第7話 決意の朝
実家の借財が完済したという知らせが届いた朝、私は初めて、自分の手が空いている事実に気づいた。
封筒の角は、湿気で少し波打っている。
父の字だ。実家グリーンウッド子爵領の便箋特有の、わずかに薄い紙の質感。私が嫁ぐ前、書斎で何度も触れた紙だった。
——ライラ、ヴァルトハイム家への借財の分割返済が、本日をもって完了した。領内の北の丘で見つかった新しい採石場の収益が、想定より早く立ち上がってくれた。お前にこれ以上、こちらの事情で我慢を強いる必要はもうない。父より。
私は便箋を、机の上に静かに置いた。
それから、もう一度、便箋を持ち上げて、同じ文章を最初から最後まで読み直す。
二度目を読み終えた時、私の指先は、便箋の縁を撫でていた。
何の感慨もないつもりだった。ただ、父に返事を書かなくては、と思っただけだ。けれど、便箋を裏返して、机の引き出しを開けようとした時、引き出しの取っ手に伸ばした手が、いつもよりわずかに遅く動いていることに気づいた。
——お前にこれ以上、こちらの事情で我慢を強いる必要はもうない。
その一文を、私はもう一度だけ、心の中で読み返した。
午後、私は法務官モリッツ様の事務所を訪ねた。
ヴァルトハイム侯爵家所属の法務官でいらっしゃるが、本日の面談は、私個人としての相談だ。マルテだけを連れて、馬車で四半刻の距離。
「奥様、本日は、いかなるご用件で」
モリッツ様の事務所は、書類の山が整然と積まれた部屋だった。
四十代後半のお年で、灰色の髪をきっちりと撫でつけている方だ。書面の処理に強い方だと、私は嫁いだ年の家政の引き継ぎの際に、何度かお世話になっていた。
「内密に、ご相談がございます」
私はそう言って、机の上に、自分の婚姻に関する一つの事実を、初めて他人に告げた。
「私とテオドリック様は、婚姻して一年九ヶ月が経ちますが、夫婦の実態がございません。婚姻成立の翌日に、テオドリック様から『シビラがいるから、まずは家族として暮らそう』と提案を受けて、それからずっと、白い結婚のままです」
モリッツ様は私の顔を、しばらく見ていた。
驚いた表情ではない。むしろ、その逆だった。
モリッツ様の机の上の書類の整え方が、一拍だけ、止まらなかった。
「奥様」
モリッツ様はようやく口を開かれた。
「そのお話は、大奥様より、すでに事前のお打ち合わせを賜っております」
私は便箋を、もう一度、裏返したくなった。
「お母様が……?」
「一ヶ月ほど前に、大奥様から正式なご連絡を頂戴いたしました。『若夫人が私のところへ来られた時、すぐに動けるように、書類の整理を進めておいてほしい』と」
私は何も言えなかった。
義母様は、私が決断する前から、私が動くことを信じてくださっていた。
信じる、という言葉は強すぎるかもしれない。けれど、義母様は、私の足が動くことを、書類の上で、すでに待っていてくださった。
「合意離縁の根拠は、十分でございます」
モリッツ様は静かに続けられた。
「白い結婚が一年以上継続している事実。当主夫人としての席を、社交の場で一年間、用意されなかった事実。大奥様のご証言。これらを揃えれば、ヴァルトハイム侯爵家からの違約金を含めて、奥様にご不利のない形で、調印に持ち込めます」
私は深く頭を下げた。
「奥様、ご決意は固まりましたか」
モリッツ様のお尋ねに、私は一度、目を伏せる。
それから、顔を上げて、答えた。
「固まりました」
帰りの馬車の中で、私は窓の外の街並みを見ていた。
王都の秋は、もう冬の入り口に差しかかっている。街路樹の葉は半分以上落ちて、御者の上着の襟も、夏より一段、厚いものに変わっていた。
実家の借財は完済した。義母様は私のために、書類の準備を進めてくださっていた。辺境伯閣下の仕事は、私の手元で順調に進んでいる。
私を縛っていたものが、一つずつ、消えていった。
侯爵邸に戻ってから、私はテオドリック様の書斎へ向かった。
「ライラ、こんな夜に何の用だ」
テオドリック様は書類仕事の途中だった。顔を上げた時の表情は、いつも通り、優しい当主の顔だった。
「テオドリック様、話がございます」
私は扉を後ろ手に閉めた。
書斎の灯りは少し暗めで、机の上のインクの瓶の中で、液面が静かに揺れている。
「私は、離縁をお願いしたく存じます」
テオドリック様のペンが、紙の上で止まった。
インクが、ペン先から一滴、書類の余白に落ちる。
「ライラ、君は何を言っているんだ」
テオドリック様は立ち上がられた。
椅子の後ろの絨毯を、靴の踵が一度、踏み鳴らす。
「君が疲れているのは分かる。シビラのことで、君に負担をかけていることも分かる。けれど、離縁などと、そんな……」
「私は、もう、十分に務めましたわ」
私はそう言った。
「君なら分かってくれると思っていた。シビラはまだ若くて、お母様もご体調が優れない。今、家族がばらばらになってしまったら、ヴァルトハイム家は……」
「テオドリック様」
私は静かに、彼の声を止めた。
「ヴァルトハイム家は、私がいなくても、必ず立ち行きます。お母様がいらっしゃいますし、お母様にはご経験がございます。シビラ様は社交界デビューを通して、これから多くの方々から学ばれます。私が今、辞めても、家は崩れません」
テオドリック様は、私の方へ二歩、近づかれた。
「……あの男のせいか」
その一言を、私はすぐには受け止められなかった。
あの男、と言われた時、テオドリック様の声は、少しだけ、いつもより低くなった。
「あの辺境伯と、君は何を話しているんだ。執務室で二人きりで、長く籠っていたそうじゃないか。使用人から聞いた。私の妻が、よその貴族の男と、私の知らないところで何をしているのか、当主として知る権利がある」
私は深く息を吸った。
怒りが湧かなかったわけではない。けれど、湧いた怒りより先に、ただ、悲しさだけが胸の真ん中を通り抜けていった。
「仕事の話を、です」
私はそれだけ答えた。
それ以上の言葉を、テオドリック様には、もう、申し上げる必要を感じなかった。
「ライラ、待ちなさい。話はまだ終わって……」
私は静かに会釈をして、書斎の扉を開く。
廊下に出る時、テオドリック様の手が私の腕に触れかけた。けれど、私の足はもう、廊下の方を向いていた。
私室に戻ると、机の上に、紺色の封蝋の手紙が、もう一通、置かれていた。
便箋を開くと、いつもより短い言葉が書かれていた。
——いつでも、辺境伯領で奥様を迎える準備がございます。
お決めになるのは、奥様ご自身でいらっしゃいます。
私はその言葉を、二度、読んだ。
三度目を読もうとして、便箋から目を上げる。
机の隅で、義母様の帳面が、私の手元に届けられていた。マルテが、夕方のうちに、義母様から預かった一冊だ。
帳面の最後のページを開く。
四つの空白欄のうち、二つの欄は、もう、私自身の手で埋まっていた。「春」の欄と「夏」の欄に、私が今までに記録してきた小さな出来事が、いつの間にか書き写されている。「秋」の欄には、ベルガーの発注書と、ローザリンデ様の指摘の日付。
「冬」の欄だけが、まだ、空白のまま残されていた。




