。
壁に貼られているのは、連絡船の時刻表、島内一斉清掃のお知らせ、熱中症予防のポスター、防災無線の点検予定。
どの紙も湿気を吸って波打ち、端がわずかにめくれていた。
「こちらです。」
潮見さんに案内され、廊下の奥にある会議室へ入る。会議室といっても、六人掛けの長机が二つ並べられているだけの小さな部屋だった。
壁際には折り畳み椅子が重ねられ、その横に、使われているのか分からない古い扇風機が置かれている。
壁掛けのエアコンは動いている。けれど、時折低い音を立てるばかりで、部屋はあまり涼しくない。
机の上には、すでにいくつかの資料が用意されていた。
三影島観光振興事業。
山神婚礼祭について。
三影神社由緒。
婿役名簿。
祭礼進行表。
前年度祭礼写真。
それぞれの表紙には、手書きの付箋が貼られている。私は椅子に腰を下ろし、鞄からノートパソコンと手帳を取り出した。
「すみません。支所長は、本庁との会議が長引いていまして。少し遅れるそうです。」
「大丈夫です。先に資料を拝見してもよろしいですか。」
「もちろんです。」
潮見さんは私の向かい側へ座り、資料の一つを差し出した。
「まず、祭りの概要からお願いします。」
私は表紙を開く。
◇
【山神婚礼祭 概要】
実施日:
毎年八月十六日 日没後
実施場所:
三影神社および旧参道
目的:
五穀豊穣、海上安全、島内安寧を祈願する。
主な内容:
・婿役による参道上り
・三影神社拝殿での祝詞奏上
・盃の儀
・供物奉納
・集落広場での直会
婿役:
島内在住、または島に縁のある成人男性より一名を選出する。
選定は祭礼保存会および青年会の協議による。
備考:
本祭礼は地域行事であり、宗教的強制を伴うものではない。
観光公開にあたっては、撮影範囲および祭礼進行の妨げとならない見学導線を別途協議する。
◇
文章は事務的だった。
実施日。
実施場所。
目的。
主な内容。
婿役。
どの項目も簡潔に整理され、解釈の余地がないほど明確に書かれている。
奇祭という言葉から想像するような異様さは全くない。
少なくとも、この一枚の紙の上には。
「毎年八月十六日なんですね。」
「はい。お盆の終わりに近い日です。」
「日付は固定ですか?」
「昔から十六日だと聞いています。天候によって時間が変わることはありますが、日を移すことはほとんどありません。」
「祭り自体は、いつ頃から続いているのでしょう。」
「詳しい由来は分かっていません。ただ、少なくとも明治の頃には行われていたようです。」
「山の神に婿を出す、という形も当時からですか。」
「はい。その部分は変わっていないと思います。」
思います。
潮見さんは、断言しなかった。
恐らく役場が保管している資料には限界があるのだろう。明治以前の記録が残っていないとしても、古い祭礼ならば珍しいことではない。
「婿役は、どうやって決めるんですか?」
「昔は、家ごとの持ち回りだったと聞いています。」
「家ごと、ですか。」
「島をいくつかの組に分けて、順番に出していたらしいです。ただ、今は若い人が少ないので、青年会と祭礼保存会が相談して決めています。」
「本人が希望するというより、依頼される形ですかね。」
「そうですね。保存会から候補者へ話をして、了承をもらいます。」
「今年の方は、すでに決まっているんですよね。」
「はい。藤尾俊介さんという方です。」
潮見さんは別の資料を開き、名簿の一行を指で示した。
藤尾俊介。
二十八歳。
三影島在住。
青年会所属。
島内水産加工場勤務。
「島の方ですか。」
「ええ。高校を卒業した後、一度本土へ出ていますが、数年前に戻ってきています。」
「ご本人は、承諾されているんですか。」
「はい。」
潮見さんはそう答えてから、わずかに間を置いた。
「少なくとも、役場にはそのように報告されています。」
少なくとも。
私は、その言葉を手帳の端へ小さく書いた。
本人は了承している。
役場には、そのように報告されている。
嘘ではない。けれど、本人が喜んで引き受けたという意味でもない。
若者が少ない島で、青年会や祭礼保存会から頼まれる。
それを断ることが、都市部の行事役員を断るのと同じ程度に容易なのかは分からない。
「婿役という呼び方は、外向けにもそのまま使用して問題ありませんか。」
「島の中では普通に使います。ただ、本人のことを考えると、外部向けの文章では少し調整した方がいいかもしれません。」
「祭礼役、奉仕者、神婚役などでしょうか。」
「神婚役、ですか。」
潮見さんが、少し困ったように笑った。
「少し大げさに聞こえますね。」
「大げさなくらいの方が、見出しには向いています。」
「そういうものなんですね。」
潮見さんの声には、感心と警戒が半分ずつ混ざっているように思えた。
私は資料へ目を戻した。
――山神婚礼祭。
名前は強い。けれど、概要資料に書かれている内容はやはり弱い。
参道を上る。
祝詞を受ける。
盃を交わす。
供物を奉納する。
戻って食事をする。
行事としては理解できる。
しかし、人を惹きつけるような怖さは、どこにもない。
「祭りの写真はありますか。」
「あります。昨年のものですが。」
潮見さんは机の端に置いていたタブレットを取り、画面を操作した。
最初に表示されたのは、集落の広場で撮影された集合写真だった。
笑っている島民。
長机に並べられた料理。
紙コップを持つ男たち。
白い装束を着た婿役も、端の方で照れたように笑っている。それは、どこにでもある地域の祭りの写真に見えた。
潮見さんが画面を横へ送る。次の写真で、印象が変わる。
暗い参道。
提灯の列。
濡れた石段。
画面の端で黒く潰れている、山の木々。
白装束を着た一人の男が、こちらへ背を向け、鳥居の奥へ進んでいる。
顔は見えない。
提灯の明かりが石段へ細く反射し、その背中だけが暗闇の中へ浮かび上がっていた。
「これは良いですね。」
私は思わず身を乗り出した。
「この後ろ姿は、かなり使えます。顔を出さず、山へ入っていく構図にすれば、祭りの雰囲気が伝わります。」
「顔は出さない方がいいですか。」
「個人情報への配慮という意味でも、その方がいいと思います。それに、誰なのか分からない方が、見る側は自分を重ねられます。」
私は写真を指差した。
「『山に選ばれた男』という印象にもできます。」
「山に選ばれた男。」
潮見さんが、小さく繰り返す。
その声が、少しだけ低くなった。
「実際には、山に選ばれるわけではありませんが。」
「もちろんです。表現上の話です。」
「そうですよね。」
潮見さんは視線をタブレットへ落とした。画面の中で、昨年の婿役が黒い鳥居の奥へ歩いている。
提灯の列。
湿った石段。
顔の見えない白い背中。
見る者が、勝手に意味を読み取る構図だった。
個人の顔を隠す。それは配慮でもある。
同時に、一人の島民から名前と顔を取り去り、「婿」という役割へ変える行為でもある。
藤尾俊介という実在の男性ではなく、山に差し出される名もない男。
見せ方を変えるだけで、同じ写真はまったく違う物語になる。
素材としては、十分だった。
◇
【山神婚礼祭 進行表】
一、支度
婿役は日没前に集会所へ入る。
祭礼保存会により装束を着付ける。
二、迎え
青年会二名が提灯を持ち、婿役を三影神社一の鳥居まで先導する。
三、参道上り
婿役は一の鳥居で一礼し、旧参道を上る。
保存会、神職、奉仕者が後に続く。
一般参加者は二の鳥居より先へ入らない。
四、祝詞
拝殿にて神職が祝詞を奏上する。
五、盃の儀
婿役は神前に供えられた盃を受ける。
六、供物奉納
米、塩、魚、酒、白布を奉納する。
七、下山
婿役は神職および保存会とともに下山する。
八、直会
集落広場にて直会を行う。
注意事項:
・旧参道は滑りやすいため、撮影者は保存会の指示に従うこと。
・夜間の単独行動は禁止する。
・二の鳥居より上でのフラッシュ撮影は禁止する。
・婿役への過度な声かけは禁止する。
・祭具および供物には触れないこと。
◇
「一般の見学者は、二の鳥居より先へ入れないんですね。」
「はい。道が狭く、足元も悪いので。」
「祭礼関係者だけが、その先へ進む。」
「婿役と神職、保存会の一部、それから必要な奉仕者です。」
「二の鳥居より上でのフラッシュ撮影も禁止。」
「暗い場所で急に光を当てると危ないですから。それに、神事中なので控えてほしいという意味もあります。」
理由は、どれも理解できる。
夜間の単独行動を禁止する。
山道でフラッシュを使わない。
一般見学者を狭い参道へ入れない。
祭具に触れさせない。
安全管理と、祭礼進行への配慮。
観光客を受け入れるのであれば、当然定めるべき規則だった。
ただ、それらを一つの紙の上で見ると、別の意味を持っているようにも思える。
二の鳥居より先へ入るな。
夜に一人で歩くな。
婿へ声をかけるな。
供物へ触れるな。
行政の言葉へ変換される前には、もっと短く、別の形で語られていたのではないか。
そう感じさせる内容に思えた。
「この白布は、何に使うんですか。」
「供物です。」
「意味は?」
「山の神様の衣だと聞いています。」
「衣。」
「昔は、白い反物をそのまま奉納していたそうです。現在は簡略化して、決められた長さの布を供えます。」
「山の女様の衣、ということですか。」
口にした瞬間、潮見さんがわずかに顔を上げた。ほんの小さな反応だった。
眉が動いたわけでもない。
息を呑んだわけでもない。
けれど、分かる。
嫌がった。
「すみません。今の呼び方は、避けた方がいいですね。」
「いえ。」
潮見さんは首を振る。
「僕が気にしすぎているだけかもしれません。」
「年配の方の中には、軽々しく呼ぶべきではないと考える方がいると、おっしゃっていましたよね。」
「はい。」
「具体的には、どのように嫌がるのでしょう。サイトで使用する可能性があるなら、その辺りも把握しておきたいです。」
潮見さんは、すぐには答えなかった。資料の端を指で押さえたまま、窓の方を見る。窓ガラスの向こうでは、雨水を含んだ木の枝が垂れている。
「山の女様という呼び方は、親しみを込めたものではないらしいんです。」
「では、畏れからですか。」
「畏れというほど、きれいなものでもない気がします。」
「きれいではない。」
「もっと、避けるような感じです。」
潮見さんは、言葉を探すように間を置いた。
「名前を直接呼ばないために、代わりにそう呼んでいるというか……。」
「三影大神ではなく。」
「三影大神は、神社で使う正式な名前です。」
そこで一度、言葉が切れる。
「外へ見せるための名前です。」
私はペンを止めた。
「外へ見せるための名前。」
私が繰り返すと、潮見さんは自分の発言に困ったような顔をした。
「すみません。変な言い方ですね。」
「いいえ。とても重要です。」
私は手帳へ書き込む。
三影大神。
外向きの名。
山の女様。
内側の呼称。
神には、二つの名前がある。
一つは神社の由緒や行政資料に書ける名前。
もう一つは、島民が互いに何かを避ける為に使ってきた名前。
「ほかにも呼び方はありますか。」
「僕が知っているのは、その二つくらいです。」
「島の年配の方に聞けば、何か分かるかもしれませんね。」
「聞き取り自体は可能です。……ただ、相手は選んだ方がいいと思います。」
「怒る方もいますか。」
「怒るというより、話さない方がいいと考える方はいます。」
「なぜですか。」
潮見さんは黙る。
会議室のエアコンが低く唸っている。窓の外では、庇に残った雨水が一定の間隔で地面へ落ちていた。
「話すと、寄るから。」
潮見さんが言う。
声は小さい。
「そう言う人がいます。」
私はペン先を紙につけたまま、潮見さんの顔を見る。
「寄る、ですか。」
「はい。」
「何が。」
「さあ。」
潮見さんは笑おうとした。しかし、うまく笑えていない。
「山のもの、でしょうか。」
山のもの。
私は、その言葉も書き留める。
山の女様。
山のもの。
話す。
寄る。
どれも、派手な言葉ではない。
祟る。
呪う。
殺す。
そうした直接的な言葉よりも曖昧で、何が起こるのかも分からない。
だからこそ、土地に根づいた本物の言葉のように聞こえた。
「それは、ぜひ詳しく聞きたいですね。」
私が言うと、潮見さんの表情がわずかに曇った。
「サイトに使うためですか。」
「使えるかどうかを判断するためです。もちろん、ご本人の許可なく言葉を掲載することはありません。」
「……そうですね。」
潮見さんは頷く。その頷きは、少し遅かった。
◇
次に開いたのは、近年の婿役名簿だった。
【山神婚礼祭 婿役名簿/近年分】
平成二十九年 中川健一 当時三十四歳
平成三十年 森川浩二 当時四十一歳
令和元年 藤尾俊介 当時二十一歳
令和二年 奥本良平 当時三十六歳
令和三年 岡本洋介 当時三十五歳
令和四年 潮見悠真 当時二十一歳
令和五年 森川大地 当時二十二歳
令和六年 浜谷宗一 当時五十二歳
令和七年 奥本良平 当時四十一歳
令和八年 藤尾俊介 当時二十八歳予定
◇
同じ名字が、何度か現れる。
森川。
奥本。
藤尾。
島の人口が少ないことを、数字以外の形で実感する。
令和元年に婿役を務めた藤尾俊介が、七年後の今年、再び選ばれている。奥本良平も、五年の間を空けて二度務めていた。
「同じ方が複数回務めることもあるんですね。」
「以前はほとんどなかったそうです。今は対象になる人が少ないので。」
「若い男性に限るわけではない。」
「成人男性で、島に縁があれば候補になります。年齢の上限はありません。ただ、夜の山道を歩くので、体力面は考慮されます。」
私は名簿の途中で目を止める。
「潮見さんも、婿役をされたんですか?」
「ああ、はい。」
潮見さんは、少し照れたように笑った。
「令和四年に。」
「では、経験者なんですね。」
「そうなりますね。」
「実際に、夜の参道を上った。」
「はい。」
「どうでしたか?」
「どう、というほどのことはありません。」
「怖くはなかったですか?」
「暗かったですね。」
「暗かった。」
「はい。提灯はありますが、神社の周辺は木が深いので。」
それだけ言って、潮見さんは黙った。
私は、次の言葉を待つ。けれど、彼は何も続けない。
提灯を持った先導役がいた。
神職も保存会の人間もいた。
祝詞を受け、盃を取り、白布を供えた。
下山した後は、集落の広場で酒を飲んだはずだ。無事に終わったからこそ、現在、潮見さんは私の向かいに座っている。
それでも、思い出として語ったのは、暗かった、という一言だけだった。
役場の若い職員。
親切な現地担当者。
それに加えて、山の神の婿として夜の参道を上ったことのある男。
その事実を知ると、目の前にいる潮見悠真という人間の輪郭が、少しだけ変わって見えた。
「感染症の影響がある時期も、開催されていますね。」
「もちろん、直会は中止しました。婿役と神職、それから保存会の一部だけで、参道上りや供物奉納などの神事を小規模に執り行いました。」
「島の方が不安がられたから、ですか。」
「そうですね。」
「年配の方、ですか。」
「はい。」
私はそれ以上追及しなかった。年に一度の祭礼が中止になり、不安を口にする老人がいた。
それ自体は、どの地域にもある話だ。伝統を重んじる者が、行事の中止を嫌がった。
そう説明すれば、それで終わる。潮見さんも、それ以上何も付け加えなかった。
◇
【現地出張報告二/秋原澪】
聞取り記録。
山神婚礼祭について。
現在の祭礼は一定程度形式化されており、島民にとっては地域行事に近いと考えられる。
ただし、祭礼に用いられる言葉や規則には、公式資料では説明されていない背景が存在する可能性あり。
重要語:
・山神婚礼祭
・婿祭り
・山の婚礼
・山の女様
・山のもの
・寄る
・二の鳥居
・白布
潮見氏発言:
「三影大神は、外へ見せるための名前です。」
「山の女様という呼び方は、名前を直接呼ばないためのものというか。」
「話すと、寄るから。そう言う人がいます。」
確認事項:
・年配者への聞き取り
・「山の女様」の呼称使用可否
・白布の由来
・二の鳥居より先を非公開とする理由
・婿役への声かけを制限する理由
・令和四年、潮見悠真氏が婿役を経験
サイト方向性:
明確な怪異談を強調するよりも、呼称、夜の参道、白装束の後ろ姿、説明されない規則を中心に構成する方が効果的と考えられる。
◇
メモを書き終えた頃、会議室の扉が開いた。入ってきたのは、四十代前半ほどの男性だった。
少し白髪交じりの短い髪。
よく日に焼けた顔。
額には薄く汗が浮かび、片手には紙コップのコーヒーを持っている。
「遅くなって申し訳ありません。三影島支所長の中川です。」
私は立ち上がり、名刺を交換する。中川支所長は、よく喋る明るい人物だった。
本庁との会議が長引いたことを謝った後、座るなり島の現状について話し始めた。
人口減少。
空き家の増加。
連絡船の利用者減少。
民宿と商店の経営難。
水産加工場の人手不足。
祭礼を支える青年会員の減少。
話の一つ一つは深刻だったが、中川支所長の口調は暗くない。
むしろ、暗くしている場合ではないと、自分自身へ言い聞かせているように聞こえた。
「とにかく、人に来てもらわなければ、始まらないですからね。」
中川支所長は紙コップのコーヒーを一口飲み、笑った。
「宿が一軒しかないから観光客を呼べないと言う人もいます。でも、客が来ないのに、二軒目の宿を作る人もいないでしょう。店がないから人が来ない。人が来ないから店ができない。ずっと、その繰り返しです。」
「今回の事業を、そのきっかけにしたいということですね。」
「はい。最初から何千人も呼ぼうとは思っていません。ただ、島の名前を知る人が少し増えるだけでも違います。」
「山神婚礼祭の公開については、保存会の方々も了承されているのでしょうか。」
「おおむねは。細かい撮影場所や、どこまで見せるかについては調整が必要ですが。」
「反対されている方はいませんか。」
「そりゃあ、います。」
中川支所長はあっさり答えた。
「年寄りの中には、祭りは島の者だけでやればいいと言う人もいます。でも、今のままでは、確実に島の者だけでは続けられなくなります。」
「祭りを守るために、外へ見せる。」
「そうです。隠したまま消えてしまったら、それこそ何にもなりませんからね。」
言っていることは正しい。祭りを変えずに守り続けるためには、担い手が必要になる。
人がいなくなれば、伝統も信仰も、誰かが決断して終わらせるまでもなく消えていく。何十年も続いた祭りが、ある年、人手不足を理由に執り行われなくなる。
次の年も行われない。
やがて、そのような祭りがあったこと自体も忘れられる。
それで終わる。
静かに死んでいくことも、伝統を守る一つの形だと言う人もいるかもしれない。
けれど、その静かな死を受け入れられず、なおも足掻く人間がいるのも当然のことだった。
「怖い話でも何でも、島を知ってもらえるきっかけになるならありがたいです。」
中川支所長は続けた。
「もちろん、嘘はいけません。ただ、山へ男を婿に出す祭りというのは、本当でしょう。夜の山を歩くのも、白い装束を着るのも、本当です。それをどう見せるかは、専門の方に任せたいと思っています。」
私は頷く。
「山の女様という呼称については、サイトで使用しても問題ないでしょうか。」
中川支所長の動きが、一瞬だけ止まった。紙コップを持つ指が止まり、それからすぐに、何事もなかったように机へ置かれる。
「それは、まあ、使い方次第でしょう。」
「使わない方がよいでしょうか。」
「いや、悪くはないです。雰囲気がありますから。」
「潮見さんから、軽々しく呼ぶべきではないと考える方もいると伺いました。」
「昔からの呼び方ですからな。」
中川支所長は笑っている。けれど、先ほどまでとは少し笑い方が違った。
「あまり、面白おかしくはしない方がいいでしょうが。」
「怖く見せること自体は、問題ありませんか?」
「怖く見せるのと、馬鹿にするのは違いますから。」
その言葉だけは、はっきりしていた。
「その線引きは、きちんとしていただければ。」
「承知しました。」
私が答えると、中川支所長は再び明るい表情へ戻った。
「それで、秋原さん。午後から神社を見に行かれるんでしょう。」
「はい。可能であれば、参道や祭礼で使用する場所も撮影したいと思っています。」
「潮見に案内させます。雨の後ですから、足元には気をつけてください。」
「ありがとうございます。」
「それから、古い話の聞き取りでしたかね。」
「はい。祭りの由来や、山の女様という呼称について、詳しい方がおられれば。」
「それなら、奥本の婆さんがいいでしょう。」
中川支所長は、潮見さんを見る。
「サヨさんに連絡は。」
「先ほど、ご家族へ確認しました。午後一時半からなら大丈夫だそうです。」
「そうですか。」
中川支所長は私に向き直った。
「口は悪いですが、昔のことはよく覚えています。ただ、何でも本気にされない方がいいですよ。」
「どういう意味でしょう。」
「島の年寄りは、すぐ祟りだの罰だの言いますから。」
中川支所長が笑う。私は愛想笑いを返した。潮見さんだけは笑わなかった。
◇
打ち合わせが終わる頃には、港を覆っていた霧の大半は晴れていた。それでも、空はまだ重い。
会議室の窓から見える山は、雨を吸った木々が密集し、黒に近い緑色をしている。
中川支所長は本庁へ電話をかけるため席を外した。
潮見さんも、午後の車と神社の鍵を確認すると言って会議室を出ていく。
私は一人で机に残り、広げた資料を整理した。
山神婚礼祭概要。
進行表。
婿役名簿。
三影神社由緒。
どの資料も、行政や保存会の言葉によって整えられている。
五穀豊穣。
海上安全。
地域行事。
宗教的強制なし。
安全上の理由。
神事への配慮。
書かれていることに、不自然な点はない。むしろ、何も問題がないように作られている。
私は、三影神社由緒と書かれた資料を開いた。
◇
【三影神社由緒】
御祭神:
三影大神
鎮座地:
三影島三影山中腹
由緒:
創建年代不詳。
古くより三影山を神体山として祀る。
島内の五穀豊穣、海上安全、家内安全を守護する神として信仰される。
毎年八月十六日に山神婚礼祭を斎行する。
補記:
御祭神は女神であると伝わるが、詳細不明。
口伝においては「山の女様」とも称される。
◇
短い。
あまりにも短かった。
創建年代不詳。
詳細不明。
口伝。
島の中央に山がある。その山を神体として祀っている。毎年一人の男を選び、女神との婚礼を行う。
それにもかかわらず、神について分かっていることは、ほとんど何もない。
三影大神という名前さえ、神の本当の名ではないらしい。
神のことは分からない。けれど、男を山へ上らせる手順だけは、今も細かく残っている。
私は資料の余白へ、鉛筆で二行書き込んだ。
――神についての情報が少ない。
――祭りの手順だけが具体的。
書いてから、その二行をしばらく眺める。
会議室の外から、人の声が聞こえる。潮見さんと中川支所長が話しているらしい。
廊下の向こうで、低い声だけがくぐもっている。言葉までは聞き取れない。
私は資料を閉じようとして、最後のページに挟まっている薄い紙へ気づいた。
コピー用紙ではなかった。古い罫紙を複写したものらしく、灰色の線と手書きの文字が薄く潰れている。
上部には赤いボールペンで、小さく『出典不明』と書かれていた。
◇
【出典不明】
山の女様について。
名を呼ばぬこと。
夜に山を見るな。
婿を止めるな。
白きものを拾うな。
戻るまで数えるな。
◇
私は紙を見つめる。五行だけだった。
日付はない。
記録者の名もない。
誰から聞き取ったのかも書かれていない。
由来も、理由も、破った場合に何が起きるのかも分からない。
名を呼ばぬこと。
夜に山を見るな。
婿を止めるな。
白きものを拾うな。
戻るまで数えるな。
進行表には、夜間の単独行動を禁止すると書かれていた。婿役への過度な声かけも禁止されていた。
供物へは触れない。一般見学者は、二の鳥居より先へ入らない。
安全管理上の規則だと説明された言葉の下に、もっと古く、もっと短い形が透けて見えていた。
偶然似ているだけかもしれない。
後世の誰かが、現在の祭礼規則から怪談めいた文章を作った可能性もある。
――出典不明。
その言葉に従うなら、やはり資料としての信頼性は低い。
それでも、概要資料や由緒書きより、その五行の方がはるかに印象が強かった。
人が続きを知りたくなる言葉。そう思った。
私はスマートフォンを取り出し、紙を撮影した。シャッター音が、会議室の中へ小さく響く。
その直後、廊下で聞こえていた話し声が止んだ。私は顔を上げる。
扉の向こうは静かだった。
数秒してから、潮見さんが戻ってくる。
「すみません。午後一時半から、ご自宅の方で奥本さんにお話を聞けることになりました。」
「ありがとうございます。」
私は机の上の罫紙を指差した。
「こちらも、参考資料に含めてよろしいでしょうか。」
潮見さんが紙を見る。表情が変わった。
ほんのわずかに、顔から血の気が引く。
「それは、どこにありましたか。」
「三影神社由緒の資料に挟まっていました。」
「……そうですか。」
「出典不明とありますが、どなたかが聞き取ったものでしょうか。」
「たぶん、昔の担当者か、保存会の方がまとめたものだと思います。」
「内容について、確認できる方はいますか?」
潮見さんは答えない。
「使えそうな資料だと思います。」
私が言うと、潮見さんはすぐに首を振った。
「それは、使わない方がいいです。」
「なぜですか。」
「確認が取れていません。」
「もちろん、掲載前に出典は確認します。」
「そうではなくて。」
潮見さんは言葉を切った。
窓の外で、濡れた枝が揺れる。山の方から、かすかに音がした。
こん。
潮見さんが黙る。
こん。
私は窓を見る。音は朝よりも遠い。それでも、確かに聞こえる。
こん。
風で鳴る鹿除け。そう説明された音だった。
窓の外の木々は、ほとんど動いていない。
潮見さんは窓を見ない。机の上に置かれた紙だけを見ている。
「奥本さんの前では、それを出さないでください。」
低い声だった。
「この紙をですか。」
「はい。」
「理由を聞いてもよろしいですか。」
潮見さんは答えない。
紙には、薄く潰れた文字が並んでいる。
名を呼ばぬこと。
夜に山を見るな。
婿を止めるな。
白きものを拾うな。
戻るまで数えるな。
私は罫紙を三影神社由緒の資料へ戻した。
その瞬間、山から聞こえていた音が止んだ。最後の一音の余韻だけが、古い窓ガラスの向こうへ残る。
潮見さんが、小さく息を吐いた。
私も自然と息を詰めていたことに気付いた。じんわりと額に汗が滲んでいる。室温のせいだけではないだろう。
息を整え、何事もなかったように手帳を開く。
午後から、奥本サヨという島の老人に話を聞く。
祭りの由来。
山の女様。
白布。
呼んではならない名。
話すと寄る、山のもの。
確認したいことは多い。
会議室のエアコンが、また低く唸り始める。机の上には、行政の言葉で整えられた資料が並んでいる。
どの紙も、何も語らない。
語らないまま、そこにあった。




