第2話 義母の帳面、四つの空白欄
噂は三日で広がった。三日目の朝、私は義母様に書斎へ呼ばれた。
その三日の間、テオドリック様は二度、私に同じ言葉をかけられた。
「君なら分かってくれる」
一度目は朝食の席で。二度目は書斎の前で、すれ違いざまに。
二度とも、私は黙って頭を下げた。
返事をする前に、冷めた紅茶へ目を落としていたから、かもしれない。本当は、返事を持っていなかっただけだ。
その三日のうちに、社交界の風向きは少しだけ変わっていた。
ライヒャルト伯爵夫人の馬車が一度、ヴァルトハイム家の前を通り過ぎたのに、玄関には寄らずに行ったらしい。マルテがそう教えてくれた。
私の机には、いつもの月なら届くはずの茶会の招待状が、二通だけ届いていない。誰のものとは言わない。ただ、私はその二通の差出人をマルテに尋ねなかった。尋ねたら、本当のことになる気がしたのだ。
ライラの私室の机の上に、辺境伯領からの返信が置かれていた。
封蝋の色が紺色だった。
赤い蝋に慣れた私の指は、その色の前で一度だけ止まる。代理人の方が書かれたにしては、ずいぶんと細やかな色を選んでいる、と思っただけだ。私はそれ以上、深く考えなかった。借財整理の予備照会への返信を、私は私の机の上に重ねただけだった。
「奥様、大奥様がお呼びです」
マルテが扉の向こうから告げた。
義母様の書斎は、私の私室より三つほど扉を隔てた奥にある。
その三つの扉を、私はゆっくりと数えながら歩いた。一つ目は来客用の応接室。二つ目は家令の控え室。三つ目が、義母様の書斎。
扉の前で、マルテが私の代わりに小さく息を整えてくれる。それから、扉を開けてくれた。
「お入りなさい、ライラさん」
義母様の声は、いつもより少しだけ低く感じた。
書斎の中は、香水の匂いも、紅茶の湯気もない。ただ、紙とインクの匂いだけがした。
「失礼いたします、お母様」
私が腰を下ろすと、義母様は机の上の革表紙の帳面を、私の前へと出された。
表紙には何も書かれていない。ただ、革の角がわずかに擦れていて、長く使われてきた本だと分かる。
「これを、ご覧になりますか」
私は帳面を開いた。
中の文字は、義母様の字だった。
最初のページの一行目に、こうある。
——婚姻初日、若夫人ライラ、家政帳簿を引き継ぐ。
二行目。
——婚姻三日目、若夫人ライラ、贈答記録の整理を始める。
三行目。
——婚姻七日目、若夫人ライラ、夜会の席次表を一人で仕上げる。
そのまま、ページが続いていった。
私が婚家に入って十一ヶ月間、何をしてきたかが、義母様の字で記録されていたのだ。茶葉の発注。寝室の改修。領地への手紙の返信。下働きの娘の薬代。何月何日、と日付まで書かれている。
「全部、お母様が……」
私は途中で言葉を切った。
義母様は何も言わず、私が読み終えるのを待ってくださっていた。
最後のページに辿り着く。
そこには、まだ書かれていない空白の欄が、四つ並んでいた。
一つ目は「春」と小さく書かれている。二つ目は「夏」。三つ目は「秋」。四つ目は「冬」。
それぞれの欄の本文は、まだ書かれていない。
「これは……何の欄でしょうか」
義母様は紅茶を一口召し上がってから、答えてくださった。
「あなたが、自分で書く欄」
私は顔を上げた。
「私が、自分で?」
「ええ。私はそこに何かを書くつもりはありません。空けて、待っているだけです」
書斎の窓辺に、義母様はゆっくりと歩み寄られた。
振り返らずに、義母様は言われる。
「シビラが、まだ七歳の頃」
その声は、私の知っている義母様の声より、ほんの少しだけ薄く感じた。
「あの子の母親が亡くなって、私が継母として迎えに来た時、シビラはまだ何も食べられなくなっていました。私は焦って、一度だけ強く叱ったのです。『食べないと、お父様が悲しむわよ』と。そう、ただそれだけの言葉でした」
義母様は窓ガラスに手を触れられた。
「あの子は、その夜から呼吸ができなくなりました。胸を押さえて、息ができないと泣いていました。医者を呼んで、三日かかって、ようやく落ち着いたのです」
私は帳面の最後のページの、四つの空白欄を見つめていた。
「それ以来、私はあの子に強く接することができなくなりました。テオドリックが妹を父親代わりに守ろうとするのも、私が補えなかった分を、あの子が背負ってくれているからです。あの子の優先順位の歪みを、私は最初から知っていました。けれど、私が止めれば、あの子はまた呼吸を止めてしまうかもしれない。そう思うと、私の口は動きませんでした」
義母様が振り返られた。
「あなたが嫁いで来てから、私は記録だけを取りました。あなたの働きを、私はずっと見ていました。けれど、私はあなたの代わりに動くことができないのです」
紅茶のカップが、義母様の机の上で湯気を立てている。
「私は、あなたの補助線を引かないと決めていました。あなたが自分で気づいて、自分で決めることを、私はただ待つことしかできません。情けない継母です。シビラにも、テオドリックにも、あなたにも、私は届かない」
私は何も言えなかった。
義母様の声が、私を責めていないことだけは分かった。けれど、義母様ご自身を責めていることも、分かってしまったのだ。
「お母様」
私はようやく口を開いた。
「あの帳面の、空白の欄は……」
「四つあります」
義母様は言われた。
「春、夏、秋、冬。あなたがこの家で迎える四度の茶会の欄です。何を書くかは、あなたが決めること。私はただ、そこを空けて、待ちます」
私の手の中で、革の帳面の重みが少しだけ変わった気がした。
重くなったのか、軽くなったのか、それは分からなかった。
書斎の扉を出る時、義母様の机の上の、もう一つの物が目に入った。
飾り棚の隣に、白い布をかけられた茶器が置かれている。
結婚祝いに、義母様が私にくださった一客。普段は私の食堂の戸棚にあるはずのものが、なぜ義母様の書斎の隅にあるのか、私は一瞬だけ不思議に思った。
私の視線に気づかれたのだろう。義母様はそれを見ながら、独り言のように言われた。
「あの茶器は、いつか何かを置くために贈ったの。ただの食器ではないわ」
私は振り返って、義母様にもう一度頭を下げた。
言葉は出なかった。私はその意味を、まだ知らなかった。
廊下に出ると、マルテが待っていてくれた。
彼女は私の顔を一目だけ見て、何も言わずに、私の手から義母様の帳面を受け取った。私の腕がいつの間にか震えていたことに、マルテだけが気づいてくれていたのだ。
私室に戻ると、机の上の紺色の封蝋が、まだ封を切られないまま置かれていた。
辺境伯領からの予備照会への返信。私はそれを開封せずに、義母様の帳面の隣に置く。
紺色の蝋は、ろうそくの灯りの中で、海の深い場所のような色をしていた。
帳面の最後のページを、もう一度開く。
四つの空白の欄が、私を見上げていた。
何を書くかは、私が決めること。
義母様は、その意味をまだ言わない。
ただ、空けて、待っていらっしゃるだけだ。




