第9話 協議の二ヶ月、崩れていく家
冬の茶会の翌日、夫は私を書斎に呼んだ。怒鳴る声が、廊下まで届いた。
私は実家へ昨夜のうちに戻っていたが、モリッツ様からの正式な呼び出しを受けて、午前のうちに侯爵邸へ参った。
合意離縁の協議のためだ。義母様にも、モリッツ様にも、テオドリック様にも、それぞれの場所で席についていただく。
書斎の扉を開けると、テオドリック様はすでに机の向こうにいらっしゃった。机の上に、昨日私が渡した申し入れ書が、封を切られたまま置かれている。
「ライラ、これは私が認めない」
テオドリック様の最初の言葉が、書斎の天井に響いた。
モリッツ様が机の脇で書類を整えていらっしゃるのに、その整える手が一拍、止まらなかった。
「君は妻だ。私の許しなく、勝手に家を出るなど許されない。家族同然の妹を遠ざけろという話なら、私はこれ以上聞かない。シビラはまだ若くて、社交界デビューも控えていて、君がいないと……」
「テオドリック」
義母様の声がした。
書斎の入り口から、義母様がゆっくりと入ってこられる。
手には、革表紙の帳面を一冊。私の知っている、あの帳面だ。
「あなたに、見せたいものがあります」
義母様は机の上に、帳面を置かれた。
それから、もう一冊、別の青い表紙の帳面を、その隣に並べる。
私の三年分の贈答記録帳だった。
「テオドリック、まず、こちらをご覧なさい」
義母様は革表紙の帳面の最初のページを開かれた。
そこには、ライラが嫁いだ初日からの、家政の引き継ぎ記録が、義母様の字で書かれている。テオドリック様が、その文字をご覧になった。
「お母様、これは……」
「私が、一年九ヶ月、書き続けたものです。ライラさんが、この家で何をしてきたか。一日も漏らさず、記録しました」
ページがめくられていく。
婚姻初日。三日目。七日目。一ヶ月後。半年後。一年後。
テオドリック様の目が、文字を追うごとに、少しずつ細められていった。
「お母様、なぜ、こんなものを……」
「あなたが、ご自分の妻が何をしているかを、ご存じなかったからです」
義母様の声は、責める声ではなかった。
ただ、事実を、一つだけ並べた声だった。
「テオドリック」
義母様は続けられた。
「あなたの妻は、この家を一年九ヶ月の間、ただの一日も休まずに支えてきました。家計、贈答、招待状の格付け、茶会の運営、領地への手紙、下働きの娘の薬代、シビラの社交界デビューに必要な備品、すべてです。あなたは当主の務めとして外向きの仕事をされてきましたが、内向きの侯爵家の業務は、ライラさん一人の机の上にありました」
「私は、それを当然のものと思っておりました。妻なら、それくらいは……」
「夫人としての席を、社交の場で一年間、用意されない妻が、それでも家を支え続けることが当然だと、あなたはおっしゃるのですか」
義母様の声が、一段だけ、低くなった。
それから、青い表紙の贈答記録帳を、手で開かれる。
「テオドリック、こちらをご覧なさい。三年分の贈答記録です。今年の秋の茶会の発注書は、ベルガー商会から正式に預かってあります。発注の署名は、ライラさん一人。シビラの署名は、一筆も入っておりません」
モリッツ様が、机の脇から発注書の写しを取り出された。
「テオドリック、お分かりですか」
義母様は静かに続けられる。
「シビラが秋の茶会で『これは私が選びました』と来賓の皆さまに言ったあの贈答品は、すべて、ライラさん一人の判断で選定されたものです。シビラはご自分の選択だと言いましたが、選んでもいないものを『自分の選択』と社交の場で言うことは、貴族家の業務記録の上では、改竄に当たります」
テオドリック様の顔が、青ざめていった。
「シビラが……?」
「私は、これから財務監査を提案いたします。ヴァルトハイム家の正式な手続きで、です。シビラが秋の茶会で口にした『私が選びました』という言葉は、貴族家の業務記録の改竄の疑いとして、調査の対象になります」
「お母様、まさか、シビラに罪を……」
「あの子に罪を背負わせたいわけではありません」
義母様の声に、ようやく、わずかな疲れが滲んだ。
「ただ、あの子の振る舞いを、家として正面から扱わなかったあなたの責任を、私はもう、看過できないのです」
テオドリック様は、机の上の二冊の帳面を、しばらく見つめていらっしゃった。
ご自分の知らないところで、ご自分の家がどのように回っていたか。ご自分が「君なら分かってくれる」と言われる度に、妻の机の上に何が積まれていたか。
そのすべてが、義母様の字と、ベルガー商会の発注書と、合意離縁の根拠として、机の上に並べられていたのだ。
「テオドリック」
義母様は、最後に申し上げられた。
「あなたが署名されないなら、私は当主裁量返上の手続きを取ります。ヴァルトハイム侯爵家を、私が一時的に当主代行として引き継ぎます。それでも、ライラさんの離縁は、止められません」
テオドリック様が顔を上げられた。
その目は、もう、義母様の方を見ていなかった。机の上の帳面の方も、贈答記録帳の方も見ていない。
ただ、机の縁を一度、ご自分の指で軽くなぞられる。
「……分かりました」
モリッツ様が、合意離縁の正式な書類を机に並べられた。
テオドリック様の署名が、書類の下に書き入れられた時、私は窓辺の景色を見ていた。
冬の枝が、風に揺れていた。
調印が終わって、私はモリッツ様に頭を下げた。
義母様にも、深く頭を下げる。
「ライラさん」
義母様は私の前で、しばらく、何も言われなかった。
それから、手を一度、私の手の甲に、軽く添えられたのだ。
「行ってらっしゃい」
それだけの言葉だった。
私は何も答えられずに、ただ、頷いた。
モルゲンシュテルン辺境伯領のモルゲンシュテルン居館に到着したのは、翌日の夕暮れだった。
「ようこそお越しくださいました、グリーンウッド様」
居館の侍女頭グレタが、玄関で深く頭を下げた。
私はもう、ヴァルトハイム侯爵夫人ではない。旧姓のグリーンウッドに戻った若い独身の女性として、辺境伯領の文官待遇で迎えてもらったのだ。
「閣下は、本日中央の公務にて、ご不在でいらっしゃいます。明日の朝、お戻りでいらっしゃるご予定で」
「分かりました。公務中にお邪魔して、恐縮です」
「いえ、グリーンウッド様の客人棟は、すでに、整えてございます」
グレタが私を案内してくれた客人棟には、書斎が一つ、寝室が一つ、応接間が一つ、あった。
書斎の机は、王都の侯爵邸のものより、一回り大きく作られている。紙を広く広げられるように。
私は机の前に座って、引き出しを開けた。
中には、白い無地の便箋が、五十枚ほど整えて入っていた。誰が用意してくれたのか、伺うまでもない。閣下の指示だ。
便箋の隣には、新しい封蝋の蝋が一本。紺色ではなく、私が選べるようにと、赤と、緑と、白の三色が並べてある。
私は赤い蝋を選んだ。
最初に書く手紙は、辺境伯領の各地の貴族家へ、挨拶を申し上げる正式な書簡になるはず。
便箋を一枚取り出して、ペンに新しいインクを含ませる。
差出人の欄に、ゆっくりと、自分の名を書いた。
グリーンウッド子爵令嬢 ライラ。
書き終えて、私は便箋の上の自分の名を、しばらく見ていた。
ヴァルトハイムの名ではない自分の名を、紙の上に書いたのは、嫁ぐ前の最後の年以来だった。
辺境の風が、窓の隙間から一度、書斎を通り抜ける。
机の上の紙の角が、ほんの少しだけ、めくれた。




