表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
春夏秋冬〜四度目の茶会で、私は離縁状をお出ししました〜  作者: 九葉(くずは)


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
3/10

第3話 辺境伯領からの使者

夏の茶会の招待状は、今度こそ二重で確認することにした。


春の茶会から二週間が経った。

義母様の帳面の話を聞いてから、私は自分の机の引き出しに、もう一つの控え棚を作った。マルテにしか開けられないように、鍵をかけて。


「奥様、こちらが今回の差出人欄です。ヴァルトハイム侯爵家若夫人ライラ、ヴァルトハイム家現当主テオドリック。それ以外の名前は、今回は加えません」

マルテは私の前で名簿を読み上げてくれる。

「シビラ様には、それぞれの控えが届く前に、別の写しをご用意いたします。お手伝いいただく時は、その写しの方を」


「ありがとう、マルテ。それでお願い」


マルテは小さく頷いた。

彼女はその場で私に何も尋ねない。私が「もう、控えを混ぜられたくない」と言わなくても、彼女には伝わるのだ。


応接室に、シビラ様が来られたのは、ちょうど私が席次表に署名をしているときだった。


「お義姉様、今度の茶会も、私お手伝いしたい」


シビラ様はにこにこと笑って、私の机の脇に立った。十九歳の白い手が、私の名簿の上に伸びかける。

私が答える前に、応接室の扉から声がした。


「シビラ」


義母様だ。

義母様は私の方も、シビラ様の方も見ずに、ただ扉の前に静かに立っていらっしゃる。


「あなたは社交界デビューの準備があるでしょう。お部屋へ戻りなさい」


シビラ様は私の机の脇で、ぴたりと止まった。義母様の声は静かだった。叱る声ではない。けれど、シビラ様の手は、私の名簿に触れる前に引っ込んだ。


「……はい、お母様」


シビラ様は私を見て、もう一度だけ笑った。それから、応接室を出ていく。


義母様は私の方を見て、何も言わずに、軽く目礼をされた。

私も会釈を返した。


その日の夕方、辺境伯領からの代理人が、正式な来訪を告げてきた。


「モルゲンシュテルン辺境伯閣下より、ヴェルナーと申します。借財整理の件で、奥様にお目通りを願いたく」


応接室に通された男は、四十代半ばの、髪を後ろに撫でつけた文官だった。平民出身だと、出された名刺の端で分かる。けれど、礼節の取り方は、王宮の文官たちと少しも変わらない。


「ようこそお越しいただきました、ヴェルナー。ライラ・ヴァルトハイムと申します」

「お初にお目にかかります。閣下より、書簡をお預かりしております」


ヴェルナーが差し出した書簡は、二通あった。

一通は、赤い封蝋。もう一通は、紺色の封蝋。


「赤い方は、ヴァルトハイム侯爵家ご当主様宛の正式な公務文書でございます。紺色の方は……」


ヴェルナーは一度、言葉を切った。それから、続ける。


「閣下より、奥様ご個人にお預けするようにと」


私は紺色の封蝋を受け取った。

春の茶会のあとにも、私の机に届いていた、あの紺色だ。あの時は、代理人のミスか、辺境伯家の私印が紛れたのだろうと、私は深く考えなかった。


けれど、今、この応接室で、ヴェルナーの手から私の手へ、その色は確かに渡されたのだ。


「閣下は、貴方様の帳簿を、半年前から机に置いておられます」


ヴェルナーの声は、応接室の中央に静かに落ちた。


「半年前……?」


「中央の文官からの進言でございました。『いま王都で最も精度の高い帳簿を作っておられるのは、ヴァルトハイム侯爵家の若夫人でいらっしゃる』と。閣下はそれをご覧になって、半年、ご自分の机から離されておりません」


私はテオドリック様を見た。

彼は応接室の入り口で、赤い封蝋の書簡を持ったまま立っていらっしゃる。


「ライラ、その辺境伯領の借財整理というのは……」


テオドリック様は書簡の宛名を読みながら、首をかしげられた。


「ヴァルトハイム侯爵家への正式な依頼ということになっているが、本文は『若夫人ライラ・ヴァルトハイム殿に、家計監査の専門家として正式にご協力を願いたい』と書かれている。ライラ、君個人への依頼だ。これは……」


テオドリック様は私に書簡を渡されてから、少し困った顔をされる。


「面倒なら断っていい。妻にこういう外向きの仕事を背負わせるのは、当主として申し訳ないことだ。シビラの社交界デビューも近いし、君には家のことを優先してほしい」


私は紺色の封蝋を手の中で、もう一度握った。

半年前から、辺境伯閣下が私の帳簿を机に置いていらっしゃる。私の知らないところで、私の仕事は、誰かに見られていたのだ。


「お引き受けいたします」


私が答えると、テオドリック様は少し驚いた顔をされた。


「ライラ、本当にいいのか? 君が大変だろう」

「大変ではございません。私の机の上で、対応できる範囲かと思います」

「そうか……まあ、君がいいと言うなら」


テオドリック様は、それきり書斎へ戻られた。

彼にとって、辺境伯領の借財整理は、ご自分が背負わなくてよくなった荷物の一つに過ぎなかったのだ。


「ヴェルナー、お引き受けいたしましたと閣下にお伝えして」


私が代理人にそう告げると、ヴェルナーは深く頭を下げた。

立ち上がる時、ヴェルナーの視線が一瞬だけ、書斎の方へ向かう。テオドリック様が消えていかれた、その廊下の方へ。

何の合図かは、私には分からない。けれど、ヴェルナーは私の方へ戻した視線の中で、口元だけ、ほんのわずかに引き締めた気がした。


「では、奥様。改めて、閣下と私からの正式なご依頼として、書類一式をお持ちいたします」

「お待ちしています」


ヴェルナーが応接室を出ていったあと、私は紺色の封蝋を、もう一度だけ見た。

赤い蝋にはない、海の深い場所のような色だ。

辺境伯家の私印。公務には使われない色だと、ヴェルナーが小さく言っていた。


私室に戻って、机の前に座る。

紺色の封蝋を、ようやく開けた。


中の便箋には、短い文章だけが書かれていた。


——貴方様の帳簿に、私は半年、救われ続けてまいりました。借財整理のご依頼を、改めてお願い申し上げます。

モルゲンシュテルン辺境伯 ヘンドリック


私は二度、その短い文を読んだ。

三度目を読もうとして、便箋から目を上げる。


机の上には、義母様の帳面の写しを取った、私自身の家政記録が積まれている。誰にも見られないと思いながら、私が書いてきた、ただの仕事の記録だ。

それを、半年前から、誰かが机の上に置いてくださっていた。


「半年前から机に置いておられます」


ヴェルナーの声を、私はもう一度、頭の中で繰り返した。

窓の外で、馬車の車輪の音がする。ヴェルナーの馬車が、ヴァルトハイム家の門を出ていくところだった。


私はその音を、しばらく忘れることができなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ