第90話:嵐の法則
集落での五日目。出発の朝。
フィーナが泣いていた。予想通りだった。バルが『あいつ絶対泣くぞ』と言った通り、ユートの脚にしがみついて離れない。
「やだ! お兄ちゃん行かないで! まだ剣のやり方教わってないもん!」
「教えただろ、基本の構えと受け身は」
「もっと! もっといっぱいある! じーちゃんが言ってた、いっぱい型があるって!」
「……帰ってきたら、また教えるよ」
「ほんと!? 約束!?」
「約束だ」
ユートがフィーナの頭をぽんと撫でた。自然な動作。ほんの数日前までエイルの記憶に引きずられて自分自身すら見失っていた男が——子供の頭を撫でて、「帰ってくる」と約束している。
ミラはそれを見ながら、少しだけ目を細めた。ユートは——確実に、取り戻しつつある。
* * *
「鍛冶場への道は——一つしかない」
長老が、集落の北端に立つ巨木の根元に一行を案内した。根の隙間に——下り階段があった。苔むした石段が地下へ続いている。暗い。石段の幅は人が一人通れる程度で、壁面には古い文様が刻まれている。ミラの目がそれに釘付けになった——術式だ。何百年も前に刻まれた妖精族の術式が、壁面に沿って延々と走っている。
「この先は地下渓谷を通る。渓谷の先に——源流の鍛冶場がある。ただし」
長老が杖を地面に突き立てた。
「渓谷には魔力嵐が吹いている。地上世界の乱れとは比較にならない。ここは世界の魔力の根に近い場所だ。——通常の魔法は一切使えないと思った方がいい」
「一切」
ミラの顔が引き締まった。
「渓谷の幅は場所によって異なるが、最も狭い箇所で三十歩ほど。その三十歩の間に——魔力嵐が渦を巻いている。風速は不規則。魔力の突風が体ごと崖下に吹き飛ばす。足を踏み外せば底は見えない。我々妖精族でさえ——私が最後に渡ったのは三百年前だ。今はさらに荒れている」
「三百年……」
「過去にも何人かが渡ろうとした。一人も辿り着けていない」
重い沈黙。風が地下から吹き上がってくる。温かい風だが——その温かさの中に、圧力がある。上がってくるだけで髪が揺れるほどの魔力の圧。
「……行くしかないですね」
アルトが静かに言った。恐怖がないわけではない。だが——ここまで来て引き返す選択肢はない。
長老はしばらくアルトの目を見つめ——やがて、頷いた。
「私が案内できるのは、ここまでだ。——だが」
長老が振り返り、妖精族の言葉で短く何かを呼んだ。森の奥から、一人の青年が音もなく現れた。
背が高く、痩せている。長い髪を無造作に束ね、背中に革帯で固定した道具袋を負っている。目は静かで、感情が読み取れない。
「ケイス。我が孫であり——炉の技を継ぐ、最後の鍛冶師だ。剣を打ち直すなら、妖精の鍛冶の手が要る。連れて行きなさい」
「いいんですか。……渡れた者はいないと、今」
「この子の技は、源流の炉のために代々受け継がれてきたものだ。だが炉が三百年眠っていたせいで——ケイス自身は、まだ一度も本物の炉を見たことがない。技だけを継いで、使う場所を持たずに生きてきた」
ケイスは何も言わなかった。ただ、道具袋の革帯を一度だけ強く締め直した。——それが、答えだった。
* * *
地下階段を降りた先。
渓谷が開けた。
想像以上の空間だった。両側は垂直に切り立った岩壁。高さは見上げても天井が見えない。足元は幅一歩半ほどの石の道。手すりはない。道の端は——そのまま闇に落ちている。底が見えない。石を蹴り落としても音が返ってこなかった。
壁面が淡く光っている。脈動するように明滅を繰り返す。世界の魔力そのものが岩に染み込んでいるのだ。光は青白く、心臓の鼓動のようなリズムをもって——生きている。
そして——風。
渓谷の奥から吹いてくるのは、ただの風ではなかった。魔力を帯びた突風。体に当たるたびに、骨の内側まで振動が響く。方向が予測できない。右から。上から。斜めから。不規則に変わる。立っているだけで——体が持っていかれそうになる。
「これは……」
ミラが杖を構えた。風に含まれる魔力の波形を読み取ろうとして——杖が激しく振動し、手から飛びそうになった。
「ノイズが——凄まじい。今まで経験したどの場所よりも桁違い。二重基底波の理論を使っても——分離が追いつかない」
「完全に分離する必要はない。何秒先の予測ができる?」
アルトが冷静に聞いた。
ミラは歯を食いしばって集中した。新理論の骨格を意識に展開する。世界本来の魔力の波と、ルーナが上書きした魔力の波。二つを分離して——合成波の予測を立てる。渓谷の魔力嵐は凄まじいが——パターンの「変奏」が見える。見えるのだ。完璧ではないが——
「……三秒。三秒先の風向きと強度なら予測できる。四秒以上は無理。変数が多すぎて頭が追いつかない」
「三秒あれば十分です。ミラさん、風が弱まる瞬間を声で教えてください。その隙に全員で走ります」
「待って。予測は立てられるけど——防御魔法は無理なの。魔法としての形にするには、もう一段階の——」
「防ぐのは、魔法じゃなくていい」
アルトが——バルに目を向けた。
「バル。お前の体は——魔力を喰らう性質がある。この風の魔力を、少しでいいから吸収できないか。全部じゃなくていい。風の先端だけ。勢いを削いでくれれば——残りの衝撃は体で受けられる」
『……無茶いうな。吸いきれる量じゃねぇだろ。こんなもん、俺の容量超えるぞ』
「全部吸わなくていい。ミラさんが『今から二秒後、右から強い風が来る』って言ったら——俺がバルを右に広げて壁にする。風の先端がバルに当たった瞬間に、表面の魔力だけ喰ってくれればいい。それだけで風速が落ちる。残りは俺が体で——」
『お前が壁になるってことか。俺と一緒に』
「そうだ」
『……最強の魔道具を風除け扱いとは、舐めやがって。——いいぜ。やってやるよ』
* * *
渓谷の横断が始まった。
石の道は狭い。一列でしか進めない。アルトが先頭。右手にバル。左手は岩壁に触れて体を支える。ユートが二番手。ケイスが三番手——鍛冶の道具袋を胸の前に抱え、低い姿勢で続く。ミラが最後尾——そこが最も安全だからではない。後方から全体を俯瞰して、風の予測を飛ばすため。
「右! 二秒後! 強め!」
ミラの声が渓谷に反響する。
アルトが即座にバルを右側に展開した。黄色い布地が風に煽られる——直後、凄まじい魔力の突風が右からぶつかった。バルの表面に衝突し、布地が膨らみ、銀色の紋様が一瞬浮かび上がる。魔力がバルに吸い込まれ——完全ではないが、風の鋭さが削がれた。残りの衝撃がアルトの体を叩く。
「ぐっ——!」
足が滑った。道の端——石が一つ落ちた。底は見えない。ユートがアルトの腕を掴んで引き戻す。
「左! 一秒! 上から!」
今度は上方からの落雷のような突風。アルトとユートが咄嗟に低い姿勢を取り、バルを頭上に広げる。風がバルの布地を直撃——叩きつけるような衝撃。布が破れるかと思ったが——耐えた。
『すげぇ痛ぇぞクソ! お前ら、もうちょい丁寧に扱え!』
「ごめん! でも頼む! あと二十歩!」
横風が抜けた瞬間——ケイスの体が浮いた。
妖精族の体は、人間より軽い。風が、軽い体を選んで持っていく。咄嗟にユートが道具袋ごと襟首を掴み、引き戻した。
「——すまない」
短い声。それきり、また無言で歩く。だが、その横顔からは血の気が引いていた。
妖精族でさえ渡れなかったのではない。——軽い妖精族だからこそ、この風は渡れなかったのだ。三百年、誰も。
三十歩の渡り。一歩ごとに風を受け、一歩ごとに予測を飛ばし、一歩ごとにバルが風を喰らう。三人と一つの即席の連携。不格好で——だが、機能している。ミラの三秒予測がなければ直撃で崖下に落ちていた。バルの吸収がなければ骨が折れていた。ユートが支えなければアルトは三回は道から落ちていた。
残り十歩。
「正面——大きいのが来る! 三秒後! さっきまでと桁が違う!」
ミラの声が切迫した。杖が震えている。計測の数値が——跳ね上がっている。渓谷全体を蹂躙するような——魔力の壁だ。
「全員伏せて! 何かに掴まれ!」
アルトが叫んだ。バルを全員の前に広げ——自分が一番前に立った。全身で壁になる。腕を広げ、足を踏ん張り——
「アルト! お前一人で受けるな!」
ユートが横に並んだ。折れた剣を引き抜き——刃先から金色の光が溢れた。勇者の残滓が渓谷の魔力に呼応して——折れた刃が、まるで完全な剣のように輝いている。
「ミラ! 俺の剣に結界を重ねてくれ!」
「私の結界は今——精度が——」
「完璧じゃなくていい! 形だけでいい! 剣の光と重ねれば——二重になって強度が出る!」
ミラは——迷う暇もなく、杖を振った。不完全な結界。穴だらけで形がぶれている。球形を維持できず、平面に歪んでいる——だが。ユートの剣の金色の光がその穴を補い、結界のフレームを糊づけするように固定した。
バルの吸収。ユートの剣光。ミラの結界。三つの層。
魔力の壁が——三人を襲った。
凄まじい衝撃。世界が揺れたかと思った。足元の石がきしみ、壁面の光が一瞬消えた。闇の中で——三つの層が風を受け止め——
——通り過ぎた。
「……通った?」
「通ったわ」
ミラの声が震えていた。全身が震えている。嵐の残響がまだ体を揺らしている。だが——立っている。全員。生きている。
残り五歩を——半ば転がるように駆け抜けて、渓谷の向こう側の広い岩棚に着地した。
* * *
全員が地面に倒れ込んだ。息が上がっている。体中が軋む。バルの布地は擦り切れて毛羽立ち、端がほつれている。ユートの紋様は激しく明滅したが——暴走はしていない。ミラは魔力切れ寸前で杖に両手で縋っている。
アルトは——仰向けに倒れて、天井の光を見ている。右腕が震えている。渡りの間ずっとバルを構え続けたせいで——筋肉が悲鳴を上げていた。
ケイスは岩棚の奥で膝をつき、道具袋を検めていた。中身は無事らしい。確かめ終えると——渡ってきた渓谷を振り返って、長いこと動かなかった。妖精の鍛冶師が、三百年ぶりに、ここを渡った。その意味を噛みしめるように。
「……ミラさん」
アルトが、仰向けのまま言った。声が掠れている。
「三秒の予測——完璧でした。あれがなかったら全員崖下です」
「完璧なんかじゃないわよ。ボロボロの理論で——穴だらけで——四秒先が読めたら、もっと余裕があったのに——」
「穴だらけでも、通れました。ミラさんの理論は——ここで、実戦に耐えることが証明されました。誰も落ちなかった。誰も死ななかった。それが全てです」
ミラは——何も言えなかった。
目の奥が熱い。泣きはしない。泣いてたまるか。だが——久しぶりに、自分の力が仲間を守った。完全ではなくても。途中でも。ミラの知性が——確かに、この場所で、命を救った。
「……まだ完成じゃないわよ。あと数段階は理論を詰めないと。精度も速度も全然足りない」
「はい。でも——ミラさんが解きます。わかってます」
アルトの信頼は——揺らがない。根拠のない信頼ではなく——今日の渡りで、実証された信頼。
「当たり前でしょ」
ミラが杖を握り直して——痛む体を起こした。
「さ、行くわよ。お目当ての場所は——もうすぐなんでしょう」
ケイスが無言で立ち上がり、先頭に立った。道は知らないはずだ——だが、その足は迷わなかった。鍛冶師の血が、炉の方角を知っている。
渓谷の先に——温かい光が見えていた。岩壁の奥から——何かが脈動している。世界の心臓の鼓動のような、深く穏やかな光。




