第一話 三影島
遠く暗い水平線の上に、黒い島の輪郭がゆっくりと浮かび始める。初めは海面に滲んだ小さな墨染みのように見えたそれも、連絡船の進行につれて少しずつ高さと奥行きを持ち、やがて低い山を中央に抱えた一つの島として、薄暗い空の下に姿を現していく。
ここ数日、四国一帯では激しい雨が続いていた。今朝になってようやく雨脚は止んだものの、海上にはまだ細い霧が幾重にも残り、水面から立ちのぼっては、雲に覆われた空へ吸い込まれている。
島の中央にある山肌にも、白い霧がまとわりついていた。木々の間から細長く立ちのぼる霧は、そのまま低い雲へ溶け込んでいるようにも見える。
八月の朝だというのに、陽射しは随分と弱い。海は鉛を溶かしたような鈍い色をしており、船首が波を割るたびに生まれる白い泡も、すぐに灰色の水へ崩れて消える。
船体の振動と低いエンジン音が足元から絶えず伝わってくるが、それ以外に聞こえるものは少ない。風も、海鳥の声も、波の音も、どこか霧に吸われて消えているようだった。
私は甲板の手すりに片手を置き、近づいてくる島をしばらく眺める。
風は強い。煽られた髪が頬へ触れる。耳に掛けても、すぐにまた風にほどかれ、顔の横へ散った。
――随分、不気味な島だ。
最初に浮かんだのは、そんな感想だった。しかし、すぐに考え直す。
不気味であることは、今回の仕事において必ずしも欠点ではない。
むしろ、雲一つない青空の下で、海水浴客が笑い合っているような明るい島に見えなくて良かったとさえ言える。
私は船体の揺れに注意しながら、首に下げていた一眼レフカメラを持ち上げ、水平線と島影が収まる位置までレンズを向ける。露出を少し落とす。霧が消えすぎないように、焦点を島そのものではなく、手前の海面へわずかにずらす。シャッターを切る。
液晶画面には、暗い海と、その向こうで霧に滲む島の姿が収まっていた。
山から立ちのぼる霧が、黒い島から外の世界へ伸ばされた、白い両腕のように見える。
実際に目で見るよりも、少しだけ遠い。
少しだけ暗い。
少しだけ、何かがありそうに見える。
――三影島。
それが、今回の私の出張先だった。
◇
三影島は、四国沖に浮かぶ人口二百人未満の離島である。本土側の港から連絡船でおよそ三十分。県庁所在地から向かう場合は、電車と路線バスを乗り継いだ上で、さらに船へ乗らなければならない。
島内に宿泊施設は一軒しかなく、飲食店と呼べるものはない。
島唯一の商店では、食料品から洗剤、乾電池、線香まで一通り扱っているらしいが、品揃えには限界がある。
診療所には週に二度、本土から医師が来る。
小学校は十年以上前に休校となり、現在島で暮らしている子どもの数は、片手で数えられるほどしかいない。
中学校までは連絡船で通学できるが、高校へ進学する年齢になると、多くは家族とともに本土へ移るか、寮のある学校を選ぶ。
主な産業は漁業と水産加工、それに柑橘類を中心とした小規模農業。
島の外へ働きに出ている人間も多いという。
暮らしの場としてはもちろん、観光地として考えても、条件は非常に悪い。
遠い。
不便である。
泊まる場所も、食べる場所も、買うものもない。
海の美しさだけなら、もっと交通の便が良く、設備の整った島はいくらでもある。
島外から人を呼ぼうとするならば、他にはない相当の理由が必要になるだろう。
だからこそ、私が呼ばれた。
私は東京に本社を置く、三十名ほどの企画制作会社で働いている。地方自治体や観光協会のウェブサイト、期間限定のキャンペーンページ、企業イベントの企画制作などが、主な業務だ。
中でも私は、広く知られていない地域資源に物語性を与え、他の地域との差別化を図る案件を任されることが多い。
今回の依頼は、過疎化の進む三影島への観光客誘致を目的とした、特設ウェブサイトの制作である。
すでに三影町役場と弊社の営業担当との間では、数回のオンライン会議が行われていた。
島の産業、祭事、景観、歴史的建造物。
観光資源となり得るものについて一通り聞き取りを行った結果、示された方針が、
――島に残る古い神社と祭りを軸に、若い世代にも届く観光企画を作る。
というものだった。
議事録に目を通せば、営業担当が観光資源を探すために苦心したこともよく分かった。
海。
釣り。
柑橘類。
古民家。
どれも魅力がないわけではない。しかし、三影島でなければならない理由としては弱い。
その中で、唯一、強い言葉を持っていたのが祭りだった。
資料に記載された正式名称は、『山神婚礼祭』。
毎年一人、島に縁のある成人男性を選び、『山の神の婿』として迎えさせる。
その一文だけを切り取れば、いかにも閉鎖的な土地に残る、少しおどろおどろしい奇祭らしく聞こえる。
けれど、事前に送られてきた資料を読む限り、実態は驚くほど穏当だった。
婿役に選ばれた男性が白い装束を身に着け、提灯を持つ先導役に従って、神社までの旧参道を上る。
神社では祝詞と盃の儀が行われ、その後は集落の広場へ戻り、島民たちと酒や食事を囲む。
婿役が本当に山へ残されるわけではない。特別な供物を要求されるわけでもない。
要するに、山の神との婚礼を模した、地域の祭礼行事である。
少なくとも、行政から受け取った資料の上では。
これを観光の中心に据えるには、やはり相当の工夫が必要だろう。
単に奇祭と呼ぶだけでは弱い。
もう少し奇妙に、隠された何かを感じるような、冷やりとしたものを感じさせる工夫。
そういった対象に興味がある若者が、少し刺激を求めて、遠路はるばるやってきたくなるような。
山に立ち入る際の決まり。
祭礼の日にだけ使われる道具。
島で語られてきた小さな伝承。
子どもを山へ近づけないための言い聞かせ。
過去の記録に残る、意味の分からない一文。
そういったものが一つでもあれば、祭りには奥行きが生まれる。
新たに怪談を作る必要はない。島にすでに存在するものの中から、見る者が意味を感じ取れる要素を探せばいい。
休校になった小学校。
荒れかけた境内。
山中に点在する石祠。
使われなくなった井戸。
人の手が入らなくなった古い道。
SNS上で目を引く写真が撮れる場所も、現地を歩けば見つかるかもしれない。
祭礼についても、その形そのものを変えるのではなく、進行を妨げない範囲で撮影位置や照明を調整できないか、相談する余地はある。
私は甲板を離れ、船内へ戻る。乗客は少ない。
買い物袋を足元へ置いた年配の女性が二人。
作業着姿の男性が一人。
大きなスポーツバッグを抱えた若い男性が一人。
観光客に見える人間は、私以外にはいない。
船内には古い布張りの座席が並び、窓ガラスには雨水が乾いた跡が白く残っている。
座席の背には船酔い用の袋と、色褪せた観光案内が差し込まれているが、案内に掲載されている写真のほとんどは、海と夕日と釣り場だった。
三影島にとって、この船は観光客を運ぶためのものではない。
島と本土の生活を、かろうじて繋ぎ止めるための路線なのだろう。
私は窓際の座席へ戻り、膝の上でノートパソコンを開く。通信は不安定だが、必要な資料はすべて端末内へ保存してある。
◇
【三影島観光振興事業 初期提案資料/抜粋】
事業名:
三影島地域資源活用観光振興事業
事業目的:
三影島に残る自然、建造物、祭礼等の地域資源を活用し、島外からの交流人口増加および島内事業者の収益機会創出を図る。
想定対象:
・十代後半から三十代の個人旅行者
・SNSを利用して旅行先を選定する層
・民俗、怪談、廃墟、離島、地域文化に関心を持つ層
活用を検討する地域資源:
・三影神社
・山神婚礼祭
・旧参道および二基の鳥居
・山中に点在する石祠
・旧三影小学校校舎
・港周辺の古民家群
・海岸および漁業景観
現状課題:
・自然景観以外の観光訴求点が乏しい
・島内宿泊施設および飲食施設が少ない
・公共交通機関の運行本数が限られている
・既存祭礼の島外認知度が低い
・継続的な情報発信を担う人材が不足している
企画方針案:
山神婚礼祭が持つ非日常性および物語性を中心的な訴求要素とし、「秘祭」「神婚」「山の神に選ばれる男」「島に残る古い信仰」等の表現を用いたウェブコンテンツを制作する。
留意事項:
祭礼の宗教的・文化的背景に配慮し、地元関係者との協議を経て掲載内容を決定する。
備考:
本祭礼に関連する呪詛、祟り、失踪、死亡事故等の記録は、現時点で確認されていない。
◇
最後の一文で、指が止まる。
呪詛、祟り、失踪、死亡事故等の記録は、現時点で確認されていない。
地域文化を紹介する上では、むしろ望ましいことだ。しかし、観光コンテンツとして考えた場合には、少し事情が違ってくる。
怖い話には、芯がいる。
もっともらしい固有名詞。
破ってはならない禁忌。
触れてはならない場所。
口にしてはならない名前。
過去に起きた事件と、それにまつわる曖昧な因果関係。
そのどれか一つでもあれば、人は続きを知りたくなる。
見てはいけない。
入ってはいけない。
拾ってはいけない。
そう言われれば、なぜいけないのかを知りたくなる。
けれど、山神婚礼祭には、今のところそれがない。
山の神へ男を婿として出すという言葉の響きは強いが、実際に行われているのは、白装束で山道を歩き、神社で祝詞を受け、戻って酒を飲むという穏当な行事である。
これでは、やはり古い祭りの紹介だけで終わってしまう。
もちろん、存在しない重大な事実を捏造するつもりはない。存在しない怪談を作り、島へ勝手に押しつけるようなことは許されない。そのような虚構は、島民が否定すればすぐに剝がれる。
しかし一方で、事実であっても、どの順番で見せるかによって印象は大きく変わる。
霧の海を最初に置く。
次に、島の中にある、わずかに不穏な場所を見せる。
土地に残る噂や、子どもを山へ近づけないために語られてきた小さな言い伝えがあるなら、由来とともに差し込む。
匿名掲示板の怪談や都市伝説を読み慣れた者が、自分で関連性を見つけたと思える程度がいい。あからさまな答えは、むしろ邪魔になる。
次に、夜の参道を見せる。
白装束の男の後ろ姿。
古びた鳥居。
誰のものとも分からない供物。
その上で、山の神へ婿を出す祭りだと説明する。嘘は、一つも書いていない。
それでも、明るい昼間に撮った海岸の写真から始める場合とは、まったく異なる物語になる。
言葉を選ぶ。
写真の明るさを整える。
読者の視線が移動する順序を決める。
見せる情報と、後へ回す情報を分ける。
私たちの業界では、それを演出ではなく、見せ方と呼ぶ。
窓の外へ目を向けると、島は先ほどよりも大きくなっている。霧の中から港の防波堤が現れ、その先に、赤い灯台が立っていた。
塗装はところどころ剝がれ、錆びた部分が黒く浮いている。曇天の下で見るその色は鮮やかな赤ではなく、乾いた血の跡に似ていた。
これも、後で写真に残しておこう。そう記憶してから、視線を奥へずらす。
背後に、山があった。
標高はそれほど高くない。ただ、島の中央へ重く腰を下ろしたような形をしており、港も民家も畑も、その山の裾へ押しつけられるように集まっている。
島の中心に山があるのではない。山の周囲に、人の暮らしが辛うじて残されている。そう見えた。
私は再びカメラを構える。今度は港や灯台ではなく、山へレンズを向ける。ファインダーの中で見る山は、肉眼で見るよりも暗かった。
◇
桟橋へ降りると、海から上がってきた湿気が服の内側へ入り込み、肌へ薄い膜を作るようにまとわりつく。潮の匂いの中に、濡れた土と草の匂いが混ざっている。昨日までの雨を島全体が吸い込んだまま、まだ吐き出せずにいるのだろう。
コンクリートの地面には水たまりが残り、係留柱の根元に溜まった雨水には、虹色の油膜が浮いている。桟橋の脇では黒いロープが水を含んで太く膨らみ、船と岸壁の間で軋んでいた。
乗客たちは互いに言葉を交わすこともなく、それぞれの方向へ散っていく。先ほど船内にいた若い男性は、迎えに来ていた軽トラックへ乗り込んだ。年配の女性たちは、買い物袋を下げたまま、港沿いの道を歩いていく。
私を待っていたのは、白いワイシャツに紺色のスラックスを身に着けた若い男性だった。腕に掛けた上着と、目立たない革靴。髪は短く整えられ、いかにも自治体職員らしい控えめな身なりをしている。
彼は私のカメラとキャリーケースを見て、すぐにこちらへ歩いてきた。
「秋原澪さんでしょうか。」
「はい。秋原です。」
「三影町役場観光振興課の潮見です。潮見悠真と申します。この度は遠いところまでありがとうございます。」
差し出された名刺を受け取る。私も名刺を返し、会社名と担当業務を簡単に説明する。
三影町役場観光振興課。
潮見悠真。
今回の現地担当者である。
年齢は、私と同じか、少し下だろうか。柔らかな口調と人当たりの良い目元をしており、こちらを必要以上に観察する様子もない。
「船は大丈夫でしたか。昨日までかなり海が荒れていたので。」
「ありがとうございます。思ったほどは揺れませんでした。」
「今日も午前中は霧が残ると思いますが、午後には少し晴れる予報です。撮影は、その頃の方がしやすいかもしれません。」
「いえ。霧の写真こそ、何枚か撮っておきたいと思っています。」
私が答えると、潮見さんは島の方を振り返る。
「観光写真としては、あまり天気が良くないかもしれませんが。」
「今回の企画には合うと思います。」
「そういうものですか。」
「晴れた海だけなら、ほかの島にもありますから。」
口にしてから、少し冷たく聞こえただろうかと思ったが、潮見さんは気を悪くした様子もなく、「なるほど。」と頷いた。
「お荷物、持ちましょうか。」
「ありがとうございます。ただ、パソコンと撮影機材が入っているので、自分で持ちます。」
「分かりました。車を近くに停めています。まず支所へ寄って、資料の確認と簡単な打ち合わせをさせてください。」
「お願いします。」
港の駐車場には、白い古びた軽自動車が一台停まっていた。側面に小さく三影町と書かれている。
車へ向かう途中、私は一度だけ振り返る。
小さな漁船。
雨に濡れた網。
錆びた係留柱。
防波堤へ打ちつける鈍い波。
人が暮らしている痕跡は確かにあるのに、その暮らしを営む人間の姿だけが見えない。
観光地というより、取り残された場所。
それが、三影島に降り立った時の第一印象だった。
◇
車が港を出ると、道はすぐに細くなった。古い瓦屋根の民家が、両側から道路へ軒先を差し出すように並んでいる。
潮に焼けた板塀。
閉ざされた雨戸。
軒下に吊るされた玉ねぎ。
割れた植木鉢。
錆びた自転車。
青い漁業用コンテナ。
どの家にも、誰かが生活している気配はある。
洗濯物が干されている。
玄関先に長靴が置かれている。
窓が少し開いている。
けれど、人の姿はほとんどない。島外へ仕事や学校へ出ている者が多いのだろう。
まだ朝と呼べる時間であるにもかかわらず、島全体が眠ったままのように静かだった。
「島の方々は、今回の企画に前向きなのでしょうか。」
私が尋ねると、潮見さんはすぐには答えなかった。
狭い交差路を曲がり、道端に置かれた古い農具を避けてから、慎重に言葉を選ぶ。
「観光客が増えるのであればありがたい、という方は多いです。商店も民宿も、正直、このままでは続けるのが難しいので。」
「反対している方もおられますか。」
「はっきり反対とおっしゃる方は、今のところ少ないです。ただ、祭りを外の人に見せること自体に、抵抗がある方はいますね。」
「宗教的な理由でしょうか。」
「信仰心からというよりは、昔から自分たちだけで続けてきたものを、面白半分に扱われるのが嫌なのではないかと。」
「なるほど。」
私は手帳を取り出し、膝の上で短く書く。
『外部公開への抵抗あり。』
書いた瞬間、その情報が企画に利用できると考えている自分に気づく。
人が見せたくないと言うものほど、人は見たがる。
入ってはいけない。
見てはいけない。
口にしてはいけない。
そう告げられた途端、それまで関心のなかった人間まで、境界の向こう側を覗きたくなる。
私はその感情を知っている。知っているどころか、そうした感情が生まれるように、言葉と写真を配置する仕事をしている。
「山神婚礼祭という名称は、昔から使われているのですか。」
「正式名称としては、そうです。ただ、島の中ではあまりその呼び方はしません。」
「何と呼んでいるんですか。」
「婿祭り、と呼ぶ人が多いですね。あとは、山の婚礼とか。」
「山の婚礼。」
私は小さく繰り返す。
山の婚礼。
婿祭り。
どちらも、行政文書にある山神婚礼祭より短く、情景を想像しやすい。見出しとして使える。
「山の神は、女神なんですよね。」
「そう伝わっています。」
「名前はありますか。」
「神社では三影大神と呼んでいます。ただ、島の年配の方は、別の呼び方をします。」
「どんな?」
潮見さんは、正面を向いたまま答える。
「山の女様、と。」
車内の空気が、一瞬だけ重くなったように感じた。
――山の女様。
神というより、人に近い呼び方だった。
けれど、親しみを込めた響きとも少し違う。
誰かを敬っているというより、直接名前を呼ばないために、代わりの呼び方を置いているようにも聞こえる。
私は手帳へ、そのまま書き留める。
山の女様。
「良いですね。響きが。」
考えるより先に、仕事の言葉が口から出た。
潮見さんが、わずかにこちらを見る。
「良い、ですか。」
「言葉として印象に残ります。三影大神より、ずっと土地の匂いがありますし、少し不穏です。」
「不穏?」
「悪い意味ではありません。ページを読んだ後も、頭に残る呼び方という意味です。」
潮見さんは曖昧に笑った。
「ただ、サイトへ使う場合は、祭礼保存会長や神社の方にも確認した方がいいと思います。」
「嫌がる方がいるんですか?」
「軽々しく呼ぶものではない、と言う方もいますね。」
「神様だからですか?」
「おそらく、そうかと。」
おそらく。
潮見さんは、そう答えた。彼は島の人間であり、役場の担当者でもある。
それなのに、祭りや神について話す時だけ、言葉の輪郭が薄くなる。
知らないのか。
知っていて、行政の立場では言えないのか。
それとも、自分でもどこまで信じているのか分からないのか。
今の段階では判断できない。
車は港沿いの道を離れ、島の中央へ向かう坂へ入る。舗装はされているが、道幅は狭い。両側から草木が迫り、雨粒を残した枝が車体の側面を擦っていく。
窓の外には、斜面に作られた小さな畑が見えた。
支柱。
防鳥網。
雨を含んだ赤土。
その奥には、濃い緑に覆われた山がある。
ふいに、乾いた音がした。
こん。
木と木を、軽く打ち合わせたような音だった。私は顔を上げる。車が小さな段差を越え、車体が揺れる。数秒後、もう一度聞こえた。
こん。
今度は、確かに山の方からだった。
「何か鳴っていますね。」
潮見さんは一拍遅れて窓を少し開けた。湿った空気とともに、蝉の声が車内へ流れ込む。
こん。
三度目の音がする。
「ああ。鹿除けだと思います。」
「鹿除け?」
「この辺りは鹿が畑まで下りてくるので、竹を吊るして、風で鳴るようにしている家があるんです。」
「ししおどし、のようなものですか。」
「そんなところです。」
説明としては不自然ではない。
山には鹿がいる。
畑を守るために、竹を使った鹿除けを置く。
風が吹けば音が鳴る。
それだけのことだ。
私は窓の外を見る。木々は風に揺れている。けれど、激しく揺れているわけではない。
こん。
こん。
こん。
音は、ほとんど正確に同じ間隔で続いている。風で動くものが、あれほど規則正しく鳴るだろうか。
疑問は浮かんだが、口にはしなかった。
島へ着いたばかりの外部の人間が、古い家や山の音を何でも怪異へ結びつけるのは、あまりにも無遠慮だ。
それに、音の正体が鹿除けであっても構わない。
不気味に聞こえたという事実は残る。
録音しておけば良かった、と私は思った。
そして、そのことを思った自分に、少し遅れて気づいた。
◇
【現地出張報告一/秋原澪】
確認日:
八月四日
天候:
曇天。前日まで豪雨。
島周辺および山間部に霧あり。
同行者:
三影町役場観光振興課 潮見悠真氏
島内第一印象:
港周辺には生活の痕跡がある一方、人影が少なく、全体として閉塞感が強い。
観光地として整備された印象は乏しい。
現時点では、一般的な「明るい離島観光」よりも、「取り残された島」「秘祭」「古い信仰」等の物語性を前面へ出す方が、やはり他地域との差別化に適していると思われる。
使用候補語:
・山の婚礼
・婿祭り
・山の女様
・山の神に選ばれる男
・夜の参道
・霧に沈む島
今後の確認事項:
・山神婚礼祭の成立時期および由来
・婿役の選定方法
・歴代婿役の記録
・三影神社の祭神および由緒
・島民が使用を避ける呼称の有無
・祭礼に関する禁忌、立入制限
・祭礼当日の撮影および見学可能範囲
・写真および動画撮影に適した地点
・祭礼に関連する過去記録、伝承、口承等
備考:
山中より、木を打つような音を複数回確認。
潮見氏は、風で鳴る鹿除け用の竹と説明。
音源の位置は未確認。
◇
車は坂を上り、やがて白い二階建ての建物の前で停まった。
三影町役場三影島支所。
外壁には雨筋が黒く残り、玄関上の看板も端の方が傷んでいる。
入口脇の掲示板には、健康診断、防災無線の点検、連絡船の運航時刻、島内一斉清掃などのお知らせが並んでいた。
どれも、島で暮らす人間にとっては必要な情報なのだろう。
その中に一枚だけ、太い筆文字で書かれた紙がある。
『山神婚礼祭 奉仕者募集』
私は足を止めた。
「奉仕者というのは、祭りのお手伝いですか。」
「はい。会場の設営や提灯の準備、供物の運搬などです。」
「婿役とは別に?」
「別です。婿役はもう決まっています。」
「今年の方ですか?」
「ええ。島の青年会から一人出ます。」
潮見さんは鍵束を取り出しながら、何でもないことのように答える。
「嫌がる人はいないんですか?」
「昔は名誉な役だったらしいです。今は、少し面倒な役回りという感覚かもしれません。」
「面倒。」
「白い衣装を着て山へ上がって、戻ったら酒席で散々からかわれますから。」
「それだけですか。」
尋ねてから、少し露骨だったかもしれないと思う。しかし潮見さんは気にした様子もなく、「基本的には。」と答えた。
その程度なら、祭りとしては健全な部類だろう。
けれど、掲示板に並ぶ文字を見ていると、どうしても軽い催しには見えなかった。
奉仕者。
婿役。
供物。
婚礼。
一つ一つはありふれた言葉なのに、同じ紙の上に並べると、別の意味を持ち始める。
字面としては、非常に使いやすい素材だった。
潮見さんが玄関脇の鍵穴へ鍵を差し込む。
その瞬間、山から聞こえていた音が止んだ。最後の一音の余韻だけが、湿った空気の中へ残っている。
私は振り返る。支所の駐車場から、島の中央にある山の斜面が見えた。
木々の間に、朱色の鳥居らしきものが小さく立っている。
霧と濃い緑に沈み、遠目には、山肌についた古い傷のようにも見えた。
「あれが三影神社ですか。」
「はい。」
潮見さんが背後から答える。
「この辺りの人は、夜は、あの鳥居より上へは行きません。」
「祭りの日も?」
私が尋ねると、潮見さんは少しだけ黙った。
ほんの数秒の沈黙だった。
それでも、その間だけ、蝉の声も、港から聞こえていた船の音も、遠くなったように感じられた。
「祭りの日は、行きます。」
「夜に?」
「はい。」
「婿役の人も?」
「行きます。」
潮見さんは山を見たまま言う。
「山の神様との婚礼ですから。」
私は手帳を閉じる。
霧の島。
山の婚礼。
軽々しく呼んではならない女神。
夜の参道を上る白装束の男。
不足していたものが、少しずつ揃い始めている。
怖いページになる。そう思った。
そして、怖いと思ったことより先に、トップページへ置く言葉と、写真の並び順を考えていた。
仕事が始まる。




