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第十五話 こん

 八月十五日、午後一時三十八分。


 空港から鉄道と路線バスを乗り継ぎ、三影島行きの連絡船が出る港へ着いた時には、自宅を出てからすでに五時間近くが経っていた。


 港の上には、雲の薄い夏空が広がっている。

 陽射しは強かったが、海から吹いてくる風には湿り気があり、潮と古い金属と、船の燃料が混ざった匂いがした。

 前回ここへ来た時と、建物も、岸壁も、係留されている船も変わっていない。


 けれど、待合所の前には見覚えのない案内板がいくつも立てられ、入口から乗船口まで、黄色い樹脂製の柵によって列が分けられていた。


     ◇


【三影島行き連絡船をご利用の皆様へ】


 八月十五日、十六日は、お盆の帰省と祭礼実施に伴い、多数の利用者が見込まれます。


 島民、帰省者、業務関係者および生活物資輸送を優先する場合があります。


 乗船定員を超えた場合、予定の便にご乗船いただけないことがあります。


 三影島内の宿泊施設は、現在ほぼ満室です。


 宿泊予約のない方は、必ず当日中に本土側へ戻ることのできる便をご確認ください。


 島内での野宿、路上滞在、私有地への無断立入りは禁止されています。


     ◇


 掲示の前で、何人もの人がスマートフォンを構えていた。


 案内を読むためではない。

 島へ渡る前に、すでに何かが始まっていることを記録するように、掲示そのものを撮影している。


 待合所の前には、普通の観光客とは少し違う荷物を持った人が目立った。


 小型の三脚を鞄の横へ差している者。胸元に配信用のマイクをつけた者。

 カメラバッグを二つ重ねて足元へ置いている者。

 透明な収納ケースの中に、予備のバッテリーや照明器具を並べている者。

 数人で一台のスマートフォンを囲み、白い人影が映ったという動画を繰り返し再生している若者たち。


 もちろん、全員が山神婚礼祭を目当てに来たわけではない。


 大きな紙袋を持った親子。

 夏休みらしい子どもを二人連れた夫婦。

 病院の名前が印刷された封筒を膝に置いている老女。

 発泡スチロールの箱を台車で運ぶ男性。


 港で働く人たちは、来島者の荷物と一緒に、段ボール入りの飲料水、折り畳まれた寝具、食材、救護用品、仮設柵を船へ積み込む準備をしていた。

 白い女を見に行く人間と、島で明日を暮らすための物が、同じ船へ乗せられようとしている。


 私は会社から送られてきたメッセージを開き、待ち合わせ場所を確認した。


     ◇


【業務連絡】


 レイジ怪奇録取材班との合流について。


 合流時刻:

 八月十五日 午後一時五十分。


 合流場所:

 ○○港連絡船待合所入口横、観光案内板前。


 取材班:

 レイジ氏。

 撮影担当・遠山氏。

 配信進行および音声担当・佐伯氏。

 秋原は、現地到着後の町側との調整窓口を担当。

 取材班および秋原の乗船については、三影町を通じ、業務関係者として乗船人数へ登録済み。


     ◇


 待ち合わせ時刻までは、まだ十分ほどある。

 私は待合所の中へ入り、空調の風が届く壁際へ移動した。


 室内は混んでいた。長椅子の多くは埋まり、座れない人が壁際や券売機の横へ立っている。

 扉が開くたびに、外の熱気と蝉の声が入り、すぐにまた冷房の低い音へ吸い込まれていった。


 スマートフォンを見れば、三影島に関する投稿は、朝からさらに増えている。


     ◇


【SNS投稿抜粋】


 @xxxxxx:三影島行きの港着きました。思ったより人多い。お盆休みだから仕方ないけど、明日の臨時便もかなり混みそう。明日日曜日だしね。


 @xxxxxx:島民優先だそうです。現地行く人は絶対係員さんの指示に従ってください。


 @xxxxxx:白い人の動画、ほぼAIかやらせらしいけど、まだ出所不明が何本か残ってる。


 @xxxxxx:レイジ今日から現地入りですよね。同じ船だったらすごい。写真撮れるかな。


 @xxxxxx:白布見つけても拾うなよwww婿にされるぞ。


 @xxxxxx:彼女いない歴=年齢の俺はむしろ拾いに行きたいw仕事が無かったら絶対行ってるのにwww


     ◇


 私は画面を閉じた。

 少し前までは、白布を拾うなという言葉を知っているのは、出典不明の紙を見た私と、島の一部の人間だけだったはずだ。


 今では、それが誰でも書ける冗談になっている。


 どこから出たのか。

 誰が最初に書いたのか。

 それを追うことにも、もう意味はない。


 言葉は、発信者から切り離された後の方が速く動く。

 正しいかどうかを確かめる者より、使いやすい形へ縮めて繰り返す者の方が多い。


 拾うな。

 呼ぶな。

 入るな。

 数えるな。


 理由の分からない禁止は、覚えやすい。

 守るためにも、破るためにも。


 午後一時四十九分。待合所の入口付近の空気が、僅かに動いた。


 大きな声が上がったわけではない。

 ただ、入口へ向いていた人の顔が一つ、また一つと同じ方向へ動き、続いて何台かのスマートフォンが持ち上がった。


 三人組が入ってくる。


 先頭にいる細身の男性は、黒い帽子を深く被り、銀縁の眼鏡をかけていた。黒い半袖のシャツに、暗い色のパンツ。背中には小さなリュックを背負っている。

 動画で見る時と大きく違う服装ではない。帽子を被っていても、顔を知っている人間が見れば、すぐに分かる。


 レイジだった。


 後ろには、大型のカメラケースを肩へ掛けた者と、細長い機材バッグを持った者が立っていた。遠山氏と佐伯氏だろう。

 三人とも、観光客というより、仕事で移動している人間の歩き方をしていた。入口付近で立ち止まらず、周囲を見回しながら観光案内板の方へ進んでくる。


 私が近づこうとした時、先に若い女性二人がレイジの前へ出た。


「あの、レイジさんですよね?」


 声は抑えていたが、周囲には十分聞こえた。レイジは一瞬だけ足を止め、それから穏やかに笑った。


「はい。こんにちは。」


「ずっと見てます。明日の配信も見ます。」


「ありがとうございます。」


「写真、一枚だけいいですか?」


 レイジは周囲を確認した。すでに、別の何人かがこちらへスマートフォンを向けている。


「ここでは他の方も映ってしまうので、手短に一枚だけでお願いします。それから、島では住民の方や関係者を無断で撮らないでくださいね。」


「はい。絶対しません。」


 二人は何度も頷き、レイジの横へ並んだ。佐伯さんが撮影を引き受ける。


 その間にも、少し離れた場所から別のスマートフォンが向けられていた。写真を頼んだ二人ではない。

 撮影画面の中には、おそらくレイジだけでなく、その後ろに立っている遠山さんと、待ち合わせ相手として近づきかけた私も入っている。


 私は足を止めた。

 今、レイジへ話しかければ、仕事上の関係者だと分かる。


 話しかけなくても、待っている様子を見られていれば同じかもしれない。


 写真撮影が終わると、レイジは二人へ頭を下げた。


「現地では、町の案内に従ってください。立入り禁止の場所へは行かないようにお願いします。」


「分かってます。本当に見るだけなので。」


「お願いします。」


 二人が離れる。レイジは観光案内板の横にいる私を見つけ、少しだけ会釈した。


「秋原さんですか?」


「はい。秋原です。」


 その瞬間、少し離れた場所から、スマートフォンのシャッター音がした。音を消していない端末だった。

 反射的に振り向く。

 二十代ほどの男性が、すぐにスマートフォンを下ろした。

 私と目が合うと、悪びれたというより、見つかったことに困ったような顔をする。


「すみません。レイジさんだけ撮ったつもりで。」


 軽い謝罪だった。レイジが私より先に答える。


「同行者や一般の方が映る撮影は、控えてください。」


 声は穏やかだったが、笑ってはいなかった。


「はい。すみません。」


 男性は離れていく。ただし、撮った画像を削除したかどうかまでは分からない。


「申し訳ありません。」


 レイジが私へ向き直った。


「僕と一緒にいると、こうなる可能性は考えていたんですが。」


「私も、今気づきました。」


 自分でも間の抜けた返事だと思う。レイジは小さく眉を寄せた。


「会社や町の方から、顔を出しても問題ないとは聞いていません。現地でも、できるだけ僕たちと同じ画角へ入らない方がいいと思います。」


「そうですね。」


「ただ、移動と打ち合わせは一緒ですよね。すみません。」


「はい。」


 完全に避けることは難しい。

 レイジ怪奇録の三人と同じ船へ乗り、同じ島へ入り、町側との打ち合わせに同行する。


 それを見れば、私が何らかの関係者であることは分かる。


 観光サイトの担当者だとまでは分からなくても、町の人間、制作会社、取材の案内役、祭礼関係者。何かしらの役割を持つ人間として見られる。


 藤尾さんの顔や勤務先が、複数の普通の写真から探し出された。私も同じだった。

 一枚の写真で分からなくても、空港、港、船、島、支所。別々の人間が撮った画像を並べれば、行動は線になる。


「改めまして、笹原礼二です。動画では、レイジの名義で活動しています。」


 レイジが改めて名乗り、名刺を差し出した。チャンネル名と運営会社の連絡先が記載された仕事用の名刺だった。


「撮影担当の遠山です。」


「配信進行と音声を担当しております、佐伯です。本日はよろしくお願いいたします。」


 二人とも丁寧に頭を下げる。


 遠山さんは四十歳前後に見えた。短い髪と日に焼けた腕、厚手のカメラバッグ。機材の重さに慣れている人の、重心の低い立ち方をしている。

 佐伯さんは三十代半ばほどで、肩までの髪を後ろへまとめ、片手にタブレット、もう片方に連絡用のスマートフォンを持っていた。


「秋原です。今回、町と弊社側の調整を担当させていただきます。どうぞよろしくお願いいたします。」


 名刺を交換する。それだけの普通の挨拶をしている間にも、周囲から視線を感じた。

 レイジを見ている。その隣にいる私たちを見ている。

 会話の内容は聞き取れなくても、名刺を交換し、同じ資料を見ていれば、無関係な人間ではないことは分かる。


     ◇


【SNS投稿】


 ○○港にレイジいた。


 スタッフ二人と、スーツケース持った女性一人と合流してた。


 町か制作会社の人?


【返信】


> 観光サイトの関係者じゃないですか?

> 顔出すのは絶対やめなよ。一般人でしょ?

> 顔は隠してます。

> 後ろ姿でも特定につながるから消した方がいい。

> レイジと一緒にいるなら公の関係者でしょ?


     ◇


 投稿に気づいたのは、それから五分も経たないうちだった。

 佐伯さんが、自分の端末へ届いた通知を見せてくれた。


 画像には、観光案内板の前で名刺を交換する私たちが写っている。

 私の顔にはぼかしが入っていたが、服装、髪形、キャリーケースは分かる。画像を撮った本人には、加工前の写真が残っているはずだった。


「削除依頼を出しますか?」


 佐伯さんが尋ねる。


「顔は隠されていますし、まだ個人名も出ていません。大丈夫だと、思います。」


 私は答えた。自分に言い聞かせるための言葉にも聞こえた。


「ただ、今後も同じ人が撮る可能性があります。」


 佐伯さんは冷静に言った。


「港で一度見た方なら、島でも秋原さんに気づきます。」


「そうですね。」


「こちらからも、同行者の撮影を控えるよう投稿します。」


 レイジが言った。


「ただ、それを出すと、逆に同行者がいることを広く知らせることになりますかね……。」


 私は思わず答えた。

 レイジが黙る。少ししてから、小さく頷いた。


「そうなんです。注意を出せば、知らなかった人に知らせることにもなる。」


 藤尾さんの時と同じだった。

 守るための言葉が、何を守ろうとしているのかを教える。


 触れるなと書けば、触れてはいけない物があると分かる。

 撮るなと書けば、撮られたくない人間がいると分かる。

 消してほしいと言えば、消される前に保存しようとする者が現れる。


「今の段階では、個別に撮影を控えてもらうだけにしましょう。」


 レイジが決めた。


「秋原さんの名前は出しません。配信でも、町側の調整担当とだけ説明します。」


「すみませんが、お願いします。」


 自分の名前は、まだネット上に置かれていない。そう思った。

 けれど、自分の姿はすでに置かれている。


 名前のない人間は、守られているのではない。


 名前を探される余地が残っているだけだった。


     ◇


 乗船開始までの間、私たちは待合所の端にある立ち席用の台を囲み、明日までの取材条件を確認した。

 レイジは、会社と町から送付された書類を紙でも持参していた。


     ◇


【山神婚礼祭 取材確認事項】


 一、取材者は三名とする。

 二、撮影および配信は、町が指定した区域内で行う。

 三、二の鳥居より先へ立ち入らない。

 四、祭礼役、神職、先導役、保存会員へ、祭礼進行中に声をかけない。

 五、白布、供物、祭具へ触れない。

 六、島民、宿泊者、見学者の撮影は、本人の同意を得た場合に限る。

 七、私有地へ立ち入らない。

 八、夜間に単独で行動しない。

 九、生配信は町が指定した固定区域から行う。

 十、配信コメントの要望に応じ、撮影区域や画角を変更しない。

 十一、事故、体調不良、見学者の混乱等が発生した場合、町担当者または取材責任者の判断で直ちに配信を停止する。

 十二、未確認の怪異、事故、人物情報を事実かのように伝えない。


     ◇


「配信には、四十秒程度の遅延を入れます。」


 佐伯さんが説明した。


「現地映像は一度こちらの端末を通します。問題が起きた場合、配信側で映像を切り替えることはできます。ただ、完全に送信を止めるまでには、数秒から十数秒かかる可能性があります。」


「停止判断は、どなたが?」


 私が尋ねる。


「僕か佐伯です。」


 レイジが答える。


「町側から中止要請があれば、即時に止めます。現地で危険を感じた場合も同じです。」


「コメントで、別の場所を映してほしいと言われても対応しません。」


 佐伯さんが続ける。


「『後ろを見ろ』『白いものを拾え』『鳥居へ近づけ』などの書き込みが出ることは想定しています。」


「出ると思います。」


 私が言うと、レイジが僅かに苦笑した。


「僕もそう思います。ただ、コメントを全て止めてしまうと、生配信をする意味が変わってしまう。禁止語句と連続投稿については制限を入れますが、祭りに関する普通の感想まで消すつもりはありません。」


 普通の感想。


 白いものが見えた。

 藤尾さんを助けて。

 山の女様が来た。

 名前を呼ぶな。

 進め。

 戻れ。


 どこからが普通ではなくなるのだろう。


「撮影区域は、今日の現地確認で最終決定ですね。」


「はい。」


「白布の保管状況については、今日見せていただけると聞いています。」


 レイジが言う。


「申し訳ありませんが、事前にお伝えした通り、撮影は静止画のみ。箱から出すかどうかは保存会の判断ですので。」


「もちろんです。」


 レイジは即答した。その返事に迷いはなかった。


 この人は、決まりを破って怪異を撮る種類の配信者ではない。

 けれど、白布を見たいと思っている。


 見たいからここに来た。視聴者も同じだった。


 決まりを守りながら、見られるところまで近づく。

 境界を越えなくても、境界のすぐ手前までは、大勢を連れてくることができる。


     ◇


 午後二時二十分。乗船案内が流れた。


 業務関係者と島民、生活物資を運ぶ者が先に呼ばれる。


 寝具を積んだ軽トラック二台と役場のワゴン車が、係員の誘導で船尾の車両甲板へ入っていく。人なら百人近く運べる船でも、車を載せる区画は狭く、その三台が収まると、残された場所は乗用車が数台並べば埋まるほどだった。


 私たちは町を通じて乗船人数へ登録されていたため、一般の列より先に乗船口へ案内された。

 そのことにも、視線が集まった。


「なんで先?」


「関係者でしょ。」


「レイジいる。」


「撮っていいのかな。」


「やめとけって。」


 小声は、聞こえないほど小さくはない。


 船会社の係員が繰り返す。


「島民、帰省者、業務関係者を先にご案内しています。」


 合理的な運用だった。それでも、レイジ怪奇録が特別扱いを受けているように見える。

 私も、その特別扱いを受ける側にいる。


 乗船口の手前では、港の係員が大きな台車を押していた。

 段ボールには、ミネラルウォーター、紙コップ、使い捨ての食器、タオルと書かれている。別の台車には、透明な袋へ入れられた敷布団と毛布が積まれていた。


「民宿の分ですか?」


 私が尋ねると、近くにいた町の職員らしい男性が答えた。


「別棟を開けるそうです。何年か使ってない部屋もあるらしくて。今朝から掃除しとるそうですよ。」


「島の方だけで対応を?」


「近所の人や、昔手伝っとった人にも声をかけたみたいです。客が来るんはありがたいですけど、いかんせん急すぎますわ。」


 男性は笑った。疲れている顔だった。


「明日の夜は食事を出せんかもしれんので、簡単な物を多めに入れています。島の店だけでは多分足りんようになりますから。」


 怪異の話はしなかった。白い女も、黒川も、山の女様も口にしない。


 人が増える。

 水が要る。

 布団が要る。

 食事が要る。

 帰りの船が要る。


 島で実際に起きていることは、それだった。


     ◇


 船内は、前回よりも明らかに混んでいた。座席へ座れない人が、後方のデッキ近くへ立っている。通路には、荷物がはみ出さないよう何度も案内が流れた。


 レイジたちは、機材を壁際へ固定し、一般客の通行を妨げないよう一列に座った。私は通路を挟んだ向かい側の席へ座る。


 出航前から、何人かがレイジに気づいている。

 しかし港で注意されたことが伝わったのか、露骨に撮影する人は減っていた。

 代わりに、自分の顔を撮っているように見せながら、背後へレイジを入れている人がいる。


 窓際の若い男性二人は、三影島の地図を開いていた。


「二の鳥居って、この辺?」


「公式の地図だと、神社の途中までは載ってる。」


「今日の夜、下見できるかな。」


「夜間一人で動くなって書いてあるだろ。」


「二人なら一人じゃないじゃん。」


 二人で笑う。冗談かもしれない。

 本当に行くつもりはないのかもしれない。けれど、言葉は残る。


 隣の席の人が聞く。

 SNSに書く。

 同じことを考えていた別の人間が、実行してもよい行動だと思う。


 誰が最初に言ったかは、その時には関係がなくなる。


 斜め前に座った女性の荷物から、白い布が少しだけ覗いていた。衣服か、タオルか、帽子かもしれない。

 私は一度そこへ目を向け、それからすぐに窓の外を見る。


 白いものを探している。

 昨日まで、白い女の動画を見続けたためだ。


 生成されたもの。

 演出されたもの。

 別の土地から持ってこられたもの。

 正体の分からないもの。


 白い色を見た時、何であるかを確認するより先に、何かではないかと思うようになっている。

 存在しないものを探す練習を、何時間も繰り返してしまった。


 スマートフォンが短く震えた。カナちゃんからのメッセージだった。


> 港の写真が出ています。


> レイジさんと一緒にいるところ?


> はい。


> 顔は隠れてる。


> 撮影した本人の端末では隠れてません。


> そうだね。


> 服装と荷物を変えられますか?


> もう船に乗った。


> そうですか。


> レイジさんのスタッフも気をつけてくれてる。


> 先輩が関係者だと分かれば、観光サイトについて直接聞こうとする人が出ます。


> まだ私だとは分からないよ。


> 藤尾さんも、最初は何も分かっていませんでした。


 それ以上、返す言葉がなかった。


     ◇


 船が岸壁を離れた。低い振動が座席の下から伝わり、窓の外で港の建物がゆっくり後ろへ動いていく。

 海は穏やかだった。昨日降ったらしい雨の痕跡も既に薄い。空は明るく、遠くの島々は夏の霞の中へ微かに重なっている。白い波が船体の横に生まれ、細長くほどけていった。


 何人かがデッキへ出る。三影島が見え始める前から、カメラを構えているようだ。


 レイジたちはまだ撮影を始めなかった。

 遠山さんは窓越しに光の状態を確かめ、佐伯さんは船内では一般客を映さないよう、機材をケースに入れたままにしている。


「動画は撮らないんですか?」


 私は通路越しに尋ねた。


「島が見えてから、許可された範囲で遠景だけ撮ります。」


 レイジが答える。


「船内は、映り込みが多すぎますから。」


 先ほど、港で私を撮った人間とは違う。その違いははっきりしている。


 それでも、レイジの動画が人をここまで連れてきたことも事実だった。

 正しく撮ることと、何も起こさないことは同じではない。


     ◇


 航行時間の半分を過ぎた頃、デッキ側から短い音がした。


 こん。


 私は顔を上げた。


 船の振動。

 金属製の扉。

 誰かの荷物。

 何の音でもあり得る。


 周囲の人は、ほとんど反応していない。ただ、レイジが僅かにデッキの方を見た。


「今、何か鳴りましたか?」


「船の音だと思います。」


 私はすぐに答えた。


「そうですよね。」


 レイジはそれ以上気にしなかった。

 私だけが、膝の上に置いた手へ力を入れている。


 前回、島へ渡った朝。

 山へ向かう車の中。

 支所の会議室。

 出典不明の紙。


 資料へ戻した瞬間に止まった音。あれと同じだったとは言えない。


 音は、どこにでもある。


 木が当たる。

 金属が鳴る。

 船が軋む。

 誰かが机を叩く。


 同じ二文字で表せる音はいくらでもある。


 それでも、一度意味を与えた音は、次から同じものとして聞こえる。


     ◇


 三影島の山が見え始める。

 デッキに人が集まった。


 スマートフォン。

 望遠レンズ。

 小型カメラ。


 島の全景を撮っているのか、白いものを探しているのか、遠目には区別できない。


 レイジたちもデッキへ出た。

 私は席に残るつもりだったが、町側へ到着時刻を連絡するため、結局後を追った。


 風が強い。髪が顔へかかる。

 船の先に、緑の山と、その手前に密集する屋根、細長い港が見える。


 以前より島が近く見えた。


 船が進んでいるからではない。

 すでに何度も画像や動画で見たため、知らない土地ではなくなっている。画面の中で拡大され、切り取られ、白い女を立たされ、鳥居の位置を推測されてきた島。


 どこに何があるのかを、もう島へ来たことのない人間まで知っている。


 誰かが山へレンズを向ける。


「白いの、いない?」


「どこ?」


「木の間。」


「雲じゃない?」


 別の人が笑う。見えないものを見つけるため、全員が同じ方向を見る。


 遠山さんは島の遠景を短く撮影した後、カメラを下ろした。


 近くでカメラを構えていた若い男が、同行者へ囁いた。


「少し不気味な感じがする島だな。」


「いや、動画に入れるなら『雰囲気がある』って言えって。」


 二人の声に、私は小さく苦笑した。


 普通に見れば、長閑な島にしか見えない。


 けれど、この船に乗ったほとんどの人間が、おそらく得体の知れない重い雰囲気に呑まれかけている。


     ◇


 午後三時八分。三影島へ到着した。

 港には、前回なかった簡易テントと受付机が設置されていた。役場職員と青年団員が、船から降りる人へ声をかけている。


「祭礼見学の方は、こちらで受付をお願いします。」


「宿泊先と帰りの便を確認します。」


「帰省の方、島内でお仕事の方は、別の列へどうぞ。」


 荷物が降ろされる。


 水。

 食料。

 寝具。

 案内板。

 折り畳まれた柵。


 カメラを持った来島者は、それらまで撮影していた。


     ◇


【山神婚礼祭 見学者受付票】


 氏名。


 緊急連絡先。


 宿泊先。


 来島便。


 離島予定便。


 祭礼見学の有無。


 注意事項確認欄。


 ・二の鳥居より先へ立ち入りません。

 ・島民、関係者を無断で撮影しません。

 ・白布、供物、祭具へ触れません。

 ・夜間に単独行動をしません。

 ・係員の指示に従います。


     ◇


 受付を終えた見学者には、青い紙の簡易証が渡された。首から下げるものではなく、衣服や鞄へ貼る小さなシールだった。町側が、受付を済ませた人間と、当日勝手に入ってきた人間を見分けるためのものらしい。

 安全管理としては当然だった。

 しかし、受け取った人の一人が、シールを手のひらへ載せて撮影している。


     ◇


【SNS投稿】


 三影島到着。


 祭りを見る人は名前と連絡先、宿泊先、帰りの船まで記入。


 青い識別シールをもらいました。


【返信】


> 来島者全員、名簿に載せられるの?個人情報でしょ?

> 事故があった時のためでしょ。普通です。

> 誰が島に入って、誰が帰ったか数えてるんですね。


     ◇


 私はSNSの画面を静かに閉じ、受付机の上に積まれた用紙を見る。


 誰が入り、誰が帰ったか。


 『戻るまで数えるな。』


 古い紙の最後に書かれていた言葉を思い出す。


 町は、戻るために数えている。

 名前を把握し、帰りの便を確認しなければ、誰かが島に残っていても分からない。

 禁じられているから数えるのではない。安全のために数える。


 それでも、同じ行為には違いない。


「秋原さん。」


 声をかけられ、顔を上げる。

 潮見さんが、受付テントの横に立っていた。


 前回と同じ役場の服装だったが、顔が少し痩せて見える。目の下には薄い影があり、額へ張りついた髪が汗で濡れていた。


「お疲れさまです。」


「お疲れさまです。すみません。到着早々ですが、予定がかなり詰まっています。」


 潮見さんはレイジたちへ向き直り、一人ずつ挨拶をする。その周囲にも人が集まり始めた。


「レイジさんですか?」


「明日の配信、どこからやるんですか?」


「今日、神社へ行くんですか?」


 質問は次々に飛んでくる。レイジは立ち止まり、声を張らずに答えた。


「取材場所と時間については、町の案内に従います。立入り禁止区域へは入りません。みなさんも、島民の方や祭礼関係者への直接の問い合わせは控えてくださいね。」


「白い女の動画、現地で確認しますか?」


「確認できる場所と、許可された範囲だけです。」


「藤尾さんには会いますか?」


 名前が出た瞬間、潮見さんの表情が固くなった。

 レイジも、すぐには答えなかった。


「すみません、個人名を出しての質問にはお答えしません。」


 周囲で何台かのスマートフォンがこちらを向いている。

 レイジだけではない。


 潮見さん。

 遠山さん。

 佐伯さん。


 そして、レイジの近くに立つ私。港で撮影された服装と同じだと気づいた者もいるはずだった。


「その女の人、港で一緒にいた人じゃない?」


 誰かが言った。小さな声だった。けれど、聞こえた。


「町の人?」


「多分島の人じゃないよね。」


「サイト作った人じゃない?」


 私は潮見さんを見る。潮見さんも聞いていたらしい。


「先に移動しましょう。」


 低い声で言った。

 青年団員が見学者へ受付を続けるよう声をかけ、私たちは港から少し離れた場所に停められたワゴン車へ向かった。


 後ろから、まだカメラが向けられている気配がする。振り返らなかった。


     ◇


 最初に民宿へ荷物を置くことになった。港から民宿までの道にも、以前より人がいた。


 商店の前で飲み物を買う者。

 海へ向けて配信する者。

 地図を見ながら神社の方向を確認する者。

 民家の軒に干された洗濯物を撮ろうとして、同行者に止められている者。


 島民の反応も一様ではなかった。


 店の前に飲料を多く並べ、客へ声をかける人。

 知らない人間が家の前を通るたび、窓を閉める人。

 道を尋ねられ、丁寧に答える人。

 カメラを向けられ、露骨に背を向ける人。


 人が来たことを喜ぶ者と、嫌がる者が、同じ島の中にいる。どちらも自然だった。


     ◇


 民宿の前には、軽トラックが二台停まっていた。荷台には、布団、飲料水、野菜の入った箱、業務用の大きな炊飯器が積まれている。

 玄関では、女将さんのほかに、見覚えのない女性が三人、宿泊者の名簿と部屋割りを確認していた。


「秋原さん、またお会いできましたねえ。」


 女将さんは私を見ると、忙しそうな顔のまま笑った。


「急にすみません。」


「いやあ、こんなに人が来るとは思わんかったです。部屋が足りんので、別棟も開けました。掃除だけで朝から大騒ぎですわ。」


 母屋の横に、細い渡り廊下でつながった二階建ての建物がある。前回は雨戸が閉まり、人の気配もなかった。


 今は窓が開けられ、白いシーツと敷布団が、二階の手すりへ何枚も掛けられている。


 陽射しを受けた布が風に揺れる。

 人の限られた昨日までの島内なら、誰かがあれを撮影し、白装束の女が民宿の二階に立っていると書いたかもしれない。

 実際、道の向こうで一人の男性がスマートフォンを持ち上げた。


 近くにいた女性が、その腕を下げさせる。


「普通の布団でしょ。撮るのやめなよ。」


「いや、宿の外観だけ。これ絶対伸びるって。」


「人もいるから。」


 二人は小声で言い合いながら去っていった。女将さんも気づいたらしく、布団を見上げて苦笑する。


「白い物を外へ干すな言われても、乾かんと客を泊められんからなあ。」


「そんなことまで言われるんですか?」


「今朝、電話がありました。白い布を外へ出すと山から見えるとか、何とか。」


 女将さんは疲れたように笑う。


「こっちは、神様より客の布団をどうするかで手いっぱいです。」


 当然だった。白い布は、山の女様の衣である前に、シーツであり、タオルであり、布団カバーだった。


「秋原さんは、別棟の二階です。個室を一つ空けましたけど、壁は薄いですよ。レイジさんたちは一階に三人で。」


 同じ別棟へ泊まる。仕事上は自然だった。


 しかし、宿泊者の誰かが知れば、


> レイジ怪奇録と同じ宿。

> 同じ別棟。

> 港で合流していた女性。


 という情報が増える。


 私が僅かに黙ったことへ、佐伯さんが気づいた。


「部屋の位置は、外には出さないようにします。」


「お願いします。」


 島で唯一の民宿だった。どこへ泊まるかは、隠しても推測できる。

 レイジたちと同じ船へ乗り、同じ車で移動し、同じ宿へ入る。関係者であることを示す線が、少しずつ濃くなっていく。


     ◇


 荷物を置いた後、支所で短い打ち合わせを行い、そのまま仮設撮影足場の設置場所へ向かった。

 二の鳥居へ続く旧参道は、昼間でも薄暗かった。


 前回は雨のすぐ後で、濡れた石段と、木々の影しかなかった。

 今は、参道の入口に案内板が立ち、黄色と黒のロープが張られ、所々へ仮設の照明とケーブルが置かれている。青年団の人たちが、見学区域と関係者区域を分ける柵を運んでいた。


 森の湿気は残っている。前日まで降った雨を、土がまだ抱えている。


 石段の脇へ足を置くと、靴底が僅かに沈んだ。金属を打つ音が、木々の間へ響いている。


 こん。


 こん。


 少し間を置いて、


 こん。


 山の音ではない。設置業者が、単管パイプの接合部を工具で叩いている。


 参道の東側、二の鳥居より下の平地へ、高さ二メートルに満たない仮設足場が組まれていた。


 四角い金属の骨組み。

 上部の作業床。

 手すり。

 機材固定用の枠。


 片側には大型のLED投光器が一台取り付けられ、その横には二台目を載せるための金具が残されている。

 足場は、見学者の後ろからでも二の鳥居周辺を撮影できる高さだった。

 昔からの提灯よりも、白く、強い光を出すための設備。


 明日の夜、藤尾さんと鳥居と、これまで暗闇の中にあった山道を、画面へ映すための台だった。


     ◇


【仮設撮影足場 設置確認書】


 設置場所:

 三影神社旧参道 二の鳥居手前東側。


 用途:

 公式記録撮影。

 許可済み取材者撮影。

 大型LED投光器設置。


 構造:

 単管パイプ組立式。

 高さ約一・八メートル。

 幅約二・七メートル。

 奥行約一・八メートル。


 設置:

 八月十五日 午後三時三十分完了予定。


 確認:

 設置業者。

 三影町役場。

 祭礼保存会。

 青年会。


 備考:

 地盤一部軟弱箇所あり。

 敷板および控えロープにて対応。

 八月十六日、使用前に再確認予定。


     ◇


 地盤一部軟弱箇所あり。その一行に目が止まる。


「この辺りですか?」


 私が尋ねると、ヘルメットを被った作業員が足場の片側を指した。


「石の端と土の境目です。雨の後なので、表面より下が柔らかいんです。」


 足場の一本の脚の下には、厚い木製の敷板が二枚重ねられていた。地面の高さを合わせるためらしい。


 板の周囲には、靴底の形に土が沈んでいる。


「沈み込みは、もう確認されていますか?」


「仮荷重をかけています。今のところ問題ありません。明日の使用前に、もう一度水平と締め付けを確認します。」


「控えロープは?」


「こちらと、向こうの木です。」


 斜めに張られたロープが、足場上部から二方向へ伸びている。一本は木の根元近くへ固定され、もう一本は見学者の通路を避けるよう、少し高い位置を通っていた。


「人が触れないよう、明日はこの手前にも柵を置きます。」


「足場へ乗る人数は?」


 遠山さんが尋ねた。


「三人までです。撮影者二人と、町の記録担当一人。機材重量も含めて確認しています。」


「投光器は一台ですか?」


「今は一台です。今日の照射試験で足りなければ、同型をもう一台追加する話になっています。」


 レイジが二の鳥居の方を見る。まだ日が高いため、鳥居の奥は暗い。


「配信では、鳥居の手前まで映れば十分です。」


「町としては、公式記録に参道上りもある程度残したいそうです。」


 潮見さんが答えた。


「ただ、奥へ光を入れすぎることについては、保存会から意見が出ています。」


「安全上、足元を照らす必要はありますよね。」


「はい。」


 理由は、どちらにもある。


 見せるための光。

 歩くための光。

 撮影するための光。

 危険を減らすための光。


 同じ投光器だった。


 暗いままでは危険だ。

 しかし、明るくすれば、これまで見えなかったものまで映る。


「試験します。」


 作業員が声をかけた。発電機の音が高くなり、投光器が点灯する。


 白い光が、昼間の木陰をさらに白く塗り替えた。


 二の鳥居の柱。

 濡れた石段。

 木の幹。

 葉の裏。

 奥へ続く道の一部。


 提灯の灯りでは見えないところまで、輪郭が浮かび上がる。


「強いですね。」


 私が言う。


「カメラを通すと、これくらい必要です。」


 遠山さんが答えた。試験映像を確認しながら、僅かに顔をしかめる。


「ただ、手前が飛びます。二灯にするなら、出力を落として左右へ分けた方がいい。」


「明日調整しましょう。」


 作業員が言う。足場の上で人が動くたび、金属が小さく鳴った。


 こん。


 近くにいた青年団員の一人が反応した。


「今のは、足場の音ですか?」


「接合部が馴染む時の音ですね。明日の使用前に、もう一度全部締め直しましょう。」


 作業員は少し大きめの声で返した。単管パイプを組んだ足場は、しっかりとして見えた。人が上で動けば僅かに音はするが、作業員も、設置に立ち会った者も、それを異常とは考えていないようだった。


 投光器が消される。白く露出していた木々が、元の暗さへ戻る。


 作業員たちは再び接合部を確認し始めた。


 工具の音。

 金属の音。

 人の声。


 その間に、少し離れた山の奥から、同じような音が一度だけ聞こえた。


 こん。


 作業員の手は、その時止まっていた。私は顔を上げた。潮見さんも山を見た。

 レイジの隣で、佐伯さんが片耳のヘッドホンを押さえる。


「今の音、入っていますか?」


 遠山さんが尋ねる。


「カメラは回してません。レコーダーは待機状態です。」


「鹿除けでしょう。」


 潮見さんが言った。前回と同じ説明だった。


「どこに設置されているんですか?」


 レイジが尋ねる。


「山の中です。畑へ下りてくる鹿を避けるために、何か所か。」


「あの音も、その一つですか?」


「おそらく。」


 おそらく。

 潮見さんは断言しなかった。


 レイジは山へ近づかなかった。

 音の方向へカメラを向けることもしなかった。


 しかし、旧参道の入口付近にいた見学者の一人が、すでにスマートフォンを掲げていた。


     ◇


【短編動画投稿】


 投稿時刻:

 八月十五日 午後四時六分。


 投稿文:

 現地組からの速報です。

 三影島、祭り前日の旧参道。

 山から拍子木みたいな音がしました。

 鹿除けの音らしいですが、なんか怖い……。


 動画時間:

 二十六秒。


     ◇


 投稿者は、怪異だと断定していない。鹿除けらしいと書いている。


 動画には、暗い山と、設置途中の仮設足場の端が映っていた。


 前半には作業員が金属を叩く音が入っている。後半、作業が止まった後に、少し離れた場所から似た音がする。


     ◇


【返信】


> 十七秒くらいの音ですか?

> コン、って聞こえる。

> 足場の金属音と同じじゃない?

> 最初のは金属っぽいけど、後のは木の音に聞こえる。

> 確かに拍子木みたい。

> 祭りを始める音?

> こん。


     ◇


 最初に平仮名で書いた人物が、どうしてその表記を選んだのかは分からない。


 コン。

 コッ。

 カン。


 文字にすれば、いくつもの表し方がある。


 それでも、その人は、


> こん。


 と書いた。


 私が音を聞いた時、頭の中に浮かんだのと同じ二文字だった。


 それにきっと意味はない。

 同じ音を聞けば、同じ文字を選ぶ人がいても不思議ではない。誰かが最初に書けば、後の人間はそれを真似する。


 説明できる。説明できるからこそ、気にするべきではなかった。


     ◇


 午後五時前、支所へ戻り、最終の打ち合わせを行った。中川支所長、潮見さん、浜谷さん、レイジ怪奇録の三人、私のほか、青年団の代表と船会社の担当者がオンラインで参加した。


 議題の大半は、怪異とは無関係だった。


 臨時便。

 港での受付。

 見学者の上限。

 救護場所。

 水分補給。

 体調不良者が出た場合の搬送。

 配信停止判断。

 雨が降った場合の足場使用。

 帰りの便へ乗り遅れた者への対応。


     ◇


【八月十五日 現地運営最終確認】


 来島者見込み:

 八月十五日宿泊者 四十三名(確定)。

 八月十六日来島者 最大百名程度。

 八月十六日夜間祭礼見学者 最大五十名程度。

 八月十六日宿泊者 五十二名(現予約数)。

 島民、帰省者、業務関係者を除く。


 連絡船:

 八月十六日午前、臨時便一便運航予定。

 八月十六日祭礼終了後の臨時便は、安全上運航しない。

 八月十六日日帰り来島者は、通常最終便までに離島する。

 夜間の祭礼見学は、宿泊先を確保している者に限る。


 見学区域:

 一の鳥居周辺および二の鳥居手前の指定区域。

 見学者が上限を超えた場合、港または支所前で入場を制限する。


 救護:

 支所前に救護場所を設置。

 診療所、船会社、本土側消防へ事前連絡済み。


 撮影:

 仮設撮影足場上は三名まで。

 使用前に設置業者が再確認。

 雨天、強風、地盤沈下が確認された場合は使用中止。


 生配信:

 約四十秒の遅延を設定。

 町担当者または配信責任者の判断により即時停止。


     ◇


 書類の上では、考えられることが並んでいた。


 船。

 人。

 水。

 救護。

 足場。

 配信。


 何かが起きた時のための手順。

 準備はされている。安全を軽視している者はいない。

 それでも、予定より人は多い。


 数日前までなかった設備が増えている。今朝まで存在しなかった問題に、島中の人間が対応している。


 何か一つが大きく間違っているのではない。小さな変更と、小さな判断が積み重なっていた。


「明日の足場ですが、照明を一台追加する可能性があります。」


 青年団の代表が言った。


「今日の試験で、手前が明るすぎたと聞いていますが。」


 中川支所長が尋ねる。


「一台を強くするより、二台を左右へ分けて出力を落とした方が、足元も見やすいそうです。」


「重量は問題ありませんか?」


「設置業者へ確認します。規格内なら追加します。」


 規格内。

 対応済み。

 再確認。


 それでも、予定外のことが少しずつ積み上げられていく。


「見学者の通路が少し狭いです。」


 潮見さんが言った。


「足場の控えロープの外側を通すと、夜間に引っかかる可能性があります。」


「柵を後ろへ下げますか?」


「その分、見学区域が狭くなります。」


「明日の人数を見て調整しましょう。」


 結論は、明日へ送られた。その時点では、それが普通だった。


     ◇


 打ち合わせが終わると、外は夕方になっていた。支所の窓から見える山は、昼間より黒い。

 港の方からは、人の声が聞こえる。宿泊者が民宿へ向かい、日帰りの者が帰りの船を待ち、青年団が案内板を追加している。


 三影島は、前回とは別の場所になっていた。


 人がいる。

 カメラがある。

 名前を知っている人がいる。


 まだ祭りは始まっていない。それでも、島全体が祭りの前へ置かれている。


 私はそっと息を吐き、スマートフォンを取り出す。メッセージアプリを開いた。

 先ほどの連絡にもう返信が返ってきていた。


> 現地確認大体完了した。


> どうでした?


> 思ったより大がかりな撮影用の足場ができてた。

 設置は業者がやってるし、明日も確認するみたい。

 地面が少し柔らかいけど、敷板とロープで対応済み。

 でも、少し仰々しかったかな。

 他は特に変わったところはなかったよ。


> 写真はありますか?


> 送る。


 私は足場の全景と、設置確認書の備考欄を撮った写真を送る。少し間を置いて、返信が来た。


> これ、使用人数と機材重量は決まっていますか?


> 三人まで。照明を一台増やすかもしれないけど、業者に確認するって。


> 予定変更がある場合は、変更後の条件で再確認してもらってください。


> 仕事みたいな返事だね。


> 仕事の事故は、変更点の間で起きることが多いので。


> 怖いこと言わないでよ。


> すみません。


> でも、分かった。明日確認する。


> お願いします。


 続けて、別の画像が送られてきた。港で撮られた私たちの写真だった。

 最初の投稿とは違う。乗船口へ向かう後ろ姿。


 レイジ、遠山さん、佐伯さん、私。


 私の顔は写っていない。

 キャリーケースと、肩へ掛けた鞄だけが分かる。


> 同じ方かは分かりませんが、別の画像も出ています。


> ……まだ名前は出てない。


> 今はまだ、ですね。


> 大丈夫だよ。


> 大丈夫かどうかは今後次第です。


> 今後か。


> 一人で動かないでください。

 夜も絶対に外出を控えるように。

 何か問われても、その場では応対しないこと。

 あと、動画配信者にもできる限り近付かない。


> 随分細かい。


> 先輩は、仕事中だと自分を守る判断を後回しにしますから。


> そんなことない。


> あります。


 反論しようとして、やめた。


     ◇


 民宿へ戻ると、別棟の廊下には新しい畳と古い木材、洗いたてのシーツの匂いが混ざっていた。一階ではレイジたちが機材を確認している。

 扉は開けたままで、遠山さんがバッテリーを並べ、佐伯さんが配信用の端末を接続していた。


 宿泊者が廊下を通るたび、部屋の中を覗こうとする。

 レイジはその都度、軽く会釈する。

 声をかける人もいる。


「明日、頑張ってください。」


「無理しないでください。」


「白いの、本当に出ると思いますか?」


 最後の質問に、レイジは、


「出ると確認できるものは、今のところありませんね。」


と答えた。


「でも、分からない動画も残ってますよね。」


「分からないということと、怪異であることは同じではありませんからね。」


 正しい返答だった。

 質問した男性は納得したようには見えなかったが、それ以上は聞かなかった。


 二階へ上がる。私の部屋は、廊下の突き当たりだった。


 六畳ほどの和室。

 小さな机。

 古いエアコン。

 壁際へ置かれた扇風機。


 窓の外には、民宿の屋根と、その向こうに山の上部が見える。


 私はすぐにカーテンを閉めた。

 まだ夜ではない。山を見てはいけない時間でもない。


 それでも、閉めた。


     ◇


 夕食は、本館の広間で宿泊者全員へ出された。

 予定より人数が増えたため、料理は一人分ずつの会席ではなく、大皿から取り分ける形になっていた。


 刺身。

 煮魚。

 野菜の天ぷら。

 吸い物。

 炊き込みご飯。


 近所から手伝いに来た女性たちが、空いた皿を下げ、飲み物を補充している。

 宿泊者の会話は、ほとんど祭りのことだった。


「明日は何時から神社へ行けるんですか?朝の映像も撮っておきます?」


「レイジの配信、二十時からだよね。準備しておかないと。」


「白布は昼間なら見られるらしい。」


「藤尾さん、今日も準備してたって。どこでやってるんだろ。」


「名前出すのやめなよ。」


「もう全員知ってるでしょ。」


 私はレイジたちと同じ席には座らなかった。少し離れた、町関係者用に用意された端の席へ座る。


 それでも、何度か視線が来た。


 港で一緒にいた女性。

 同じ車で移動した女性。

 同じ宿へ入った女性。


 レイジとは別の席へ座っていても、無関係には戻れない。


 食事の途中、二十代前半ほどの女性が私の隣へ来た。


「あの、すみません。」


「はい。」


「町の方ですか?」


「いえ。」


「レイジさんのスタッフですか?」


「違います。」


「じゃあ、観光サイトの関係ですか?」


 一番聞かれたくない言葉が、あっさり出た。


「ごめんなさい、個別の業務については、お答えできません。」


 自分でも、答えになっていないと思う。女性の目が僅かに大きくなる。


 否定しなかった。そう受け取ったのだろう。


「すみません。取材とかじゃなくて、少し聞きたかっただけで。」


「町や祭礼に関する質問は、すみませんが、役場の窓口へお願いします。」


「分かりました。」


 女性は離れていった。スマートフォンを持っていた。

 録音していたかどうかは分からない。


 佐伯さんが、少し離れた席からこちらを見ていた。

 私が首を横に振ると、それ以上は動かなかった。


 藤尾さんも、最初は普通の質問をされたのかもしれない。


 本人なのか。

 祭礼役なのか。

 嫌ではないのか。

 助けが必要ではないのか。


 悪意のない質問が積み重なり、生活の中へ入っていく。


     ◇


 午後八時を過ぎると、島の外は静かになった。

 日帰りの来島者の多くは、すでに本土へ戻っている。

 残っているのは、宿泊者、島民、役場や祭礼の関係者。


 それでも、画面の中の人は減らない。


 レイジ怪奇録のコミュニティ投稿には、翌日の配信を待つコメントが増え続けていた。


     ◇


【レイジ怪奇録 コミュニティ投稿】


 明日、八月十六日午後八時より、三影島・山神婚礼祭の現地配信を予定しています。


 本配信は、三影町および祭礼関係者の許可を得て行います。


 現地へ来られる方は、町の案内と係員の指示に従ってください。


 立入り禁止区域への侵入、島民や祭礼関係者への無断撮影・接触、供物・祭具への接触は絶対におやめください。


 配信では、未確認の情報を事実として扱いません。


【返信欄】


> 現地入りお疲れさまです。

> ルール守って見ます。楽しみにしてます!

> 今日、山から音したって動画見ました。レイジさん大丈夫ですか?

> 鹿除けらしいよ。

> 拍子木みたいな音でしたよ。「こん」って、鹿除けの音とは違う感じしました。

> 明日始まる合図?

> こん。

> こん。

> おいw変なノリやめろww

> こん。

> 白布は拾うな。

> 名前呼ぶな。

> こん。


     ◇


 こん。その二文字が、もう音を聞いた感想ではなくなっている。


 誰かが書いたものを、次の人が繰り返す。


 祭りを待つ合図。

 コメント欄へ参加したことを示す印。

 画面の外から叩く拍子木。


 書いている者たちは、面白がっているだけなのだと思う。


 怖がっている者もいる。

 やめさせようとする者もいる。

 流行に乗っているだけの者もいる。


 誰も、自分が何かへ力を与えているとは考えていない。


 私は動画投稿サイトを閉じると、またメッセージアプリを開いた。

 カナちゃんは、前日宣言していた通りずっと注視を続けてくれているようだった。返信も早い。

 巻き込んで申し訳ないとは思いつつも、またテキストを入力する。


> コメント欄で「こん」が流行ってる。


> 見ました。


> 悪ふざけだよね。


> 悪ふざけですね。


> それだけ?


> 何と答えれば安心しますか?


> ただの悪ふざけで、何の意味もないって。


> 意味は、書いた人が決めるものではありません。


> また怖いこと言う。


> すみません。


> みんな、祭りに参加してるつもりなのかな。


> そうかもしれません。


> 島にいないのに?


> みんなで音を出す。みんなで名前を呼ぶ。みんなで同じ方を見る。それで場ができます。


> やめて。なんか書き方が怖い。


> すみません。


     ◇


 みんなで同じ方を見る。


 昼間、船のデッキにいた人たちは、同じ山へカメラを向けていた。

 白いものがあるかもしれない場所へ。


 今は、島へ来ていない何万人もの人が、同じ画面が開くのを待っている。


 まだ映像はない。配信待機画面さえ作られていない。


 それでも、視線だけは先に集まっている。


     ◇


 午後九時十八分。民宿の外から、乾いた音がした。


 こん。


 私は顔を上げた。


 廊下を誰かが歩く音。

 戸が閉まった音。

 食器が重なった音。


 民宿には、いつもより多くの人が泊まっている。何の音でもあり得る。


 私は動きを止め、静かに耳を澄ます。しばらく、何も鳴らない。


 窓の方は見なかった。

 閉じたカーテンの向こうには、民宿の屋根と、山がある。


 夜に山を見るな。

 紙に書かれていた言葉を思い出す。


 守ろうと思ったわけではない。ただ、見る必要がないだけだ。


 そう自分へ言い聞かせる。手の中の画面が、僅かに上へずれた。


 通知音は鳴らない。開いたままにしていた返信欄へ、新しい一行が加わった。


     ◇


【レイジ怪奇録 コミュニティ投稿返信欄】


 @xxxxxxxx:こん。


     ◇


 投稿者の名前には、見覚えがない。

 昼間の現地動画を見た人間が、流行に乗って書いただけだろう。

 民宿の外で音を聞いた人が、同じ宿から投稿した可能性もある。

 それとも、偶然、今追加されただけかもしれない。


 画面に表示された時刻は、午後九時十八分。


 外の音が先だったか。

 コメントが先だったか。


 私には分からなかった。


 ただ、どちらも同じ二文字で表すことができた。


 こん。


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