第10話 もう一度、最初から書きます
辺境の新春は、雪解け水の音から始まる。
モルゲンシュテルン居館に来てから、二ヶ月が経った。
辺境伯領の冬は、王都より一段深く、屋根の雪が膝の高さまで積もる日が何度もあった。けれど、新春の少し前から、軒先で水滴の落ちる音がするようになった。雪の屋根が、ゆっくりと自分の重さで崩れ始めるのだ。
私は客人棟から、家族棟の一角に移してもらった。
グレタが「閣下のご指示でいらっしゃいます。書斎が手狭ではいけませんから」と笑顔で告げてくれた、新しい書斎。机は、客人棟のものより、もう一回り大きいものだった。
新春の朝、机の上に二通の便りが置かれていた。
一通目は、王都からの封書。
差出人を見て、私は一度、椅子を引き直した。
——大奥様 エルザ・ヴァルトハイムより
義母様からの便りだ。
封を切ると、いつもの義母様の字が、便箋の上に並んでいた。
——ライラさん。あなたがこの家を出てから、二ヶ月が経ちました。お元気でいらっしゃいますか。
ライラさん、と、最初の呼びかけで書かれた時、私の手の指が、便箋の縁を一度、撫でた。
義母様は私を「ライラ」と呼び捨てになる日もあれば、「ライラさん」と呼ばれる日もあった。けれど、便りの最初の呼びかけで「ライラさん」と書いてくださったのは、初めてだった。
——あなたが私の娘ではなくなった今、私はあなたを、ライラさんと呼ぶことに決めました。嫁いだ家を辞めた女性に対して、義理の家の母親が娘扱いを続けるのは、本来、礼を欠くこと。私はあなたを、もう、ヴァルトハイム家の若夫人としては呼びません。一人のグリーンウッド家のご令嬢として、これからもご縁が続くことを願っております。
私は便箋を、もう一度、最初から読んだ。
——シビラのことを、少しだけお伝えいたします。
あの子は、財務監査の結果を受けて、社交界デビューを一年延期されました。本人にとっては辛いことだったでしょう。けれど、あの子が初めて私の前で泣いたのは、デビューが延期されたと知った時ではなく、ライラさんがもう家に戻られないと、私が告げた朝のことでした。
「お義姉様にお詫びを申し上げたいの」と、あの子は初めて、私に頭を下げました。
許してほしいという願いではございません。ただ、ご自身が何を間違えたかを、ようやく言葉にし始めたところです。あの子は、これから、長い時間をかけて、ご自分の足で立つ方法を学ぶことになります。
——テオドリックは、当主裁量を私に預けて、領地の運営の見直しを始めております。茶会の間は、しばらく使われておりません。
便箋の最後に、義母様は短く付け足してくださっていた。
——あなたが整えてくださった三年分の贈答記録帳は、私の書斎の机に置いてあります。私はそれを、これからの家政の手本として、毎朝、開いております。あなたが家を出られた後も、あなたの記録が、家を支えてくれているのです。
お元気で。
私は便箋を、机の上に置いた。
窓の外で、もう一度、軒先の水滴の音がする。
二通目の封書を、手に取った。
差出人の欄には、紺色の蝋の私印が押されている。
モルゲンシュテルン辺境伯 ヘンドリック。
封を切ると、中の便箋には、短い言葉だけが書かれていた。
——今日の新春茶会、中央の席にお座りいただけますでしょうか。
私はその言葉を、二度読んだ。
それから、机の隅で、温かい紅茶のカップが、いつの間にか置かれているのに気づいた。グレタが朝のうちに、運んでくれていたのだ。
辺境伯邸の大広間は、王都の侯爵邸より、天井が一段高く作られていた。
北方の長い冬を考えて、暖炉を大きく取るためだそうだ。今日は、その大広間で、辺境貴族と王都からの数名のお客様を迎える、新春の茶会が開かれる。
私が大広間に入った時、中央の席には、すでに席札が置かれていた。
——主催 ライラ・グリーンウッド
私の名だけが、その札に書かれている。
ヴァルトハイムの名はもう、付いていない。
「グリーンウッド様、本日は何卒、よろしくお願い申し上げます」
来賓の中央には、王都の年長の貴族の方が、二人いらっしゃった。一方は、私が嫁ぐ前から父をご存じの侯爵様。他方は、辺境伯閣下の公務の関係で来ていただいた、年配のご令嬢の方だ。
お二方とも、私の方へ深く頭を下げてくださった。
「グリーンウッド様の三年分の家政記録は、王都の文官の間で、ずいぶん評判でございますわ」
ご年配の令嬢が、扇を一度、畳まれた。
「私の知り合いの伯爵夫人が、『あの方の作られた席次表の基準を、参考にしたい』と言っておりましたの。お手すきの折に、私の方からも、ぜひ話を伺いたく存じます」
私は会釈をした。
返事の言葉が、すぐには出てこなかった。
私が辺境伯領で書いた書類の評判が、すでに王都の社交界に伝わっていた、ということだった。
茶会は、滞りなく進んだ。
最後の見送りの後、大広間には、暖炉の薪の音だけが残った。
「ライラ嬢」
ヘンドリック閣下が、暖炉の前で振り返られた。
今日の呼び方は、「奥様」でも「ヴァルトハイム侯爵夫人」でもなく、ただ「ライラ嬢」だった。
「庭をご一緒いただけますか」
私は閣下の後について、大広間の脇の小さな庭へ出た。
雪はまだ膝の高さまで残っているが、踏み固められた小道があって、歩くのに支障はない。彼の靴に、雪解け水が一滴だけ付いていた。
庭の中央で、閣下は一度、足を止められた。
それから、上着の内側から、白い無地の封筒を一通、取り出された。
封蝋はまだ押されていない。中身の便箋も、まだ書き込まれていない。
「ライラ嬢」
閣下は私の方を、しばらくご覧になった。
何か言いたい言葉を、選んでいらっしゃる様子だった。慣れていらっしゃらない様子だった。一度、視線を地面に落とされる。
私はその沈黙を、急かさなかった。
「あなたが整えてこられた礼節を、私は、受け継ぎたいと思っています」
閣下の声が、雪の中に、静かに落ちた。
「あなたが書く招待状、あなたが整える席次、あなたが選ぶ贈答品。私はそのすべてを、私の領で続けていきたい。そのために、私の隣に、長く座っていただけますでしょうか」
閣下は、白い封筒を私の方へ差し出された。
「これは、招待状でございます。差出人の欄は、空けてあります。あなたがご自分で書く招待状の、最初の一通になりますように」
私は封筒を、両手で受け取った。
紙の縁は、まだ折られていない。蝋もまだ押されていない。差出人の欄は、白いまま。
私が、これから書く。
「ヘンドリック様」
私はようやく、お呼びした。
閣下の名を呼んだのは、初めてだった。
「お受けいたします」
それだけ言った。
それ以上の言葉は、必要なかった。
書斎に戻って、私は机の前に座った。
机の上には、義母様からの便りが、まだ広げられたままだった。「あなたが整えてくださった三年分の贈答記録帳は、私の書斎の机に置いてあります」という言葉を、私はもう一度だけ、読み返した。
それから、新しい便箋を一枚、引き出しから取り出す。
ペンに、新しいインクを含ませる。
差出人の欄に、ヴァルトハイムの名を書いてみた。それから線で消した。下に、グリーンウッドの名を書いた。今日のこの一通は、私の旧姓のままで書く。来年の春には、また別の名前に変わるかもしれない。けれど、まず、ヴァルトハイムを通り抜けて戻ってきた自分の名を、紙の上に置きたかった。
春の茶会の招待状を、もう一度、最初から書き直す。
差出人の欄には、私だけの名前が並ぶ。
辺境の風が、窓辺で、一度だけ便箋の角をめくった。
暖炉の薪が、奥で小さく爆ぜる音がした。




