第十三話 藤尾俊介
レイジ怪奇録が取材決定を告知してから三十分も経たないうちに、今年の祭礼役を探す動きが始まった。
最初に見つけられたのは、前年の山神婚礼祭を紹介した、三影町の広報誌だった。
町の公式サイトで公開されているPDF形式の広報誌で、特別な資料ではない。
町内の行事や行政からのお知らせ、住民の活動を紹介するために、毎月発行されているものだった。
前年九月号の後半に、山神婚礼祭の記事が見開きで掲載されている。
提灯を持って石段を上る人々。
一の鳥居の前へ並べられた祭具。
白装束を着た祭礼役の後ろ姿。
直会の後に撮影されたらしい、保存会員の集合写真。
記事には、祭礼を無事に執り行ったことと、準備に参加した住民への謝辞が簡潔に記されているだけで、写っている一人一人の名前までは掲載されていなかった。
その集合写真の後列に、黒い作業着を着た若い男性が立っていた。
◇
【動画コメント欄】
> 去年の町広報に祭りの写真があります。
後ろにいる若い男性、今年の告知に出ている人と同じでは?
【返信】
> 今年の告知に祭礼役本人は出ていませんよ。
> 保存会の人じゃない?
> 去年の白装束の人と耳の形が似てる気がする。
> 後ろ姿しかないのに、どうやって分かるんですか?
> 別の写真も探せば顔が出てるかも。ちょっと探してみます。
> 見つかったら是非共有お願いします!
◇
最後の返信が書かれてから、同じ男性らしき顔が写った写真が、次々に見つかり始めた。
三影町の海岸清掃活動。
地区の防災訓練。
港で行われた水産物の即売会。
青年団が設置した夏祭りの櫓。
加工場の従業員が、地元の小学生へ魚の干物作りを教えている写真。
どれも数年前から町や地域団体が公開していた、ごく普通の活動記録だった。
黒い長靴を履き、発泡スチロールの箱を運んでいる。
軍手をはめて、清掃用のごみ袋を持っている。
法被姿で、ほかの青年たちと笑っている。
防災訓練では、折り畳み式の担架を二人で持ち上げている。
写真ごとに服装も髪の長さも少しずつ違ったが、細く上がった眉と、笑うと片側だけ深くなる頬の線は同じように見えた。
誰かが写真を横に並べ、顔の周囲へ赤い丸をつけた。
◇
【SNS投稿】
三影島の「今年の婿」候補。
町の広報に何度も出ている若い男性と一致するように見えます。
祭りの集合写真。
海岸清掃。
水産加工場の写真。
同一人物では??
【返信】
> ネット探偵すごすぎww確かに耳と眉毛が同じですね。
> 画像が小さすぎて断定できないでしょう。
> 島に若い人が少ないなら、同じ人が色々な行事に出ているだけでは。
> 逆に、いつも同じ若い男が使われているということですか?
◇
『いつも同じ若い男が使われている。』
地域の行事へよく参加する人間が、複数の広報写真へ写っている。
本来なら、それだけのことだった。
人口の少ない島で、二十代の住民が清掃活動や夏祭り、防災訓練へ参加していれば、同じ顔が何度も広報誌へ載ることは不自然ではない。
しかし、「今年の婿」を探している人々にとって、繰り返し写る若い男性は、偶然そこにいた人物ではなくなっていた。
祭礼のために選ばれ続けてきた男。
保存会の近くに置かれている男。
島から逃れられず、あらゆる行事へ参加させられている男。
写真が増えるほど、そのような人物像が強くなっていく。
本人が何を考えているのかを示す言葉は、まだ一つも見つかっていなかった。
◇
午後六時二十二分。名前が見つかった。
発見されたのは、三年前の町広報に掲載された、「島で働く若い担い手」という小さな記事だった。
◇
【三影町広報 記事転載】
島の水産業を次の世代へ。
三影島出身の藤尾俊介さんは、高校卒業後、本土の冷凍倉庫や物流会社で働き、五年前に島へ戻りました。
現在は浜谷水産加工場に勤務し、魚の下処理、干物や燻製品の製造、出荷作業などを担当しています。
藤尾さんは、
「都会が嫌だったというより、こっちで仕事があるなら戻ってもいいと思いました。朝は早いですが、通勤が短いのは楽です。」
と笑います。
休日には青年団や保存会の活動にも参加し、地域の若い担い手として期待されています。
◇
その広報誌が三年前に発行されたものだという点は、転載の過程で抜け落ちていた。
記事にある「五年前」は、現在から数えれば八年前になる。それでも、藤尾が島へ戻ったのは五年前だという情報が、そのまま共有され始めていた。
記事に掲載された写真の青年は、加工場の前で、青い作業用エプロンを着て立っていた。
年齢は記事掲載時で二十五歳。現在は二十八歳になる。
黒い髪は短く、特に整えている様子はない。日に焼けた顔には、撮影用に作ったらしい少し硬い笑みが浮かんでいる。
右手には、真空包装された干物の商品を持たされていた。
格好よく見せようとした写真でも、祭礼の雰囲気を出すために撮影された写真でもない。地方広報誌の、よくある人物紹介だった。
戻ってきた理由も、特別なものではない。
病気になった家族を支えるためでも、島の伝統を守る使命を感じたためでもなく、島に仕事があり、通勤が短いから戻った。それだけだった。
ところが、最初の転載から十分ほどで、記事の内容は短くされていった。
◇
【SNS投稿】
今年の婿役と思われる男性、藤尾俊介さん、二十八歳。
一度島外へ出た後、五年前に三影島へ戻っています。
現在は保存会代表・浜谷氏の水産加工場に勤務。
◇
【引用投稿】
雇用主が保存会代表ということは、断りづらい立場なのでは?
【返信】
> 仕事も祭りも上司の管理下ということ?公私混同じゃない?パワハラww
> 島へ戻された理由も気になるね。何かあるのでは?
> 記事には本人の意思で戻ったように書いてありますよ。
> 地方の広報誌で、本音を書くわけないでしょう。
> 笑顔がかなり硬い。無理に笑わされているように見えますね。
◇
私は、画面に表示された写真を改めて見た。
確かに、藤尾は歯を見せて笑ってはいない。目元も少し細くなっている。
しかし、撮影された場所は加工場の前で、頭上には強い陽射しがあった。
慣れない取材で緊張していた可能性も、単に眩しかった可能性もある。
それでも、一度「無理に笑っている」と書かれると、口元の硬さがその証拠に見えてくる。
港の清掃活動で笑っている写真には、
> 周囲に合わせて明るく振る舞っている。
防災訓練で無表情の写真には、
> すでに諦めているように見える。
加工場で俯いて魚を並べている写真には、
> 監視されているため、顔を上げられない。
どの表情も、同じ物語の証拠として使うことができた。
藤尾俊介という名前が分かり、職業が分かり、過去の写真が見つかった。
それでも、藤尾本人について分かったことは、ほとんど増えていない。
むしろ、情報が増えるほど、彼は見知らぬ人々の中で、救われなければならない男へ変わっていた。
◇
【動画コメント欄】
藤尾さんは、自分の意思で婿役を引き受けているんでしょうか。
地方の小さな共同体で、若い人が断れるとは思えません。本当は嫌なんでは?
【返信】
> 会社の社長が保存会代表なら、実質強制でしょ?パワハラ、最低。
> 本人が同意していると言っても、言わされている可能性がありますよね。
> 伝統だからという理由で、若い人を危険な役へ出すのは人権侵害です。通報。
> 危険な役だという根拠は黒川の件だけでしょ?ちょっと酷すぎませんか?
> その黒川さんが亡くなっているんですけどww
> 藤尾さん、見ていたら逃げてください。あなたの人生は島や祭りのものではありません。皆本気で心配しています。
◇
『あなたの人生は島や祭りのものではありません。』
書いた人間は、藤尾を助けようとしている。
同じ年齢か、もっと若い人かもしれない。
閉鎖的な地域共同体によって、一人の青年が危険な役目を押しつけられていると考え、それを止めなければならないと思った。
悪意から生まれた文章ではない。
藤尾が実際に何を感じているのかを知らないまま、それでも彼の自由を守ろうとしている。
言葉そのものは正しい。誰の人生も、地域や祭りへ勝手に差し出されてよいものではない。
ただし、藤尾本人が、自分の人生を島や祭りに奪われていると考えているかどうかは分からない。
◇
午後七時を過ぎる頃には、浜谷水産加工場の公式SNSにもコメントが届き始めた。
◇
【浜谷水産加工場 投稿へのコメント】
> 藤尾俊介さんは、今年の祭礼役ですか?
> 本人へ参加を強制していませんか?
> 黒川正臣氏の事故を知った上で参加させるのでしょうか。
> 藤尾さん本人の意思を確認してください。
> 安全が確認できるまで祭礼を中止するべきです。
> 藤尾さんと直接話せますか。
◇
水産加工場の商品を紹介する投稿の下へ、それらの言葉が並んでいた。
鯛の燻製。
小魚の南蛮漬け。
真空包装された干物。
商品の写真と値段の下で、黒川正臣と藤尾俊介の名前が繰り返されている。
観光サイトの目的どおり、浜谷水産加工場を知る人は増えた。
しかし、商品を購入するためではなく、祭礼役の勤務先として見つけた人々も多かった。
個別のメッセージも届いているらしく、浜谷さんから潮見さんを通して、
> 仕事にならん。
という連絡が入った。
中川支所長は、役場名義で注意文を出すことを検討していた。
◇
【町公式発表案】
現在、山神婚礼祭の関係者とされる個人について、氏名、勤務先、過去の写真等がインターネット上で共有されています。
町では、祭礼役を含む個人の氏名や住所、勤務先等を公表しておりません。
関係者個人への連絡、勤務先への問い合わせ、私有地への訪問などは、地域住民の生活および業務の妨げとなりますので、お控えください。
祭礼に関するお問い合わせは、三影町役場の専用窓口へお願いいたします。
◇
「この文章を出せば、藤尾さんが祭礼役だと認めたように受け取られませんか。」
オンライン会議の画面越しに、私は尋ねた。
「藤尾さんの名前は出しません。」
中川支所長が答える。
「しかし、現在共有されている人物が誤りだとも書けません。」
「別人なら、否定した方が早いですからね。」
営業担当者が言った。
「否定しないことで、正しいと判断される可能性は高いと思います。」
「では、役場から祭礼役を正式に公表しますか?」
潮見さんが問い返す。
誰も答えなかった。公表すれば、藤尾の個人情報を町が認めることになる。
公表しなければ、隠していると思われる。否定すれば嘘になる。
個人情報を理由に回答しなければ、『否定できないから個人情報を盾にしている。』と書かれるだろう。
「まず、本人へ確認します。」
中川支所長が言った。
「氏名が広がっていることと、町として出す注意文について、藤尾さんの意向を聞きます。」
「私からも、謝罪と説明をしたいです。」
私が言うと、潮見さんが僅かに眉を寄せた。
「秋原さんが謝る必要はないでしょう。」
「サイトと動画がきっかけです。」
「しかし、動画を作ったのは秋原さんではありません。」
「……でも、動画の元になったものを作ったのは私です。」
それ以上は言わなかった。
藤尾の名前を調べたのは、私ではない。
過去の写真を並べたのも、勤務先へ連絡したのも私ではない。
それでも、三影島を見られる場所へ置いたのは私だった。
視線そのものを作ったわけではない。
ただ、その視線が島へ届くための窓を確かに開いてしまった。
◇
午後八時十五分。潮見さんから、藤尾本人がオンライン通話へ応じるという連絡が来た。
画面の向こうに現れた藤尾俊介は、夜のせいか先日よりも少し疲れて見えた。
髪は短く、前髪の一部が汗で額へ張りついている。紺色の作業用シャツを着たままで、胸元には加工場の社名が白い糸で刺繍されていた。
背後には、白い壁と、金属製の棚が見える。まだ加工場にいるらしい。
「こんばんは。藤尾です。」
声は低かったが、緊張している様子はない。
画面の外にいる潮見さんから何か言われたのか、一度横を向き、それから小さく頭を下げた。
「秋原です。遅い時間にすみません。」
「いえ。片づけが長引いただけなんで。」
いかにも普通の受け答えだった。祭礼へ捧げられる男の声ではない。
一日の仕事を終え、帰る前に役場から呼ばれた若い従業員の声だった。
「ネット上で、藤尾さんのお名前や写真が広がっていることについて、まず、お詫びします。」
「でも、秋原さんが調べたんじゃないですよね。」
「違います。でも、サイトを公開したことがきっかけですから。」
「それなら、町も保存会も、俺も関係ありますよ。秋原さんだけのせいじゃないでしょう。」
言い方は淡々としていた。慰めるための言葉というより、事実を分けて考えているように聞こえた。
「問い合わせは、大丈夫ですか?」
「浜谷さんは、ずっと怒ってます。商品についての電話かと思ったら、俺を祭りから逃がせと言われたらしくて。」
藤尾は少しだけ笑った。
「藤尾さん本人にも、連絡が来ていますか?」
「個人のアカウントに、フォロー申請とか、メッセージが何十件か。知らない番号から電話もありました。」
「内容は。」
「逃げた方がいいとか、助けが必要なら連絡してくださいとか。」
「怖くありませんか?」
「怖いというより……一体皆何を助けるつもりなんだろうな、とは思います。」
藤尾は画面の隅へ視線を落とした。
「俺、ネットだと、かなり可哀そうなことになってるらしいですね。」
「見たんですか?」
「浜谷さんが見るなと言うんで、少しだけ。」
また、僅かに笑う。
「無理やり島へ戻されて、会社に縛られて、祭りへ出されることになってる。俺、そんなに不幸そうに見えましたかね?」
冗談に近い口調だった。私は返答に困った。
「広報の写真が、少し緊張しているように見えたのかもしれません。」
「あれ、眩しかっただけです。商品持ったまま、西日が正面だったんで。」
思っていたとおりだった。無理に笑わされているように見えると書かれた表情は、単に夕方の陽射しを正面から受けた顔だった。
「島へ戻ったのも、自分の意思ですか?」
「はい。本土にいた時は、冷凍倉庫から物流に移って、夜勤もありました。体調も崩しかけましたし。それで、浜谷さんから人が足りないと聞いて、給料は少し下がるけど、家賃と通勤を考えたら変わらないかなと思って戻っただけです。」
「ご家族の事情などではなく?」
「特にないです。父親も母親も元気です。」
島へ戻った若者。その言葉から、多くの人が想像した家族の病気も、故郷への使命感も、共同体による強制もなかった。
夜勤があり、通勤が長かった。
島に仕事があった。
生活費を計算し、戻る方が楽だと思った。
それだけだった。
「今年の祭礼役は、藤尾さんで間違いありませんか?」
私が尋ねると、藤尾は少しだけ画面の外を見た。
潮見さんか、中川支所長の確認を待ったのかもしれない。
「はい。俺です。」
初めて、今年の祭礼役が正式に確定した。
「引き受けた経緯を聞いても?」
「経緯というほどでもないです。若い男が少ないんで、保存会の仕事をしている人間で順番にやります。去年は提灯を持つ側でした。今年は俺がやるかと聞かれて、分かりました、と。それだけです。」
「断ることはできましたか?」
「できたと思います。」
「断ろうとは?」
「特に。」
藤尾は少し考えた。
「石段を上って、決まったところへ供え物をして戻るだけです。準備の方が大変なんで、当日の役はむしろ楽ですよ。七年前にも一度やっているので、今年で二度目です。」
山の女様に選ばれた男ではない。
島に戻った翌年に一度務め、七年後、再び順番が回ってきた。特に断る理由がなかったため、引き受けた。
それだけだった。
ネット上で作られていた悲劇的な物語から、最も遠い理由だった。
「黒川正臣さんのことは、以前から知っていましたか?」
藤尾の表情が少し変わった。
「名前だけは、聞いた気がします。」
「祭礼が止まった年の?」
「そうです。昔、一度うまくいかなかった年がある、くらいは。黒川さんが亡くなったことは、ネットで初めて知りました。」
藤尾も、コメント欄で知った。潮見さんと同じだった。
島の外では、
> 島全体が三十八年間、死亡事故を隠してきた。
と語られている。
しかし、島の中にいる二十代の青年は、その死そのものを知らなかった。
誰かが秘密を共有して守り続けていたというより、語られなかったため、次の世代へ渡らなかった。
情報が島の中で消え、島の外の古い資料にだけ残っていた。
「死亡の件を知って、祭礼をやめようとは思いませんでしたか?」
「祭りで死んだわけじゃないんですよね。」
「確認できている範囲では、祭礼の五日後、本土側の海岸で発見されています。」
「なら、今のところは関係が分からないということですよね。」
「はい。」
「だったら、それだけで今年やめる必要はないと思います。去年まで普通にやってましたし。」
冷静だった。
浜谷さんほど強く否定するわけでもない。
恐れている様子もない。
関係が分からない以上、判断材料にはならないと考えている。
「祭礼当日の映像についてですが、顔を映さないようにすることもできます。」
「もう顔も名前も出てるんでしょう。」
「だからこそ、これ以上広げない方が。」
「隠すと、また何かあると言われませんか?」
そのとおりだった。
藤尾は、ネット上の流れを深く分析しているわけではない。
ただ、自分の名前を隠したことで探され、町が答えなかったことで疑われた経緯を見ている。
「俺は、普通に祭りをやって、普通に戻ってくればいいと思ってます。前と同じです。」
「それを配信で見せてもいいんですか?」
「何も起きないところを見せれば、噂も終わるんじゃないですか。」
合理的な考えだった。
藤尾が旧参道を上る。
決められた供え物をする。
山から戻る。
直会が行われる。
何事もなく祭礼が終わるところを、多くの人へ見せる。
それができれば、三影島が人を生贄にする島ではないことも、祭礼役が戻らないという噂も否定できる。
しかし、言い知れぬ不安が私の胸を覆っていた。
三十八年前には、雑誌の記事を読んだ十数人が島へ来た。
そして今年は、何十万人もの視線が、画面を通して同じ行列を見る。
藤尾は、見られること自体には、さほど抵抗を感じていないようだった。
私にも、何が変わるのかを説明することはできなかった。
ただ、なぜか、決して同じではないと思った。
「当日まで、知らない人からの連絡には答えないでください。」
「はい。」
「自宅の場所を推測する投稿も出始めています。夜間は、一人で出歩かない方がよいと思います。」
口にしてから、その言葉が取材許可条件と重なっていることに気づく。
夜間、一人で行動しないこと。
しかし、それは島民が恐れる何かを避けるためでも、祭礼を守るためでもない。
彼を特定した人間が接触してくる可能性を避けるための、人に対する安全上の注意だった。
「分かりました。祭りまでは、できるだけ加工場と家の往復だけにしますね。不用意な外出は控えます。」
藤尾は特に気にした様子もなく答えた。
「……ご迷惑をおかけして、本当に申し訳ありません。」
「別に、俺、まだ大した迷惑は受けてないですよ。」
「加工場の方にも連絡が入っていると伺いました。」
「浜谷さんは怒鳴る相手が増えて、少し元気になってる気もしますね。」
藤尾は笑った。
今度の笑い方は、広報誌の硬い表情とは違っていた。目尻が下がり、片側の頬にだけ深い線ができる。
過去の写真を何枚並べても、見ることのできなかった表情だった。
「祭りは、予定どおりやりますよ。」
通話を切る前、藤尾はそう言った。
覚悟を示す言葉ではなかった。
明日も加工場へ出勤する、というのと同じ調子だった。
◇
町からは、その夜のうちに注意文が公開された。
◇
【三影町からのお知らせ】
山神婚礼祭関係者への問い合わせについて。
現在、祭礼関係者とされる個人の氏名、勤務先、過去の写真等が、インターネット上で共有されています。
町では、祭礼役を含む関係者個人の氏名、住所、連絡先等を公表しておりません。
個人への直接の連絡、勤務先への問い合わせ、私有地への訪問等は、住民の生活および業務の妨げとなりますので、厳にお控えください。
祭礼に関するお問い合わせは、町の専用窓口へお願いいたします。
◇
注意文には、藤尾の名前も、彼が今年の祭礼役であることも書かれていない。しかし、公開から数分後には、
> 町が藤尾俊介さんへの接触をやめるよう警告。
と要約された。
◇
【SNS投稿】
町が公式声明。
藤尾俊介さんの特定と勤務先への問い合わせをやめるよう呼びかけています。
やはり藤尾さんが今年の婿役で確定のようです。
【返信】
> 本人の意思について説明がないですが。
> 被害者本人に話をさせないつもりですか?それも載せるべきでしょ。
> 個人情報を守るための普通の注意文でしょ?そこまで求めるのおかしくないですか。
> 名前を否定していない時点で答えが出てるww
> 藤尾さんを孤立させないでください。
◇
『藤尾さんを孤立させないでください。』
藤尾は加工場にいて、潮見さんや浜谷さんと話し、祭礼準備へ参加している。
誰にも会わせてもらえず、島の中で孤立しているわけではない。
それでも外部からは、彼の周囲にいる島民全員が、藤尾を祭礼へ送り出す側に見える。
藤尾と一緒に働く者。
祭礼の手順を教える者。
安全を考えて個人情報を伏せる者。
そのすべてが、彼を閉じ込める共同体の一部として解釈されていた。
◇
レイジ怪奇録も、個人の特定を控えるよう、新しい投稿を出した。
◇
【レイジ怪奇録 公式投稿】
現在、山神婚礼祭の祭礼役とされる個人について、氏名、勤務先、写真等が共有されています。
個人情報の特定や、勤務先への問い合わせは取材ではありません。
当チャンネルから、祭礼役の氏名や私生活に関する情報を公表する予定はありません。
すでに情報を目にした方も、本人、家族、勤務先、関係者への直接の連絡はお控えください。
現地取材は、町および関係者の許可を得た範囲で行います。
◇
正しい対応だった。藤尾の名前を広げず、直接の接触を止めるための文章だった。
しかし、コメント欄には、
> レイジさんも藤尾俊介だとは否定していないね。
> 本人だと分かっているから、名前を出せないんでしょ。
> 当日の配信を見ればどうせ顔で分かるよ。
と書かれた。
注意を促すために投稿された文章が、特定情報を知らなかった人へ、何かが起きていると知らせる。
藤尾俊介とは誰か。
何を特定されたのか。
検索する者が増える。
止めるための言葉が、名前へ向かう新しい入口になった。
◇
夜十時を過ぎても、藤尾の過去の写真は増え続けていた。
海岸清掃で、軽トラックの荷台へごみ袋を積み込む写真。
加工場の休憩時間に、紙コップを持って座っている写真。
青年団の仲間と、港で花火を見ている写真。
祭礼準備で、提灯の紐を結んでいる写真。
どれも、その時々の地域活動を記録しただけのものだった。
しかし、写真の下には、新しい説明がついている。
> 祭りの準備をさせられる藤尾さん。パワハラ案件。
> 島の仕事から逃れられない青年。田舎の闇。
> 去年から、今年の婿になることを強制されていたのでは?
> 周囲は全員、藤尾さんが山へ送られることを知っていて黙っています。
加工場で魚を運ぶ姿は、
> 完全に雇用主の支配下にある。生活かかってるなら断れないよ。
祭礼準備で提灯を持つ姿は、
> 去年から儀式へ組み込まれちゃってますね。もうこの時から目を付けられてたんでしょ。
青年団の写真で笑う姿は、
> 自分が生贄に選ばれるとはまだ知らなかった頃ww
いつ撮られた写真も、現在から遡って意味を与えられていく。
本人が何も知らずに参加した清掃活動や夏祭りまで、山神婚礼祭へ至る伏線として読まれていた。
写真の中にいる藤尾は、何も語らない。
語らないため、見る者が好きな言葉を与えることができる。
普通の生活をしていた証拠が増えるほど、
> その普通の生活を奪われようとしている可哀そうな青年。
という物語が強くなっていく。
◇
午後十時四十三分。藤尾俊介の個人アカウントへのリンクが、フォロワーの多い考察アカウントによって転載された。
そのアカウントには、一時間ほど前に投稿されたばかりの短い動画があった。
◇
【藤尾俊介の個人アカウント】
投稿時刻:
午後九時五十一分。
投稿文:
まだ終わらん。
動画時間:
七秒。
◇
映っているのは、薄暗い倉庫だった。
木箱。
折り畳まれた提灯。
縄。
竹竿。
壁際へ重ねられた小さな机。
藤尾本人の姿はない。
画面の外から、誰かが、
「それ、そっちでええんか。」
と尋ねる声が聞こえる。
別の誰かが、
「知らん。浜谷さんに聞いて。」
と答え、短く笑う。
祭礼準備中の、何でもない映像だった。
藤尾はおそらく、作業が終わらないことを、知人へ伝えるつもりで投稿した。
動画は七秒で終わる。その六秒目。
画面の右端を、白いものが横切った。




