第3話 辺境伯領からの使者
夏の茶会の招待状は、今度こそ二重で確認することにした。
春の茶会から二週間が経った。
義母様の帳面の話を聞いてから、私は自分の机の引き出しに、もう一つの控え棚を作った。マルテにしか開けられないように、鍵をかけて。
「奥様、こちらが今回の差出人欄です。ヴァルトハイム侯爵家若夫人ライラ、ヴァルトハイム家現当主テオドリック。それ以外の名前は、今回は加えません」
マルテは私の前で名簿を読み上げてくれる。
「シビラ様には、それぞれの控えが届く前に、別の写しをご用意いたします。お手伝いいただく時は、その写しの方を」
「ありがとう、マルテ。それでお願い」
マルテは小さく頷いた。
彼女はその場で私に何も尋ねない。私が「もう、控えを混ぜられたくない」と言わなくても、彼女には伝わるのだ。
応接室に、シビラ様が来られたのは、ちょうど私が席次表に署名をしているときだった。
「お義姉様、今度の茶会も、私お手伝いしたい」
シビラ様はにこにこと笑って、私の机の脇に立った。十九歳の白い手が、私の名簿の上に伸びかける。
私が答える前に、応接室の扉から声がした。
「シビラ」
義母様だ。
義母様は私の方も、シビラ様の方も見ずに、ただ扉の前に静かに立っていらっしゃる。
「あなたは社交界デビューの準備があるでしょう。お部屋へ戻りなさい」
シビラ様は私の机の脇で、ぴたりと止まった。義母様の声は静かだった。叱る声ではない。けれど、シビラ様の手は、私の名簿に触れる前に引っ込んだ。
「……はい、お母様」
シビラ様は私を見て、もう一度だけ笑った。それから、応接室を出ていく。
義母様は私の方を見て、何も言わずに、軽く目礼をされた。
私も会釈を返した。
その日の夕方、辺境伯領からの代理人が、正式な来訪を告げてきた。
「モルゲンシュテルン辺境伯閣下より、ヴェルナーと申します。借財整理の件で、奥様にお目通りを願いたく」
応接室に通された男は、四十代半ばの、髪を後ろに撫でつけた文官だった。平民出身だと、出された名刺の端で分かる。けれど、礼節の取り方は、王宮の文官たちと少しも変わらない。
「ようこそお越しいただきました、ヴェルナー。ライラ・ヴァルトハイムと申します」
「お初にお目にかかります。閣下より、書簡をお預かりしております」
ヴェルナーが差し出した書簡は、二通あった。
一通は、赤い封蝋。もう一通は、紺色の封蝋。
「赤い方は、ヴァルトハイム侯爵家ご当主様宛の正式な公務文書でございます。紺色の方は……」
ヴェルナーは一度、言葉を切った。それから、続ける。
「閣下より、奥様ご個人にお預けするようにと」
私は紺色の封蝋を受け取った。
春の茶会のあとにも、私の机に届いていた、あの紺色だ。あの時は、代理人のミスか、辺境伯家の私印が紛れたのだろうと、私は深く考えなかった。
けれど、今、この応接室で、ヴェルナーの手から私の手へ、その色は確かに渡されたのだ。
「閣下は、貴方様の帳簿を、半年前から机に置いておられます」
ヴェルナーの声は、応接室の中央に静かに落ちた。
「半年前……?」
「中央の文官からの進言でございました。『いま王都で最も精度の高い帳簿を作っておられるのは、ヴァルトハイム侯爵家の若夫人でいらっしゃる』と。閣下はそれをご覧になって、半年、ご自分の机から離されておりません」
私はテオドリック様を見た。
彼は応接室の入り口で、赤い封蝋の書簡を持ったまま立っていらっしゃる。
「ライラ、その辺境伯領の借財整理というのは……」
テオドリック様は書簡の宛名を読みながら、首をかしげられた。
「ヴァルトハイム侯爵家への正式な依頼ということになっているが、本文は『若夫人ライラ・ヴァルトハイム殿に、家計監査の専門家として正式にご協力を願いたい』と書かれている。ライラ、君個人への依頼だ。これは……」
テオドリック様は私に書簡を渡されてから、少し困った顔をされる。
「面倒なら断っていい。妻にこういう外向きの仕事を背負わせるのは、当主として申し訳ないことだ。シビラの社交界デビューも近いし、君には家のことを優先してほしい」
私は紺色の封蝋を手の中で、もう一度握った。
半年前から、辺境伯閣下が私の帳簿を机に置いていらっしゃる。私の知らないところで、私の仕事は、誰かに見られていたのだ。
「お引き受けいたします」
私が答えると、テオドリック様は少し驚いた顔をされた。
「ライラ、本当にいいのか? 君が大変だろう」
「大変ではございません。私の机の上で、対応できる範囲かと思います」
「そうか……まあ、君がいいと言うなら」
テオドリック様は、それきり書斎へ戻られた。
彼にとって、辺境伯領の借財整理は、ご自分が背負わなくてよくなった荷物の一つに過ぎなかったのだ。
「ヴェルナー、お引き受けいたしましたと閣下にお伝えして」
私が代理人にそう告げると、ヴェルナーは深く頭を下げた。
立ち上がる時、ヴェルナーの視線が一瞬だけ、書斎の方へ向かう。テオドリック様が消えていかれた、その廊下の方へ。
何の合図かは、私には分からない。けれど、ヴェルナーは私の方へ戻した視線の中で、口元だけ、ほんのわずかに引き締めた気がした。
「では、奥様。改めて、閣下と私からの正式なご依頼として、書類一式をお持ちいたします」
「お待ちしています」
ヴェルナーが応接室を出ていったあと、私は紺色の封蝋を、もう一度だけ見た。
赤い蝋にはない、海の深い場所のような色だ。
辺境伯家の私印。公務には使われない色だと、ヴェルナーが小さく言っていた。
私室に戻って、机の前に座る。
紺色の封蝋を、ようやく開けた。
中の便箋には、短い文章だけが書かれていた。
——貴方様の帳簿に、私は半年、救われ続けてまいりました。借財整理のご依頼を、改めてお願い申し上げます。
モルゲンシュテルン辺境伯 ヘンドリック
私は二度、その短い文を読んだ。
三度目を読もうとして、便箋から目を上げる。
机の上には、義母様の帳面の写しを取った、私自身の家政記録が積まれている。誰にも見られないと思いながら、私が書いてきた、ただの仕事の記録だ。
それを、半年前から、誰かが机の上に置いてくださっていた。
「半年前から机に置いておられます」
ヴェルナーの声を、私はもう一度、頭の中で繰り返した。
窓の外で、馬車の車輪の音がする。ヴェルナーの馬車が、ヴァルトハイム家の門を出ていくところだった。
私はその音を、しばらく忘れることができなかった。




